#4-2 下着泥棒と宣戦布告
「ち、ちょっと、丹澄くん? どういうこと……?」
桶子は現実を受け入れられていないのか、はたまた現状を未だ理解できていないのか、恐る恐るといった様子で冬平に問いかけた。
ちょこんとシャツの裾をつままれた冬平は、真っ直ぐに六畳間の奥を睨んだまま。
「漁木。盗まれたまま戻って来ない下着の色を一つ言い当ててやろうか」
「えっと、丹澄くん? 年中下着のことばかり考えているとロクな人間になれないわよ?」
「お前は俺を何だと思ってんの?」
「変態。下着泥棒。お馬鹿さん」
「お前は俺を何だと思ってんの!?」
何もこの場で桶子を辱めようとしているんじゃない。むしろ、期待に応えて状況を説明しようとしているのだ。
冬平は嘆息すると、槝子を睨むのは一端やめて、これ以上ないほど真剣に桶子を見る。
「明るい桜色のローライズ。盗まれた記憶はないか?」
「……何で丹澄くんが知ってるのかわからないしここで頷いちゃったら頭の中で何をされるかわかったもんじゃないから絶対に肯定したりしないわよ私はそんなパンツ知らないわというか盗まれすぎてもう覚えてない」
「必死の否定ありがとう。正解だって言ってるようなもんだぜ、それ」
「~~~~~~~っ」
桶子は怒りで顔を真っ赤にした。まるで熟れたトマトのようである。
そして、例によってポケットからナイフを取り出すと。
「死ねぇーっ!」
「発言が物騒!」
「うるさい! 殺す! こんな公開処刑初めてだわッ! あんたを消さなきゃこの先もう生きていけないッッ!」
「待てって! わけを説明する! 話せばわかる!」
「わかる気がしないから今ここで葬るッ!」
「だから物騒! やめて!」
狭い玄関で掲げられたナイフを全力で抑え込みながら、冬平は涙ながらに懇願する。
手っ取り早く状況を把握させるにはこれが最適だと考えていた冬平は、解放されたい一心で早口に言う。
「今日の昼休みに槝子さんが落としたのを見たんだ。お前が昨日穿いていたもんだって言ってた。でもよく考えればおかしいじゃねえか、いくら姉妹って言ったって下着を返すのに袋にも入れないわけがねえ。そもそも、どうしてわざわざ学校で渡す必要がある? すぐに貸し借りできる距離にいるんなら家に渡しいに行くはずだよな?」
「だからお姉ちゃんが盗んだものだって言いたいの?」
「それも、つい最近な。ついでに言えば、昨日借りていたのはまた別の色だったんじゃねえか?」
「っ」
心当たりでもあったのか、桶子は目を見張った。
それから、咄嗟に槝子の方へ顔を向ける。まるで説明を求めるかのように。
槝子は小さく息を吐くと。
「桶子ちゃん、ちょっと外に出ててくれるかな。丹澄くんと二人でお話したくなっちゃった」
「え……? てことは、本当に……?」
目玉がこぼれ落ちるかと心配になるほど見開いて、桶子は聞き返す。『違う』と、その言葉を待っているかのように。
だが。
槝子は、柔らかく微笑むだけだった。
「……そ、そんな……うぅっ……」
「漁木……」
泣き崩れる桶子を前に、冬平は胸が張り裂けそうだった。
どうにかしてやりたいが、今この場で桶子に寄り添ってやれる人間なんていない。いるのは形だけの下着泥棒と、間接的な下着泥棒と、本物の下着泥棒だけなのだから。
真に桶子が安らげるようになるのは、ともすると保健室の桜狩先生に預けることが最善なのかもしれない。だが、送っている間に槝子が何をするとも限らない。
(すまん、漁木。今の俺じゃあ、お前に何もしてやれない……)
己の無力さを嘆きたい冬平だったが、そんなことをしても別に現状が好転するわけじゃない。
「悪い、外鹿。漁木を連れて少しだけ外にいてくれないか」
「私を信用するんですか?」
「お前が漁木に嫌われるような真似をするとは思えない」
「はぁ……。わかりました。これで貸し一つですからね。さぁ、行きましょう漁木先輩」
タダじゃ従ってくれないながらも、外鹿は指示通り桶子を連れてドアを閉めた。
そうして。冬平と槝子、二人だけの空間が出来上がる。
冬平は靴を脱いで上がると、槝子の正面に座った。
「で、話ってなんですか?」
「丹澄くんってさ、桶子ちゃんのこと好きだよね」
「……うぐっ」
「あははっ、隠すようなことじゃないよ」
透き通るような声で笑って、槝子は冬平の気持ちを肯定する。
(や、やり辛ぇ……)
すべてを見透かしたような態度を前にして、冬平は早くも切り上げたくなってきた。
「……で。それを確認してどうしたいんですか?」
「どうしたいって、提案だよ。ううん、交渉かな?」
「ほう?」
一体何に対するものなのか、冬平は先を促す。
すると、槝子は妖艶に微笑んだかと思うと、四つん這いでこちら側に回って来た。
何をされるのかと、冬平が息を飲んでいると、槝子は不意に身を寄せてきた。
「!?!?!?」
「大丈夫、怯えないでいいよ。別にとって食べようってわけじゃないの」
首に手を回され、左腿に片足を乗せられる。すると、途端にくらくらするほどの甘い芳香が鼻腔をくすぐった。
(耐えろ、耐えるんだ、俺……!)
