#0-1 下着泥棒の長いプロローグ・前編
夏休みも間近に迫った、七月三週目のことだった。
「う、うわぁあああああああああ!?」
スーツ姿の男が叫び声を上げる中、丹澄冬平は見た。
つい一時間ほど前に犯した罪について、自分の愚かさを呪いながら、ブルーのナップザックを力なく背負って商店街へ繰り出したあたりのことだ。
ナップザックの中にある物品の持ち主――同じクラスの漁木桶子の姿が、雑踏に紛れ込んでいるところを目撃した。
身が竦んだような、それでいて早期に発見できて安堵しているような、曖昧で重たい気分に襲われる。
桶子は、澄んだ青空の似合う少女だった。
光をも吸い込まんばかりの黒い長髪、それでいて、肌は雲のように淡い白。目は吊り気味で、鼻筋は通っていて、全体的に端整な顔立ちをしていた。
息を呑むほど姿勢が良く、吸い込まれるほど儚い美貌に、クラスメイトたちは口を揃えて深窓の令嬢と銘打った。無論、冬平だって例に漏れず賛美した。どころか、それ以上の感情すら抱いていた。
そんな桶子が、事もあろうにツインテールとゴスロリでキメにキメて、ネオンに彩られた黄昏の商店街をまるで隙間を縫うように歩いていたのだ!
(いや、そこじゃねえ! そんなちっぽけなことはどうでもいい!)
ミステリアスのイメージを裏切って、新たな一面を見せてくれた桶子を思わず拝みそうになりながらも、冬平は全力で邪念を振り払った。
涼しい顔で人混みを進んでいく桶子の、たった一〇秒未満以前の行動を遡る。
男が叫び声を上げる僅か五秒前。
両手にビニール製の透明な手袋を嵌め、左手はひらひらした袖の中に、右手では鈍い金属光沢を持ったバタフライナイフを回して弄びながら、冬平以外の誰の目にも留まらずに、まるでスキップでもするような軽い足取りで突き進む。
そして、歩きタバコと歩きスマホを同時並行する男とすれ違ったその瞬間のことだった。
それまでバタフライナイフを弄んでいた手をようやく止めたかと思うと、目にも止まらぬ速さで男の右親指を切り落としたのだ。
あまつさえ、その勢いのままナイフを左手に持ち替えた桶子は、男の親指を相手が気付くよりも前に空中で掴み取ると、ビニール製の手袋を裏返すように外す際に巻き込んで包み、そのままポケットの中に仕舞い込んだのだった。
ナイフも同様に左側のポケットに仕舞うと、桶子は何事もなかったかのように歩き去り、直後。
「う、うわぁあああああああああ!?」
タバコを吸おうと右手を持ち上げた男は、己の手の変わり様に目を剥いた。
冬平はこれでも常識人のつもりだ。右手に持ったナップザックの中身を見られてしまえばそれまでだが、とにかく元来は常識を貴ぶ善良な市民であった。
だから、あんな光景を目にして、無視をする選択肢など存在しなかった。
(漁木、お前は何を抱えている……?)
去来する不安を抑え込みながら、冬平は桶子の背中を追った。自分の真横で血を流している男には目もくれず、同級生の足取りを追った。
それから一時間ほど歩き続けて、桶子はとある公園で足を止めた。
住宅街の隅に設えられた、ブランコと砂場しかない小さな名も無き公園だった。近隣住民に気を遣ってか、外灯は恐ろしいほど数が少なく、桶子の『黒さ』も相俟って、冬平の視界では彼女を朧気にしか捉えられていなかった。
ほぼ月明かりのみに照らされる中、桶子はスーツの男から採取(?)した右手の親指を取り出すと、ビニール製の手袋から出しながら月に掲げた。
「ふふっ……」
未だ完全には血が乾ききっていない形の良い親指を見つめながら、月明かりを受ける桶子は紛れもなく微笑んでいた。
その笑顔の意味を、冬平は知らない。
優越感にも見えるし、恍惚感にも思えた。
けれど、そんな小さな答えを冬平が見つけるよりも先に、桶子は自由気ままに動いていた。
「じゅるっ……」
残り微かな水分をストローで吸い上げたような異音に、冬平は違和感を覚えた。
「じゅるるっ、ずずっ……ずっ、んっ、ちゅるっ……」
「あ……?」
断続的に続く吸飲音に、冬平の疑問はやがて確信へと移行する。
(まさか……飲んでいる、のか……?)
