#2-3 下着泥棒と悪質ないろいろ
「断る!」
下着泥棒の瞬間を写真に収められた上で脅され、桶子に近寄るなとお願いされたはずの冬平は、堂々と胸を張って拒絶した。
対して、予想外の抵抗に外鹿は目を丸くする。
「……はっ?」
「は、じゃねえよ。そんな望みを叶えてやれるほど俺は冷酷な男じゃないって言ったんだ。悪いな、外鹿」
「え? いや、いやいやいや!」
冬平の言い分に、外鹿は大きく首を振った。
何が気にかかるのか、食い気味に言う。
「冷酷なのは聞き入れないほうでしょう!? 自分がどういう立場なのか知っているんですか!?」
「当たり前だ。脅迫されてる最中じゃねえか」
「じゃあ堂々としないでくださいよ!」
「断る」
「だからぁっ!」
最初の余裕はどこへやら、圧倒的に立場が上であったはずの外鹿は完全に冬平のペースに呑まれていた。
だが、そんなことを気遣ってやる冬平ではない。
「いいか、外鹿。よく聞いてくれ」
「え? は、はい」
「漁木は今苦しんでるんだ。俺はそれを取り除いてやりたい。そのために行動してる。だから、脅されたって今は離れるつもりなんてないし、お前がどんな手段を取ったところで屈してやるつもりはない」
「冷酷って、そういうことですか……」
納得の声を上げて、外鹿は溜め息をつく。
それから、肩を落としつつこう続けた。
「そういうことでしたら、こちらにも考えがあります」
「ほう?」
「要は、漁木先輩よりも夢中になれるものがあればいいんですよね?」
外鹿が言っていることの意味が、冬平にはよく理解できなかった。
桶子が苦しんでいるから助けたい。だから邪魔をするな。冬平はそう言っただけだ。それをどう解釈すれば夢中だなんて言葉が出てくるのだろう。
首を傾げていると、不意に。
外鹿が前から寄りかかってきた。
「丹澄先輩って、漁木先輩のことが好きなんですよね?」
ギクリ、と心臓が跳ねた。
どこで聞いたのかと身構えていると、冬平の胸板に顔を埋める外鹿は「見ていればわかりますよ」と寂しそうに笑った。
「大人びていて綺麗ですよね、漁木先輩」
「ああ」
「周囲に流されなくて、自分の意思を持っていて、素敵ですよね」
「そうだな」
「でも、私だって比肩できる可愛さがあると思いませんか?」
「いや、比肩はしないと思うが……」
そもそも比べるものが違う、と冬平は言い含める。
桶子は美麗さで、外鹿は可憐さ。これがそれぞれの土俵だろう。人によって感じ方は変わるのだし、競う意味はあまりないように思えた。
だが、外鹿は同意しろと言わんばかりに冬平の脇腹をつねると。
「ひぐっ」
何かを言う前に、冬平が小さく悲鳴を洩らした。
外鹿は顔を上げて小首を傾げる。
「まさか、感じたんですか?」
「い、いや、それはない。続けてくれ」
「はぁ……」
不思議そうに、あるいは変なものでも見るように、外鹿は目を据わらせる。
けれど、すぐに気を取り直すと、再び冬平の胸板に顔を埋めて甘い声を出す。
「ねえ、丹澄先輩」
「おう」
「後輩とか、どうですか……?」
「どう、って言われてもな……」
「えっ」
一瞬、外鹿の表情が固まった。
そのまま沈黙すること三秒。
コホン、と咳払いをすると外鹿は続けた。
「つ、尽くしてあげますよ?」
「どっちかと言うと守ってやりたい派だ」
「懐いてあげますよ?」
「脅した人間の言うことじゃねえな」
「毎日メールしてあげますよ?」
「返信めんどくせえだろやめろよ」
「で、電話は?」
「会って話せばいいだろ」
「会うたびにチューしてあげますよっ?」
「もっと節度持てよ」
「ぐはぁっ」
冬平のあっさりとした応答に、外鹿はへたり込んだ。
顔を青褪めさせ、両手を地面について項垂れる。絶望といったタイトルでもつけてやりたいくらいに淀みない落ち込み具合だった。
「て、手強い……」
「お前の恋愛観が偏ってるだけだろうが……」
あたかも冬平が朴念仁であるのように言う外鹿。
勝手に言い寄って勝手に負けたくせに、なんて言い草なのだろう。冬平にはどこか釈然としないものがあった。
(にしても、脅した割には軽い『お願い』だったな。いや、俺にとってはまったく軽くねえんだけど)
犯罪の証拠を突きつけるくらいなのだから、もっと危機的な脅迫が来る可能性を考慮していたのだが、まさか桶子と縁を切ることを要求されるとは思わなかった。
(俺が漁木から離れると外鹿にどんなメリットがある? 逆に、俺が漁木と仲が良いとどんな不都合がある?)
