21.将校たち
それから一週間、前線で工兵たちは休みなしに陣地を増設した。機関銃と弾薬、予備の銃身、木材、煉瓦、土嚢が次々に運び込まれ、各小隊の物置を埋め尽くしたものだから最前線の兵士たちは嫌でも敵の攻勢が近いことを感じていた。
それは不安でもあるが、同時に鬱屈した膠着を打開するいい機会でもある。ペロニアに占領された南部出身の兵士たちには特にその感情が強かった。占領された南部地域の噂は戦場にまで届いている。生家を壊され薪にされてしまったものや、かつて住んでいた町がペロニアの補給基地にされたもの、村が吹雪で完全に埋め尽くされたものはペロニアへの報復を叫んでいた。
デウムバルトナ中尉も届いた物資を使っての防御陣地構築を指揮し、鼻息の荒いバイネ少尉とコチップ軍曹には哨戒にあたる人数を増やして、敵の攻撃に備えるように命じていた。
二人が出て行くと中尉は物思いにふけった。浮かない考えが頭から離れなかった。
というのもクラーメン大尉がデウムバルトナに直々に言ったのだ。もし、敵が攻勢をかけてきたら、最前線は破られる可能性が強い。だから後背地にも防御陣地を構築しろ。もし前衛が破られたら、後衛まで退いて頑強に抵抗しないといけない。たぶんうちの師団は始めの攻撃で疲弊しきって攻撃どころではなくなる。とにかく我々は攻撃を防いで敵の前線に穴を空けるのだ。攻撃が始まったら二日間。なんとか耐えないといかん。地獄のような二日間だ。
小隊の調子は絶好調だった。バイネ少尉はよくやってくれているし、コチップも心を入れかえて分隊を厳しくシメてくれる。地下陣地の後背に新たな防衛線を築いた。機関銃も増えた。コンクリートと工兵の数には相変わらず不安を感じるが、地底湖の制海権は完全にこちらのものだ。敵は狙撃兵を恐れて姿を見せない。その間に大岩の上には我が軍の陣地が次々と構築され、機関銃がここにも据えられた。
ただ、敵の攻勢が近いという噂は将校たちの感情を機敏にしている。
例えば、クラーメン大尉は……
「脱走兵が出ないようにしたまえ、中尉。いや脱走など出来っこないことを言い聞かせたまえ。このトンネルには逃げ道なんてないし、外に逃げおおせたとしても、吹雪の中をどう逃げる? このヒューボルランドでは人間は軍隊なしに生きることなど出来ない。逃げ場などないのだ」
「大丈夫です、大尉殿。小隊の士気は旺盛です」
「そうだろうさ、中尉。士気は高い。だが、それに水を差すように師団長が訓令を出してきた。脱走者は銃殺刑? ふん! できるものか、くそったれめ。前線は前線、司令部は司令部だ。くそっ……中尉、はやく戦いたいな。こんな穴倉抜け出して、ペロニア人どもを相手に大暴れしてやりたい。なんて戦争だ。こんな泥と氷と板切れの中で誰が脱走するものか。できるものか。畜生が! この忌々しい戦争は戦死者ばかり出しやがる。英雄など生まれっこない。穴倉を小動物みたいにこそこそ這い回る戦争なんて有史以来聞いたことがない。ペロニア軍に骨のあるヤツがいれば、おれは喜んで一騎討ちに応じてやるのに! 我々とペロニア軍を隔てるあの真っ暗な洞窟で敵味方の照明ロケットが飛び交う下、敵とサーベルでやりあうのは気分がいいだろうなあ! それで死んだとしても名誉の戦死だ。悔いはない。洞窟で撃たれないように胸壁に隠れるよりはずっといい。くそっ、こんなの戦争ではない」
クラーメン大尉は自分の中隊が敵の主攻にさらされると信じきって気難しくなっていた。
パンミル大尉はなにか思い悩むことがあるらしくて元気がない。一度、デウムバルトナ中尉とすれ違ったとき、パンミル大尉は少し酔っていて、妙にせっかちだった。
「やあ、中尉。ちょうど話したいと思ってたところだ」
「なんでしょう?」敬礼を返すデウムバルトナにパンミルは必要ないと手を振った。
「うちの大隊に配属された兵士を一人異動することになったのだが、その受け入れ先を君にお願いしたい。これは連隊長には知らせずにこっそりやる非公式の異動だ」
「と、いいますと?」
「俺の魂を救ってほしい」
パンミル大尉はデウムバルトナ中尉の肩をつかんだ。
「うちの隊に……担架兵の少女がいるのだ。見ていて辛い。俺の隊はきっと敵の突撃にさらされる。もしかしたら全滅するかもしれん。だから……頼むよ、中尉」
