26.戦闘
どうして僕の目の前に中隊副官のローキーゼン少尉がいるんだろう?
どうして彼は口をパクパクさせているのだろう?
デウムバルトナは首を傾げようとしたが、その太い顎は少しも動かなかった。首の筋が突っ張り、背筋も棒を飲み込んだように動かない。
「デウムバルトナ中尉!」
耳鳴りが収まって、ローキーゼン少尉の声が聞こえてきた。
「中隊の指揮をとってください!」
言っていることが少しも分からない。
「僕は小隊長だ」
そして放っておいてほしいと手を振った。体が渦に巻き込まれたように回転していて、いま立っているのか、寝転んでいるのかはっきりしない。ひどく気分が悪かった。
「クラーメン大尉が戦死しました! 中隊に指揮官が必要なんです!」
「大尉が戦死?」デウムバルトナは親指と薬指でマッチをする真似をして尋ねた。
ローキーゼン少尉の丸顔の背後に吊りランプの丸い底が見えた。ここで初めて自分が仰向けに寝転んでいたことに気がついた。
「中尉、中隊の指揮をとってください!」
「僕は小隊長だ」デウムバルトナは同じ文句を繰り返した。「少尉。副官の君が指揮をとればいいじゃないか」
「先任将校はあなたです! お願いです、中尉」
半身を起こし、ぼやけた頭で周囲を確認する。ゲートルを巻いた足が慌しく塹壕の奥へ消えていく。ここは塹壕に板を渡して作った天蓋通路だった。デウムバルトナはまたもや分からなくなった。このような構造は自分の陣地には存在しない。
すぐそばに穿ったスペースには凍りついたパンが大量に放置されている。これだっておかしいのだ。フロステル産酵母は不凍作用を持つから、戦地でパンが凍りつくなどあり得ない。
「ここはどこだい?」
「ペロニア軍の陣地です!」血気にはやる目を輝かせ、少尉が叫んだ。「我々は敵を押し返したんです! 地下空洞を切り抜けて、機関銃座を突破したんです!」
手渡された潜望鏡でデウムバルトナは戦況を確認した。
みたこともない半地下の大空洞だった。天井の半分が崩れ、炎を映した赤い吹雪が舞い込んでいる。雪と泥が混じりあい、ジグザグの塹壕で部下が身を潜めてじりじり前進している。地表すれすれの高台に半壊半焼した山荘がへばりついていた。敵の指揮所が設営されているらしく、そこの窓から低地の塹壕へ機関銃が火を吹き、こちらの前進を押し止めているのだ。だがリューン少尉の中隊が左手奥で顔を出しては引っ込めるモグラのような銃撃を繰り返し、敵の最後の拠点に肉薄していた。陥落まであと少しだ。
自分も小隊を率いて、あの山小屋を攻撃しなければならない。
「僕の小隊はどこだ?」
「じっとしてください、中尉」
包帯兵がデウムバルトナの丸顔を押さえ、頭に包帯を巻き始めた。野戦電話が悲鳴を上げ、電話兵がローキーゼン少尉に受話器を突き出した。しばらく状況報告が行われると受話器はデウムバルトナ中尉に手渡された。
「連隊長からです」
受話器は興奮した声で戦況を聞いてきた。
「報告したまえ、デウムバルトナ中尉!」
「戦況が分かりません、連隊長」
「君は小隊を指揮しているのだろう!」
「頭に銃弾を受けたらしくて、記憶がありません」
「重傷か?」
デウムバルトナ中尉は包帯兵をちらと見た。
「大丈夫。軽傷です」包帯兵がこたえた。
「軽傷です、連隊長」
「クラーメン大尉が戦死した。中隊の指揮を引き継げ」
ガチャン! ツー、ツー。
「まいったな」
中尉は包帯兵に苦笑した。包帯兵が苦笑を返した瞬間、ライフル弾が数本の歯と唇の破片をまき散らしながら、口から飛び出した。
血みどろの包帯兵がデウムバルトナにのしかかり、中尉は板床に背中から倒れた。
