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4.ミューンデルモ・デウムバルトナ

 軍団司令部と塹壕一本で結ばれた粗末な通信所で若い連絡将校はハッと現実に引き戻された。さっきまで二年前に旅行したイフリージャのことを夢想していたのだ。太陽、浅黒いイフリージャ人、金色の砂漠の真ん中にぽつんとたたずむ碧いオアシス。

 布で仕切られた隣の部屋で電信兵が旧式の蒸気通信管と睨み合っている。その透明なガラス管の中を蒸気信号が『シューシュッ、ボッ、シュー』と音を立て、真っ白に曇ったり蒸気の細い糸をひいたりしている。このガラス管の中の蒸気信号を読み取り、紙に書き写し、暗号を解読して、軍団司令部にメッセージを持っていくのが通信将校たる自分の役目だった。

 天幕から雪がこぼれ落ちてくる。この塹壕は地上に面して掘られていて、軍団司令部までの塹壕は完全な野ざらしだ。

 自分の寝台に座り、軍帽の庇から雪を拭う。実家から送られたジャムが机の上に置いてあった。その瓶を持って、隣の通信室に向かう。

 通信兵は蒸気信号を紙に写し終えていた。

 連絡将校はそれを受け取ると、通信兵にジャムを勧めた。

「いいんですか?」

「構わないよ」

 通信兵はワッフルにジャムを少しずつ塗っては口に運ぶ。将校は部屋に戻ると机に向かい、数字の羅列を暗号解読表で平文化した。

『昨夜未明、敵捕虜よりもたらされた情報によると、三ヶ月以内に敵の大攻勢があるとのこと。これは先日、敵将校の死体より発見された命令書とも符合するため、注意されたし』

 報告文を鞄に入れて、軍帽を目深に被ると通信壕を出て軍団司令部に向かう。司令部と通信所を結ぶ塹壕は雪に埋まり、天蓋としてかけてあった板は所々跳ね飛ばされてしまっている。天井板の合間からのぞく空は灰色で雪が豪雨のように降ってくる。板は雪の重みでしなっていて、塹壕の壁に張り渡した板は完全に凍り付いていた。

 寒いのは言うに及ばない。昔、この辺りは誰かの別荘地だったらしく、この塹壕もかつての並木道の名残に沿って掘られていた。かつての樹木も今では豪雪で見る影もなく、黒い骨に白い肉が崩れかけた死骸のような外観を残すのみだった。

 山小屋が見えてきた。半分以上雪に埋もれたこのお粗末な山小屋が軍団司令部なのだ。戸口のまわりの雪を辛うじて除けているだけで窓はほとんどが雪に埋もれている。司令部の背後には白い峰々がこの哀れな軍隊を飲み込まんとするように聳え立っている。通信所からの塹壕は山小屋の勝手口に繋がっていた。

 凍りつきそうなドアノブをひねり、扉を押し開けると台所に通じる。テーブルの上には軍団司令官や参謀将校のための食事が用意されていた。

 ベーコンと卵料理。これだけである。しかし、卵があるだけ、かなり恵まれている。最前線の地下陣地はもっとひどいはずだ。

 台所で足踏みし、雪を体から落とすと同時に氷の塊と化した足を何とか解凍する。一連の解凍処理が終わると通信将校は台所を出て、作戦室に入った。

 かつては居間だった作戦室は面白みのない平凡な部屋であった。机の上に地図が広げられていて、師団の位置を表す駒が並べられている。参謀将校たちが地図を見ては溜息をついていた。戦況を悲観しているのだろう。衝立の奥には玄関から入ってきた訪問者のために雪落としの場所が設けられていて、床には厚手の絨毯が敷いてあった。暖炉で焚き木がパチパチとはぜている。

 通信将校は目指す軍団司令官を探した。司令官は玉突き台が置かれた一段下がった場所にいた。台の上に玉ではなく、リンゴを転がしてじっと物思いにふけっている。

「閣下、最前線より蒸気報告です」

 将校は踵を鳴らして敬礼し、鞄から紙片を取り出した。

 軍団司令官は人の良さそうな目を瞬かせ、眼鏡をかけなおした。

「ふむ」電報をじっと見て、考え込む。

 軍団司令官はデウムバルトナという陸軍中将でもう五十七歳だった。丸い眼鏡と優しい目、綺麗な八の字口髭の下に薄い唇がちょこっと隠れた小柄な老人である。参謀将校から台所のコック、そしてこの通信将校に至るまでフロステル人で構成される軍団司令部の中でデウムバルトナ将軍は文字通り異彩を放っていた。

