#2-4 下着泥棒と大胆な報復
冬平が押っ取り刀で教室に戻ると、黒板には桶子の家からありったけ下着を持ち出した写真が貼られていた。
(まずい、まずいまずいまずい……!)
全身から嫌な汗が滲み出る。
決定的すぎる証拠が、事もあろうにクラスメイトたちに目撃されてしまった。現時点を以て、丹澄冬平の高校生活は終わりを迎えたと言っても過言ではない。
「み、みんな、聞いてくれ。これは――」
弁明を試みる冬平。
だが、一番手前にいた男子生徒が肩に手を置いてかぶりを振った。
もういいんだ。そんなことを言われた気がした。
「丹澄、もういいんだ」
否、本当に言われてしまった。
依然重苦しい空気のまま、クラスメイトたちの視線が鋭く突き刺さる。いっそ逃げ出してしまいたいほどだった。
前の男子生徒が言う。
「聞いたよ、全部。漁木さんから」
「……そうか」
完全に終わった。冬平は確信した。
それでも、クラスメイトは続ける。
「三枚目はさすがに引くけどさ、お前すごいことしたな」
「だろうな。ははっ、ありったけ持ち出しちまったんだもんなぁ。もう俺の人生は終わりだよ……」
「なかなか殊勝だな。どうする、漁木さん?」
男子生徒は桶子のいる教室の隅へ視線を送る。釣られるように、他のクラスメイトたちもそちらを見遣った。
無論、冬平もそちらを向いていた。
桶子なら、ここで冬平を救うようなことはしないだろう。何せ、冬平を吊す絶好のチャンスなのだ。ここで逃す手はない。
(下着泥棒の件、槝子会長にでも預けておくか……)
ここで冬平が捕まってしまえば、桶子はずっと下着泥棒の被害に苦しんだままになってしまう。それだけは避けてやりたかった。
もっとも、それも桶子の采配次第だ。ともすると、一言伝えるだけの暇もなく突き出されてしまうかもしれない。
果たして、桶子は告げた。
「そうね。とりあえず、そろそろ授業が始まるから席に就いたらどう?」
……は?
冬平は、思わずそんな言葉を口にしかけた。
「あ、漁木? 状況わかってるのか?」
「当たり前でしょ。丹澄くんが私を下着泥棒の被害から守ってくれた自慢の勇姿を、みんなに見てもらうことができた。たったそれだけのことじゃない。何か問題があるの?」
「……は?」
桶子の意見に、冬平は目を丸くした。
確かに冬平はそういった旨を打ち開けはした。だが、桶子はそれを信じようとしなかったはずだ。どころか、馬鹿にしていたような気さえする。
「漁木。自分が言ったことの意味を理解しているのか? そんなこと、誰も信じちゃくれねえよ」
「丹澄くんって、案外自己評価が低いのね」
「なんだと?」
わけがわからなかった。桶子は何を言いたいのだろう。
相変わらず答えを出せずに固まっていると、桶子は冬平の前に立つクラスメイトを指し示して。
「彼が最初になんて言ったか思い出して」
「『丹澄、もういいんだ』」
「ごめんなさい、その次」
「『聞いたよ、全部。漁木さんから』」
「そうね。つまりそういうことよ」
「……みんなが信じてくれた、ってのか?」
「物わかりが悪いのね。何度も説明させないで」
そんな馬鹿な、と冬平は教室中を見回した。
すると、見る生徒すべてが温かい眼差しを送ってくれていた。始めの視線は何だったのか、責めるような目をした人間は誰一人としていなかった。
(ど、どうなってんだ……?)