パンミル大尉の落ち込み方が尋常ではない。引き受けると返事をしながらも、デウムバルトナ中尉の気は重かった。少女を引き受けるなんて本当に気が重い。我が軍は女の子も狩り出すほど人手が足りないのか。これは士気に悪影響だなあ。そもそも空き居住壕があったかな? 女の子をあらくれ男どもと同じ部屋に入れるわけにはいかない。ああ、だめだ。もう、僕の隊には空き部屋が残ってない。こりゃ新しく部屋を掘らないといけないな。
頭の中で部屋掘りシャベル部隊の編成を考えているとパンミルがなにか聞きたそうにしていることに気がついた。
「まだなにかありますか、大尉殿?」
「ずっと前から聞きたかったんだが……デウムバルトナ将軍と手紙をやり取りすることがあるのかね? たとえばお互いの近況を知らせあうとか」
「いえ、ありません。大尉殿。親子ではあっても、そこは階級のケジメがあります。もし、どうしても書簡を送る場合、まずクラーメン大尉にその旨を伝え、そこから連隊へ……」
「違うんだよ、中尉! 俺が言いたいのは……。いや、質問を変えよう、中尉。最後にデウムバルトナ将軍と会ったのはいつだね?」
「あれは確か、開戦の一ヶ月前です。私が休暇をもらって実家に帰りまして。そこで……」
「戦争が始まってからは?」
「あっておりません。大尉殿」
パンミル大尉は苦しみぬいた末に吐露した。
「どうしてきみの父上は、そうでいられるんだね?」
パンミル大尉はよろよろと自分の中隊方面へ帰っていった。
元教師のリューン中尉は神経がすっかり参ってしまっていた。ある日、中隊指揮所の近くでバッタリ鉢合わせしたとき、リューン中尉は苦み走った表情で辛辣な言葉を浴びせてきた。
「少年兵は全員、安全な後背地に送るべきです」
「僕もそう思いますよ」
「では、中尉。クーヌ二等兵とヴィセントリン二等兵を送り返してください」
「そうしたいのは山々なんですが、彼らはいまや小隊には欠かせない存在ですよ。彼らのおかげでペロニア兵は地底湖に入ってこない」
「そら、やっぱり! 出来ないじゃないですか。中尉、あなたは偽善者ですよ。あなたはそうやってクーヌ二等兵を手元に起きたがっている。戦争の道具にしているではありませんか」
「そう言われても反論は出来ませんね。でも、僕らは軍人です。フロステルに攻め込んだペロニア人を全て追い払うために僕らは全力を尽くさなければならないのです。残念ながらクーヌ二等兵を前線から外すわけにはいきません。これに関しては考えても辛いだけです。もし、クーヌ二等兵を外せば、地底湖に敵が迫り出してまた小競り合いがおき、死者が出ます。でも、クーヌ二等兵がいるかぎり、敵は手を出してきません。おかげで地底湖では誰も死なずに済む。やっと手に入れた膠着のバランスです。少なくとも次の攻撃があるまで、この静謐を崩したくないんです」
「あなたはペロニア人です」
リューン中尉の唐突の発言にデウムバルトナ中尉はきょとんとした。
「ええ、僕はペロニア系フロステル人です」
「違う! ペロニア人だと言ったんだ! 中尉、あなたは冷酷です。少年を狙撃兵にして何人も殺させるなんて冷たいことができるのはあの血の凍ったペロニア人以外にいるわけが……」
ない、と言う前に中隊指揮所の入口からクラーメン大尉の大きな拳が稲妻の速度で飛び出し、リューン中尉の頬骨にめり込んだ。それから大尉は憤怒にまかせてリューン中尉を蹴飛ばしまくるものだから、デウムバルトナは中隊副官のローキーゼンと一緒にクラーメン大尉を羽交い絞めにしなければならなかった。
その夜、リューン中尉がデウムバルトナの塹壕を訪れた。痛々しい姿だった。顔中に包帯を巻き、膝の関節を時折痛そうにさすっていたが、その口から出された謝罪の言葉はもっと悲痛なものだった。
「許してください、デウムバルトナ中尉。軍人として、いえ、人間として恥ずべき行動でした。こんなこと言い訳にもなりませんが、私はどうかしていたんです。神経が参ってしまったのです。こんなことでは軍人失格です。中尉、私は昼間、あなたに対し本当に酷いことをいいました。人種差別も甚だしく、こんな自分がかつて教壇に立っていたことが恥ずかしくてなりません」
