#3-2 下着泥棒と黒い煩悩
「お互いに良い話、ですか……?」
そんなものがあるわけがない、と備香は訝る。
一方的に良い話はどうとでも作り出せるが、備香と槝子の両者が納得できるような甘い話があるものか。それだけのことをしている自覚は備香にだってある。
だが、槝子は不敵な笑みを浮かべ続けていた。
「そう、私と外鹿ちゃん、両方にとってプラスになる素敵な交渉だよ。聞いてみたいよね?」
「拒否権は……なさそうですね」
「当然でしょう、外鹿さん。生徒会長を、何と心得ますか」
槝子の口振りから、比塩の刺すような視線から、備香は逃げ道がないことを確信した。
プリクラ機に背を預けて、緊張を抜くように長い息を吐く。
「わかりました。でも、あの二人を追いかけながらですからね。そうじゃないなら私は応じられませんよ」
「うんうん。そのおっきな態度、嫌いじゃないよ~」
あくまでもニコニコと笑顔で対応する槝子に薄ら寒さを感じながら、備香は二人を伴って出口へ向かう桶子たちを追った。
※
「そ、それで、丹澄くん。こ、ここ、こんなとこっ、ところでやるのっ?」
ゲームセンターを出て、開けた場所に移動した直後、桶子は真っ青な顔で問いかけた。
そこは、大陸橋の上に位置する駅前の大通りだった。
特に学校帰りの生徒が多く見られる。時間帯のせいか年齢層は幅広く、多種多様な視線が間断なく注がれていた。
季節のおかげでまだ陽は高く、桶子には身を隠せてしまえるような場所がない。
「み、みんな見てるわ!」
「どこに外鹿がいるかわかんねえんだし、注目されなきゃ意味ないだろ?」
「そ、そうだけど……」
もじもじと、桶子は両の指を突き合わせる。
何かを渋るような様子に、冬平は首を傾げた。
(確かに恥ずかしい行為ではあるが、さっきからなんか様子が変じゃねえか?)
お姫様だっこをすでに経験しているのだから、今更何も臆することなんてない。冬平がやろうとしていることはそれだけ簡単なことだ。
カップルなら誰でもやっているだろうし、恋仲でなくとも仲が良ければする。そういう平々凡々な行為だ。だから冬平は必要以上に照れずにいられるのである。
だと言うのに、桶子は眉間に皺を寄せ、覚悟を内に秘めたような強い眼差しになっていた。
「ううん。いつまでもうじうじしていられないものね。や、やるわよっ」
「なぁ、本当に嫌じゃないのか? 無理してねえか?」
「してな、っいわ! だ、断じて!」
「変なところで噛んだな」
どう見ても無理しているようにしか見えない。これで緊張してないと言い張る方が無理だ。
表情は強張り、頬はリンゴのように赤く、身体は絶えず震えている。こんな桶子を相手に、冬平は作戦のためとは言え無理強いすることなんてできなかった。
「漁木。良いんだな? このまま始めるぞ?」
「だ、大丈夫、だから。一思いに済ませて……?」
「お、おう」
何を一思いに済ませろと言うのか、桶子は濡れた瞳で上目遣いになっていた。
それから、何を思ってか。
不意に、顎を軽く上げると、そのまますっと目を瞑ってしまった。
「漁木……?」
何かを待ち構えるかのような動作に、冬平はたじろいだ。
この構えは、記憶違いでなければ――
(き、キス待ち顔だ……っ!?)
姫は接吻をご所望だー! と、冬平の脳内で慌ただしく煩悩が駆け巡る。
(こ、これは、何だ!? いいってことか!? なんで急に!? てか可愛い!)
唇を若干前に突き出したまま僅かに震えている桶子を前に、冬平は答えを出せず頭を抱えた。
正直、できることならこのまま欲望の赴くままに動いてしまいたい。だが、桶子は勘違いの末にこの行動を取っているのであって、何も心の底から望んで求めて来ているわけではないのだ。
(い、いや、そうだ。漁木は勘違いをしているだけ。ここで俺がしちまったら、それは騙すのと同じだ!)
