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#1-3 下着泥棒と下着泥棒

 (とう)(へい)が目を覚ますと、目の前には白い天井が広がっていた。

 背中には柔らかいマットレスの感触、後頭部は硬めの台座に載せられ、顎から下は布団の程良い重圧に包まれている。右腕はなぜかマシュマロにも似た柔らかい二つのクッションに挟まれているのだが、いったい何の措置なのだろう。

 仕切り用の白いカーテンに目を遣りながら、冬平は記憶を手繰る。

(保健室……そうか、(あさり)()にナイフを刺されまくって……)

 呆然と思い返せば、完全無欠に自分のせいだった。

 なんて馬鹿な考えをしていたのだろう。学校で猫を被っているような狡猾さを持つ(よう)()が、盗まれた程度で下着を身に付けずに登校するわけがなかった。

(今、何時だ……?)

 頭痛を堪えながら、冬平は身体を起こす。

 だが。

「あ……?」

 上体を起こそうとした冬平は、鉛のような重さの右腕に引っ張られてしまう。

 予想外の加重に吸い寄せられ、不意の不自由に目を白黒させていた冬平は、あっけなく再びベッドへ寝転んでしまった。

 頭の中が疑問符で満たされる。

 右腕の違和感。二の腕あたりを挟む優しい温もり。大きくてふわふわの拘束具。思えば、大腿部にも身に覚えのない圧迫感があった。

(いやいや。はっはっは。そんな馬鹿な)

 この感覚。冬平の予想が正しければ、この一七年の人生でもっとも幸福な感覚である。

 まさか。

 まさかまさか。

(おっぱい、か……?)

 こんな悩ましいイタズラを仕掛けてくる人間が、自分の知り合いにいただろうか。冬平は脳をフル回転させて選択肢を洗っていく。

 思い当たる節などない。

 だが、豊かな山は確かにそこにあった。

(これは、登山許可が下りていると判断してもいいのだろうか)

 わからない。まだ青い冬平にはわからない。

 と、そんな冬平の頭の中で囁く声があった。

『登山家は「なぜ山を登るのか」という質問に対して「そこに山があるから」と答えた。つまり、山を登ることに理由など不要。登りたいから登る、それが山だ。男なら己の欲望に従え!』

『いいえ、よく考え直すのです。そんな生半可な理由で登山してしまえば痛い目に遭いましょう。男なら真剣に臨むべきです。「触りたいから触る」のではなく、「目の前にあるのだから触らなければ失礼だ」くらいの心意気でいきましょう』

「まずい。俺の中の天使と悪魔が喧嘩しない……!?」

 ならば、ここは行動するのがベストではないだろうか。

 欲望と理性、双方に後押しされて冬平は決意した。

(よし。まずは触れる。相手がどうであれ揉む。話はそれからだ)

 どんな思考を経たのか。冬平は段階を色々とすっ飛ばしてそう結論づけた。

(よし。よし、よし……よし! いくぞ……俺は、これから、母なる大地に挑む……挑むぞ……挑むんだ……)

 ゴクリ。唾を飲む音がやけに大きく聞こえた。

 動悸がやたらと速く早く感じる。呼吸も荒くなり、毛穴という毛穴から汗が噴き出ているのがわかった。手も震え、焦点も上手く定められない。

 だが、逃げ出すわけにはいかない。

 目の前にあるのだ。男のロマンが、夢が、希望がそこにあるのだ。ここで臆してどうする。二度と来ないチャンスを不意にして、残りの人生を悔いなく過ごせるはずもない。

(そうだ。これは不可抗力。すでに二の腕が挟まれているんだから、今更指で触れてしまっても仕方がないこと。俺は悪くない、俺は悪くない、俺は……)

 薄手の夏服のせいか、感動もひとしおだった。このまま放置していても満たされる可能性だって捨てきれない。もはや熱気など気に留めるほどのことではなかった。

 だが、それでいいのか。

(良いわけがねえ!)