切り取った親指の切り口部分を唇に当て、夜空を見上げる桶子のシルエットに、冬平は思わず生唾を飲み込んだ。
美しいクラスメイトが、通りすがりの男の親指を切り取り、持ち帰り、そして血を啜っている。そんな光景を、冬平はあろうことか妖艶だと感じてしまっていた。吸血鬼は外見だけで人間を魅了すると聞いたことがあるが、まさか今がそうなんだろうか。
「ぷはっ……。あむっ」
「…………っ」
頬を上気させているようにさえ見える桶子は、吸血に飽いたのか、今度は肉にかぶりついた。
にちゃ、ぬちゃ、ぴちゅ、と反響する異質な音に、冬平は気が付けば足が竦んで物陰から動くことができなくなっていた。
(な、何なんだ! 何がどうなってんだよ!)
目の前の光景を、脳が現実として受け入れることを拒んでいた。その弊害か、全身の震えが止まらない。
(こ、こんな時って、何するんだっけ? き、救急車か……? と、とに、とにかく、通報か!?)
どこにでもいい。この状況さえ伝えられれば。
そんな気持ちで、冬平はポケットからスマホを取り出して、ホーム画面を呼び出した。パスワード入力画面に見える『緊急通話』の文字列を無視して律儀にパスコードを打ち込んでいく。指が震えるせいか、たった四桁の数字を二度も打ち間違えてしまった。
そうして、三度目にしてようやく正しいパスワードを入力した冬平は、そこではたと気が付いた。
「……っ!?」
一七年の短い人生の中で未だ感じたことのない、質量を持った視線。射抜くような、射竦めるような、そんな死を乗せた気配。
桶子の瞳が。
冬平の姿を捉えていた。
ちくしょう! と、冬平は心の中で舌打ちした。
直後、桶子へ釘付けにさせられていた視線を外し、咄嗟に踵を返して駆け出していた。
スマホをポケットに戻し、ナップザックを肩に背負い直すと、脇目も振らずに全力で住宅街を駆け抜ける。電話の片手間でやってはいけない部類の逃亡な気がした。
幸い、冬平は足には自信があった。それも、逃げ足という誇れない部分で、だ。とは言え、父親に幼少の頃から仕込まれた逃走術は、コンクリートジャングルで真価が発揮されるものであって、一軒家が並ぶ住宅街で乱用できるものではない。
それでも、ただの徒競走で、しかも相手は地面に引きずりそうなひらひらしたワンピース。男女差もある。足は彼女の方がスラリと長い印象はあるが、追いつかれる可能性は万に一つもないだろう。
そんな風に、気を抜いた瞬間だった。
右に曲がろうと、冬平が顔を向けた直後。
目の前で、無骨な刃が閃いた。
「……なっ、」
一瞬、息が詰まる。
思わず立ち止まった冬平の鼻先を刃の腹が撫でた。男の指を切り落としたバタフライナイフとは違う形状のナイフだった。冬平は刃物の種類には明るくないので、漫画にちゃんと名前が出てこないナイフの呼び方など知らない。
弾かれたように振り返ると、たった五メートル先に、桶子が笑顔で佇んでいた。
(……同い年の女子とは思えねえな)
肩を揺らす狂気じみた微笑に、異様な足の速さ、ついでにナイフの投擲力。冬平が逆方向に曲がろうとすると、今度は前髪がコンマ数ミリ刈り取られた。
徐々に迫り来る桶子に、冬平は背を向けて真っ直ぐ駆けるしかなかった。あからさまな誘導だが、足掻こうとする努力も虚しく、冬平はいとも容易く袋小路に追い詰められてしまう。
目の前には、白塗りのコンクリート壁。さすがに三メートル近くもあっては、駆け登るには高すぎる。表面が滑らかなあたりも痛い。
もはやここまでか。諦めた冬平が後ろを振り向くと、桶子はもう目と鼻の先に立っていた。
……肩で息をしながら。
「ぜぇっ……はぁっ……な、なんでそんなに速いのよ……」
「そりゃ、こっちの台詞なんだがなぁ……」
独り言のような文句に、冬平は意外にも呆れながら返していた。
諦念からか、それとも桶子が思っていたよりも人間のままだったからか、冬平の精神はさっきとは打って変わって平静を取り戻し始めていた。
「に、丹澄くん、っよね?」
「お、おう」
名前を覚えられていた。それだけで、冬平の心臓は簡単に跳ねた。動悸が徐々に激しくなる。
密かに想いを寄せていた相手との会話に舞い上がりそうになりながら、桶子のした行為を思い出して踏み止まる。