 その皺が現れている頬は純白ではなく赤みがかっていたし、目は青でなく茶色、髪も白髪まじりの栗色であり、フロステル人には見えない。

 フロステル王国第一軍団司令官ミューンデルモ・デウムバルトナはペロニア人なのである。ペロニア人とは言っても、彼自身ペロニアに住んだことはない。父の代からフロステルに移民してきていたので国籍も生まれたときからフロステルである。一族の起源はペロニアの騎士判事であり、祖父ニコデルモもやはりペロニア王都の騎士判事だった。ニコデルモには二人の息子がいて、次男アスデルモはペロニアで騎士判事になったが、長男のエルデルモはどういうわけだかフロステルに移住し、弁護士となった。そして生まれたのがこのミューンデルモ・デウムバルトナだった。

 デウムバルトナ将軍は戦前こんなことを言っていた。

「祖父は戦争や軍隊が大嫌いでね。何でも大昔、ペロニアの王都で革命騒ぎがあったとき、騎士団に召集されて無謀な突撃に付き合わされたあげくに死にかけたらしい。もともと争いごとは好きなほうじゃなかったらしいけど、それ以来輪にかけて戦争嫌いになってね。ひょっとすると私がこうして軍務についていることを泉下で嘆いているかもしれない」

 デウムバルトナ将軍は若い頃、測量技師になりたくて専門の学校に通いたかったのだが、父がはやくに亡くなったため、学資のかからない士官学校に入学したのが軍人へのきっかけだった。士官学校では地学と測量学の課程を修めれば、測量技師の資格が取得できる。デウムバルトナはそれをにらんで、士官学校に入ったのだ。もともとフロステルでは軍人はあまり人気のある職業ではなかったから、士官学校を出ても任官されず民間で働くものが多く、それが当然とされる風潮があった。デウムバルトナもその波に乗ろうとしたのである。ところがここで予想していなかった事態が起こる。卒業間近、測量技師が雪山で測量中遭難死する事故が相次いだのだ。デウムバルトナ本人はそんなこと気にもかけなかったが、母親は違った。夫に先立たれて以来、すっかり心が弱ってしまった母親は後生だからそんな危険な職業は止めておくれ、お父さんに死なれ、また一人息子のお前を失ったら生きていけない、とすがりついて頼んできた。

「おかしな話だねえ」若きデウムバルトナは知人にいった。「測量技師より軍人のほうが安全だっていうのさ!」

 結局、デウムバルトナが折れ、測量技師は諦めてフロステル王国軍に奉職することとなった。この弱小陸軍でデウムバルトナは工兵将校として要塞構築や作戦地図作成の際、測量を取り仕切って、その能力を存分に生かしてきた。気づくと軍に入って、四十年近く経っていた。

 そして第一軍団司令官である。フロステル陸軍の総兵力は国王を総司令官とする貧弱な二個軍団八万人のみであり、デウムバルトナは陸軍の半分を麾下に置く司令官なのである。

「我が軍は負け続きだ」デウムバルトナ将軍は電報を手にしながら、玉突き台のまわりを歩いた。背が低いのでサーベルの先がガツガツ床をこすっている。「ブルキ将軍はこちらも攻勢に出るべきだというが、私はそうは思えない。互角の被害を出し合っていたのではフロステルは勝てんよ。ペロニアは膨大な人口で予備兵が保証されているが、フロステルはもはや最前線の部隊の充足すら危うくなっている。もう一個軍団編成されるのだって、まだ先の話だ。この戦争はフロステル王国の独立を守るための戦いであって、ペロニアに勝つための戦いではない。ペロニアに勝っても犠牲者五十万を超える戦いに勝利したのでは事実上の滅亡だよ」

 通信将校の落胆顔に気づいたデウムバルトナはオホンと咳をし、意見を取り繕った。

「……と、まあこないだの最高軍事会議で言ったんだね。陛下と首相と参謀総長はそれに賛同してくれたけど、ブルキ将軍は攻めてこその防衛戦争だって譲らないし、新聞や世論ももっと攻めて失った国土を取り戻せとせっついてくる。でも、私は陛下と陸相の右手がひどくくたびれているのを見ると、やはり攻勢を薦める気にはなれないね」

「あの、閣下」通信将校は首をかしげた。「おっしゃっていることの意味をつかみかねます」

「つまりね」デウムバルトナは蜜をすすった。「陛下と陸相は昼夜を問わず、戦死通告にサインし続けているんだよ。たぶん今もなお尋常じゃない数の士卒が戦死している。攻勢を企画するなら、間違いないときを選ばないと駄目だ。タイミングを計らないと」

 デウムバルトナはもう一度、電報に目を通した。

 こちらは国土を失ったが、ただで撤退はしていない。鉄道や橋梁、トンネルは全て爆破しておいてある。敵に利用されないためだ。工兵将校時代の杵柄である。鉄道がなく、ペロニア軍は軍の集結に手間取っているはずだ。

この攻勢を跳ね返せれば、敵は潰走する。そこを攻めて、こっちが逆ねじを食らわせることができる。国土全ての奪回は無理でも敵にかなりの打撃を与えて、その攻勢を一年以上封じることができる。その間にエルフロアやペロニア亡命政府の軍勢がペロニア北部の国境を圧迫してくれれば……

 勝機が見えてくる。

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