それだけはできねえ、と冬平は邪念を振り払う。
そして、そうと決まれば、本来やる予定だった方を優先するまでだ。
ゴクリ、と冬平は息を飲む。
それに合わせて、桶子がピクリと震えた。
「やるぞ、漁木」
「…………っ」
冬平の合図に、桶子は一際強く目を瞑りながらコクコクと頷いた。
桶子が心の準備を済ませていることを確認し、冬平が次に取った行動は――
――手を繋ぐことだった。
「……へっ?」
ぱちくりと瞬きを繰り返して呆気に取られる桶子。
やはり何かを誤認していたようで、繋がれている手と冬平の顔を交互に見遣る。
「えっと、だな。カップルって言やぁ、まず手を繋ぐもんなんじゃねえのかと……」
「え?」
敢えて誤解していたことを知らなかったことにして、冬平は現状の説明を試みた。
だが、首を傾げる桶子の瞳には光がなく、いっそ「どうしてこの程度で踏み止まっているの?」とでも問いかけてきそうな色を湛えていた。
そして。
「ふふっ、うふふっ、ふへへへへっ」
「……あ、漁木さん?」
不気味な笑い声を上げ、桶子は肩をケタケタと震わせる。その異様さに、冬平は思わず握っていた手を放してしまっていた。
やがて腹を抱えてまで笑い始め、壊れたようにふらふらとたたらを踏んでいたかと思うと。
次の瞬間。
ぺたりと、地面にへたり込んだ。
「お、おい、漁木!?」
「……モウヤダ」
「え?」
ついには真っ赤になった顔を両手で覆ってしまった桶子は、か細い声で嘆いた。
己に失望するかのように、恥じ入るかのように、頬に一筋の涙が伝う。
「空回りばっかり。どうしてこう上手くいかないの。下着は盗まれるし、丹澄くんには変な子だと思われるし、穿いてない疑惑までかけられちゃったし、短絡的だし、素直になれないし……。もう、何なの……」
冬平は何も言えなかった。
大部分が桶子の自業自得だったこともそうだが、何より驚いたことは彼女がそこまで思い詰めていたことだった。いつも堂々としていたものだから、つい何も堪えていないのだと思い込んでいた。
そんなわけないじゃないか、と冬平は考え直す。
(そうだよ。通り魔になったのだって、元を辿れば下着泥棒の被害に耐えかねたせいじゃねえか。漁木の心が強いだなんて、見当違いもいいところだ)
桶子は弱い女の子だ。
だからこそ、助けてあげたいと思ったのだ。
(人って漢字はお互い支え合っているって言うしな。あぁ、もっと寄り添ってやるべきだったんだ。なんでこんな簡単なこともわかんなかったんだろうな)
不甲斐ない自分へと、失望の溜め息をつく。
それから、嗚咽を洩らす桶子に、冬平は手を差し伸べた。
「これからはどうかわかんねえけど、とりあえず今に限って言えば、漁木一人だけが頑張る必要なんてねえだろ」
「…………」
「んだよ、その顔」
ポカンと口を開けて、桶子は信じられないものでも見るような顔をしていた。
せっかくフォローしてやろうってのに、と文句をつい口にしそうになりながらも、冬平はすんでのところで飲み込んで。
「いいから、とにかく立てよ。もう少しで終わるじゃねえか。それまではもうちょい踏ん張ろうぜ?」
「……ずずっ」
「はしたねえな……」
呆然と洟を啜る桶子に、冬平は呆れる。
これが素なのか、桶子はやたらと素直に冬平の手を握り返すと、よろよろと力なく立ち上がった。手の甲で目元を拭い、近くで配布されていたポケットティッシュで鼻をかむ。
それからは、まるでダメな部分をすべて排出してしまったかのように、普段と同じような凛々しい顔つきに戻っていた。
だが、それも一瞬のことで、すぐに暗い顔で俯いてしまう。
「お姉ちゃんなら、もっと上手くやれるのにね」
「お前は槝子さんじゃない。漁木は、漁木だ」