なまじ桶子と顔が似ているだけに、意識せざるを得なかった。有り体に言えば、素数を数えても屈さずにいられるかわからなかった。
肩に顎を乗せるようにして抱きつかれているせいで、とろけそうなほど柔らかい感触が全身に襲い来る。うなじに、肩に、胸に、腿に、それぞれ別種のクッションが添えられ、理性は崩壊寸前にまで追いやられていた。まるで高級な布団でもかぶされているかのような心地良さだった。
体重を支える側でなかったならば、間違いなく本能的に手が動いている確信のある誘惑である。
「ねぇ、丹澄くん」
「ひぃ……」
耳元で囁く甘い声に、思わず変な声が洩れて出た。
こそばゆさも去ることながら、脳を揺さぶるほどの魅惑に溺れてしまいたくなる。耐えることがこれだけ苦しいのならば、いっそのこと身を委ねてしまうのも手ではないだろうか。
(い、いや、ダメだ。俺は槝子さんじゃなくて、漁木を助けてやりたいんだ。違う、この人じゃない)
辛うじて正気を保とうと試みる。
「一度しか言わないから、ちゃんと聞いてね?」
「はいっ! よろこんで!」
無理だった。もう何を言われようとも従えそうな気がした。というか、そんな心構えになった。
そうして。
槝子は、舌舐めずりの後、こう告げた。
「好きな時に好きなように私の身体を使わせてあげるから、見逃してくれないかなぁ?」
瞬間。
冬平は冷水でも浴びせられたような感覚に襲われた。
悶々と脳内を支配していたピンク色の欲望は激流に呑み込まれたように消え失せる。代わりに、クリアな思考が氷を溶かすが如く染み渡って行った。
混乱とほぼ同時に理解する。
――この人は、こういう解決法しか知らないんだ。
「……あぁ。わかったよ、槝子さん」
「そう? それじゃあ――」
「あんたがもう言葉じゃ止められないってことが、な」
「――え?」
話を先に進めようとした槝子は、冬平の言葉を聞いて固まった。
だが、冬平は気にも留めない。
「どいてくれ」
「え?」
「どけって言ったんだ、聞こえなかったのか?」
「……っ!」
遅れて怒りが込み上げてきた冬平は、気が付けば角の立つ言い方になっていた。もう槝子へ向ける敬意なんて一分たりとも残っていなかった。
(この人は手遅れだ、壊れちまってる。最悪殴ってでもしねえと恐らくは目を覚まさねえ)
その証拠がさっきの提案だ。
あんな提案を平然とできるだなんて、気が狂っているとしか思えない。しかも、桶子に慕われている姉だからこそ余計に素直に受け入れられなかった。懐かれるのには、それなりの理由があるはずだ。
それに何より、冬平は女の子がそんな簡単に純潔を捧げてしまうことが気に食わなかった。
(貞操は自己責任だなんて言われるが、好きでもない男に進んで捧げるのは倫理から外れたもんだ。しかもそれを交渉材料の一つとして扱うなんて正気の沙汰じゃない。どんな打算で生きて来てんだ……!)
