2.開戦
十月十一日、クーヌ邸。
フロステル議会の保守政党、氷山党のクーヌ議員はいつも通りの時間に目を覚まし、いつも通りの時間に朝食に降りた。時間を几帳面に守ったのは心中の動揺を家族に悟られないためであった。
クーヌ議員は夜中、突然の来訪者に起こされた。国王の使者である。明朝、緊急の議会を召集するので議員は全員登院するようにという命令だった。一体、何事です、と尋ねると使者は震えて言った。
「戦争が起きます」
来たか。クーヌはペロニアでクーデターが起きて以来、尋常とはいえない政策を次々と実施する魔法政権に危惧を抱いていた。内戦に明け暮れ、自国民をテロにかけ、エルフロアには亡命政府すら発足させられたペロニア魔法国が強気な態度で外交を展開する背景にはその強力な軍である。軍事力を背景に亡命者難民の送還問題で執拗なまでに恫喝を続けるペロニア魔法政権に対し、クーヌは話の通じる相手ではないと感じていた。
あれは狂信者の集まりだ。ペロニアは今、恐怖政治で統治されている。彼は事あるごとにそう漏らした。そうした風潮はフロステル世論でも支配的で狂犬と化したペロニアがフロステルの雪にまがまがしい足跡をつけようとしている風刺画が盛んに新聞で刷られていた。だが、心の中では『まさか戦争までは起こるまい』という楽観もあったのだ。
その『まさか』が起きた。ペロニア魔法政府がついにとうとう暴走した。自分たちに逆らった亡命者を思い通りに処刑したいというただそれだけの理由でフロステルに最後通牒を放ったのだ。昨夜、その内容を聞いたとき、クーヌは怒りに震えた。やはりペロニアは狂った。その理不尽な牙がついにフロステルに剥かれたのだ。
朝食の席でも妻と娘が戦争のことで盛んに騒いでいた。
「起こるかしら?」
「きっと起こるわ、お母様」
「やめんか。女のする話じゃない」
クーヌ氏は眉をひそめ、卵にぱくついた。
十月のフロステルはもう雪が積もり、明り取りの窓から雪の反射光が差し込んできていた。昨日も夜通し降ったのでやわらかな新雪が道を屋根を庭を覆い、時折吹く風に舞い上がっている。
「じゃあ、お父様」十八になる娘が言い返した。「戦争にはならないの?」
「やめようよ、姉さん」息子のヒニーネが言った。
クーヌ氏はまた眉をひそめ、お代わりの蜜を小間使いに注がせた。
一人息子のヒニーネは十六歳になったばかり。性格が善良で人当たりの良いのは認めるが、反面覇気がなく男らしさがない。いつもポケットに詩集を入れていて、窓際で頬杖をついて本を開いている姿など余りに弱々しくて女々しい。妻と娘が戦争の話をするのはあまり好かないが、息子が戦争と聞いて、おどおどするのも頼りない。
会話が途絶えてしまった。静かな朝食を終えるのに時間はかからない。クーヌ氏は乱暴にナプキンを放ると、いそいそと出支度を整えた。
毛皮帽子と外套を身につけ、玄関から馬橇までのわずかな距離を雪に洗われながら歩く。
「父さん」背後から細いが芯の通った声がかけられた。
振り向くとヒニーネが玄関先に立っていた。
「どうした?」いつもと違う様子にクーヌ氏はつい探るような目を向けた。
父の怪訝な顔にヒニーネは苦笑した。
「……いえ、何でもありません。お気をつけて」
雪に吹き飛ばされてしまいそうな我が息子に溜息をつきつつ、オーバーシューズのかかとを橇に足場にかける。
橇が新雪の深く積もった道を走り出し、息子は白い景色の中に消えていった。
雪降る白い目抜き通りには黒い外套を着込んだ新聞売りが『すわ戦争か?』と大見出しを打った号外を売り歩いている。市民はみな広告塔の周りでそわそわし、政府はペロニアの要求を呑むのか、フロステルの独立を守るのか、と侃々諤々の議論が交わされている。職人たちも仕事が手につかず、宣戦布告の勅令がいつ出るかと急いていた。蒸気橇に『フロステル独立万歳』と書きつけた幟をつけて走っている連中もいる。世論は開戦に傾いていて、前代未聞の最後通牒を下した狂気のペロニア魔法政府に正義の鉄槌を下してやろうと息巻いていた。
