22.憎悪
小隊倉庫は黒山の人だかりができていた。噂は本当だったのだ。肌色の陶器瓶に刻まれたイフリージャ帝国の紋章は、中の液体がイフリージャ政府公認特一級のラム酒であることを保証していた。大きくて寸胴な陶器瓶が次々と運び込まれている。兵隊たちは輸送役に抜擢されたメッゼとヒニーネを囲い込み、脅し文句と宥め文句を並べ立てた。
「そうっと運べ! こぼしたら、承知しねえぞ!」
「瓶割ったら銃殺刑だ!」
「くすねて飲んだら八つ裂きにしてやる!」
「馬っ鹿野郎、脅かすんじゃねえよ。ぶるって落としたらどうすんだ!」
「なあ、兄弟! 後生だから蓋を開けて、匂いだけでも嗅がせてくんねえか?」
「そうじゃ、コルクに染み込んだ分だけでも吸わせてくれ」
「情けねえなあ、お前ら。フロステルっ子の誇りはどうした?」
「誇り? お前この地獄の戦場でまだそんなもの持ち歩いてたのかよ? ラム酒に比べれば、誇りなんて小便みたいなもんだ」
「誇りじゃ酔えねえ」
「誇りはうまくない」
「頼むよ、兄弟。コルクをまわしてくれよ。香りだけでいいんだ」
メッゼはうるさい外野を黙らせるために瓶のコルク栓を一本抜いて、一番そばにいたホーン一等兵に手渡した。ホーンが濃厚なラムの香りに鼻をひくつかせながら、「ひゃあ、いい匂いだ」と声をあげると、他の兵卒たちがおれにも嗅がせろと詰め寄ってきて、コルク栓の奪い合いが始まった。まず、じいさんが飛びかかったが、ホーンはひらりと身をかわし、近くの横穴に逃げようとした。第二分隊ベッテ伍長がその足をスコップで引っかけて転ばせると、手からコルクをもぎ取って、香りを味わった。伍長はシーハにコルクをまわしてやった。飲兵衛のシーハは香りだけでは我慢できず、コルクを飲み込もうとしたものだから、第一分隊のストルテンフォルがコルクを早業で掠め取った。するとヒニーネたちと同室のアーヌローもコルクを奪い取ろうと突進するが、難なく避けられてしまい、横穴に突っ込みバケツを引っくり返した。
「中尉が来た!」メッゼが叫んだ。
まずい! と慌てたストルテンフォルによりコルク栓が素早く瓶にねじ戻され、兵隊たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。
メッゼは腹を抱えて笑い転げた。通路には誰もいないのだ。
メッゼの嘘は程無くしてばれ、兵卒たちはカンカンになった。
「この野郎、大人をからかうんじゃねえ!」
気の荒いストルテンフォル一等兵がメッゼの首根っこを捕まえて、拳固を振るった。
一等兵の拳がメッゼの頭に当たった瞬間、雷が落ちたような轟音が通路に響き渡った。
ベッテ伍長が渋面をつくった。
「聞いたか、今の音? おい、ストルテンフォル。やりすぎだ。頭蓋骨が砕けたんじゃねえのか。メッゼ。お前、頭ぁ大丈夫か」
「違う、ベッテ」ストルテンフォルが顔を蒼くして唇を震わした。「この音は……」
また轟音が鳴り響き、通路の床は地滑りを起こしたように大きく揺れた。ランプが落ちて、梁からも土が塊になって落ちてくる。
「敵襲だ!」
炸裂音と敵の喊声が空気を震わせてくる。
「陣地に急げ!」
横穴から目を血走らせた兵士が這い出てきて、ライフルに足を躓かせる。
「ぐずぐずするな!」
ヒニーネとメッゼも銃を抱えて、通路を走った。鉄板を引っ叩いたような音が何度も通路を反響し、ミシンのような銃声がそれに答えている。カードをしていたものも、泣きながら家族に手紙を書いていたものも、缶詰を食っていたものも、火器を手に取り、死に物狂いで持ち場へ駆け出していった。板張りの通路が左右に激しく揺れて、何度も転びそうになりながら、メッゼが地底湖の入り口に飛びついた。
「そっちじゃない!」
コチップ軍曹が二人の背後で叫んだ。
「湖はいい! お前らは第一分隊の予備陣地に向かえ!」
地下陣地の後背には少し大きめの空洞があり、第一分隊の予備陣地はこの空洞の高台に新たに作られた土嚢堡塁で奥の通路を見下ろすようにして銃眼が掘られていた。この陣地の指揮を任されたペルモフ伍長が二人を射撃室に詰め込んだ。射撃室は狙撃には絶好の位置である陣地の最右端に掘られた小さな部屋だった。
「ここから地下陣地に通じる通路に狙いをつけ続けろ。味方が来たら通せ。敵が来たら皆殺しだ」
伍長は射撃室の扉をバタンと閉めた。土むき出しの壁。正面につまれた煉瓦と土嚢。誰かが食べ残した固形スープの缶詰が部屋の隅に押し込まれていた。