 ここで触れなければ、きっと後悔する。

 直感がそう告げていた。

 だから。

 冬平は、挑む。

 未知なる双丘へと。

 全神経を指先へと集中させ、感触を一生脳裏に焼き付けんと意識を限界ま


()(すみ)くん、起きてる?」


「うわああああああああああああああああああああ!?」

 突如。

 ジャッと音を立てて勢いよくカーテンが開け放たれ、冬平は口から心臓が飛び出しかけた。

「どうしたのよ突然そんな大声出して」

「ど、どうもしねえけど?」

 一際激しくなった鼓動を必死に鎮めようと呼吸を整えつつ、冬平は声のする方に目を向けた。

 そこには、怪我とは別種の不安を抱いていそうな桶子の姿があった。

 桶子は一度冬平の右腕の方に視線を移すと、ふっと嘲るように口元を緩めて手近な椅子に腰掛けた。

「怪我の具合はどう?」

「なんで笑った?」

 何事もなかったかのように話を進めようとする桶子に、冬平は間髪入れず問い返した。

 すると、桶子はさも当然のように。

「別に、大したことじゃないわ。丹澄くんが今からペロッと食べられちゃうんだなぁって考えたら、なんだか嬉しくって」

「俺に恨みでもあんのか?」

「あるわよ。下着盗まれた上に穿いてない疑惑までかけられたんだから」

「…………うん」

 淀みない正論に、冬平は二の句を継げなかった。

 桶子は依然として楽しそうに微笑みつつ。

「どうしてもって言うなら、その右腕に絡みついている生き物の正体を教えてあげてもいいわよ」

「まるで人じゃないみたいな言い方だな」

「実際に人とは言い難いもの。そんな色情狂を同じ女として認めるなんて嫌よ」

「俺に何がくっついてるって言うんだ……」

 冬平は身震いした。

 だが、直後。

「うぅん……」

「ほわぁ……」

 耳元で繰り出された婀娜っぽい吐息と、何者かの身じろぎによって変わる二の腕のクッションの形状に、冬平は我知らず恍惚と声を洩らす。

「丹澄くん……」

「誤解だ! これは俺の本能がだな!」

 気まずそうに目を逸らす桶子に、冬平は全力で弁護を試みる。

「相手が何かとかじゃないんだよ、こういうのは。もう感触だけでダメなんだ。だから漁木相手にだってこうなる自信がある。安心してくれ、俺は正常だ」

「…………」

「あれ? 漁木さん? なんで無言でナイフ構え……え、ちょ、いや、それはマズいって……いやああああああああああっ!」

 ナイフと言うよりは、杭のような形状をした十字型のスティレットが胸板に突きつけられ、立ち上がった桶子の体重がかかる。

 先端が皮膚に刺さり、痛みと恐怖で女の子みたいな悲鳴を上げる冬平。

 二度も訪れた今際の際に再び為す術もなく、その命は今度こそ尽きようとしていた。

 そんな時だった。


「ダメだよぉ~、おけちゃん。照れ隠しでも殺しは二〇歳になってからっ♪」


 などと、場の雰囲気とは程遠いのほほんとした声と共に、杭の侵攻が阻まれた。

 同時に、右腕を支配していた悩ましい感触から解放され、冬平は身が引き裂かれるような口惜しさを覚えた。スティレットが抜かれ、生命の危機を免れても、その悔しさが消えることはない。

 もはや怒りさえ湧いてきた冬平は、起き上がって柔山の主を見遣る。

(さくら)(がり)先生……?」

「うん、そうだよ~。桜狩(みさお)先生だよ~」

 ぽやっと力なく微笑む彼女は、この保健室に勤める養護教諭だった。

 本人も名乗った通り、名前を桜狩操という。

 年齢を一回りサバ読んでも通用しそうなあどけない幼顔に、なんでも言うことを聞いてしまいたくなる人懐っこい表情。けれど、身体つきは暴力的なまでに肉欲を刺激する艶めかしい凹凸を刻み、その絶妙なアンバランス加減は位場高校の男子生徒たちから絶大な人気を誇っていた。

 しかしその人気は男子生徒だけに留まらず、性格の穏やかさや接しやすさから、男女分け隔てなく支持されているほどだった。そのおかげでカウンセリング室から「仕事が無くなる」と苦情が来たこともあるらしい。

 そんな桜狩先生が、どうして右腕に巻き付いていたのだろう。おっとりに加えて天然属性まで秘めていると言うのか。

(桜狩先生、恐ろしい人……!)