「フロステルをなめんなよ!」
「魔法万能主義者の横暴を許すな!」
フロステル人の外見は寒々しい。曇り空のような青い髪と暗い群青の瞳、滑らかだが全く赤みがない白い肌。しかし、その体内には熱い魂が宿っている。凍土と外敵に立ち向かい、自分たちの故郷と家族を守り抜いた熱気が今もなおその体内に煌々と宿っているのだ。
「うちのヒニーネにもそのくらいの気性があればなあ」
アライグマの襟に首をうずめ、クーヌは溜息をついた。線の細い息子は雪の町を歩いていると、そのまま白夜の中に消えてしまうのではないかと思うほど影が薄い。
雪を被ったアパートをいくつも通り過ぎ、やがて議事堂のシルエットが白い風の中にうっすらと浮かぶ。その柵沿いに蒸気橇が何台も走り、議員たちが次々と車止めに集まっていた。みな橇を降り、前庭の雪をオーバーシューズで踏み固めながら、大きな玄関扉を次々とくぐっていく。外套室の係官は預けられた外套から残りの雪を叩き落とすのに忙しいし、白い上衣の守衛たちもこれから持ち上がる議題のことで顔つきが強張っていた。議員たちの緊張は言うに及ばず。各政党の議員たちが控えの間や喫茶室で集まり、国王陛下はどんな演説をなさるのか、ペロニアにどんな返答をするつもりかと興奮して意見を述べている。
クーヌ議員も氷山党の領袖が集まった広間で長椅子に腰を下ろし、友人であり同じ氷山党議員でもある紳士の強硬な意見に耳を傾けていた。
「僕は開戦に賛成だ。フロステルが誇り高き独立国であることをペロニアの魔法至上主義者たちは思い知る。その授業料は高くつくぞ」その友人は演説慣れした議員相手に熱っぽく弁をふるった。「今朝、せがれたちが三人とも入隊したんだ。こんなに誇らしいことはない」
子供の話をされるとクーヌは耳が痛くなる。この友人の子供たちには会ったことがある。この友人が誇りに思うのも分かるたくましい若者たちだ。
それに比べ、うちのヒニーネは……
友人がいかにしてペロニア魔法国が打ちのめされるかを手のひらに叩きつけた拳で喩えている間、クーヌ議員は対面の壁に集まった一団の様子が気になっていた。燕尾服を着た男たちが十人ほど集まり、頭を寄せて、ひそひそと話し合っている。
魔法党の議員たちだ。彼らの立場はかなり微妙だ。ペロニアの新政権を天の高みに昇った新しい統治形態と誉めそやしたのは彼らである。その統治形態が高みから彼らの頭上に落ちてきたのだ。彼らがペロニアの狂信者たちと運命を共にするか、フロステルと共にするのかは焦眉の話題のはずだ。
「もし、あいつらがペロニア反乱政権が出した無礼千万な条件の承諾を毛筋ほどでも……」血の気の多い友人がその大きな肩をいからせて言葉を強調した。「いいかね、毛筋ほどでも仄めかしたら、そのときは見ていたまえ。ツララで叩きのめしてやる」
窓の外にはおあつらえ向きの太いツララが牙のように垂れ下がっていた。
午前九時、ついに議会が開催された。出席した議員は一五〇名。全員である。
クーヌ氏の席は半円状に並ぶ議席の右端だった。ちょうど演説台の真横であり、演説する議員の横顔を左から眺めることが出来る。
クーヌ氏はこの席から何度も眺めてきた。議会開会の際の国王の宣言、議会を沸かせた百年に一度の名演説、疑獄事件で弁明する銀行頭取の落ち着かない手つき。全てを演者の左側から見届けてきた。
そして今日見届けるのはフロステルの独立がかかった国王の議会演説である。自分が歴史の瞬間に立ち会っていることにクーヌ議員は身震いした。