有り得ない、と。
冬平は奥歯を噛みしめる。
「槝子さん、あんたの言い分はわかったよ。でもな、俺はそれを受け入れてはやらない。好きな時に目合ってやるから惚れた相手を見捨てろだと? 肉親だからって限度があんだろうがッ! 人を馬鹿にすんのも大概にしろよ……ッ!?」
「へえ? じゃあ、どうするの?」
「決まってんだろ。目を覚まさせてやる」
「ふーん?」
できるの? とでも言いたげに、槝子は挑発するような笑みを浮かべた。
だが、それも冬平には響かない。
「できるかできないかじゃないんだ。俺がやんなきゃいけないと思ったからやるんだよ。あんたがもう下着泥棒なんてする気も起きなくなるくらい、徹底的に嫌悪感を叩き込んでやる」
「ふ、ふふっ、あっはっはっはっは!」
槝子は唐突に腹を抱えて笑い始めた。
不快感と疑念に後押しされ、冬平は思わず問いかける。
「何が可笑しいんだよ?」
「ふふっ、あはは! 何がって、今度は私の下着をありったけ盗むつもりなんでしょっ? 馬鹿の一つ覚えみたいに!」
「あんたがそれですっぱり足を洗うってんなら、嘲笑われようとやってやるよ」
「ふふふっ、どうだろ~?」
涙が出るほど笑い転げて、槝子はなおも挑発する。
あくまでもやめるつもりはないらしい。その事実が余計に冬平の決意を強固なものとしたことに、当の本人は気が付かない。
程なくして、思う存分に笑い尽くしたのか、槝子は立ち上がった。部屋の隅に置いていたらしい通学鞄を手に取ると、軽い足取りで玄関の方へと向かって行く。
通り過ぎ様、ふとこんなことをこぼした。
「楽しみにしておくよ、丹澄くん」
「楽しみにしすぎて失神しないようにな」
「ふふんっ、それも含めてねっ♪」
以前ならばトキメいてしまっていたウィンクも、今ではすっかり苛立ちを助長させる一因だった。
決して長くない廊下をスキップで進む槝子は、最後にこちらに向けて手を振ると、ようやくドアを開けて部屋を出て行った。
と、そこで、目を真っ赤に腫らした桶子とぶつかりそうになる。
「お、お姉ちゃ――」
「桶子ちゃんもじゃーねーっ!」
桶子が声をかけようとするも、槝子はそれを遮る形で走り去ってしまう。
伸ばしかけた手は空を掴み、桶子は遠退く姉の背中を見つめ続ける。今生の別れというわけでもないのに、その姿はやけに孤独に見えた。
「あの~……」
と、そこで。
一瞬で蚊帳の外に追い出された外鹿が顔を覗かせる。
「私……お邪魔、ですかね……」
「お前まだいたのか」
「あなたが頼んだんでしょうが! 漁木先輩の傍にいてやれって!」
「そこまでは言ってねえよ。とっとと帰れ変態」
「んなっ!? ちょっとでも見直した私が愚かでした! 本当に貸しにしてやりますからね!? ふんっ!」
直前のしおらしさはどこへやら、外鹿は肩を怒らせて帰って行った。
そうして、ついには冬平と桶子の二人だけになってしまった。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が二人を包む。
何か言わなければ、と冬平は悩むも、今かけられるような気の利いた言葉が浮かばない。
そもそも、この状況を作ってしまったのは冬平だ。犯人を暴くだけなら別に桶子の目の前でやる必要はなかったと、今更になって臍を噬む。
だが、やってしまったことは仕方がない。すぐに前しか見えなくなるのは悪い癖だった。
「あー……」
それでも何か声をかけようと、口を開けてはすぐに閉じてを繰り返す。
なんて情けないんだろう。好きだと言っておきながらひどい仕打ちを与えて、あまつさえアフターケアもできないだなんて。
「……悪い。俺も帰るわ」
今はせいぜいこのくらいしかできなかった。
鞄を掴んで、玄関に立ち尽くしたままの桶子の横を通過する。
――だが。
ドアノブに伸ばした手が、不意に握られる。
「……ごめんなさい、しばらく近くにいて……」
「お、おう」
初めて聞いた桶子の弱音に、冬平はつい動じないフリをしてしまう。
だが、そこは丹澄冬平。きちんと内心では場違いにもドギマギしてしまっていた。
(えっ、な、何だ!? 人肌恋しいとかいうやつか!?)