 外面も内面も暴力的なまでに高威力の桜狩先生に、冬平は心中で戦慄いた。

 そんな冬平に、桶子からスティレットを没収した桜狩先生は言う。

「冬平くんも、おけちゃんと話す時は言葉選びを慎重にしないと。すっごく繊細だから、簡単に殺されちゃうよぉ~。ここに運ばれたのだって、冬平くんが悪いって聞いてるし、治していかないとね?」

「繊細ですか……?」

 部屋の片付けもロクにできない女の子を、どうして繊細だなどと評価できようか。

(あ、いや、あれは荒らされただけなんだっけ)

 冬平は思い直す。

 けれど、結局今までの桶子の言動を顧みれば、まったくそぐわないイメージに思えた。

 首を捻る冬平に、桜狩先生は微笑みかける。

「ほら、冬平くんが悩んだのがいい証拠だよ」

「はぁ、ピンと来ませんが」

「んふふ。いいのいいの。ねっ、おけちゃん?」

「操ちゃん先生も刺されたいの?」

「ひどいなぁ~」

 言葉とは裏腹に、桜狩先生は気にしていなさそうだった。

(いつ話しても不思議な人だな……)

 捕らえ所がないと言えばいいのか、桜狩先生はおっとりしているように見えてなかなか真意を推し量れない人だった。添い寝していたことが何よりの証拠だろう。

 と、そこで、冬平は思い出す。

「そう言えば、漁木。俺に用があったんじゃないのか?」

「そうね。大分時間はズレちゃったけど。だ・れ・か・さ・ん・の・せ・い・で!」

「ぐっ」

 不満たっぷりに強調され、冬平は言葉を詰まらせた。

 腕と脚を組み、偉そうに椅子に座り直して、桶子は続ける。

「下着泥棒の件について、丹澄くんがどう解決してくれるのかって聞こうとしてたのに……まさか痴女疑惑をかけられていただなんてね」

「わ、悪かったって……」

「まぁ、いいわ。それについては剣山にして気晴らしができたんだし」

 さらりと恐ろしいことを口にして、桶子は問う。

「それで、どうやって下着泥棒を解決してくれるの?」

「え? あぁ、そのことか」

 方法がないわけではない。

 だが、その前に冬平には気になることがあった。

「ここで話していてもいいのか? 桜狩先生がばっちり聞いてるぞ?」

「問題ないわ。操ちゃん先生は知ってるから」

「どこまでだ?」

「全部」

「全部?」

「えぇ、全部」

「……そうか」

 通り魔の件まで知っているなんて言い出さないだろうな、と勘繰る冬平。

(まぁ、いいか。別にそっちまで関わってくる話し合いじゃないしな。今は置いておこう)

 桜狩先生を一瞥してから、桶子に向き直って本題に立ち返る。

「下着泥棒の件だがな。実は、次の被害が出ないことには何もできないんだよ」

「また盗まれろと?」

「違ぇよ! いちいちナイフを抜くな!」

 感情とセットで取り出される凶器に、冬平は末恐ろしさを感じた。

 だが、そこはそれ。

 注意は後回しにして、今は会議を進める。

「今の時間は知らないが――」

「ついさっき五時間目が終わったところよ」

「……そうか」

 説明を遮りつつ口を挟まれ、微妙な気持ちになりながらも冬平は続ける。

「とにかく。向こうが仮に集団だとしたら、恐らくあと一時間もしない間にまた盗まれる可能性はある」

「なんで?」

「お前が確実に帰宅しない時間帯だからだよ」

「一年半も続けていれば、さすがに行動パターンも把握されてるってわけね」

「いや、少し違うな」

 桶子の言葉に、冬平はかぶりを振る。

「向こうは恐らく、何人かこの学校の生徒に監視させているんだよ。同じ学年かどうかまでは知らないが、時間割やら部活の状況やらを報告している人間がいるはずだ。まぁ、漁木だけをターゲットにしているならの話だが」

