16.エルフロア煙草
地下陣地の掩蔽壕の中でコチップ軍曹は古参の部下四名を集め、作戦を練っていた。泥色の玉突き台の上には自軍陣地を表す固形スープ缶、敵陣地を表すアスパラガス缶、そして二つの缶詰の間には安っぽいフロステル煙草の箱が置かれている。包装紙にはパイプを吹かす雪男の絵。色気にかけるデザインだけ見ても既にエルフロア煙草に負けている。
この箱が表すのは……
「いつの間にやらペロニア軍が小さなトーチカを作った」軍曹は煙草の箱を指差して言った。「ここからそう遠くない場所だ。機関銃はまだ運び込まれていないが、それも時間の問題だろう。あんなところに機関銃があるとやっかいだぞ。四六時中弾を浴びせられ地下空洞で奴らの有利が確定してしまう。今日の偵察は急遽このトーチカ潰しになった。ホーンが地雷をばらして大型爆弾をつくったから、そいつを放り込んで木っ端微塵に吹き飛ばしてやる」
軍曹は銃剣で煙草の空箱を突き刺した。ドンと大きな音がなると部下の一人で陽気なリプセンが冷やかした。
「でかい音が鳴りますね、軍曹」
「そうか、気がつかなかったな。リプセン。お前、なかなか冴えてるぞ。その通り、でかい音がなる」コチップは安心しろと肩を叩いた。「機関銃兵に援護を頼んでおいてある。非番の狙撃兵も呼んで、陣地を狙わせておけば無事逃げられるさ。俺たちがつぶしたトーチカの上でティータイムでも始めない限りな」
安堵の笑いが広がる。コチップ軍曹は続けた。
「ライフルは置いていけ。邪魔になる。そこに六連発ピストルがあるから、それを持っていくんだ。おい、ホーン。お前はいつも通り爆弾係だ。ギリギリまで近づいて、俺が合図したら、トーチカの中に爆薬を放り込め。信管の作動方法は分かってるな?」
ホーン一等兵はわかっていますと力強く答えた。
「いいぞ。じゃあ、早速支度しろ」
四人の兵士は出来るだけ装具を外し、拳銃をベルトにつけた。ホーン一等兵は荒い布で包んだ爆薬を抱え、コチップ軍曹はナック軍曹の形見の散弾銃で武装した。
「暗闇だからな。合言葉を決める。雪と言ったら、風と答えろ。答えなかったら撃っていい」
コチップ軍曹は陣地に残る機関銃兵たちにも合言葉を教え、しっかり援護しろよと気さくに笑った。
地下陣地から洞窟の無人地帯に出るには、土砂で巧妙に遮蔽した前進壕を使う。前進壕の出口から光が漏れないよう陣地の明りは全て消された。
真っ暗な前進壕をコチップ襲撃班が声も立てずに手探りで進む。
前進壕から出るとコチップたちは冷たい土の上を匍匐前進し、目指すトーチカに近づいた。無人地帯には壊れた迫撃砲や蒸気砲、鉄条網の支柱、白骨死体が転がっていた。暗い洞窟の中でトーチカがなぜか赤く光っている。しかし、人気はなくひっそりとしていた。
誰かが顔を上げようとするとコチップは手で顔を乱暴に地面に押し付け、「顔を上げるな!」とヒソヒソ声で厳しく言った。
冷たく湿った泥の上で匍匐前進するのは実に不快で嫌なものだった。手はかじかみ、腹も痛くなる。みな銃を汚さないようベルトの背中側に差し、ホーン一等兵も爆弾を出来るだけ泥に触れさせないよう注意している。
五人はトーチカのそばの盛り土までやってきた。作られて間もないトーチカは塹壕も鉄条網もなく、ただ丸裸のトーチカがあるのみだった。
コチップはホーンを呼び、投げ込むようトーチカと爆弾を顎でしゃくった。
ホーンは布を払うと手探りで信管のピンを抜いた。
すかさず爆弾をトーチカに放る。爆弾はトーチカの細長い銃眼の中に見事入った。
コチップたちはいっせいに伏せた。途端、盛り土がぐらぐらと揺れて、大空洞が真昼のように明るくなった。赤黒い爆風と火柱がトーチカの天蓋を吹き飛ばしたのだ。
トーチカがあった場所は破れた土嚢と折れた角材が乱立する大穴になり、むせかえるような硝煙と血の臭いがたち込めた。ペロニア兵はあたりでバラバラになって焦げ付いていた。内臓が赤熱した板切れの上でぶすぶすくすぶっている。掩蔽壕から一人、敵兵がふらふらと出てくるとコチップ軍曹がその兵士を捕まえて、「ずらかるぞ!」と耳鳴りする部下たちを急きたてた。