奥からひかれている通路は二本。ランプを二つたらした不気味な出口から不快な音が聞こえてきた。爆音と銃声。叫び声も聞こえた。撃たれて泣き叫んだ声、敵を殺して興奮した声、誰にあてたか分からない意味のない罵声。銃弾が体にめり込む音が驚くほど鮮明に聞こえた。それは糸が切れた音と生肉を包丁で引っ叩いた音が混じりあう奇妙な音だった。
(トンネル一本。それが人とケダモノ。この世と地獄を分けている)
ヒニーネはスコープを通して通路を見つめた。通路の向こうの地下陣地はきっと地獄だ。狙撃用のスコープに刻印された十字の照準線と小さな目盛が驚くくらいの落ち着きをヒニーネに与えている。
(死んでたまるもんか)
ヒニーネは心の中でつぶやいた。戦争で死ぬことがひどく不公平に思えた。どうして、寒い地下壕の中で懸命に戦い生き残った人間があんな惨たらしい音をたてながら死ななければいけないのか。僕もメッゼも戦士じゃない。民間人だったのだ。好きでこんなところにいるわけじゃないんだ。
「ペロニア兵め」
戦争と同じくらいペロニア人が憎かった。今までこんなことを感じたことはなかった。味方の体に弾がめり込む不快な音がヒニーネに憎悪を与えたのだ。
「何でなんだろう?」メッゼは銃の機関部に額を押しつけた。「さっきまで俺たちはラム酒相手に馬鹿騒ぎして、コルクの取り合いなんかしてたのに」
「考えないほうがいいよ。メッゼ」ヒニーネが忠告した。「今は殺すことだけ考えよう」
メッゼはまるで世界の終りを見たような衝撃を受けて、顔をあげた。
「どうした? お前らしくもない」
「僕にも分からない。けど、ペロニア兵が憎くてしょうがないんだ。今だったら何人でも殺せる。子供でも女でもペロニア人なら何人だって殺せる気がするんだ。だって、おかしいじゃないか。あいつらが襲ってきたりしなければ、僕らは倉庫の前でラム酒の取り合いを見て、笑い声を立てていられた。あいつらがやってこなければ、なにもかも忘れられたんだ。僕は誰も殺さないでもよかったんだ。メッゼもミューネもアーヌローさんもこんなところにいないで済んだんだ! それなのにあいつらは攻撃してきたんだ。あいつらは皆殺しにされて当然なんだ!」
ヒニーネの語気が荒くなる。メッゼは黙って近づくと、ヒニーネの肩をつかみ、銃を力ずくで取り上げた。
「僕の銃だ!」
ヒニーネは金切り声をあげてメッゼに飛びかかった。上背のあるメッゼは小柄なヒニーネを簡単に組み伏せ、板床に押し付けた。
「離せ、メッゼ! 僕はあいつらを殺すんだ!」
「ダメだ! 今日は殺すな。絶対に殺すな。普段のお前なら問題ない。でも、今のお前はダメだ。そんな状態で殺してみろ。もう後戻りできないぞ」
「銃を返せ、メッゼ!」頭に血が上ったヒニーネは組み敷かれたまま暴れ、メッゼの肘から抜け出そうとした。「返さないと絶交だ!」
「ヒニーネ。お前、疲れてるんだ。俺には分かる」
「分かるもんか! 一人も殺していないくせに!」
「ああ、殺してない。だから、わかるんだ。お前がいまギリギリの線をさまよってることが。俺はスコープを覗いてるお前の顔をいつも横から見てきた。人の頭を撃ち抜いても少しも怯まない冷酷な顔だ。でも、そこに憎悪はなかった。ただ、自分を押さえつけてる辛さだけがあった。だから、俺には分かってた。ヒニーネはまだ大丈夫だって。戦争が終われば、また元通りになれるって分かってた。でも、今のお前は違う。マフラーで顔を隠し始めたころから、お前は弱ってきた。お前は優しいよ、ヒニーネ。だから人を撃つとき、お前は我慢してきた。でも、もうそれも限界になってきてる。だから、お前は不安定なんだよ。これ以上我慢せずに済む方法を探してる。そして、いまお前は何人でも人を撃てるようになりたいばかりに憎悪に頼ろうとしてるんだ! わかってるのか? その先を? 憎悪に囚われた人間がそこから抜け出すのにどれだけ苦労してきたかわかってるのか? 俺は知ってるぞ。クソ親父に何度も殴られて、弟が病院暮らしになるのをただ見てるしかなかった俺は知ってるんだ。だから憎悪が怖いんだよ。お前は憎悪なんかに頼るんじゃない。そんなものに頼るくらいなら、銃を撃つのなんかやめるんだ」
「撃たなかったら、僕らは死ぬんだ……」
「死にやしないよ、ヒニーネ。お前が撃たなくても死にやしない」
メッゼはそっと離れて、銃を壁に立てかけた。ヒニーネは銃眼の脇にうつむいたまま膝を抱えた。




