7.ヒニーネとメッゼ
前線は寒く、暗く、辛く、そして危険です。でも、僕は幸い凍傷にもかからず、銃弾にも当たらず、熱病にうなされることもなく、健康に過ごしています。少し痩せたようですが、食事が不十分だからでもありません。少し疲れているだけでしょう。
ヒニーネ・クーヌ二等兵は自分のベッドの上でうつぶせになり、固い雑嚢を下敷きにして手紙を書いていた。書き出しはうまくいってもその先が難しい。自分がいまどんな状態かを知らせて、無事であることを知らせないといけない。自分が今、していること。
ヒニーネは思いのまま書き綴ってみた。
父さん、母さん、姉さん、僕は兵士ではありません。人殺しです。僕は前線で狙撃任務に従事しています。僕は戦闘中の敵ではなくて、油断している敵を一片の同情も示すことなく射殺しているのです。僕が殺した敵兵は煙草を吹かしたり、家族の写真を見せ合ったりして、笑っていました。僕は彼らの額にスコープの照準を合わせて引き金を絞り、彼らを地獄に落としているのです。でも、実際はどうなのでしょうか? 殺した人の数だけ僕自身が地獄に近づいていると僕は確信しています。今こうして不意を打って人を殺している僕は自分の愚かさを恥じています。僕の愛国心はまだ潰えていません。むしろ、前線でますます膨らんでいるくらいです。でも、僕は覚悟が足りなかったと自覚しています。僕は軍に志願する前、自分が敵に殺されることばかりを考えていました。だから敵を殺す覚悟について少しも考えませんでした。
自分の命を捧げることによって、祖国が守られる。これは真実です。でも、命を捧げるというのは自分の生命を危険に晒し、あるいは犠牲にするということではなく、自分の魂を犠牲にするということなのです。殺人と引き換えに僕の魂は磨り減っていきました。
母さん、お願いです、僕の魂のために祈ってください。
僕は昨日、女性を殺しそうになりました。ペロニア魔法軍の女性士官です。僕は凍てつく地底湖の小さな岩場に身を隠し、敵の陣地を狙撃用のスコープで見つめていました。敵の通路から光がもれ、土嚢の隙間からちらりと顔が見えたのです。輝いた顔でした。ペロニアの魔法使いたちが唱える新しい世界を信じきっている顔です。とてもきれいな瞳の女性でした。年は二十一か二。彼女は白い息を吐き出しながら、地底湖を見張っていました。そして彼女は……
ヒニーネは便箋をくしゃくしゃに丸めた。どうしても先が書けなかった。
彼女は二十一か二ではない。ヒニーネは首を振った。僕と同じか一つ上くらいの年だ。頬が赤くそばかすが残っているのをあの黒い線が十字に交差するスコープを通してしっかりと確認した。顔が輝いていたのはペロニアの理想じゃなくてごく自然な衝動に感動していたからだ。彼女が土嚢から顔を出していたのは哨戒していたからじゃなくて、地底湖の静けさに心を動かされたからだ。彼女は土嚢の上に手帳を置き、鉛筆で何か綴っていた。詩を書いていたのだ。『僕と同じだ……』そのときポケットには小さな詩集が入っていた。隣でメッゼが不安げに聞いてきた。『どうする? 撃つのか?』
ヒニーネは撃たなかった。
ヒニーネは丸めた便箋をベッドの端にねじ込んだ。もう三枚目だった。
開戦以来、ヒニーネは頻繁に手紙を書いた。もともと文章を書くのが好きだったし、家族が懐かしく、また自分が無事であることを常に知らせておきたかったからだ。ブリザンゲンネルの激戦を生き残って、すぐヒニーネは手紙を送った。
『僕は無事です。どうか安心してください』
ヒニーネはこの言葉を戦車に追われ、雪の中を潰走しているときに書いた。
そして、その後ヒニーネは狙撃兵になった。もう手紙は書かなくなった。
もちろんそれ以前にヒニーネは銃を撃ったことがある。ただブリザンゲンネルの戦いではヒニーネは無我夢中で撃ったから、それが当たったかどうかははっきりしなかった。退却後、かつての要塞軍は三分の一以下にまで激減してしまい、敵の猛攻にさらされた。ヒニーネがいた小隊は全滅状態で戦友のメッゼと二人きりで雪の中を必死に逃げていた。
敵が追いすがり、二人を見つけて射殺しようとしている。二人は大木の根元にできた大きな空洞に雪を避けるようにして逃げ込んだ。もう疲れて動けなかったのだ。
敵が迫ってくる。追ってくるペロニア兵は五人いた。
もう殺される。そう思い、二人で大木の洞で震えていたとき、何かが足にぶつかった。