それだと桶子が好意を寄せてきていることになってしまうのだが、動揺している冬平はその間違いに気付くことができない。
代わりに、動揺を悟られないためにしばらくの定義を探ろうと考える。槝子の時と打って変わって冷静でいられるのは、ひとえに桶子の前で格好つけたい自分がいるからなのだろう。
と、そんな風に考えていると。
不意に、桶子が寄りかかってきた。
「お、おーい。平気か? 寝るか? いや、俺とってことじゃなくてな? って、何言ってんだろ俺。ははは」
「…………」
「無視かよ! 恥ずかしいからなんか言ってくれよ!」
柄にもなく和ませようとしたのが失敗だったのか、桶子はウンともスンとも言わなかった。
(や、やり辛ぇ……)
別種のものとは言え、姉妹揃って同じ感想を抱かせるとはなかなかの手強さである。
「……ちょっとだけ、聞いて」
あまりの気まずさに冬平が辟易していると、桶子が小さな声で切り出した。
拒む理由もないので冬平は静かに耳を傾ける。
「下着泥棒のこと、何度かお姉ちゃんに相談してたのよ。だから、今回のショックは、たぶん丹澄くんが思ってるよりずっと重いわ。一緒に対策を考えてくれたり、玄関に吊されてくれたり、お気に入りを盗まれた時は泊まってってくれたりしたあの優しいお姉ちゃんは仮初めだったんだって思ったら、なんか……すべてのことがどうでも良くなってきちゃった。私の世界って、ひどくあっけなく壊れちゃう程度のものだったのね」
「…………」
その痛みは、冬平にはとてもじゃないが想像できなかった。
一年半もの間ずっと支えていてくれた人が、実は空っぽの言葉しか吐いてくれていなかった。その事実はどれだけ深い絶望を与えたことだろう。いっそのことこれがトラウマとなって桶子は一生誰も信用できなくなってしまうかもしれない。
(漁木は笑ったらすげえ綺麗なんだ。口を開けば毒ばかりでも、発想は極端でも、本当は優しい心を持ってんだ。それを誰も知らないままなんて、勿体ないじゃねえか)
そう考えると、再び槝子への怒りが湧いてくる。彼女はどれだけ桶子を苦しめれば気が済むのだろう。
「ねぇ、丹澄くん。丹澄冬平くん」
「なんだ?」
桶子に下の名前を呼ばれるのは何回目だろうか。まだ数えるほどしかされていないが、耐え難い歯痒さがある。
身悶えしてしまわないように冬平が必死で煩悩を抑え込んでいると、桶子は次の言葉を口にした。
「お願い。お姉ちゃんを懲らしめてあげて」
正直、桶子の口からこんな頼みを聞けるとは思っていなかった。
桶子は姉である槝子のことを慕っていた。冬平が現実を突きつけても、槝子が認めるまで信じようとしなかったくらいだ。そんな桶子が「懲らしめてあげて」と頼んできた。
(あぁ、やっぱり漁木は優しい女の子だ)
思わず笑みがこぼれる。
裏切られて、苦しめられて、傷つけられても、それでもなお姉のことを救おうとしている。そんな桶子を見ていたら、断る理由なんてないじゃないか。
だから、冬平は頷く。
「あぁ、任せろ。足腰立たないくらいに震え上がらせてやるよ」
「ふふっ、何それ。やっぱり丹澄くんって可笑しな人よね」
桶子はぷっと噴き出した。それは奇しくも初めて話したあの日と同じ感想だった。
桶子に言われると、なんだか悪い気はしない。嘲笑っているような嫌味がないからだろう。
(関わるようになって、新しい側面を見た今でもわかる。俺は漁木のことが好きだ。たぶん、この先ずっとこの気持ちは変わらねえ気がする)
確信めいた何かを以て、冬平は顔を綻ばせる。
それから、ようやく切り出した。
「この件が解決したら、伝えたいことがある。聞いてくれるか?」
「なんか、離れ離れになっちゃうみたいね、私たち」
「実際似たようなもんだろ。俺は漁木と話せる日が来るなんて思ってなかったからな」
「……そう」
寂しそうな、それでいてどこか嬉しそうな、そんな声で相槌を打つ桶子。
きゅっ、と袖を強く握る仕草から、ただならぬ決意を感じた。
「じゃあ……私も、伝えることにするわ。今まで隠してたこと、全部」
「そうか。そりゃ良かった」
そこまでして、ようやくお互いただのクラスメイトとして接することができるのだろう。
長すぎる回り道をしてしまったが、こういった機会でもないと恐らく関わることなんてできなかった。というか、しようとも思わなかったはずだ。
(あぁ、最初は眺めてるだけで良いと思ってた。だが、一度こうして関わっちまったら、もうそれだけじゃ満足できなくなっちまった)
我ながら欲張りになったなぁ、と煩悩に呆れ果てるのだった。
それから冬平は、桶子の気が済むまで傍にいてやった。
何分か、何十分か、何時間か、どれだけ寄り添っていたのかわからない。そんなことがどうでもよくなるくらい幸せな時間だった。
そうして、帰り際になって。
冬平は、何食わぬ顔でこう告げるのだった。
「あぁ、一つだけ言い忘れてた。漁木にも若干被害が出るかもしれねえけど、そこは見逃してくれよ?」
「…………………………………………………………え?」
桶子の短い声は、風に溶けて消えていった。