「丹澄くん、どうしてここにいッ、げほッ、ごほッ」
まだ息が上がったままなのか、何かを問いかけようとした桶子は、不意に咳き込んだ。
「あんなもん食うから……」
「あんたの足が速いせいだから! 柄にもなく全力出しちゃったの!」
冬平の冷静(?)な分析(?)に、桶子は秒と経たずに訂正した。
それから桶子は、か細い呼吸を繰り返しながら息を整えると、最後に「ふぅ」と婀娜っぽい吐息を漏らして冬平に向き直った。
「丹澄くん。丹澄冬平くん。どうして見ていたの? どうしてわかったの?」
「簡単なことだ。お前から視線が外せなかったんだよ」
冬平は、壊滅的に言葉選びが下手だった。
案の定、えっと短い声を上げると、桶子は自分の肩を抱いて冬平から距離を取る。
「うわ、まさかストーカーの正体が丹澄くんだったなんて……正直、引いた。毎日毎日、今年の五月半ば頃から私の靴箱に新聞の文字を切り取って作った気味の悪いラブレターを投函していたのはあんただったわけね」
「生々しい捏造してんじゃねえ」
「じゃあ、何? 下着泥棒? とうとう本人から直接新鮮なパンツを盗むつもりなの?」
「うっ……」
とある単語に、冬平は呻いた。
自分の背負っていたナップザックを、つい桶子から隠すように背負い直してしまう。
「丹澄くん、まさかその袋って」
「い、いや、違う! 俺は盗んだわけじゃねえ!」
「…………」
「しまった!」
言葉選びが下手なだけでなく、冬平は嘘まで下手だった。
自分で蒔いた種に勝手に足下を掬われた冬平に、桶子は一切の容赦をする気がないらしい。わざとらしく肩を抱いていた手を解くと、ワンピースのポケットから男の親指を切り落としたバタフライナイフを取り出して焦らすように展開した。
バタフライナイフとは、持ち手の部分が二股に分かれており、その内部に刃部分を収納することができる携帯には打ってつけのナイフだ。だが、その構造上、実はあまり殺傷能力がない。人間の親指をたったの一振りで正確に切り落とすなど不可能で、ものによっては『鉛筆を削ることですら苦労する』とまで言われるほどなのだから。
故に、そんな獲物で本人の反応が遅れるほど綺麗に親指を切り取った桶子は、相当の手練れと言えるだろう。弘法筆を選ばずという言葉があるように、漁木桶子もまたナイフの善し悪しを選ばないのかもしれない。
「ま、待て、漁木! 話し合おう!」
「嫌よ。一年半も私の下着を健気に盗み続けておいて、ずっとクラスメイト面をしていたような人間の言葉を、そう易々と信じるわけないでしょ?」
「だから、それが誤解なんだ!」
「誤解? 誤解と言ったのね? あくまでもシラを切るというのなら、私もあんたの何かしらを切り落とすまでよ」
「巧くねえ、全っ然巧くねえから。ドヤ顔してないで早くその物騒なもんを仕舞ってくれ」
「ここで終うのはあんたの人生だと思うの」
「ナイフを収めてくれって言ってるんだ」
「ワイフを諫めてくれ?」
「ちくしょう! とうとう日本語も理解してくれなくなっちまった!」
端から聞く耳を持たない桶子に、冬平は頭を抱えた。
そんなやり取りをしている間にも、桶子は順調に歩を進めてくる。それに伴って一歩ずつ後退する冬平は、ついに壁に阻まれてしまう。
(こうなったらもう、強引に弁解に持ち込むしかねえ!)
冬平は意気込むと、ナップザックに手を入れた。余談だが、布よりはレースの感触が多めである。さらさらしていて気持ちが良かった。
そして、一枚だけ掴み取って突き出すと。
次の瞬間、こんな言葉を口にした。
「下着を返して欲しければ、まずはそのナイフを仕舞え!」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
両者の間に、長い長い沈黙が降りる。
冬平は、何かを決定的に間違えたような気がしてならなかった。もっとも、その答えが出るには相当な時間がかかりそうだが。
冬平は下着(黒い)を掲げたまま冷や汗を滝のように流し、桶子はナイフを構えたまま黙りこくる。
そして。
先に動いたのは、桶子の方だった。
依然ナイフを冬平に向けたまま、右手で左の袖をまさぐると、中から長方形の何かを取り出した。側面を親指で押し込むと、長方形の一面が目映い輝きを放つ。
(スマホだと?)