味方の死体だった。同じようにここに隠れ、凍死したのだ。髪が凍りつき、鼻の頭からツララが垂れ下がっていた。手には狙撃銃が握られていた。
ヒニーネはそれを手に取れば助かるという気がした。理由が分からないがとにかく助かる気がした。
銃を手に取り、機関部を何度もこすって氷を落とした。そして据え付けられたスコープを通して敵を見た。
こちらからは見えているのに、相手からは見えていないのは不思議な気持ちにさせられる。ヒニーネは指揮をとっている伍長を撃った。弾は胸に当たり、ペロニア軍伍長は身を翻して雪の上に倒れた。他の兵士が慌てる。しかし吹雪いているせいで銃声が聞こえず、どこから撃たれたかわからなかった。みんな雪の上に伏せて、息を潜めている。ところがペロニアの軍服は灰色だったから吹雪の中でも位置はすぐにつかめた。ヒニーネは若い兵士の顔を撃ちぬいた。血が凍りつきながら雪の上に垂れたのが見えた。残った三人は恐怖にかられ、走って逃げ出した。その背中を撃とうとしたとき、メッゼに銃身をつかまれた。
もういい! そう怒鳴られ、ヒニーネはハッとした。
自分が人を殺したことに。
その後、二人は無事友軍と合流できたが、それ以来、ヒニーネは手紙を家族に書かなくなった。家族からの手紙はよく届き、返事が欲しい、近況が知りたい、詩を書いて送ってくれと姉や母親の筆跡で綴られている。しかし、返事はどうしても書けなかった。
結局、手紙をあきらめ詩集を取り出す。しかし、ページに散らされた春の芽吹きや夏の白夜の記述はヒニーネの活字欲を満たしてくれても、ヒニーネの魂を救ってくれそうにない。
仮眠壕にメッゼが入ってきた。
「ヒニーネ。交代だぜ」
「うん」
ヒニーネはベッドを飛び降り、なるだけ厚着してライフルを持っていく。地底湖で哨戒に当たる兵士にはとくに暖かいオーバーが支給されるが、それでもあの冷たい水から発せられる凍てを防ぐことはできない。
(数時間が限界だ)ヒニーネはいつもそう思っている。雪国での狙撃は時間を忘れるとそのまま凍死に繋がりかねない。命が助かっても凍傷で足の指をやられるかもしれない。
自分たちの仮眠壕から天井の低い地下通路を進む。クーヌはさほど背が高くないので軍帽を被っていてもぎりぎり立って歩けたが、上背のあるメッゼは少し前かがみになる必要があった。通路の窪みには毛布にくるまった兵隊たちが身を寄せ合い、交渉に勤しんでいる。
「煙草二本で次の見張り変わってくれよ」
「やだよ。エムーは一箱くれるんだぜ?」
「馬鹿だな。俺のは正真正銘のエルフロア煙草だ。ほら見てみろ、いい女だろ?」
そう言って取り出された赤い包装箱にはシガレットを指に挟み紫煙にまどろむ風の精霊がなんとも官能的に描かれていた。火をつけていないのに煙草のいい匂いがたちまち通路の窪地に満ちた。他の二人は驚き、羨望の眼差しで見つめていた。最高級のエルフロア煙草は煙草の女王様だった。ただでさえ煙草が手に入りにくい戦時下、エルフロア煙草を手にするものは王に等しい権威を手に入れられる。
ヒニーネは煙草を吸わないから、なんとも思わない。そのまま素通りした。二人が目指すのはその窪地の奥にある狭い階段だった。階段のそばに哨戒を終えた二人の兵士がうずくまっている。
「おや、またずいぶんかわいい交代がきた」ごま塩頭の兵隊が頭を掻いた。「じゃあ、俺たちは失礼するかな」
狙撃兵は無口な相棒を連れて、いそいそと通路のほうへ消えていった。間もなく、煙草の交換をしている一団のほうから楽しそうな声が聞こえてくる。
「行こう」騒ぎを振り返るメッゼにヒニーネが言った。
階段というよりは縦穴に近い急な降り口は板壁に霜が下りるほど冷えていた。
階段を折りきると目の前には漆黒の地底湖が広がっている。はるか遠くの対岸に明りが二つ見えた。一方こちらの湖岸には一つ、潰れかけのテントがたっていて、灯油ランプの光が中にいる人間の黒い影を照らし出している。
テントの中をそっと覗くと、小舟の管理をしている若い兵隊がしゃがみ込み、ブリキで円筒状のよく分からないものを作っていた。
若い兵隊は二人を見ると、円筒状のガラクタをさっと片付け、何の用と声を潜めて聞いてきた。
ヒニーネが狙撃銃を見せた。兵隊は心得たように頷くと奥の垂れ幕から出るように促した。一艘の小舟が静かに浮いている。
ヒニーネもメッゼも音を立てないよう注意して舟にのり、静かに漕ぎ出した。