初めは噂通り同性だから好いているのかと考えていた。だが、誘惑してきたことでその答えは否定されてしまった。例えレズでも、男を差し置いて結ばれたい気持ちはあるだろう。
(……まさか、逆か?)
冬平はハッとした。
逆、そう逆だ。
桶子のことが好きだから冬平を遠退けさせようとしているのではなく、冬平のことが好きだから回りくどく独占したがっていた可能性はないだろうか。
――つまり。
(この後に告白が予定されていた……?)
盗撮写真で脅され、けれど桶子と離れる『お願い』は拒絶し、あまつさえ誘惑まで振り切った。知らなかったとは言え、かなり残酷な仕打ちをしてしまったのではないだろうか。
「あー……」
己のむごい行いを振り返り、冬平は自責の念に駆られた。
頭をがしがしと乱雑にかいて、依然として絶望の淵にあひる座りしている外鹿を見遣る。
確かに、谷宮がやけに褒める理由は納得できた。それだけ愛らしい容姿をしていることは否定しようもない事実と言えよう。脅してきたことから性格の面は受け入れ難いものの、それもまた愛情の裏返しだと思えば可愛いものだ。
だからこそ、見抜けなかった上に拒んでしまったせいでひどく心が痛かった。
「えっと、外鹿?」
「なんですか? 考え直してくれたんですか?」
きゃぴきゃぴと黄色い声で返す外鹿。
だが。
「顔を上げろ。地面に『の』を書くな」
「はいはい、何なんですかもう。訴えますよ」
「まだ何もしてないんだが?」
「したじゃないですか、下着泥棒」
「ぐっ、そこを突かれると痛い……」
あんな写真を押さえられてしまったのだ。もう冬平には弁解の余地がない。いくら故意ではないと言い張ったところで、聞く耳を持ってもらえるわけがない。
(たぶん漁木だって擁護してくんねえしな)
とは言え、ここで怯んでいたって話は進まない。
冬平は、眉間に皺を寄せた可愛くない外鹿に向けて言う。
「お前の本心に気付くことができなくて悪かった」
「は?」
外鹿はきょとんとした。
だが、冬平は気にも留めず。
「それなのに、酷いことを言ったと思う」
「なに言ってるんですか?」
「だから、今度はわかった上で、キチンと断らせてくれ」
「ちょっと?」
疑問にも答えず自分の意見だけを並べる冬平に、外鹿は不愉快そうに眉間の皺を深くする。
けれど、やはり冬平は気にしない。
と言うより、早く済ませてしまいたかった。そうでもしないと良心の呵責に負けてしまいそうだった。
だから、冬平は言う。
外鹿を傷つけてしまうことを覚悟で、はっきりと自分の意思を告げる。
「俺は、漁木桶子が好きだ! だから、すまん! お前とは――」
と、そこまで言って。
不意に、立ち上がった外鹿が動いた。
そして、「むんっ」という可愛らしい掛け声と共に、右の拳が繰り出される。
「ぐぼぁっ」
鳩尾のど真ん中。外鹿の小さくも硬い拳が炸裂し、冬平は呻き声を上げて両膝からくずおれた。
その情けない姿に、外鹿は「けっ」と蔑む視線を送る。
「思い上がらないでください、先輩。私が好きなのは、あなたのような変態ではなく、漁木先輩のように悪を罰する正義の味方ですよ」
「げほっごほっ」
冬平は言葉を口にできなかった。
(漁木が、正義の味方だと?)
