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10.兵士たち

 氷、泥、銃弾。

 地下陣地は住環境としては最悪だった。シラミもネズミも生き残れない厳寒を兵士たちは軍套と体に巻いた毛氈だけで凌いでいる。いくら寒さに強いフロステル人でも音をあげたくなる寒さだった。

 兵士たちは通常数人で一つの住居壕を使って暮らしていた。通路から掘った横穴で壁に板を張り、カーテンと油紙を三重に重ねた分厚い幕を出入り口に垂らし、ストーブで作った暖気を逃がさないようにするのだ。緊急出撃時の邪魔になるため、ドアをつけることは許されなかった。

 通気筒が一つあるだけの住居壕で最悪の空気を吸い込みながら、元体操選手のストルテンフォル一等兵が毒づいた。

「えい、くそ! 寒いじゃねえか!」

 伍長のペルモフが笑った。

「いま、お前が言ったこと、海の水を舐めてしょっぱいって悪態ついたのと同じなんだぜ? わざわざ口に出すほどのことでもねえよ」

「だけどよ」ストルテンフォルが反駁した。「寒いもんは寒いんだ」

 皆から『じいさん』と呼ばれている小隊最年長の古参兵が口の中で言葉をこねくり回した。

「寒い寒いは暑いの始まり」

 肉付きのいい肩と厚い胸に恵まれたシーハ一等兵が聞き返した。

「それ、どういう意味だい?」

「つまりだな」ペルモフが代わりに答えた。「寒い寒いって言って暖炉を焚きまくり、厚着をすると今度は暑い暑いと文句を言って、窓を開け、服を脱ぎだす。人間ってのはとかく我儘な生き物だってことさ」

 十九歳の新兵リプセンが二段ベッドの上で欠伸した。そのとき、地表に落ちた砲弾の震動で天井の泥が落ち、この若者のきれいな舌の上に乗っかった。

「うえっ、ぺっ!」

 リプセンは泥を空き缶の中に吐き出した。

「おい、リプセン」シーハが冷やかした。「敵の砲弾がお前の舌を負傷させたぞ」

 レンゼルゼン一等兵が今日の分の火酒を貰ってきた。部屋の中央に置かれた樽の上に緑の缶が置かれると、兵隊たちは自分のコップを掴んで、さっと缶の回りに並べる。

 室長のペルモフ伍長がベッドにかかった袋の中から専用のひしゃくを取り出した。嫌に細長いひしゃくで、擦り切れ一杯でコップ半分の分量だった。

 これが兵士たちに許された夕食前の一杯だった。

「そっと注げや、兄弟」部屋で一番の飲兵衛シーハが目を潤ませた。「大切な割り当てをなにも床板にくれてやることはねえ」

 ストルテンフォルはその大きな両手を火酒の上にかざし、天井の泥が落ちないように気を配った。

「おい、リプセン。コップをちょっと動かしてくれよ。これじゃ注ぎにくいや」リプセンがコップを樽の縁にどかしながらレンゼルゼンに聞いた。

「今日のメシはなんだい?」

「さあな」レンゼルゼンは肩をすくめた。「ま、どうせ、温めなおしのぬるいスープさ。肉は入ってると思うが、脂は期待するな。どうせ冷えて固まってる」

 じいさんは黙ってコップを持っている。ペルモフはそこに缶を近づけて、少し多めに酒を入れた。

「じゃあ銘々行き渡ったところで乾杯だ」

「健康に乾杯!」

「弾に当たりませんように!」

「戦争くそくらえ!」

 コップがかち合い、ストルテンフォルの振り上げた手がランプに当たった。ランプが激しく揺れ動き、部屋の影が踊りまわる。

「そんなに手を高く上げるんじゃねえよ、ストルテンフォル」じいさんが文句をつけた。

「わりい、わりい」ストルテンフォルは揺れるランプを手で押さえた。

今日の割り当てを一息に飲み干し、火照った息を白く吐き出す。

「ふいー」

「染みるなあ」

 みなコップを揺らし、残った雫を舌の上に落としながら、果実酒の余韻を愉しんだ。

 一日一回の楽しみが終わるとそれぞれ手紙を書いたり、帽子を顔に乗せて仮眠を取ったりして、夕食までの時間をつぶした。

 背丈が高く、手足も長いストルテンフォルのベッドは部屋の右側、二段ベッドの下に設けられていた。ベッドの傍には灯油缶が二つ放置されている。彼は枕元の壁をくりぬいて、雪精ランプが入っていた木箱を嵌め込み、戸棚にしていた。棚の中には岩石みたいなビスケット、両親の写真、空薬莢を集めた箱、タバコが厚紙にくるまれて置いてあった。