「そんなことありませんよ、リューン中尉。あなたの言うことは説得力がありました。やはり普段から若く荒ぶる移り気な生徒たちを相手にしている人は言葉に秘める熱意が違うと感心してしまったくらいです。それに僕がペロニア人であることは事実です。これに関しても否定はしません。まあ、困ることがあるとすれば戦闘中に味方に誤射されはしまいかと冷や冷やするくらいでしょう」
リューン中尉は腫れた目に涙を浮かべていた。デウムバルトナは優しく肩に手をおいたが、リューンが痛そうに震えたので慌てて手を引っ込めた。
「お願いです、デウムバルトナ中尉。私に憐れみをかけないで下さい。そんな価値のある人間ではないのです」
「憐れみを必要としない人間は幸せな人間だけです。リューン中尉、あなたは不幸ですよ。その不幸の原因はあなたの善良さにあります。僕は死ぬのが怖いのと卵を食べられなくなるという自分勝手な理由から戦争が辛いのですが、あなたは違う種類の人間です。あなたは敵味方を問わず、人の死に対して無関心を装えない善良な人ですよ。だから、戦争が辛いんです。だから、僕は思うんです。あなたのような善良な人が一人も敵を殺さないまま終戦まで生き残ることが出来たら素晴らしいな、と」
リューン中尉はデウムバルトナの手にすがりついて泣き崩れた。
兵や下士官、将校ではあるが分隊長暮らしの長いバイネ少尉は動じない。全く平常だ。彼らは規定どおり見張りに立ち、散発的に発砲し、銃の手入れを怠らない。通路の横穴で煙草の交換に勤しみ、果実酒を盗み飲みし、調理壕ではタラとアイナメの煮物が彼らの腹に収まるべく出来上がっている。温かいままシチューを食べるために調理壕と持ち場を駆け足で往復する頼もしき勇者たちだ。
ただ、以前よりも残酷になった。以前なら無人地帯で死にかけている敵兵には銃眼から慈悲をかけ、トドメの一発を撃ち込んでいたが、最近では叫ぶにまかせて死ぬまで放置している。総攻撃の噂は兵士たちの心の中に見えざる凶暴性を植えつけている可能性があった。
デウムバルトナは連隊の物資集積所にイフリージャ産のラム酒が運び込まれたのを知っていた。どう考えてもおかしい。こんな高級酒をどうして今になって? 末期の酒以外に考えられない。上層部も今度の反撃ではかなりの犠牲を覚悟しているのだ。
(父さんも大変だな)デウムバルトナはベッドに横になり、最後に父親と会ったときのことを思い出した。
一年以上前、デウムバルトナ中尉は私服姿で実家に帰った。雪が積もる前で並木道には緑樹が茂り、蒸気橇はまだ車庫で幌を被っていた。両親は王都の郊外、小さな中庭のあるアパートに暮らしていた。もっと大きな持ち家があったのだが、維持費がかかる上に住むのは老人二人、おまけに将軍の給料はさほどいいわけではないので、人に貸して収入にしていた。デウムバルトナが着くと父親はガウン姿で窓際におり新聞の釣り情報に目を通して今度の休暇で行く予定の湖を探していた。母親は久しぶりに帰った息子のために卵料理を作っていた。デウムバルトナ中尉は山高帽を帽子掛けに引っかけた。すぐ上には父親が釣りの時に被る毛鉤つき帽子がかかっていた。
「すいませんね、父さん。せっかくの休みを僕のために取っておいてくれて。本当は鱒釣りに行きたかったでしょう?」
「リスデルモ、そう拗ねんでもいいよ。鱒釣りはいつでも行ける。戦争さえ起こらなければ将軍なんて暇なもんだよ」
「その点は将校も似ています。あのとき鉄道技師になっていたら、と今でも思いますよ」
「そのことは母さんに言わないほうがいいな。私たちの前では気丈に見せているが、本当はお前の言葉を気にしているんだよ」
「別に職業のことで母さんを恨んでいません」
「それは知ってるさ。でも、母さんはお前のしたいようにさせるべきだったと心に引っかけている」
卵を焼くいい匂いがしてきたのでデウムバルトナ中尉は鼻をひくつかせた。デウムバルトナ将軍は新聞を置いて立ち上がり、
「どれ、母さんが腕によりをかけたオムレツだ。ありがたく頂こう、リスデルモ」
地下塹壕通路から吹き込む湿っぽくて冷たい風が中尉を現実に引き戻した。
(父さんは人に犠牲を強いることができるほど強い性格じゃない)
デウムバルトナ中尉は塹壕の机を片づけてランプを置くと、泥だらけの文具箱から一番きれいな便箋を出した。