いつの間にそんな活動をしていたのだろう。ずっと見ていたつもりだったのに気が付くことができなかった。
「先輩、顔を上げてください」
「あ?」
言われるがまま、無警戒で顔を上げる。
すると、不意に外鹿が足を上げた。
「あ……」
見えた。
何がとは言わないが、見えた。
(しましまだ)
あくまでも何がとは言わないが。
……などと、油断もそこそこに。
おもむろに上げられた足は、靴裏を見せたまま顔に押しつけられた。そして、そのまま容赦なく踏みにじられる。
「痛い痛い痛い! 鼻痛い!」
「謝ってください。不愉快でした、ええとても。あなたの謝罪によって私は余計に傷つきましたよ」
「ごめんなさい! 度重なる勘違いごめんなさい! だから足をどけやがれ!」
「ふんっ」
謝っているのか命令しているのか、どっちつかずの冬平に、外鹿は追い打ちとばかりに再度踏みつけた。
まるで足踏みでもするように、あるいは地団駄でも踏むように、年の差など取っ払って何度も何度も踏みつける。冬平は悲鳴を上げることもままならず、子音ばかりを声にする。
最後に、外鹿はトドメとばかりに顎を蹴り飛ばすと。
「こんな屈辱は初めて受けました。ただで済むと思わないでくださいね、丹澄先輩」
と、悪役じみた捨て台詞を残して、大股で去って行ってしまった。
一方で、残された冬平は。
「……理不尽すぎねぇ?」
顔は土だらけ、鼻血は水道のように垂れ流され、口の中には鉄の味が広がっていた。下着泥棒をした罰はまだまだ残っているのかもしれない。
清算し切れるのかねぇ、と空へ向かって嘆くものの、答えが返ってくることはなかった。
しばらくして、冬平は校舎に戻ることにした。
また外鹿と出会してしまったら気まずいなぁ、などと怯えつつ一階の廊下を階段目指して進んでいく。
すると、奇妙なものが目に止まった。
「……パンツだ」
場所のせいか、思わず口走ったおかしな独り言は宙へ消えて行った。昼休みとは言え、購買のある昇降口と対角線を結べるこの位置は、ほとんど人が通ることはない。
そんな人の気配が薄い場所に落ちていたものは、女性用の下着だった。
明るい桜色で、生地は滑らかで柔らかい。冬平の知識にある面積の広いパンツとは違い、「本当にこんなもので隠せるのか?」と疑いたくなるほどクロッチからウエストまでの間隔が狭かった。これが噂のローライズというものなのだろうか。
試しに拾ってみた冬平は、難しい顔をする。
「……普通、パンツなんて落とすか?」
あまりにも異常な現場に遭遇したせいで、心の声がだだ漏れだった。
だが、冬平の疑問ももっともだろう。
この誰のものかわからないパンツだが、見たところどこにも損傷箇所はない。どころか、洗い立てのように汚れ一つ見当たらないのである。
(千切れたんなら歩いている間に落とすこともあるだろうが……)
その跡がないことから、これは別口だと判断できる。
つまり、着替えるために持って来ていたものを落としてしまったか。
(あるいは、盗んだもんをここで誤って落としたか)
果たして、これは本当にただの落とし物として処理してしまっていいものなのだろうか。冬平は無性に嫌な予感がしてきた。
もしもこれが下着泥棒の盗んできたもので、そして桶子の下着なのだとしたら。
(気が付いた犯人は、確実に焦るはずだ。取りに来るかどうかは怪しいところだが、少なくとも平静ではいないだろう)
この学校の生徒で、性別は女、性格は狡猾で高飛車。ここまでの条件が揃っていて、なおかつ昼休みの間にこの場所を通った人間。
そんな都合良くすべての条件に合致する犯人を、冬平は一人しか知らない。
(そうかそうか。俺と漁木を引き離そうとしていたのはそういうわけか、外鹿)
気を引きたかったのか、それとも単純にそういう性癖でも持っているのか、今まで桶子の下着を盗み続けていた犯人はあの少女だったわけだ。
だから、それを解決しようとする冬平が邪魔で、排除するためにあんな強引なお願いに走ったのだろう。
ならば、冬平はそんな外鹿を見逃すことはできない。すぐにでも教室に突撃して折檻してやらねば。
と、決意したその時だった。
「あれ? 丹澄くん?」
「え? 漁木?」
「ごめんね。期待してない方の漁木だよ」
「あっ、生徒会長!?」
「今ので理解されると凹んじゃうなぁ……」
ひょっこりと顔を覗かせたのは、意外にも槝子だった。
こんな場所に何の用があるのかと首を傾げていると、冬平の手に握られているものを見た槝子は「あっ」と嬉しそうな声を出す。
「拾ってくれたんだ? ありがとーっ!」
「え? は?」
すっと白磁のように抜けるような白い手を差し出してくる槝子に、状況を理解できない冬平は目を白黒させた。
そうしている間にも槝子は急かすような視線を送ってくる。パンツを返しつつ、冬平は問いかける。
「えっと、このパンツが、生徒会長の私物なんですか?」