 しかし、何よりも目立つのはこれ見よがしに飾られたジョッキ大のトロフィーだった。

 丹念に磨かれた銀メッキのトロフィーは雪精ランプと蝋燭の光を交互に反射してきらきら輝いていた。このトロフィーの傍で耳を澄ますと音が聞こえてくる。六年前、ストルテンフォルが勝ち取った称賛の声がいまだに鼓膜を震わせるのだ。

 六年前、十八歳のストルテンフォルは王立体育協会主催体操選手権の鉄棒種目で見事銀賞を取った。気の強いストルテンフォルはある意味で純朴な男だった。金を取り逃した悔しさよりも銀を手に入れた嬉しさですっかり舞い上がってしまった。表彰台の彼はこのトロフィーを王妃の手ずから受け取った。喝采と弾ける照明、王妃の微笑でくらくらしてしまったストルテンフォルはトロフィーを満たさんばかりの嬉し涙を流した。

 手は鉄棒の感触を今でも覚えていて、今でも欲している。ストルテンフォルはよく鉄製のベッド枠をぐっと握り、六年前の栄光を心地良く回顧するのだった。

 ストルテンフォルはその後、市から招聘されて小学校の体育教師になった。厳しいが、生徒思いの熱血教員として父母の評判もよく、みなに慕われていた。ただ、鉄棒教練のほとんどが自慢話に終わるという欠点があったが……。

 ストルテンフォルはその鍛え上げた体躯をベッドに詰め込むと、実家から送られたキルティング布団にくるまり、その長い足を片方缶の上にのせて仮眠を取った。

 その上の寝台で伍長のペルモフは小さな手提げランプを枕元に点していた。

 ペルモフはいわゆる懲役面である。大きな口髭と刈り込んだ髪、突き出た頬骨のせいで目尻が上がりっぱなしになり、いつも誰かを睨んでいるように見えてしまう。大きな口は厳つい団子鼻と無精ひげを散らした頑丈な顎にぎっちり挟まれていて、への字に曲がっている。

 主に地底湖のテントに詰めていることが多いので、ヒニーネとメッゼをよく知っていた。

 だいぶ前、ヒニーネたちが初めての地底湖哨戒任務を終えたとき、メッゼが先に帰り、ヒニーネはテント付近で仄かに照る灯を利用して靴紐を結びなおしていた。

 そのときヒニーネのポケットから戯曲小説が落ちて、テントの裾に乗っかった。するとテントの中から毛むくじゃらの厳つい手がぬっと出てきて、本を掴んだ。ペルモフの強面がのっそり顔を出し、本を掲げると聞いてきたのだ。

「これはお前のか」

「は、はい」

 戦場で本を読むなんて軟弱だと思われがちだった。ヒニーネは自分の読書趣味を必死に隠していたが、よりによってこんな怖そうな先輩兵士に見つかってしまうとは!

「本が好きなのか?」

「…………」

 ヒニーネは注視しなければ分からないほど小さく頷いた。

 ペルモフ伍長は薄闇の中でヒニーネをギロリと見つめた。

 ヒニーネは結びかけた靴紐もそのままにすっかり縮こまっていた。

 ペルモフは題名を見て、つぶやいた。

「『オルポストーゼ』か」

 そして、本の最後のページを開いて見るとヒニーネにたずねた。

「これのエポス書店第三版を読んだことはあるか?」

 ヒニーネの持っていた本は第五版だった。ヒニーネは首を振った。

「そうか。是非読んでみるといい。後書きが実に泣かせてくれる」

 ペルモフはヒニーネの持っていたオルポストーゼ第五版と、自分が持っていたエポス書店第三版を一緒に渡した。

 三十四歳の強面伍長ペルモフは実は大学で古典文学を専攻した小隊きっての高学歴で、戦前は大きな書店に勤めていた。もっともそんな素振りはちっとも見せないのとその強面のせいで、戦友の間では彼が読み書きを覚えたのは少年院の更正教育施設ではないかと噂されていた。

「あ、ありがとうございます」

 ヒニーネは本を借りて、その日のうちに返した。熱っぽい感想とともに。

「もし、よろしければ僕の持っている本もお貸しします、伍長殿」

「伍長なんて兵卒に毛が生えたようなもんさ。そんなにかしこまらなくてもいい」

 見た目は怖いが、実は気のいい男である。

 対面のベッドには十九歳のリプセンが寝転んで、金属片を手の中で玩んでいた。リプセンのベッドにはやはり板壁を繰り抜いた壁棚があったが、これはかなり大きめに作られていて、棚というよりは作業台に近かった。並んでいるものも彫刻刀、銃剣を改造して作った鑿、金物用ヤスリなどの細工用工具ばかり。そして完成品たちもきちんと並べられていた。缶詰を切り抜いて作った回り灯籠や銃弾で作った首飾り、廃材を細かく削った馬の置き物や浮き彫りをいれた真鍮の皿。