ペロニア軍の地下陣地からトーチカ跡へ激しい銃撃が舞い込む。軍曹たちは間一髪で逃れると今度は味方の陣地からも銃撃も避けなければならなかった。味方の機関銃は伏せる軍曹たちを飛び越えて、ペロニア軍の銃火を狙っている。
軍曹たちは味方の陣地の脇に回りこむとその胸壁へ走った。
「雪!」
胸壁の銃眼から合言葉が飛んでくると軍曹たちは「風!」と何度も叫んだ。
撃つな、撃つなと胸壁の向こうから声がすると、軍曹たちは安心しきって胸壁を越えた。
「捕虜がいるぜ」
軍曹は胸壁を転がりながらみなに言った。
部下たちが味方の陣地で生きた心地を取り戻している間、軍曹は捕虜を胸壁そばの缶詰箱に座らせて、ギロリと睨んだ。
捕虜は二十歳くらいの若者ですっかり萎縮し、おびえた目でフロステル兵を見上げていた。
「こら! お前の名前はなんだ? 言え、ペロニア野郎!」軍曹が捕虜を小突いたが、捕虜はびっくりするばかりで何も言わない。
「無視すんな、この!」
軍曹が捕虜を平手で数発張った。
「聞こえてませんよ、軍曹」ホーン一等兵が言った。「爆発で耳をやられてます」
「そうか。よし、ホーン。紙と鉛筆を持ってこい。お前は書記役だ」
襲撃に参加した兵士の一人が捕虜の軍套をまさぐった。
「こりゃたまげた! 軍曹、見てくださいよ!」
コチップはその兵士の震える手の中を覗き見た。二つの赤い紙箱。紫煙の中にまどろむ風の精霊の印刷がされている。まだ未開封だった。
「エルフロア煙草だ!」コチップもびっくり仰天した。「それも二箱も! ちくしょう、ペロニア人どもはいいもの呑んでやがる」
機関銃兵もライフル兵も垂涎もので煙草を見ている。コチップはその視線に気づき、
「襲撃に参加したものは二本取れ。他のものも一本ずつだ。みんなでこのご褒美を楽しませてもらおうじゃないか」と、気さくに呼びかけた。
ヒニーネとメッゼが地下陣地に顔を出したとき、みなめいめい一本ずつエルフロア煙草をうまそうに呑み、やっぱり最高だと口々に誉めあっていた。
ヒニーネは不思議そうにその光景を見ていた。こうも、おいしそうな姿を見せられるとなんだか自分も煙草を吸ってみたい気が起きるが、どうせむせ返って笑われるのがせきの山なので結局尻込みしてしまう。
陣地の端っこでは捕虜の訊問がメモ用紙を介して行われている。軍曹が部下に質問を書かせ、それに対する答えを捕虜にかかせているようだ。
ヒニーネは捕虜を始めて見た。スコープを通さずに敵を見るのも久しぶりだった。その若いペロニア兵は怯えながら空色の目をきょろきょろさせていた。いくら目を合わせようとしてもすぐに目を伏せられてしまう。髪は栗色でデウムバルトナ中尉と同じ色だった。来ている軍服は二列ボタンの外套で色は灰色、赤い肩章、たすきがけにかかったベルト、足首に巻いたゲートル。軍帽はなかった。本当だったら、皮製の角つきヘルメットを被っているはずだ。
「よお、坊主ども」
コチップ軍曹が捕虜から奪ったエルフロア煙草をうまそうに吹かしながら、話しかけた。
「今お前たちの話が出たところだ。捕虜から聞いた話じゃ、お前がこないだ撃った狙撃兵は数々の戦場を渡り歩いたかなりの腕利きだったらしいぞ。ペロニア軍の間じゃ、お前は『湖の死神』って呼び名で恐れられているらしい」
「死神、ですか……」
ヒニーネが悲しそうな顔をしたのでコチップ軍曹は気を配り、この話題を早々に打ち切った。軍曹は二人に煙草を勧めた。ヒニーネは断ったが、メッゼは一本貰った。
「メッゼ、煙草吸うのかい?」
ヒニーネは驚いた。メッゼが煙草を吸うなんて今まで知らなかったのだ。メッゼは煙草をくわえるとカンテラの風防を外して火をもらい、実にこなれた様子で煙をたらふく呑み込んだ。
「煙突掃除の小僧はみんな十二のときから吸ってるよ。ただ俺は戦争が始まってから止めてたけどね」
「おいしいのかい?」
「ああ。エルフロア煙草は飽きがこない。つまりなんて言えばいいかな? 煙草ってうまいと思えるのは吸い始めたときだけなんだよ。始めて二ヶ月もたつと、頭がくらっと来るだけで、あとは習慣で吸うようになる。おいしいから続けるんじゃなくて癖になって続ける感じかな。ところがエルフロア煙草は純粋にうまいから、いつまででも呑みたくなるんだ。まるで風を呑んでるようなんだ。でも軽いわけじゃないぜ。風味がまさに草原の風なんだ。風の匂いがするんだ」