保守的な氷山党もリベラルの『雪解けの春』も急進左派の魔法党も同じ心持ちであるらしく、着席が済むと国王の到着を粛々と待った。
静まり返った議事堂に外の歓声が聞こえてきた。目抜き通りを議会へ急ぐ四頭立ての橇から国王夫妻と王太子が手を振っているのだ。沿道の市民たちから歓喜の声で迎える。
そのうち国王が議席中央の大扉から、その大柄な体を質素な軍服に包んで現れた。議員全員が起立して迎える。
国王の横には雪のように白いドレスの王妃とまだ幼い王太子と王女がいる。この小さな貴賓たちは議会の重々しい雰囲気に只ならぬ事態を子供なりに感じ、不安げに父親を見上げていた。王妃が優しく子供たちを抱きかかえる。クーヌはこの家庭的だが荘重な一幕に心を奪われてしまった。
国歌斉唱の後、演説台に立った国王は重々しく口を開いた。体に似合わず高い声だが、事態の深刻さが自然と重みを与えている。
「議員諸君。文民政府が議会にのみ責任を負うフロステル王国において、平時の国王は政治上何の権能も有さない。その私が憲法上認められた権限において、急の議会を召集し、この演台に立つことになったことには相応かつ重大な理由がある。もう既に聞き及んでいることだろう。ペロニアの反乱政権から我が国に対し、最後通牒が交付された」
どよめきと憤怒の唸り声。あえて用いた反乱政権という言葉に国王の憤りを察するものもいた。国王は続けた。
「彼らの主張はペロニア人亡命者二千人を引き渡し、国交を樹立せよというこの二点に絞られている。さもなくばペロニア軍はフロステル国境全域を突破し、首都を占領するとある。私はこの理不尽な要求を承諾するつもりはない。だが、それは開戦を意味する」
静寂。議員たちは次の言葉を待った。
「私は手短に知らさなければならない。犠牲の可能性と救済の手段をである。犠牲とはこの戦争で二千人のペロニア人亡命者を守るため、二万人のフロステル人が倒れることも有り得ること。そして救済とはフロステル政府はこの戦争を回避する方法を手中に握っていることだ。それは我が国に亡命したペロニア人を引き渡し、ペロニアの反乱政府を正式な政府として認めればいい。それで戦争は回避できる」
国王は目を閉じた。
動揺が波紋のように議席を広がっていく。
どよめきが収まると、国王は開いた眼に決意を宿らせ、強い口調で続けた。
「だが、その末に待っているのはフロステルの独立喪失である。粛清を目的とした亡命者引渡しに応じた事実は未来永劫フロステルの汚点として残るだろう。主権侵害に屈服し、次なる侵害がないという保証はない。ペロニアの要求はエスカレートし、我々の国を蝕む。なぜなら自国の運命を軽々しく手放した国に出来ることは、ただ屈することだけなのだ。だが、不義に対抗する愛国心に恵まれた国に対して、同じことは通じない。それが例え氷に閉ざされた小国であってもだ。立憲君主として私は議員諸君が正しい決断を下すことを心から願う。守られるのはフロステルの独立心であることを想起してほしい。私はフロステルの若者が大きな勇気と溢れる熱情をもって、フロステルを愛していることに自信がある。その帰りを待つ家族が戦う若者を献身的な愛で支えることも知っている。その愛が侵略者によって吹き消されることは有り得ないと断言できる」
議会が沸いた。氷山党でも『雪解けの春』でも、そしてフロステル魔法党の議席からも歓声が鳴り響いた。
「フロステル万歳!」
「国王陛下万歳!」
「独立万歳!」
国王は厳かな顔で議席の最上部にかけられたフロステル国旗を見つめた。白地に青い獅子が向かい合うその旗のもと国民が集ってくれると信じて。
クーヌ議員はボタンを引きちぎらんばかりに胸をかきむしり、何度も万歳と叫んだ。叫ばなければ胸が破裂してしまいそうだった。この胸を埋め尽くす高揚が愛国心であるならば愛国心というものは何と大きな感情であろう!