「……お姉ちゃんだって漁木じゃない」
「うん? あぁ、それもそうだな。お前はお前だ」
頷くも、桶子は不満そうに睨むだけだった。
意図がわからず首を傾げる冬平だが、桶子は口の中で何かを言うだけでそれ以上の言及はしなかった。
「私ね、お姉ちゃんが好きなの」
「……?」
不意の独白に、冬平は怪訝な顔をする。
けれど、桶子は気にせず続けた。
「お姉ちゃんはすごいのよ? 美人だし、頭は良いし、何でもそつなくこなせるし、非の打ち所がないの。よく『お姉さんに似てるね』って言われるけど、全然違う。私なんかとは似ても似つかないくらい何だってできちゃう。本当に憧れの存在なのよ」
下着泥棒対策のために玄関前に吊していたとは思えないほどの褒め具合だった。
どうして突然こんなことを打ち明けるのか、その答えが出ないまま、桶子は次々と言葉を紡いでいく。
「そんなお姉ちゃんに私もなりたくて、昔は足掻いてたんだけど……そもそも出来が違ったのよね。お姉ちゃんが一努力すればできることが、私には一〇努力しても届かないの。みんなは『槝子ちゃんがすごいだけだよ』なんて言うんだけど、私からしてみれば基準がお姉ちゃんだったから、どうしても自分が下に見えちゃって」
「漁木……」
「ううん。いいのよ、丹澄くん。これは頑張ろうって話」
吹っ切れたような笑顔で、桶子は言った。
あのね、と続ける。
「不器用な男の子がいたの。口調は荒いし、言動はどこかズレてるし、あまり人には好かれないタイプの人」
「ほう」
自分とはまったく違うタイプだなぁ、と思いつつ、冬平は短く相槌を打つ。
桶子はふっと微笑んで。
「でもね、その人はどこまでも真っ直ぐで、一生懸命だった。何をするにも真剣で、誰と接するにも真面目で、悪く言えば頭は固いんだけど、なぜか私はその人を見ているだけで元気を貰えた」
槝子について語っていた時とはまた違う、愛おしい者でも想うかのような表情に、冬平は胸がチクリと痛むようだった。
(俺は、そこまで頑張れた試しがねえ……)
自分のことではないと、そう思えるが故に。
冬平は、どうしようもない敗北感に襲われた。
それでも、桶子は語る。尚も嬉しそうに。
「才能が無くたって、要領が良くなくたって、格好悪くたって、何もしないよりはマシなんだなぁって教えてもらった。義を見てせざるは勇なきなりって、本当のことだったみたい。この程度で落ち込んでるようじゃ、その人に笑われちゃうわよね」
「……そうだな」
「どうして丹澄くんが悲しそうなのよ。ほら、まだ出来ることはたくさんあるはずよ。いっそ外鹿さんのことなんて忘れるくらい遊びましょう?」
今度は照れることなく自然に手を握ると、桶子は駅を後にした。
引っ張られるままの冬平は、その手の柔らかさを堪能することもなく、勢いに圧されて付いて行くのが精一杯だった。
だから。
「また助けられちゃったわね」
という、桶子の楽しそうな呟きが、耳に届くことはなかった。
※
「「うらやましいッ!」」
陰ながら覗いていた備香と槝子は、声を揃えて羨んだ。
二人して爪を噛み、強く強く手近な電柱を握り締める様子に、付き合わされているだけの比塩は深い溜め息をつく。
「お二方。目的を、お忘れ無きよう」
「はっ!? そうだった!」
冷静な指摘に、槝子は我に返った。
桶子たちの行動に合わせて移動しながら、神妙に話を再開させる。
「で、話だけどね。単刀直入に言うと、私は外鹿ちゃんが日夜何をしているのかを知っているよ」
「…………ッ!」
宣言通り前置きなしに差し込まれた本題に、桶子の観察を続けたまま、備香は肩を震わせた。
同じく桶子たちに目を向けたまま、槝子はさらに重ねて告げる。