安堵するべき場面にも拘わらず、冬平は混乱したままだった。説明を求めて桶子の方を見てみるものの、彼女は「席に戻れ」とでも言うように手を払うだけだった。
クラスメイトたちも各々の日常に戻り、教室は普段通りの喧噪へと立ち戻る。真相が明かされないまま、冬平は仕方なく席に戻った。
「谷宮、どうなってんだ?」
「何が?」
「俺が教室に入った時のみんなの視線だよ。明らかに犯罪者を見る目だったじゃねえか」
「あぁ、あれのこと」
納得したように谷宮は笑う。
「あれね、漁木さんの指示だよ」
「……は?」
「説明した後にさ、『丹澄くんを驚かせましょう』って」
「お、おいおい。心臓止まるかと思ったんだぞ……」
後で文句言ってやろう、と冬平は心のメモに書き込んだ。
何が楽しくてそんな悪質なサプライズを用意できるのか。さすがに理解が及ばなかった。
とは言え、これで一つ目の脅威は奇跡的にやり過ごすことができたわけだが。
(問題は、これがどれだけ続くのかってところか。クソッ、こっちは下着泥棒のことでそれどころじゃないってのに)
いっそ外鹿が下着泥棒なら話は早いのになぁ、と冬平は理不尽な文句をこぼす。
外鹿なら、あの顔で甘い言葉を吐けば簡単に男子を手駒にしてしまえることだろう。そうすれば、桶子と離れさせようとした理由にも説明がつくし、盗撮された原因にも納得がいく。何なら、レズという証言だって桶子の下着を盗ませている大きな一因となるはずだ。
(……あれ?)
何だか、とても重大な真相に近付いてしまったような気がした。
廊下に落ちていた下着は槝子のものだったが、ひょっとすると本当に外鹿が下着泥棒だったという可能性はないだろうか……?
(いや、でも、好きになったからって下着を他人に盗ませるか普通?)
結果的には好きな人の下着を盗んだ普通の冬平は、その思考が理解できそうになかった。
「なぁ、谷宮。一つ質問いいか?」
「なに?」
「あの写真を貼りに来たのは、一年生の男子だったりするのか?」
「そうだったような気もするけど……それがどうかした?」
「気が弱そうだったりするか?」
「うん、まあ、そうと言えなくもなかったかな」
「そうか」
「何か気になることでもあるの?」
「何でもない。気にしないでくれ」
谷宮に「敵の正体がわかりそうだ」と言ったところで心配させるだけだろう。本当にしてくれるかどうかは正直五分五分といったところだが。
ともかく、外鹿の手の内は大方把握できた。
動くのは放課後にしよう、と予定を立てて、冬平は次の授業の準備に取りかかることにした。
鞄を開けて教科書と筆記用具を取り出す。
……と、そこで。
鞄の中から異様な匂いが漂ってきた。
「なんで蚊取り線香が入ってんだよ!」
予想外に悪質な悪戯に、冬平は犯人を知っていながら思わずそう叫んでしまうのだった。
それから二時間経って、状況は散々だった。
鞄の中の蚊取り線香に始まり、机の中には無数の画鋲がセロハンテープで固定されていた。筆記用具のシャーペンは根こそぎ芯が持って行かれていたし、教科書を開けば例の写真が何枚も何枚も湧き出てくる。休み時間になるとなぜか呼び出されて「どうして一年生の子をいじめたんですか?」と身に覚えのない詰問を受け、廊下を歩けば近寄って来た女子に「このスカート覗き魔!」とやはり身に覚えのない理由で頬を引っ叩かれ、挙げ句の果てには三年生の男子たちに「俺たちの備香ちゃんを泣かせたんだってなぁ?」とまたもや身に覚えのないリンチを受けた。
だが、まだ落ち着くのは早い。これは五時間目から六時間目までの間に起きた出来事なのだ。六時間目からホームルームまでの間にも似たような嫌がらせが数えるのも億劫なほど発生したのである。とは言え、上げるとキリがないので割愛させていただくが。
かくして、今はもうホームルームも過ぎ去った頃合いになっていた。
「さすがにもうねえだろ……」
生気を抜かれたげっそりとした顔で突っ伏して、冬平は懇願に近い安堵の声を洩らした。なぜかやたらとカレーの良い匂いがするこの机の上で。
前の席に座る谷宮は、鼻をつまみながら。
「おつかれ、冬平」
「そう思うなら外鹿を止めてくれ……」
「言ったでしょ。俺は声をかけはしたけどそれ以降は何もないよ。まぁ、これからクラスメイトの女の子を紹介してもらいに行くわけだけど」
「じゃあ、俺はスカート覗き魔なんかじゃねえって伝えておいてくれ。いや、おっぱい揉む約束させられたって子か? それとも小学生の頃にリコーダー舐められたって言ってた子か? あるいは兄がクズニートに成り果てちゃった子か? まあいいや、とりあえず一発殴らせてくれ」
さり気なく谷宮まで間接的とは言え利用されていたことに、冬平はもはや驚く気力さえなかった。
だが、これでようやく放課後だ。
(外鹿をとっ捕まえてやめさせてやるッ!)