冬平は怪訝な顔をする。
だが、無言でスマホを構える桶子が意に介す様子はない。
直後、パシャッ、とシャッター音が鳴った。自動で焚かれたフラッシュを前に、冬平は一瞬目を細める。
「ええっと……速報、丹澄くんが、私の下着を……」
「まさか……! ツ○ッターか!?」
冬平は戦慄する。そんなえげつない手段を即座に考えついた、漁木桶子というクラスメイトの頭脳に。そして、さっきから若干感じてはいたが、なんだか想像していた『深窓の令嬢』という印象との誤差に。
けれど、桶子はかぶりを振った。
「ううん、ラ○ン。これからグループでクラスメイトに報告してしまうの。明日から丹澄くんがどう扱われるのか楽しみだなぁ、わくわく。かっこぼうよみ」
「○イン、だと……!?」
冬平は新たな戦慄に見舞われた。
○イッターと違って限りなく小規模なものではあるが、それだけに個人情報は筒抜けだ。加えて、桶子が発信しようとした先は冬平を含めたクラスメイト三十九人。赤の他人が下着泥棒を働いた場合とは冗談の質が違う。
「考え直せ! 漁木の下着まで拡散されることになるんだぞ!? それで幸せになるのはお前じゃなく下着を見れた男たちだ!」
「……さすが、すでに私の下着で幸せになった変態の言葉は重みが違うわね……」
「待て。匂いを嗅いでいないから俺はまだ変態じゃない」
「じゃあ、盗んだことはどう言い訳してくれるつもりなわけ?」
「それは……」
確かに、冬平は桶子の下着を見て幸せになった。なってしまった。だって仕方がないじゃないか、綺麗な女の子のえっちな下着があるんだもの。
だが、再三訴えているように、冬平は私欲のために桶子の下着を盗んだつもりはなかった。
「聞いてくれ、漁木」
「嫌」
「俺はお前を助けようと思って……え?」
弁明を試みる冬平など初めからいなかったように、桶子は歯牙にもかけなかった。
そして、冬平の眼前に迫ると。
「えいっ」
そんな可愛らしい掛け声と共に、ナイフを冬平の脇腹に突き刺した。
ぃぎっ、なんてカエルのような呻き声を上げて、冬平は下着を取り落としてしまう。
「……じ、自分のした質問の答えくらい、静かに待ってくれよ」
「ごめんね。どうせロクなことじゃないと思って」
謝意はゼロだった。その証拠に、冬平を刺した桶子の表情は、まるでストレスを解消した後のように晴れ晴れしていた。
今まで感じたこともない鋭い痛みに足が震えて止まらない冬平にとっては冗談にもならないのだが、桶子はどう見ても罪悪感などなさそうだった。
「でも、少し面白い答えが聞こえそうになっちゃったわね」
「『うっかり』みたいに言うな。漁木が遮らなければちゃんと聞こえていたものだからな?」
「だから今聞くわ。私を助けるために下着を盗んだんだって?」
「あぁ、ありったけな」
「えいやっ」
「あぎゃあっ!?!?」
口を滑らせた冬平を窘めるかのように、桶子は新しいナイフを取り出して今度は腿に突き刺した。
「それで、私を貶めるためにありったけ下着を盗んだんだって?」
「うん? どこで事実がすり替わった?」
「丹澄くんの左大腿部に私のジャックナイフが火を噴いた時に次元が歪んだみたい。これをジャックナイフ現象と人々は喝采します」
「そんな交通事故があってたまるか! そもそもジャックナイフは火を噴かねえ! 次元も歪ませねえ! 喝采もしねえ!」
「落ち着いて、丹澄くん。喝采したのは全米の民よ」
「ここは映画のワンシーンかよ!」
どうやら、桶子は真面目に会話を進めるつもりがないらしい。冬平としてはナイフを刺されるよりはマシだが、とっとと冤罪を解いておきたい気持ちの方が強かった。
仕方ない、となぜか冬平が折れた気分で、今朝まで記憶を遡ることにした。
どうしてこうなってしまったんだろう……?
さて、次回更新はいつになるんでしょうね。
活動報告も書きましたのでよければどうぞ。