「どこに行く?」メッゼが艪を静かに操りながら聞いてきた。
「昨日ねばった場所でもう一度」まるで岩魚釣りでもするようにヒニーネが返す。
小舟は平べったく突き出た岩のそばにつけられた。適当な突起に舳先を結びつけ、静かに岩の上を移動する。ここからは一切喋らない。
まずメッゼがペロニア軍の陣地を眺める。大きな陣地が二つあり、どちらも土嚢と煉瓦で胸壁を作り上げていた。メッゼが注意深く陣地を観察する。左側の陣地で蒸気通信線の中継点が外れかけているのを見つけた。あれを直すには通信兵が胸壁から顔を出さないといけない。一方、右の陣地は最近誰も撃ってないから将校が油断して顔を出すことも考えられた。
メッゼからの情報を元にヒニーネが考える。どちらのほうがいいか? 通信兵か油断した将校。ヒニーネは左側の陣地で通信兵を狙うことにした。
毛氈を下にひいて、その上に這いつくばり、スコープで陣地を覗く。狙いは蒸気通信線の中継装置だ。通信線は胸壁のすぐ上に敷かれているから、通信兵の頭が見えたら躊躇せず撃たないといけない。ずり落ちかけた蒸気通信の中継装置は二つの円筒状の箱のようなものが組み合わさってできたもので、あの中で蒸気圧を調整するらしい。あれがないとペロニアの地底湖陣地は上の陣地と遮断されるのだから、通信兵は必ずやってくるはずだ。
ヒニーネの中で怜悧な観察と計算が積み重なっていく。その結末は見ず知らずの通信兵をためらいもなく射殺すること。毛氈を通して岩場の冷たさが体に染み込む。メッゼも双眼鏡で左の陣地に集中して目を離さなかった。
動きがあったのは待ち始めて三時間が経過したころ、胸壁に作った銃眼から銃剣の先に引っかけたペロニア軍帽がひょっこり現れたのだ。ヒニーネは危うく撃つところだったが、ぐっと堪えた。次に油で汚れた手が生えてきて、通信中継点をつかもうとした。ヒニーネはまだ撃たなかった。手が届いておらず、中継点には触れてもいない。必ずもっと身を乗り出すはずだ。
予想通り、通信兵が顔をひょっこり出した。鉛筆を耳に挟んでいて、軍帽をあみだに被っていた。通信兵がまた手を伸ばすが、まだ届かない。ヒニーネも撃たなかった。狙うのは通信兵の手が中継装置に届いた瞬間、その瞬間に動きが止まるはずだった。
通信兵は箱を足場にしたらしく、今度は肩まであらわにして中継装置に近づいた。これなら手が届く。中継装置を油まみれの手で触り、元の位置にしっかり戻した瞬間、ヒニーネはその後頭部目がけて引き金を引いた。
銃身が跳ね上がり、スコープの視界が真っ暗な頭上を仰ぐ。目を下に戻すとペロニア陣地は蒸気の白煙に包まれて、すっかり見えなくなっていた。通信線の蒸気が漏れたのだ。
ヒニーネはメッゼのほうを振り返った。
「殺ったよ」
メッゼが小声でつぶやいた。
二人は毛氈とライフルをつかんで、急いで小舟に乗る。間もなく陣地から照明弾が発射され、白く輝いた水面をペロニア軍の機関銃が盲撃ちにする。二人の小舟は尾根のように迫り出した岩場に隠れて、敵の視界には入っていなかった。
「今日はやめにしよう」
ヒニーネが後背の銃火を振り返りつぶやいた。
やがて機関銃の音も止み、また静寂が戻ってきた。メッゼの溜息が背に聞こえた。それで初めて自分も安心できた。敵の反撃は完全に止んだのだ。
岸辺のテントに舟を戻すと、もう人員が交代していて、ペルモフ伍長がテントの中であぐらをかいていた。
「一人殺害しました」
ヒニーネが言うと、伍長はごくろうさんと言い、暖かい蜜をヤカンから注いで二人に持たせた。
「次のやつを呼んできてくれ」伍長は命令した。
ヒニーネとメッゼは蜜をすすりながら、狭い階段を今度はよじ登り、上の地下通路で交替要員を探した。
間もなく見つかった。さっきエルフロア煙草を羨ましそうに見ていた二人だった。
「お、交代か。ごくろうさん、坊主ども」
そう言葉を交わして、二人は穴の中へ降りていった。
ヒニーネとメッゼは仮眠壕に戻った。メッゼはベーコンをかじり、残りの蜜をすすると冷え切り疲れ果てた体を休めるべく、毛布に包まった。間もなく寝息が聞こえてくる。
ヒニーネは日記を開き、今日の出来事を綴った。
デウムバルトナ小隊に配属されて三日目。
いつものように手紙を書こうとするもろくに書けず、貴重な便箋を無駄にした。
詩集を読んだ。僅かに慰められる。
ペルモフ伍長がくれた蜜はとても甘かった。
本日の殺害確認戦果、一。