この際もう土下座でも何でもしてやらぁ! と、冬平は情けなく意気込んで教室を飛び出した。
だが、直後。
右腕が真後ろへ向かって引っ張られる。
「待って、丹澄くん」
「漁木? 悪い、後にしてくれないか?」
「まだ何も言ってないじゃない」
いいから聞きなさいよ、と桶子は膨れっ面をする。
それから、冬平の前に回ると。
「その様子だと、外鹿さんの悪魔にやられたのね」
「むしろ悪魔の外鹿さんにやられた気もするが」
「どっちも同じことよ。で、何をしたの? また下着を盗んだの?」
「庇ってくれたのにどうして掘り返すっ?」
桶子もまた悪魔なのかもしれない。
冬平は溜め息をつくと、素直に打ち明けた。桶子に近付くなと言われたことから、勘違いの末に怒りを買ったことまで。
すべてを聞いた桶子は、頭を抱えてしまった。
「丹澄くん。あなたすごいわ、いろいろと」
「そ、そうか?」
「褒めてないわよ」
桶子は鋭く切り返すと冬平の手を引いて。
「まぁ、文句は絶えないけどこの際置いておくとして。そういう事情ならこの後の予定は私に任せてもらえない?」
奇異の視線に晒される廊下を悠然と歩きながら、桶子は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
対して、冬平は疑わしげな視線を向ける。
「何か策があるのか?」
「『目には目を、歯には歯を』よ」
「『嫌がらせには嫌がらせを』か? それとも『脅迫には脅迫を』か?」
「残念。どっちも不正解ね」
相変わらず超然と微笑みながら、桶子は立ち止まって身体ごと振り返った。
それから、いたく楽しそうに答える。
「『精神攻撃には、精神攻撃を』よ」
「つまり、どういうことだ……?」
「物わかりが悪いのね。一度しか言わないからちゃんと聞きなさいよ?」
優しげな口調の桶子は、両手で冬平の手を握り、真っ直ぐに目を合わせる。その姿はあたかも、園児に言い聞かせる保育士のようだ。
そして、桶子は。
どこか決意を固めたような表情で。
「私たち、これからデートをするのよ」
冬平は、桶子の放った言葉がよくわからなかった。
「……は?」
説明を求めるように、疑問を表す一文字を口にする。
すると、桶子はなぜか恥ずかしそうに。
「い、いわゆる、その、意趣返し……ってやつよ」
真っ赤な顔で、そう言うのだった。
照れる段階がおかしくねえ? などと、冬平には指摘できなかった。
※
生徒会室にて、副会長の比塩伏海は窓の外を眺めていた。
ここからだと、昇降口から校門までの一本道が良く見える。
比塩はここから見る景色が好きだった。毎日同じ人が行き来しているだけなのに、まるで万華鏡のように日毎・時間毎に景色は千変万化する。
そして今日の景色は、一段と賑わっていた。
大方、午後からの騒ぎが原因なんだろう、と嘆息しつつ。
「会長、よろしいんですか?」
案の定、中心には丹澄冬平の姿が見受けられる。位場高校としては早急に止めるべき案件だろう。
だが、その問いに対して、生徒会長である漁木槝子は頷いた。
「まぁ、いいんじゃない? 丹澄くんがいじめられているだけでしょう?」
「生徒会長が、そのようなことを仰ってしまって、良いんですか?」
「比塩ちゃん以外に聞いてないもーん」
わがままな子供のように聞こえないフリをして回転椅子を回す槝子に、比塩は肩を落とした。
槝子は、生徒会長としての手腕は確かだ。正規の生徒会選挙で投票数を得てこの席に収まっているだけあって、他生徒からの信頼もある。
加えて、女の比塩でも思わず息を飲んでしまいそうになるこの美貌だ。選ばれるべくして生徒会長に選ばれたと言っても過言ではないだろう。
