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19.湖の死神

 コチップと二人で偵察したあの日以来、小隊兵士の間でデウムバルトナ中尉はちょっとした伝説の域に達した。

「あんなにおっとりしてても、中尉は大した肝っ玉だよ」

 ランクガルナーがコチップ軍曹によって葬り去られた後、それに気づいていながらもコチップと偵察をした中尉はナック軍曹並の怖い物知らずということになったのだ。

「コチップ軍曹も一回目の偵察の後はちょっと様子が変だったものな。ほんの少しだけど傲慢になったっていうか……。まるでランクガルナーの小僧がのり移ったみたいだった」

「神経質になってたのさ」

 中尉の新しい武勇伝について、アーヌロー一等兵とメッゼが話していた。古参兵が盛んに中尉を誉めたて、メッゼが適当に相槌を打っている。

「でも、二回目の偵察で戻ったときには元の軍曹に戻ってた。デウムバルトナ中尉も軍曹もなにも言わないから分からないが、噂じゃ雪の中であの谷を前にして中尉が上官のケジメをつけたんだって。それも中尉が谷べりに立って、軍曹に背を向けてだよ。やるもんだよ」

「あんなにコロコロしてるのにな」

「ああ、俺の母ちゃんみたいに太ってらあ。でも中尉はやっぱり勇者だよ。開戦時からずっと生き残ってるんだから。中尉はペロニア人で将軍の息子だが、前線じゃそんなことは関係ない。自分の肝っ玉だけでやってかなきゃならねえ。中尉は部下をぶん殴るなんて絶対にしないが、だからってあの人をバカにしたり甘く見たりする兵隊は一人もいない。たぶん、将軍の息子だから生まれながらにして人を率いる資質があるのかもしれん。あの人は勇者だよ」

 話しているうちに興奮してきたのか、アーヌローの話はつじつまが合わなくなってきていた。

 さて中尉が勇者の称号をいただいているあいだ、ヒニーネもあだ名をもらった。

 湖の死神。

 ペロニア軍でのあだ名だったが、最近は友軍の間でもその名が囁かれるようになった。

 あれからヒニーネは十人、消音器を装着した狙撃銃で殺した。二人一組で行動するペロニア人の偵察をまず一人撃つ。残った一人がどこから弾が飛んできたのか分からず、戸惑っている間は手を出さない。見当違いの場所に隠れて安心し、動きが止まったところ、安堵の息をついたところで撃つのだ。ヒニーネは高級将校も一人殺した。その将校が前線歩きに慣れていないことは金モールつきの軍服と整髪油で整えた口髭、そして信じられないほどの無用心で簡単に見てとれた。おそらく連隊長で視察に来たのだろう。高級将校は丈の高い二角帽をのせた頭を銃眼からひょっこり出して、しかめ面で地底湖の暗闇を見つめていた。本当なら潜望鏡を使うべきだった。ヒニーネは静かに息を吐きながら、その将校の皺がよった眉間に狙いをあわせ、引き金に指をかけた。

 プシュ! 軍帽の白い玉房飾りが赤黒く汚れ、胸壁の向こうに消えていく。

 ヒニーネはこの消音器が大嫌いだった。プシュ!と静かな銃声は冷たく感情がこもっていないし、安全な位置で人を殺す狙撃手の嫌なところが助長されているような気もした。ただ、音と光を封じて狙撃が出来るのは都合がよかった。敵に位置を悟られず、安全に撤退できる。殺される危険が少なくなる。ヒニーネは死にたくないから消音器付きライフルを使い、敵を殺し続けた。

 実家から届いた手紙も悲報を届けるばかりで慰めにはならなかった。精霊機関で働いていた祖父が過労で倒れて亡くなった。最後までヒニーネの名前を呼び続けていたと書いてあった。ヒニーネは祖父が大好きだった。最初の詩集をくれたのも祖父だった。ヒニーネはその詩集を今も大切にポケットの中に入れている。手紙を読んだヒニーネは毛布を持って部屋を出ると、物置の端で毛布を口に押しつけ、声を殺して泣いた。