風といわれるとヒニーネはますます興味をかき立てられた。この地下陣地は換気装置が旧式なせいで空気が悪くて、もやがかかっている。雪原陣地の風は完全なブリザードだ。だから、気持ちよくて、湿った草の匂いがする風を体いっぱいに受けることは開戦以来なくなっていた。戦前はあったのだ。春から夏にかけてのわずかな期間、町外れの野原で雪がとける。氷の中に閉ざされていた花の種が野原で芽吹き咲き乱れ、匂いが風に渦巻く。小川のそばに平ったい石があるので、ヒニーネは風の匂いをいっぱい嗅ぎながら、その上に寝そべり、お気に入りの詩集を誰はばかることなく朗読したものだった。
詩も風も花もとても懐かしかった。
「ちょっと吸ってもいいかい?」
「ああ、ふかすだけでもやってみなよ」
メッゼの煙草を借りて、言われたとおり吸い込んでみた。肺をかなてこで押しつけられてるようで息が窮屈になった。咳が止まらず、それを見た年かさの兵士たちが笑っている。
「これは草原じゃない。焼け野原だよ」
ヒニーネは涙目になって煤を吐き出しながら煙草を返した。
少年兵二人がいなくなると、ペロニア捕虜があの二人はまだ子供か、と聞いてきた。軍曹は顔をしかめて、書記役のホーン一等兵に言った。
「教えてやれ。全部お前らのせいだって」
ホーンはさっそくメモにそう書いたが、渡す段になってコチップがメモを取り上げ、破り捨ててしまった。
「やっぱやめた。わざわざ教えるほどのことでもない。代わりにうまい煙草をありがとよって書いておけ」
紫煙が陣地の雰囲気を和らげた。兵隊たちの捕虜に対する態度もとても親切で、怯え切った捕虜の頬にはにかみの赤みを呼び戻した。
「やっぱ煙草はエルフロアだよ。雪男ケースのフロステル煙草なんざ屁みてえなもんだ。あの煙草、下に向けると中身がごっそり落ちるんだぜ」
「スッカスカだもんな」
「おい、ペロニアの兄ちゃん。残念だなあ。お前が捕虜じゃなきゃ勲章物のお手柄なんだが」
そうやってしばらくは煙草を介しての楽しい歓談が地下陣地で続いたが、それもまもなく破られる。
ランクガルナー士官候補生である。
「軍曹!」
融通の利かない若き分隊長が顔を真っ赤にして叫んだ。ランクガルナーは用があって中隊指揮所に行ったきり帰ってこない予定だっだが、それが急に戻ってきたのだ。
コチップ軍曹は煙草を置いて、さっそく駆け寄るときちっと敬礼した。
「なんでありますか、分隊長」
「なぜ勝手に攻撃を始めた!」ランクガルナーはカンカンだった。
「攻撃ではありません。以前より予定されていた偵察の一環で敵が急造したトーチカを排除したのであります。機関銃を設置される前に……」
「言い訳するな!」
ランクガルナーが拳を固め、コチップの頬を殴った。捕虜は冷や水を浴びせられたようにビクッと身を震わせたが、当のコチップは驚きもしなかった。歴戦の軍曹にとってこんなパンチは朝飯前だった。ナック軍曹から顎がグラグラするほどの凄いパンチをもらったこともある。コチップは黙って耐えた。するとランクガルナーは軍曹の殊勝な態度が気に食わず、小箱を蹴飛ばした。コチップ軍曹が置いておいたエルフロア煙草が床に落ちた。ランクガルナーはそれを踏みつけて腹立たしげに捕虜を蹴飛ばした。
「今後、分隊長の俺を差し置いて、勝手な真似はさせんからな!」
ランクガルナーは去り際にやらなくてもいいことをやった。地下陣地にいた兵士たちのエルフロア煙草を片っ端から叩き落とし踏み消していったのだ。
「捕虜を中尉殿のもとに連れて行け」
ランクガルナーがいなくなるとコチップ軍曹はどんより重い声で部下に命じた。
風の精霊をもまどろませた紫煙がたちまち掻き消え、暗く陰気な感情が地下陣地を満たす。
それがなんであるか、兵士に背を向け去っていくランクガルナーは分かっていなかった。
だが、コチップたちには分かっていた。
ペロニア兵に抱いている感情と同じもの。
つまり殺意だった。