「どうしてそんなことをするの?」

「そりゃあお前の下着が欲しいから……って方じゃないな、聞きたいのは。盗んでもバレちゃ意味がないだろ。だからやる時は入念に調査して、完全犯罪に極限まで近付けて犯行に移るんだよ。それが下着に限らず泥棒の手口ってもんだ」

「詳しいのね。やっぱり私の他にも下着を盗んでいたんじゃないの?」

「うん? 昨日の状況は隅から隅まで話したはずだが? どうしてそう思っちゃったのかな? おやおや?」

 肩を抱いて不安そうに距離を取る桶子に、冬平は悔しさをおくびにも出さず挑発に乗った。

(詳しいのは俺じゃなくて、親父の方なんだけど……そんなもん言っても仕方ねえよな)

 無論、父親が怪盗稼業を営んでいるということではない。むしろその逆なのだが、今は詮無いことだ。

「で、だ。集団下着泥棒ってのも俺の勘違いかもしれないわけで、次の被害が出ないことには確証の掴み様もないんだ。だから盗まれろってわけじゃないが、とにかく今は家を見張る以外のことができないんだよ」

「不甲斐ないわね」

「それ、俺の台詞な」

 表情からして小馬鹿にしている様子の桶子に、冬平は冷静に指摘する。

 と、そこで。

 桜狩先生が、のんびりと言った。

「じゃあ、今から見張りに行くしかないね~?」

「……教師がサボりを後押ししていいんですか?」

「今は先生じゃなくって、おけちゃんのお友達だから~」

「いや、そういう問題じゃないと思うんですケド……」

 きっと桶子だって、こんな不確定なことのために動くのは気が引けることだろう。

 そう思ったのも束の間。

「そうね。操ちゃん先生の言う通りだわ。早速向かいましょう」

「落ち着け、漁木。無駄足になるかもしれないんだぞ?」

「何もしないでむざむざ下着を盗まれるよりマシよ」

「……それもそうか」

 なぜ自分はそんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。冬平は配慮のできなさ加減に己を殴りたくなった。

(まぁ、今日は盗まれる可能性はほぼないと思うがな)

 そう言って聞かせたところで、きっと桶子は頑として聞き入れないだろう。

 それ以上は口出ししないようにして、冬平は桶子と共に学校を抜け出すことになった。


     ※


 そして。

 電車に揺られて三〇分。

 冬平と桶子の二人は、桶子の家に着くなり早速張り込みを開始していた。

(……無駄足とわかっているだけ気楽なもんだ)

 付近の茂みに身を潜めながら、冬平は心中で嘆息した。

 件の下着泥棒が何人体制で、そしてどれだけの人数をどのような目的で狙っているのかは知らないが、少なくとも一年半もの間、桶子に一度として目撃されずにいることから相当手慣れていると見ていいだろう。

 さらに言ってしまえば、黒幕は犯行を自分の手で行っていない可能性が限りなく高い。

 そんな犯人が、どうして二日も連続で同じ人間の下着を盗みに来るだろうか。

(それに、昨日は俺が捕まえたおかげで手駒が帰って来なかった。それを怪しまないわけがない。仮にここまで来ていたとしたってそれは偵察であって窃盗じゃない)

 だから、冬平は半ば被害がないことを確信していた。

 とは言え、これはあくまでも予測の範囲内だ。

(もしも向こうがただの馬鹿なら、まあまた来るんだろうが……そんなのが一年半も盗み続けていられるもんかねぇ……)