 次の手紙では父も元気がなく、一度体を壊して入院したことが告げられた。

「父さん……」

 ヒニーネは二段ベッドの上に寝転びライフルを抱えると額を銃身にあてた。

 銃身はまだ温かかった。この厳寒にも関わらず、ついさっき一人撃ち殺した熱がまだ残っていたのだ。

「お~い、ヒニーネ」メッゼがベッドの下から声をかけた。「シチューをもらいに行こうぜ」

 メッゼはシチュー皿を振った。ヒニーネも自分のシチュー皿を雑嚢から取り出した。

「うん」

 ヒニーネはマフラーを顔に巻きつけた。最近、外の通路を歩くときヒニーネはまるで犯罪者のようにマフラーで顔を隠していた。

「なあ、ヒニーネ」シチューをもらいに行く途中、メッゼが話しかけた。

「うん?」ヒニーネはマフラー越しに白い息を吐いた。

「お前、最近暗いぞ」

「そうかな?」

「だっていつもマフラーで顔を隠してる。前はそんなことしてなかったろ?」

「寒いからだよ。メッゼもやってみる? なかなかあったかいよ」

「ヒニーネ」

 メッゼは急に真面目くさった顔つきになった。

「他のやつがなんていおうが、俺はお前が優しいやつだってわかってる。いいやつだってわかってるからな」

 ヒニーネは立ち止まった。メッゼも立ち止まり、ヒニーネの顔を見る。ヒニーネはマフラーの上の両目を優しく細めて微笑んだ。

「ありがとう、メッゼ」

 メッゼは恥ずかしそうに笑い、ヒニーネの肩をどやした。

「先着十名は肉たくさん入れてくれるんだと。急ごうぜ」

 二人は運よく七番目と八番目に並ぶことができた。予備壕で寝ていた兵士たちが続々と集まってきて、列に並ぶ。彼らはみな木のさじで器を叩いて、シチューをせびっている。列は通路のほうへはみ出していた。

 調理壕は割りと広く、食堂壕の隣にある。蒸気圧でゴミを地上に飛ばす送風管と換気機能付き石炭コンロ、シチューを入れた樽が並んでいて、板を打ち付けて作った棚には調味料を入れた缶が並んでいた。太って大きな口髭のある炊事兵がシチューの蓋を開けて、中身を鍋に注ぎ、コンロにかけていた。台所には玉葱やニンジンが少ない量で出来るだけ多くの人間に行渡るように細かく切られていた。

「おい、おっさん。玉葱をそんなに細かく切るもんじゃねえよ!」並んで待っている兵士たちがシチューの匂いを嗅いでいる炊事兵に文句を言い立てている。盛んに焚かれるコンロの靄は温かい食事を約束していたので、兵士たちの野次も明るかった。

「そうだそうだ! 煮込んでるうちに溶けちまうじゃねえか!」他の兵士も同調し、嬉しそうに囃し立てた。

「馬鹿どもめ」

 中隊つき炊事兵は軽蔑しつつも気のいいところを含ませて返した。この厨房を仕切る炊事兵は中隊で一番太った大男で軍帽を傾けて被り、外套も上衣も着ておらず、ズボン吊りにシャツ姿、腕まくりまでしていた。厨房はコンロと忙しさの熱気で暑くて仕方がないのだ。それでもまだ暑いらしく、額に汗をにじませて、ふうふう息をついている。兵卒たちには炊事兵の太鼓腹を指してはあの腹は糧食のつまみ食いでこしらえたに違いないと噂されていたが、太っているのは戦前からだった。戦前もコックをしていたが、彼が働いていたのはフライパン一つ一つの火加減に気を配るような上品な店ではない。肉もバターも塊のままで放り込む鉱山食堂だった。客も髭をスープでべちゃべちゃにする荒くれ鉱夫ばかりだったから、口の悪い兵隊たち相手に質より量の食事を用意しなければならない軍隊での炊事もお手の物だった。