「女の子に真正面からそういうこと聞いちゃうなんてデリカシーないんじゃない? それともわざと? そういうプレイ?」
「やっぱり俺のイメージおかしくないですかっ?」
「悪いのは丹澄くんの日頃の行い方だと思うよ?」
「そ、そんなに悪いですか……?」
冬平としては、これでも真っ当に生きてきたつもりだ。
そりゃあ、桶子と関わるようになってからほとんどのことが裏目に出てはいるが、それ以前は正しいと思うことを率先してやってきた……はずだ。
困っている人は放っておけないし、悪事はもちろん見過ごせない。それを今になって『日頃の行いが悪い』などと断ぜられてしまうなど、人格そのものを否定されたようで背筋が冷えた。
一方で。
槝子は人差し指を顎に当て、考えるような動作をしたかと思うと、すぐににっこりと微笑んだ。
「丹澄くんってさ、隣の席の子が消しゴムを落としたらどうする?」
「……? 拾ってあげますよ、もちろん」
「だよね。じゃあ、大切なものを失くしちゃった子がいたら?」
「そりゃ、探してあげますよ」
「じゃあ、通学途中に痴漢されてる子を見つけたら?」
「助けるに決まってるじゃないですか」
「やっぱり、いい人だ。だからこそ、イケナイ子だ」
「……はぁ」
いまいち要領を得ない槝子の言い分に、冬平は曖昧な相槌を打った。
善良な人間だからこそ、日頃の行いが悪い。そんな方程式が成り立っていいのだろうか。少なくとも、冬平には理解できないものだった。
「ふふっ。まぁ、いいよ、丹澄くんはそのまんまで」
「そうは聞こえませんでしたがね」
「いいのいいの。そっちの方が桶子ちゃんを任せていられるしっ♪」
などと、意味不明なことばかり並べ立てて、槝子は背中を向けた。そのまま、来た道を引き返してしまう。
だが、すぐに立ち止まると。
悪戯っぽい笑みで振り返る。
「二つだけ、いいこと教えてあげる」
「良い知らせと悪い知らせですか?」
「うーん、そうかも?」
「何ですかそれ」
はっきりしない答えに、冬平は首を捻る。
それを受けて、槝子は「まずは恐らく良い知らせから」とやはり曖昧な前置きをすると。
「これは、昨日桶子ちゃんが穿いていたものです」
パンツを人差し指でくるくると回しながら、そんな爆弾発言を放った。
事実、冬平はそれだけで意識のすべてが吹き飛んだ錯覚を覚えた。
あのパンツが。
槝子会長の指にはめられている桜色のあのパンツが。
(昨日、漁木のスカートの中に収まっていただと……?)
冬平が盗んだせいで借りることになったという、あのパンツである。つまるところ、あれは槝子のパンツでもあるわけだ。
(てことは、俺は今、漁木姉妹のパンツを一気に目撃してしまっていることになるのか……?)
いやはや、まったくそんなことはないのだが。
たった一言で。
冬平の頭は目の前の桜色で染め上げられた。
なるほど確かに『良い知らせ』である。
(クールな漁木に似合わない桜色。だが、そのギャップが良い……)
本人がいないからか、はたまた脳内だからか、あるいは目の前でオカズを提供されたからか、冬平の妄想ははばかることを知らなかった。
そんな冬平の心中を知ってか知らずか、槝子はパンツを丸めてポケットに仕舞うと。
続けて、『悪い知らせ』を口にした。
「そんなことより、もう一つね。早く教室に戻らないと大変なことになるかもよ?」
「え? 大変なこと?」
「うん」
槝子は頷いて。
「さっき外鹿さんと話してたよね? それで、彼女を怒らせたよね?」
「見てたんですか?」
最後だけね、と槝子は笑う。
否、嗤う。
「外鹿さんには悪魔が憑いてるから、それこそ取り返しのつかないことになっちゃうかもよ?」
「いやいや、冗談でしょう?」
その問いに対して、槝子は微笑むだけだった。さらには、それ以上なにも言わずに廊下の角に姿を消してしまう。
残された冬平は、しばらく考える。
「…………」
谷宮の情報、外鹿本人の言動、槝子の忠告。それらを鑑みて、この後に外鹿がやりそうな報復手段を推し量る。
――ヤバそう。
深く考えるまでもなく、すぐにそんな答えが浮かんだ。
思うが早いか、冬平は教室へと全力で駆け出した。
階段を二段飛ばしで駆け上がり、注意されようとも気にせず廊下を駆け抜ける。一階から四階まで一分足らずで走破すると、すぐに教室のドアを千切るように乱暴に開けた。
直後。
教室中の視線が、一斉に冬平へ集中する。
(な、なんだ、この目……)
恐怖、あるいは侮蔑の眼差し。
今まで感じたことのない、責め立てるような重たい空気だった。
……と、そんな時。
空気に耐えきれずに目を逸らした冬平は、黒板に貼ってあったものを見て戦慄した。
「…………っ」
息が詰まる。
同時に、視線の意味を理解した。
(やってくれたな、外鹿……)
彼女の捨て台詞を思い出す。
――ただで済むと思わないでくださいね、丹澄先輩。
なるほど、確かにただでは済まないだろう。
冬平の視線の先――教室前方の黒板には。
あろうことか、例の写真が貼りつけられていた。