 大人になるに連れて体感時間は短くなっていくとは聞くが、高校生の冬平にはまるで実感の湧かない話だ。一年半だなんて途方もないとさえ感じてしまう。そんな長い期間を桶子が通り魔になるまで下着泥棒に費やすだなんて余程の情熱があるに違いなかった。

「遅いわね」

「…………」

 桶子は何の気なしに呟いたのだろうが、冬平は素直に反応することができなかった。

 桶子が両手に持ち、そして時折口に運んでいる物に目を向けつつ問いかけてみる。

「なにゆえアンパンと牛乳を?」

「張り込みの鉄板じゃない」

 何か違う気がする。

 だが、冬平はそれを指摘できなかった。

 敢えて何も言及しないことにして、話題を元に戻す。

「今日はもう来ないかもしれないな」

「あるいはもう盗み終わってるとか?」

「いや、それはないと思う」

「むぐむぐ?」

「どうして人との会話に食事を挟めるんだ、お前は」

 文句を垂れつつ、不思議そうな顔の桶子に答えてやる。

「実は窓に少しだけ細工しておいたんだ」

「人の家に何してんもぐ」

「…………。あんな簡単に外から開けられるような窓のままで過ごすのは不安だと思ったんだよ」

 危うくアンパンを没収しそうになった冬平は、すんでのところで平静を装うことに成功した。

 変わらずマイペースにアンパンを食べ続ける桶子をできるだけ気に留めないようにしながら、説明の続きを口にする。

「ドアの方はちょっとやそっとじゃ開けられないように対策してあるみたいだったから、窓の方にストッパーを仕掛けておいたんだ」

「それでどうして犯人が来てないってわかるの?」

「ストッパーと一緒に防犯ブザーも設置しておいたからな。音が鳴ってないってことは犯人が来ていない証拠だ。そのために窓を開けやすいようにわざと雑に割られた部分を補修しておいたしな」

「自分がやられて嫌な仕掛けをあらかじめしておいたってわけね」

「だから俺は下着泥棒なんてしたことねえって」

 相変わらず口にアンパンを入れながらの桶子に、冬平はいろんな意味で呆れ返った。

(まったく、緊張感のないやつだな)

 自分のことは棚に上げて冬平は思う。

 けれど。

 ここでふと、違和感に気が付く。

(……漁木、少しだけ震えてないか?)

 心なしか表情も強張っているように思えた。マジマジと見てみると、冷や汗も浮かんでいるようだ。

(こういう時ってどうすりゃいいんだ? 手を繋ぐ……は良くない。セクハラだ。肩もどうだろう……いや、頭? それとも足か?)

 人の温もりは安心材料になると聞くが、この場合はどこに触れれば安心させてやれるのだろう。

(あ、いや、そもそも俺じゃあ無意味か……?)