 住居壕にメッゼが現れた。

「おお~い、ストルテンフォル。あんたの靴下がうちの洗濯物に混じってたぜ」

「本当か? 良かった。探してたんだ」

 体操大会の夢から目を覚ましたストルテンフォルは礼を言い、靴下を自分の衣類入れにねじ込んだ。

「やあ、メッゼ」

 リプセンは親しげに声をかけて身を起こすと、爆弾の破片と空薬莢で作った勲章の模造品をベッドの下から取り出した。材質が違うだけで、細工は本物顔負けの一級品だった。

「ほら」リプセンはメッゼに雪の結晶型の勲章もどきを手渡した。「フロステル聖晶勲章だ。年金はついてないけどな。こないだ穴掘り代わってくれた礼だよ。軍帽にくくりつけるといい。あっ、でも、ランクガルナーには見つからないようにな」

 リプセンは戦前、金銀細工師の徒弟だった。非常に腕のいい細工師で師匠は十九になったら、自分の工房を持たせてやろうとすら思っていたが、開戦により、そんな余裕もなくなった。リプセンは選択徴兵から外れていたし、愛国熱に浮かされることもなかったので兵役にも志願しなかった。だが悲劇の三ヶ月による連敗で政府は軍の再編成に迫られ、ついにリプセンも徴兵されることとなった。兵隊に取られるとき、彼の師匠が残念そうに言った。

「これからが伸びるときなのに」

「大丈夫です、親方。戦場でも手は休めませんから」

 それは本当だった。持参した工具を使い、余暇と鉄の欠片を見つけては美しい細工を彫りつけ、腕がなまらないように注意した。彼はこうして製造した小品を食べ物や煙草と交換したりしていた。そのうちその腕は知られるようになり、将校のピストルに装飾彫りを入れる仕事などもするようになった。クラーメン大尉の六連発ピストルは、銃身と弾倉に見事な帆船模様が彫られているが、それはリプセンの手によるものだった。

 メッゼが去ると二段ベッド下のシーハが欠伸をした。彼は目を閉じて口の中で舌を鳴らしながら、横になっていた。むにゃむにゃ寝言を言っているようにも思えるが、事実は違う。果実酒の残り香を舌で探して味わっていたのだ。

 シーハは塩水湖が複数点在するフロステル北部地方の出身だった。塩水湖は良好な漁場であり、ニシンやタラ、アイナメ、カニなどの水産物を盛んに水揚げしては首都や南部の町に送り出す活気のある地域だった。彼はこうした数ある塩水湖の一つ、ブーアホウル湖の岸辺に住む漁師だった。漁師とは言っても、富裕な網元の跡継ぎであり、まだ三十歳に過ぎないが持ち船は五艘、タラの水揚げではブーアホウル一の家であり、何不自由ない暮らしを送っていられた。

 彼はこんなふうにこぼしている。

「網元じゃなくて醸造所の息子に生まれかった」

 シーハはとんでもない飲兵衛なのである。肩が広くがっしりしていて、漁師としての腕もいいし、なかなか美男子なのだが酒に関してはやたらとだらしない。そのだらしなさが高じて妻には二年前逃げられた。

 彼は十八から二十歳までの二年間徴兵も務めたが、その間もしょっちゅう酔乱して上官から大目玉を食らっていた。彼は開戦後、予備役として召集され戦闘に参加したが、もう五回、無断飲酒の罪で営倉入りしている。

 彼はベッドの上でこんなことをこぼしていた。

「イフリージャ帝国が俺たちにつけば、ラム酒が飲み放題だ。イフリージャのラムは普段は出回らないが、戦争が起きれば、そりゃお前、『同盟国さん頑張って』ってな具合でラム酒を飛行船一杯に積んでやってくるに違いない。こりゃ百万の援軍よりも心強いぜ。毎日、イフリージャラムが飲めるなら明日死んでも構わねえよ」

 隣のベッドのレンゼルゼンがちゃちを入れる。

「明日死んだら、毎日は飲めないぜ」

「そういやそうだな」

 シーハはもう一度欠伸をすると、むにゃむにゃ唇を動かした。

 レンゼルゼンは呆れて溜息をつくと妻へ送る手紙の推敲を始めた。

「ええと……愛するお前……、お前が送ってくれたクッキーは……ちゃんと前線まで届きました……う~ん……」

 愛妻家レンゼルゼンは二十九歳。工場の事務員をしていたが、開戦直後、予備役として召集された。

 レンゼルゼンは明るい男だった。開戦当日、妻が身篭っていることが分かって大はしゃぎし、不謹慎として憲兵に逮捕されかけたこともある。そのときは無事解放してもらったが、結局一週間もしないうちに召集されることになった。