「今日は豆と肉のシチューだ。ニンジンと玉葱はシチューのためじゃねえ。タラの添え物だ」

 炊事兵は木のへらで調理テーブルの上に積まれた白っぽい氷の山を指した。氷の山は冷凍タラの切り身だった。

「なんてこった!」おしゃれ髭のベッテ伍長が大仰に手を振って叫んだ。「今日はタラまで食えるのか? とんでもねえご馳走じゃねえか!」

 列の兵士たちもどよめき、とんでもねえご馳走が何の前兆であるか、口々に持論を展開する。

「こりゃ大規模な攻撃があるな。俺たちは真っ先に敵陣に突っ込まされるから、たっぷり食って体力をつけとけってことだ」

「へっ、馬鹿いうな。豪華なメシはこの世の食い納め。死ぬ前にいい思いしとけってことよ」

「じゃあ、ラム酒も出るかな?」

「イフリージャのラム酒かな?」

「イフリージャが参戦したら、援軍よりも武器よりも前にまずラム酒を送って欲しいよな」

「エルフロアには煙草をどっさり!」

「いいねえ!」

 その間、炊事兵は油をひいた大鍋にタラを放り込み、玉葱やニンジンと一緒に炒めていた。

「あったかいものが食えるなんて久しぶりだな」嬉し顔のメッゼはヒニーネの脇腹を肘で突いた。

「うん。後方のキャンプでキャベツのスープを食べて以来だ」

 ヒニーネはいつの間にかマフラーは取っていた。

「肉はなんの肉だろうな?」

「なんでもいいよ、あったかいシチューに入ってる肉なんだから」

 炊事兵がカウンターにやってきて、オホンと勿体ぶった咳をする。

「出来たぞ! さあ、取りに来い!」

 兵士たちが差し出すシチュー皿に炊事兵は大きなさじでシチューを注いでいく。そして平たいブリキの皿にはタラの炒め物をボンと乱暴に放り込んだ。

「丁寧にやれやい! 身がくずれちまうじゃねえか!」ベッテ伍長が文句を言うが、その顔はタラからあがる湯気で綻んでいた。

「うるせい! はやく持っていけ!」炊事兵が言い返す。

 ヒニーネたちの番になると炊事兵が大声で呼びかけ、二人の腕を取ってぐいと引き寄せた。

「おう、育ち盛りども! たっぷり食って背え伸ばせよ!」

 炊事兵は二人のシチューに大きな肉のかたまりを二つ放り込んだ。

「ありがとう、おじさん」

「あんがと、おっさん」

 二人とも冷めないうちに食べようと思い、豪華な夕食を持って食堂壕のテーブルについた。

 非番の兵隊はこの長椅子とテーブルの並んだ食堂壕で食事を取ることができた。汚い板壁の細長い穴倉だが、ランプの黄色い光やちょっとだけ入っている蒸気暖房のおかげで結構快適なのだ。壁には数枚の風景画すらかかっている。

 この小隊に所属していた老兵が戦前に書いたものらしく、淡い緑のパステルで描かれた木立や草原などエルフロアの光景が多かった。その緑の芝や土の道には絵を描いている画家の影が必ずさしてあった。その老兵はエルフロアが好きで住んだこともあると言っていたが、だいぶ前に戦死してしまった。

「あれはブナの木立かな?」シチューの肉を頬張りながらヒニーネがたずねた。

「木のことなんかわかんねえや」メッゼもシチューの肉を頬張った。「薪ストーブや蒸気機関の排気口を描く絵描きってのはいないのかな?」

「聞いたことないよ、そんな絵描き」

「一人くらいいてくれてもいいよな。煙突掃除のための絵描き」

「戦争が終わったら探しに行こうよ。町の市場で絵描きたちが集まっていろいろな絵を売っているのを見たことがあるから」

「いいぜ。生き残る理由がまた一つ増えた」

 地下陣地で見張りについている連中が兵隊を一人派遣してきて、あったかいシチューを取りに行かせたらしい。炊事兵は大きな蓋付きバケツに豆とくず肉のシチューをどぼどぼ落とし、その兵隊に持たせてやった。