塹壕の壁が突然消し飛んだ。兵舎が出口を開けている。
中からペロニア兵が飛び出してきて、包帯兵の背中越しにデウムバルトナを突き殺そうとする。銃剣は包帯兵の死体を貫いたが、胸に抱えていた医療鞄で切っ先が止まった。デウムバルトナは銃身を引っつかみ、死体越しにライフルを取り合った。
銃声。ペロニア兵の耳が赤黒い肉の塊になった。
ローキーゼンが中折れ式六連発で敵兵の頭を撃ち、今度は目玉が跳ね飛んだ。
デウムバルトナが二つの死体を力ずくで退かす。
味方の老兵がピンを抜きながら走り出て、手榴弾を掩蔽壕に放り込んだ。一秒もしないうちに手榴弾が投げ返される。老人は毒つきながら蹴り戻した。
爆発で穴が青白く照らされる。
大柄の兵士が一人で軽機関銃を運びこみ、掩蔽壕の出口に据え置いた。ホットケーキ型の弾倉一個分の銃弾が地下室の中を跳ね回る。甲高い叫び。肉を貫く弾の音。
大柄の兵隊がデウムバルトナに振り向いた。
「ご無事でしたか、デウムバルトナ中尉」
機関銃手はコチップ軍曹だった。
「ちょうどいいところで会った。コチップ、僕を小隊へ案内してくれないか?」
「待ってください!」ローキーゼン中尉が悲鳴を上げた。「中隊の指揮はどうするんです?」
「ローキーゼン少尉」中尉がこたえた。「僕に代わって中隊を指揮するんだ。僕は小隊を指揮する」
「そんな!」
「これは中隊長命令だよ、少尉」
デウムバルトナ中尉はコチップの肩をぽんと叩き、山小屋に通じるジグザグ塹壕へ急いだ。
塹壕は天井が抜けているせいで十センチ以上も雪が積もっていた。ブーツに踏みにじられた泥氷がさっそく凍りつこうとしている。中尉はいびつな氷の塊を踏み進みながら、コチップから報告を聞いた。
「バイネ少尉の分隊は!」
「あちらです、中尉。あそこの窪みで敵の銃撃を牽きつけています」
塹壕の横道を覗き見ると、死んだ敵兵たちのそばにバイネ分隊の連中が集まっている。缶詰爆弾に火をつけるためにマッチを漁っているのだ。
「小隊全体の死傷者は?」
「わかりません。自分の分隊で手一杯です」
「じゃあ、君の分隊だけでいい。状況を教えてくれ。レンゼルゼンは?」
「生きてます」
「アーヌローは?」
「生きてます」
「シーハは?」
「殺られました」
「ペルモフ伍長は?」
「生きてます」
「ベルとグルッツは?」
「ベルが負傷。グルッツは無事です」
「じいさんは?」
「殺られました」
「リプセンは?」
「生きてます。いまあそこで敵の機関銃座に爆薬を仕掛けてますよ」
「パンミル大尉の中隊から預かった女の子は?」
「無事です。後ろに下がらせました。予備中隊の担架兵をかっさらったんで、もう戦闘に出す必要はありません」
「パンミル大尉は?」
「先ほど見かけました。無事です」
「クーヌとヴィセントリンは?」
先の道で爆音が轟いた。リプセンの爆弾が通気パイプに放り込まれ、機関銃陣地を吹き飛ばしたのだ。機関銃はペロニア兵と一緒に天井にぶち当たり、折れた銃身と割れた銃架、へこんだ冷却タンク、そして体がバラバラに降ってきた。
コチップは報告を再開した。「ヴィセントリンが戦死。クーヌは重体です」
「クーヌを後送したか?」
「ええ。中尉が運べって言ったんですよ」
「記憶がないんだ。弾が頭をかすめてね」
「俺が助からないから運んでも無駄ですよって言ったら、中尉は殴りかからんばかりの剣幕で俺をどやしつけたんです。覚えていませんか?」
「どやしつけた? 僕が? 覚えてないな」
コチップは小気味よく笑った。
「あんな中尉初めて見ましたよ」