「でもって、私はそれをあまり咎めるつもりはないの。今日はね、外鹿ちゃんも桶子ちゃんも、ついでに私も、全員分のしがらみを解放してあげるつもりでここに来たんだ」
「……何ですって?」
「だから、しがらみだよ。外鹿ちゃんで言えばその性癖だね。理性が働くからこそ止められない、そんな救いようのない醜い性から解放してあげる」
「なぜ、それを……」
備香は戦慄した。
洞察力なのか、情報収集能力なのか。とにかく槝子はすべての外堀を埋め終えているようだった。誰にも打ち明けたことのない趣味のことを、どうしてこの女は知っているのだろう。
槝子は笑む。悪質に笑む。
「私はね、桶子ちゃんが好きなの」
「……?」
不意の独白に、備香は怪訝な顔をする。
けれど、槝子は気にせず続けた。
「桶子ちゃんは可愛いの。不器用で、素直じゃなくて、何をするにもまごついて。そのくせ私と並ぼうと努力を怠らないの。そのダメダメ加減を見て、『あぁ、この子は私がいないといけないんだなぁ』なんて思えてきちゃって、どうしようもなく甘やかしてあげたくなるんだ」
「それが、何だってんですか」
「これ以上、私の桶子ちゃんにちょっかい出すのはやめてくれない?」
笑顔で、声も弾んでいた。けれど、そのひと言には有無を言わさない圧力があった。
備香は、気が付けば声が出なかった。
「ねぇ、外鹿ちゃん。わかるでしょ?」
「……な、にが……ですか……」
「そんな震えた声をしないで。私は別に脅しに来てるわけじゃないんだから。言ったでしょ、これは外鹿ちゃんにとっても良い話だよ」
とてもそうは思えなかった。
ここからどんな条件を出せば好都合な話に捻じ曲げられるのだろうか。少なくとも、備香本人としては、どんな提案をされても覆る気がしなかった。
そんな中、槝子は一層美しく微笑むと。
さらに重ねて、こう告げた。
「認めて、外鹿ちゃん」
言い方はいたって普通。
どころか、頼み込むかのような調子だった。
だが、備香はそれをどうしても肯定的に受け取ることができずにいた。
(これは立派な脅迫だ……。両方に都合の良い話だなんて、そんなのこれを提案するためだけの罠だったんだ!)
すべては逃がさず話を聞かせるため。家族に手を出された恨みを、惜しげもなく吐き出すための布石に過ぎなかったのだ。
してやれらた。完全に弄ばれた。
そう実感しても時すでに遅く、備香はもう槝子の手中に収まってしまっていた。
……と、そんな時だった。
「会長。差し出がましいことを、具申するようで、大変申し訳ないのですが。相手に条件を呑ませるためには、まず、自分から、相手にとって都合の良い条件を、明確に提示しておくべきかと存じます」
「あっ! そっかそっかぁ。それもそうだよね。このままじゃ外鹿ちゃんを脅してるみたいだもんね」
「……? ……?」
比塩の横槍に、備香は目を白黒させる。
この状況で、まだこちらに益のある話を広げられると言うのか。完全にチェックメイトまで追いやられていると確信していた備香は、上手く話に追いつくことができずにいた。
対して、槝子は。
いともあっさりと、自分にとって不都合すぎるカードを切ってみせた。
つまるところ。
「もしも外鹿ちゃんがすべてを認めるのなら、私を好きにさせてあげるよ」
こんな有り得ない条件を、表情一つ乱さずに、冷静に提示してみせたのだった。
狂っているとしか思えない交渉に、しかし外鹿は。
(なるほど、そう来たか)
面白いことを言う、と。
お互いに良い条件どころか、両方とも破滅しかねない最悪の交渉をした槝子を、欠片も見下すことをせず。
むしろ敬意を表するかのように、覆った展開を前にして酷薄に口の端を吊り上げるのだった。