授業態度も教師が「漁木さんをお手本にするように」と呼びかけるほどのものと聞くし、学校生活も模範的、生徒会の仕事なんて歴代会長たちを凌ぐとまで言われているくらいだ。それだけに、この弱点は死活問題クラスと言えよう。
はぁ、と比塩は再び溜め息をつくと、その眠たげな瞳をのんびりと槝子に向ける。
「丹澄さんと一緒に、貴方の妹さんもい――」
と、そこまで言って。
不意に、間近の窓ガラスが大きく音を立てて震えた。
「どこ!?」
「っ」
割らんばかりの勢いで手をつく槝子に、予測できていたとは言え比塩は小さく肩を揺らした。
だが、敢えて平静を取り繕うと、気を取り直して続ける。
「風の噂によりますと、」
「風の噂じゃなくて廊下で立ち聞きしといてよ! 同じクラスでしょ!?」
「申し訳ございません。きちんと、廊下で立ち聞きしておりました。前言を、撤回させていただきます」
胸倉を掴んで捲くし立てる槝子へ、呆れつつも口調は崩さず丁寧に返答する。
それから、足を地面から離した状態のまま続ける。
「お二人は、これから、デートをなさるそうですよ」
「で、デートぉ!?」
「えぇ」
普段の風格はどこへやら、槝子はくずおれる。
それから、我を忘れたように膝を抱えておいおいと泣き出した。
「お姉ちゃんとは両手で数えられる程度しかしてくれたことないのに~っ!」
「会長。落ち着いてください。姉妹仲にしては、多い方かと」
「落ち着けるわけないでしょっ! 私を差し置いてあんな思わせ振りくんとデートするなんてえぇ……あんなやつ、あんなやつどんな女の子にだってあんな顔するに決まってるんだからぁ……うわぁ~ん!」
「いえ、それは、どうでしょうか……」
いちクラスメイトの比塩からしてみれば、丹澄冬平の性格からしてその線は限りなく薄いように思えた。
だが、槝子は「なんでお姉ちゃんじゃダメなのぉ~っ!?」と泣き叫ぶ。
そんな一転してだらしなくなってしまった生徒会長を、しかし失望することもなく、比塩は健気にも寄り添って背中をさすってやっていた。
(私が、いるじゃないですか。なんて言っても、聞く耳を持たないのでしょうね、あなたは)
槝子に見えないところで寂しそうな表情をする比塩は、その表情に反してはきはきとした声音で言葉をかける。
「会長。ご安心ください、会長」
「むり……もうしぬ……しんでやるぅ……」
「あのお二人は、外鹿さんをおびき出すために、恋仲を演じているに過ぎません。ああして円満なカップルを演じることで、怒り心頭に発した外鹿さんが接触してくるのではないかと、期待しているとかいないとか、そのようなことを、堂々と仲睦まじく、囁き合っておられました」
「いますぐくびをつ……え? そうなの?」
「他の生徒たちからどう見えているかは、言わずもがな、ですけれど」
「ふーん。そっかぁ」
途端に槝子は花が咲いたような笑みを湛えた。
そして、その笑顔に比塩が心臓を跳ねさせていることになど気付く気配もなく。
「じゃあ、尚のことどうでもいいや~」
「左様ですか」
「前々から外鹿ちゃんには目を付けてたから、何かするならあっちかなぁ」
「具体的には、何をなさるおつもりで?」
「んー……」
問うと、槝子はしばし悩む素振りを見せた。
それから。
何気なく、こんな言葉を口にした。
「軽く煽ろっか」
「なるほど、了解いたしました」
臆面もなく言ってのけた槝子に気圧されることなく、比塩もまた平然と提案を受け入れた。
これだから、この人の側近はやめられない。
笑みがこぼれそうになるのを必死に抑えつけて、比塩は槝子の後について行くのだった。