「ひゃあ、ぬくいなあ」その男は嬉しそうにスキップして帰っていった。

 スプーンが真鍮皿をつつく音で騒がしい食堂に地底湖のペルモフ伍長が慌しく飛び込んできた。

「よお、ペルモフ。地底湖の連中もシチュー目当てかい」

 炊事兵が軽口を叩いたが、伍長は相手にせず、きょろきょろ食堂壕を見回した。伍長はヒニーネを見つけると大声で叫んだ。

「ヒニーネとメッゼ! 悪いがはやく来てくれ。味方が地底湖の岩場で孤立したが敵の機関銃が邪魔で近づけない。狙撃兵が必要なんだ!」

 狙撃兵。その言葉が冷たい風を呼び起こし、あったかいシチューの湯気を掻き消した。食堂中からささやきが聞こえてきた。

「死神の出番だ」

「なあに、腕がいい。すぐに殺っつけるさ」

 そうした陰口にメッゼがいらだたしげに眉をひそめ立ち上がる素振りを見せるが、ヒニーネが穏やかな声で制止した。

「行こう、メッゼ。夕食はお預けだ」

 ヒニーネはマフラーを顔に巻いた。

「ああ」メッゼは残念そうに顔を伏せた。


 二人は自分の壕に戻り、防寒着とライフルを持って湖に降りた。数人の兵士からなる救出隊が砂礫の岸辺で小舟に乗って、出番を待っている。

 衛生兵たちもいた。デウムバルトナ小隊のベルとグルッツに第六小隊からも二人、さらに隣の中隊の担架兵たちも待機していた。

 大柄の担架兵に隠れる華奢な人影。暗闇で黒真珠のような瞳が二つ、パチパチと瞬いた。

「ヒニーネ、あなたなの?」

 ミューネが声を潜めて、呼びかけた。

「ミューネ……」ヒニーネは言葉を失った。

「あなたも呼ばれたのね。なんだか大変なことになりそうだから担架兵は全員集まれって言われたの。もし、狙撃兵が味方を助けてくれなかったら負傷者が山ほど出るだろうって」

「そうなんだ」

 ヒニーネは細い背中にライフルを隠した。

「おい、クーヌ! 狙撃兵が必要なんだ」

 伍長が早く来いと手招きした。

「狙撃兵?」

 ミューネが首をかしげた。

「ヒニーネが?」

 ミューネの驚いた声が避けがたい障壁に感じられた。

 ヒニーネはただうなずき一言つぶやいた。

「行かなきゃ。任務だから」

 伍長は暗闇でヒニーネとメッゼを捕まえて、ボートのそばまで引き摺ると右側の沖にある大岩を指差して声を潜めた。

「くじら岩のところに味方の偵察が釘付けにされた。連中のボートは蜂の巣にされて沈められているから自力で脱出できない。お前らは左側から回って、敵の機関銃手を狙ってくれ。弾幕がはければ、救出は俺たちでやる」

「はい」ヒニーネはライフルに消音器をはめた。

 手早く小舟に乗り込み、静かに漕ぎ出して、左側の水面を滑る。

「これ以上は近づけない」

 対岸のペロニア軍陣地から飛び出す探照灯の光が目の前の水面を撫でている。これ以上進むとあの光に捉えられるおそれがあった。メッゼは近くの岩場に登り、陣地を狙うことを提案した。

 ヒニーネは首を振った。「あっちの二つの岩の間に舳先をつけられないかい? 低いけどあそこからなら岩の合間を縫って機関銃と照明の両方をギリギリ狙える。いっぺんに倒さないと救出は無理だ」

「わかった。やってみる」

 メッゼは慎重に艪をこいで舟を二つの岩に寄せた。

 ヒニーネは舳先に匍匐し、銃にかけていた布を払った。スコープで新設された機関銃座を捉える。

 機関銃が右を向いていたので射撃手の姿はちょうど煉瓦の壁に隠れていた。

(おびきだそう)ヒニーネはまず探照灯を撃った。探照灯のガラスが割れる。さらに照明を支えるネジを撃ちぬいて完全に使えなくした。

「あっちから撃たれた!」ペロニア兵が騒ぎ、機関銃兵が弾の飛んできたほうを向く。その顔がヒニーネの射界に入った。

 ためらわずに引き金を引く。銃弾が低く唸りながら、機関銃の上を通り過ぎる。機関銃兵は顔の真ん中を撃たれ、ひっくり返った。

(後は機関銃に取り付いた敵を順番に撃てばいい)