「クーヌは助かると思うかい?」
「いいえ」
「どこをやられた?」
コチップは首を指差した。
「そうか」
デウムバルトナはピストルの回転弾倉を嗅いだ。
「僕は人を撃ったのかい?」
「ええ、一人殺っつけましたよ」
「ふうむ、覚えてないな」
デウムバルトナたちが最前線に到着したとき、リプセンとレンゼルゼンは小屋を吹き飛ばそうとしていた。
薪の貯蔵庫だ。塹壕の角にあり、半分地中に沈み込んでいる。屋根の下に機関銃が固定されていて、そこから塹壕に銃弾を降らせている。分隊は死角にへばりつき、モグラたたきのモグラよろしく銃撃を繰り返していた。
デウムバルトナはコチップとともにぎりぎりまで近寄って、様子を見た。
そのとき小屋の屋根が吹き飛んだ。屋根にいた機関銃兵が空を飛びながら、バラバラにちぎれた。数人のペロニア兵が火だるまになって小屋から飛び出すと分隊の射撃が集中し、たちまち十数発の弾丸を撃ちこまれた。ホットケーキ型弾倉をつけた機関銃を抱え、レンゼルゼンが小屋の前に走る。ペロニア兵が突然出てきた。途端に曳光弾が撃ちこまれ、敵は灯芯のように燃え上がった。
敵の将校が小屋下の穴倉から現れた。折れたサーベルを手にして、泥だらけの顔に目を血走らせている。
デウムバルトナは咄嗟に『竜騎兵』を抜き、その男を撃った。
相手は咄嗟に腕を振り上げ、顔を庇った。大口径弾は肘を吹き飛ばした。腕がひしゃげて、皮一枚でだらしなくぶら下がる。さらに一発。目と鼻と軍帽が別々の方向に飛んだ。将校は壊れた顔を押さえながらひっくり返った。
誰かが叫んだ。
「前進だ!」
デウムバルトナ中尉はうなずくと『竜騎兵』を握り締め、小屋の角を曲がった。
厚い布にミシンをかけたような音。
塹壕の角で巧妙に遮蔽された機関銃の連射。
不用意に姿を曝したデウムバルトナが数発をまともに受けて倒れた。
弾がささくれ立った板切れを弾き飛ばし、凍った泥を削り落とす。
真後ろにいたコチップとペルモフ伍長が銃撃をものともせず走り出て、二人がかりで中尉の肥満した体を安全な角に引き摺り戻した。
「中尉! 中尉!」
二人はデウムバルトナを仰向けに引っくり返した。
中尉の目はガラス玉のような空ろな光をたたえていた。
アーヌローが装備を外しながら叫んでいる。
「手榴弾だ! はやく!」
アーヌローは背嚢とライフルを捨てると、リプセンや予備隊の新兵たちから手榴弾を次々もぎ取り、ポケットやベルトに仕舞い込んだ。
彼は銃弾かすめる板塀にへばりつくと目を閉じ、口の中でつぶやいた。
「でぶっちょ、俺のために祈ってくれ」
手榴弾を一つ、角の向こうに転がして爆発させた。
閃光と舞い上がった土砂が機関銃の視界を遮ると、アーヌローが身を低くして飛び出し、次の角に走りこむ。
弾はアーヌローの背中をかすめて、床に突き刺さった。
安全地帯に逃げ込んだアーヌローはその壁を飛び越す形で手榴弾を二個投げ、目くらましの爆風を作り、また走った。
機関銃の乱射が続く。
撃ち終えたとき、アーヌローは機関銃座のすぐ真下に伏せていた。細長い銃眼からペロニア軍の機関銃が、咳をするように小刻みに発砲している。しかし機関銃手の位置からは死角になってアーヌローは見えない。
アーヌローはリプセンから貰った勲章爆弾の信管を引き千切った。
三つ数えてから、爆弾を機関銃座に放り込む。
機関銃の銃身がガクンッと上向いた。
銃眼が悲鳴と血煙を吐き出し、掩蔽が真上に吹き飛んだ。
「殺っつけたぞ!」アーヌローが叫んだ。
コチップは部下をかき集めると、デウムバルトナ中尉を衛生兵にたくし、前進を再開した。