 元から嫌われているだけに、ボディタッチなんてしてしまえばこの場で殺されてしまうかもしれない。冗談抜きで。

「……漁木」

「なに?」

「いざとなったら俺が全部やるから、お前は気ままに牛乳でも飲んでろよ」

「は? なんで馬鹿にされたの?」

「なんで馬鹿にしなきゃいけないんだ。お前が緊張してるみたいだったから少しでも安心させてやろうとしたんじゃねえかよ」

「え?」

 すると、桶子は目を丸くした。

 まさか冬平に心配されるなどとは思いも寄らなかったのだろう。食べる手を止めて聞き返してくる。

「そんなにわかりやすく緊張してる?」

「まぁ、割と」

「……そう」

 なぜか寂しそうな顔になった桶子は、誤魔化すように残りのアンパンをまとめて口に放り込んだ。

 三割も残っていなかったとは言え、さすがに口の中に丸ごと入れてしまうとリスのように頬が膨らんでいた。

 それから一分と少しかけて桶子は咀嚼する。

 やがて飲み込むと、打って変わってすっきりしたような表情になっていた。

「そうね。さすがに目の前で自分の下着を盗まれるかもしれないって考えたら、想像しているだけの時よりも怖くなってきちゃったのかもね」

「わからないフリなんてしなくていいだろ。相手が俺だと弱い部分を見せられないかもしんないけどさ」

「別に、そういうつもりじゃないの。ただ、本当に実感してなかっただけ」

「そうか」

 深くは追及せず、冬平はそこで会話を途切れさせた。

 桶子も特に続けるつもりはないようで、パック牛乳をストローで吸いながら自分の家がある方を注視していた。

「今日は来ないつもりなのかしら」

「期待してるみたいに言うなよ」

「いえ、それはそうなんだけど……」

「何だよ。被害はないに越したことはないだろ?」

「……うん」

 どこか不安そうに桶子は頷いた。

 ちうちうと鳥の鳴き声のような音を立てて牛乳を吸い上げる桶子を横目で見ながら、冬平はそっぽを向いて聞かせる気のない声量で呟く。

「心配しなくたって今日は来ないだろ」

「丹澄くん」

 聞こえてしまっていたのか、桶子が名前を呼んだ。

 なんだか気恥ずかしくなって、冬平は指先で鼻の頭をかきつつ。

「何でもねえよ」

「違うわ。来たの」

「えっ、」

 いやまさかこんなわかりやすいフラグが!? と、思わず叫びそうになりながら、冬平は弾かれたように桶子の家の方を見た。

(……ほ、本当に居やがる……)

 しかも、昨日と同じく位場高校の制服を身につけたままの生徒だった。学生鞄を肩に下げたまま、ガムテープで塞いだだけの割れた窓をしげしげと観察する。

 いったい何を考えているのか。冬平には理解ができなかった。

 とりあえず様子を見てみよう、と下着泥棒に目を向けたまま桶子へ声をかける。

「漁木、絶対に手を出すなよ。お前の場合は過剰防衛になりかねない」

「…………」

「おい、漁木?」

 と、横にいる桶子の方を向く冬平だったが。

 彼女の姿はすでになく。

 代わりに、ナイフを下着泥棒の首元に宛てがう通り魔が目と鼻の先にいた。

「……………………えーっと」

 冬平は頭を抱えた。あれではどちらが被害者かわからない。

 確かに、もしも現れたら捕らえるつもりではいた。だが今の状況はどうだろう。完全に人質を取った強盗だ。

(さっきまで震えていたくせに変なやつだな……)

 学校で見る大人びた桶子とどんどんかけ離れていく現状に、冬平は向き合うことを恐れ始めていた。

 ともかく、方法はどうあれ捕らえたことには変わりないので、あまり近付きたくはないが桶子が親指を切り落としてしまう前にキチンと下着泥棒を捕縛しておくことにする。

「漁木。殺すなよ?」

「大丈夫。人殺しには興味ないもの」

「そうか、なら安心した」

「でも危うく頸動脈が切れちゃったらそれは仕方のないことだと思うわ」

「今すぐそいつから離れろ! お前が捕まるぞ!」

 強引に桶子を下着泥棒から引き剥がすと、なぜか悔しそうな桶子を放ってブルブル震えている下着泥棒を拘束した。

 未遂で、さらには証拠写真もないのだから法的に取り締まることはできないが、今回は承知の上だった。警察に突き出すことよりも、目的はもっと別にある。

「おい、下着泥棒未遂」

「は、はい……」

「単刀直入に聞く。誰に命令された?」

「……い、言えません」

「目的は?」

「……わかりません」

「じゃあ、全部で何人いる?」

「え? 何人と言われても……」

「いや、仲間がいるんだろ? 昨日の伏見くんとかよ」

「伏見って……二組のですか?」

「俺が知るかよ」

 冬平は簡潔に切り捨てた。

 そんなことよりも、壮絶な違和感が心中に渦巻いていた。

(何かが変だ。俺は何かを勘違いしていたのか?)