 ヒニーネはスコープの照準を機関銃に合わせ続けた。ペロニア軍の機関銃は水冷式で冷却水を銃身に供給するホースがついていて、銃握は二つ、両手で支えるタイプだった。

 背後から水を掻く音が聞こえてきた。救出隊が湖に乗り入れたのだ。

 同時にペロニア兵が機関銃座に顔を出した。

 その途端、頭が弾け、脳漿が飛び散る。

「救出隊は?」

 ヒニーネはボルトを引きながらきいた。

「まだ着いてない。気をつけろ。あいつらのボート、敵の射程に入ってる」

「撃たせはしない」

 ペロニア兵は顔を出さず手だけを伸ばして、機関銃の銃握をつかんだ。おそらく盲撃ちにするつもりだろう。

 ヒニーネは人差し指を撃ち飛ばした。敵陣地から泣き声まじりの悲鳴が響いてきた。

「死神だあ! 湖の死神がいる!」

 ヒニーネは遊底を引いて薬室を開き、黙々と弾を込めた。湖の死神。その名は恐怖と嫌悪をもって叫ばれている。ヒニーネは最近恐ろしい。ライフルの木材が手になじみ、弾を装填する動作が体の一部になっている。あんなに嫌だった消音器の銃声も耳に馴染み始めている。人を殺すことにも慣れてしまった。

 殺し屋。悪魔。暗殺者。

 陣地からそんな声が聞こえてきた。その言葉全てがミューネに聞かれていると思うと、胸が締め付けられる。

「ヒニーネ、やったぞ」メッゼが嬉しさをこらえて、ささやいた。「救出が終わった。後は連中がボートで戻るだけだ」

 ヒニーネもスコープを覗きながらホッとした。これで大丈夫だ。機関銃兵も二人殺され、一人は指を撃たれた。敵もあの銃眼から顔を出せば、たちまち撃たれることは十分分かったはずだ。

(これで味方も助かるし、敵もこれ以上死なずにすむ)

 ところがヒニーネの安らぎを嘲笑うように機関銃座に人影がよぎった。信じられなかった。二人殺されても、なお機関銃を握ろうとする兵士がいる。

(そんなの勇気じゃない。無謀なだけだ)

 ヒニーネは無謀の代償を払わせるべく照準を標的に合わせたが、そこで唖然とした。

 子供だった。ヒニーネのような年齢ではない。本当の子供、まだ十歳を越えて間もない子供だった。ペロニアの少年兵は小さな頭にぶかぶかのヘルメットをのせて、機関銃のレバーを動かして、つまった薬莢を取り除こうとしていた。

 味方の救出ボートは機関銃の射界に入っていて、弾道を遮るものは何もない。しかも敵は照明ロケットを放ってきた。救出ボートが敵に視認されたのは間違いない。

 ペロニアの少年兵が排莢を終えた。そして銃握をその小さな赤い手で握っている。

 ヒニーネは機関銃の冷却水ホースを撃った。ホースが破れ、水がこぼれだす。少年兵は一瞬頭を下げたがすぐに顔を出し、間もなく救出ボートを探し出した。

 冷却水がなくなっても銃身が焼けつくまでには時間がかかる。三十発は撃たれるはずだ。そうなれば、撤退中の味方が機関銃の餌食になる。味方を救うには殺さないといけないが、撃つのをどうしても躊躇する。

 心臓が高鳴り、引き金にかかる指が震えてきた。少年兵はもう銃身を味方に向けている。

 お互い、あとは引き金を引くだけだった。

プシュ!

 スコープの中で、少年の顔が血煙になって消えた。

「子供を殺しやがった!」

「血も涙もない死神め!」

 ペロニア陣地から怒号が響いてきた。

 非難が胸をつく。

 我慢できない、とメッゼが大声で怒鳴り返した。

「やかましい! こうなったのも全部お前らのせいじゃねえか!」

 地底湖がしんと静まり返る。味方のボートは岸に戻り、ペロニア人の陣地には無言の非難がひしめいている。ただ雫の音だけが聞こえた。

 メッゼが舟を戻そうと艪を動かすと、

「待って……。まだ、帰らないで……」

 ヒニーネは銃にしがみつき、うずくまった。

「うっ、う……」

 メッゼが顔を覗き込むと、ヒニーネはすすり泣き、重いものに押し潰されたような嗚咽をもらしていた。

「うっ、うう、うっ………ううー!」

 きつく閉じた目から涙がこぼれ、噛みしめたマフラーに染み込んでいく。

「ヒニーネ……」

 メッゼは艪をおき手袋をとると、大きな手を震える友の肩に優しくかぶせた。

 殺さなくてすむ。その安堵が幻想だったことをヒニーネは思い知らされた。ヒニーネに狙われた敵が隠れて安心していたのと同じ、儚い幻想だった。

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