氷山党議員は声を枯らして、フロステルを称えた。あの友人の野太い万歳も聞こえてくる。『雪解けの春』では感激の余り気を失った議員もいたし、戦前あれだけペロニア魔法政権に肩入れしていた魔法党の議員たちもフロステル人としての独立の尊さに涙を流していた。
議事堂を囲む民衆からも万歳の声があがり、その熱狂で街の凍てが融けてしまいそうだった。
町々では開戦と総動員の布告がなされ、予備役の市民が背嚢に傘やランプを突っ込んで、連隊兵舎に向かって行進している。彼らははやくペロニアを迎え撃とうと騒いでいた。
教会から鐘と聖歌が鳴り響き、町中でフロステル国歌『雪と風、我らを守りたもう』が唱和され、兵舎に向かう私服姿の予備役兵士や既に軍服姿の現役兵士を激励している。
平時においてフロステルは選択徴兵制である。徴兵から外れた若者向けの志願兵募集所が開設されると、若者たちは仕事や学業を放り出して、志願兵名簿に殺到し、ペンを取り合って我先にと名前を綴った。
「フロステルを守ろう!」
熱っぽい彼らの合言葉が波となって市内に広がった。
クーヌ議員が帰宅する途中、こうした熱狂に阻まれて立ち往生したことが何度もあった。
徴兵担当の将校が雪降る街角に粗末な机を持ち出し、志願者は一列に並んで、と叫んでいる。すると市井の男たちが波となって押し寄せ、通りを塞いでしまった。明らかに小学生にしか見えない少年や七十を越えている老人まで詰め寄るものだから、寡兵所はたちまち大混乱となった。被服工場の女工たちがスカートを捲し上げて突き進み、縫い針を剣に持ちかえて女も戦うべきだ! と叫ぶ光景はなんと勇ましいことだろう。
クーヌ氏は橇から身を乗り出して、熱い涙を頬に伝わせていた。感極まって橇を降り、自分も一兵卒として軍に志願しようとしたが、議員であることと五十歳を越えていることを理由に拒否されてしまった。
「この熱情!」
自然と息子のヒニーネを思い出す。雪の中で見せた力ない微笑。出発前に見た息子の姿はなんと頼りなかったことだろう。息子にもこの若者たちの百分の一でもいいから男らしさがあればなあ!
家に帰ると、家族に町の愛国的な様子を知らせようと玄関を駆け抜けた。
妻と娘、それに使用人たちは客間でおろおろしていた。クーヌ氏は不思議に思わなかった。戦争が起きたのだ。動揺もするだろう。
「ああ、あなた! 帰ってらしたのね! これを、これを!」
夫人が震える手で一枚の手紙を突き出してきた。ヒニーネが詩を書いたりするのに使う便箋で飾り罫の上には詩を愛する若者らしい繊細な筆跡でこう綴られていた。
尊敬する父さん、敬愛する母さん、そして親愛なる姉さんへ
突然、家を飛び出したことを許してください。僕は祖国を守るため、この命を捧げることにしました。これは前から決めていたことです。僕は以前から、もしフロステルが戦争に巻き込まれたら、年をごまかして志願入隊しようと心に決めていました。僕は未熟で若いからでしょうか? 身を焦がすような情熱を前に僕は留まっていることが出来ませんでした。自分の体の中にこれほどの熱を感じたことはありません。愛国心は僕を包み込むのではなく、僕の中から噴き出しているようです。この愛すべき祖国から侵略者の軍靴を一掃するまで僕は戦います。このフロステルの雪原にペロニア軍の黒い足跡を残すくらいなら、戦いの末、自分の鮮血で雪を染めたほうがどれだけ幸福でしょう! ただ心残りは家族の誰にもちゃんとした別れを告げなかったことです。このことだけが僕の心を締め付けます。母さん、どうか悲しまないで下さい。姉さん、どうか心配しないで下さい。そして父さん、どうか見守って下さい。クーヌの名に恥じない行動を選んだ自信があります。僕は祖国を守るためこの微力を尽くす所存です。
もっと書きたいことはたくさんありますが、時間がありません。志願兵の枠が埋まってしまうと未成年の僕は入隊を断られてしまうかもしれないからです。手紙は必ず書きます。こんな形で別れを告げたことを許してください。最後に接吻を送ります。
あなたたちの忠実なヒニーネより
「ヒニーネが戦争に!」
夫人と娘は泣き暮れていた。
クーヌ氏は不思議な心持ちだった。本来なら喜ぶべきことなのだ。いつも息子に望んでいた気概がこうして露わになったのだから。息子は軟弱だったのではなくて、国を愛する熱意を静かに醸成させていたことがわかったのだから。だが、心の準備が出来ていなかったせいで、どうしても喪失感が付きまとう。まるで夢を見ているような感じだった。
「ヒニーネが戦争に?」
クーヌ氏は一人ごちた。
「ヒニーネ……戦争……」
ヒニーネと戦争。
さっきまで結び付けたいと思っていた二つの言葉。
何度繰り返しても、この二つの言葉はしっくりこなかった。