 下着泥棒の言い分から察するに、誰かに命令されて動いていることはわかった。目的を知らされていないこともまあいい。問題は、相手が集団で動いているという認識がないことだ。

 桶子が「ねえ、やっちゃいましょうよ。ねえ、ねえ、殺しましょうよ」と女子高生とは思えない言葉で囁いてくるのだが、それを無視して。

「もう一度聞くぞ。仲間がいるんだよな?」

「いえ、知りません……」

「なぜだ」

「聞かされていないから、としか……」

「質問を変えよう。なんて命令されたんだ?」

「話したら見逃してくれるんですか……?」

「あぁ、約束する」

 わけがないのだが。

 素直に信じてくれた下着泥棒さんは、おずおずと白状する。

「……え、えっと、漁木先輩の衣服を何でもいいから盗んで来いって言われて……」

「で、その先は?」

「成功すれば付き合ってあげるって、言われました。そうすれば谷宮先輩よりも上になれるからって」

「は? 谷宮?」

 知っている名前が出て来て冬平は混乱した。

(なぜここで谷宮が出て来る? てか、黒幕は女子なのか!?)

 予想外すぎる真相に、思わず天を仰ぎたくなる。

「丹澄くん。気持ち悪いんだけど」

「俺が気持ち悪いみたいに言わないでくんない?」

「いえ、そっちの意味もあったけど……」

「傷つくから陰でこっそり言ってくんない!?」

「そんなのはどうでもいいの」

 冬平としてはまったくよくないのだが、桶子はかぶりを振った。

 それから、指の代わりにナイフを下着泥棒に向けて言う。

「これってつまり、私を餌に気になる女の子と交わろうって話よね?」

「さすがにそこまでは考えてないだろ……なぁ?」

「…………」

「せっかく庇ってやろうとしてんのに目ぇ逸らしてんじゃねえよ! 素直か!」

 相当な下心からの犯行だったらしい。

 これにはさすがの冬平にだって同情の余地もなく。

「よし、漁木。こいつに下着握らせて通報しようか」

「そんなことするくらいなら殺すわ。丹澄くんを」

「オーケー落ち着け。今の案は却下な」

「わかればいいのよ、わかれば」

「代わりに去勢でもしてやるか」

「わかったわ。じゃあ脱いで、丹澄くん」

「さっきから俺にばっかり矛先を向けるのはなぜだ?」

 意図的に下着泥棒を意識から外したいのだろうか。気になったが、桶子は答えてくれなかった。

 ひょっとするとまだ緊張したままなのかもしれない。そう考えて、冬平はさっさと切り上げてしまうことに決めた。

「こいつはまだ何もしていないわけだから、今は見逃すしかないんだが漁木はそれでもいいか?」

「いいわけないでしょ。少しでも殺しておかないと気が済まないわ」

「俺だってタダで解放してやるつもりなんかねえよ」

「じゃあどうするの?」

「いつでも脅せるように写真に収めておく」

「たまに思うけど、丹澄くんの思考ってたまに犯罪チックよね」

「お前にだけは言われたかねえ」

 何なら桶子は行動まで犯罪的だ。さすがにそんな人間に恐れられるほどだなんて思いたくはなかった。

(……にしても、そうか、犯人は女か……)

 生徒手帳とセットにして下着泥棒の写真を撮りつつ、冬平は考える。

 年齢の上下は想定していたが、まさか性別を履き違えていただなんて思ってもみなかった。ともするとまだまだ意外な情報が掘り出せるかもしれない。

(……胃もたれしそうだ)

 この先に待っているものは、肩透かしなのかそれとも受け入れ難い異常性なのか。考えるだけで関わり合いたくなくなってくる。

 だが、やると言った以上は最後までやり切らねばならない。何より、途中で見捨ててしまうことは冬平自身が嫌だった。

(とにかく、これでかなり犯人像は絞れて来たわけだし、もう少しの辛抱だ。これが終われば漁木は普通の女子高生に元通りだ……!)

 ぐっと拳を握って、冬平は来るべき未来へと思いを馳せる。

 だが、冬平は知らない。

 この先に、さらなる試練が待っていることを。

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