 身重の妻を残して戦地へ発つ人間なら、不安で押し潰されて神経質になり人が憂鬱になるものだが、この楽天家はむしろそれを励みに頑張ることが出来た。

「ひどく寒くてやってられん戦争だ。だが我慢してお勤めして除隊すれば、新しい家族が俺を出迎えてくれるんだ!」

 幸せ自慢をしていると、嫁に逃げられたシーハが茶化してくる。

「そうとも、兄弟。新しい家族さ。家に戻って玄関扉をバンと開けると、居間には見知らぬ男がお前さんのガウンを着て、蜜茶なんか飲んでるわけよ。それこそ、お前。新しい家族ってわけさ」

「赤ちゃんが俺のガウンの中でもぞもぞ動いて、甘い蜜茶を欲しがってるわけだ。畜生、さぞ可愛いだろうなあ」

「俺が言ってることはそういうことじゃねえよ。女房の身持ちのこと言ってんだ」

「おい、シーハ。女房は身持ちじゃなくて身重だったんだ。言葉はちゃんと使わなきゃ駄目だぜ」

 シーハは呆れて首を振ると隠し持っていた火酒をちまちまやり出す。

「負けたよ、レンゼルゼン。お前、一度軍医殿に見てもらったほうがいいぜ」

「そうとも。俺は病気なんだ。俺は愛するクレアの前に立つとすっかり参っちまう。死ぬんじゃないかって思うほどの動悸が襲ってきてな。くらくらしちまうのさ」

 のろけるレンゼルゼンの下にはじいさんが寝ていた。名前は一応あるのだが、皆はただ、じいさんと呼んでいる。薄くなった毛髪の向こうに蒼白い肌が見え隠れしている。髭は口だけ伸ばし、顎はいつもきれいに剃っていた。大きな鉤鼻に切れ長の目、片方の耳たぶが少し欠けていたが、顔全体の均整がその傷のおかげで保たれる、不思議な顔つきの老人だった。その胸には三十年以上兵役を務めたものに与えられる菱形の功労銀メダルがその胸に輝いていた。

 この老人は大昔に徴兵されてから、満期まで務めたにもかかわらず除隊せず、ずっと一兵卒として軍に残った風変わりな老人だった。もう三十年以上軍にいるのだから下士官くらいになっていそうなものだが、一等兵のままなのだ。口数も少なく、自分のことをあまり話さないものだから、この老人のことはみなよく知らなかった。

 昔なにか罪を得て禁固と兵役の二者択一で兵役を選んだとか、実は師団長から派遣された査察官で兵卒の行状をつぶさに観察して上層部に送っているとか、様々な噂が立っている。だが、とにかく三十年以上軍に務めているのは間違いないので、階級が上のペルモフやコチップ軍曹もこの老人には敬意を払った。

「おい、調理壕に行って今日のメシがどうなってるのか聞きに言ってくれよ」

 ペルモフがレンゼルゼンに言った。

 レンゼルゼンは手紙を置くとリプセンに言った。

「俺、さっき酒取りにいったぜ。リプセン、お前行けよ」

「やだよ。俺は昨日行ったじゃないか。次はシーハの番だ」

「ぐー、ぐー」

 リプセンは下から上段を見上げ、呆れ声で言った。

「シーハのやつ、寝てるぜ」

「わしが行こう」

 こうして調理壕への偵察を押し付け合っていると、じいさんがのっそり立ち上がり、外套を着込みライフルを肩にかけた。

「じいさんが行くのかい?」ペルモフ伍長がたずねた。

 じいさんは黙ってうなずくと入り口の垂れ幕をのけて、外の地下道に出たのだった。

 さて、彼らの居住壕は地下陣地と小隊指揮所のデウムバルトナ壕を結ぶ幹道の横に入ったところにあった。

 両側は板壁、天井は土むき出しで何本か支えの梁をそえて補強としていた。梁からは雪精ランプが三つ下げられ、ほんわり白い光が地下道を照らしていた。居住壕の入り口は他にも幾つかあり、また壁を無理やり押し広げて設けた小さな広場も作られていた。

 そうした小広場には機関銃の挿弾子や柄付き手榴弾の箱、天幕の予備が丸めて置いてあった。広場の奥で三人の兵隊が油を売っていた。

「よお、じいさん」

 三人のうちの一人、第二分隊のベッテ伍長がかじりかけのビスケットを置いて話しかけてきた。

「なに? メシ? 今日のメシはじいさん、雪ヒツジの缶詰ソテー塹壕風とくそったれ岩石ビスケットの豆スープ煮込みさ」

 ベッテ伍長は第二分隊の機関銃兵だった。分隊長のバイネ少尉をよく補佐しており、軍曹昇進もあと少し。隊の部下からも慕われている。

 そして、戦前は理髪師をしていたので現在は小隊専属の理髪師としてその鋏を閃かせている。隊で一番お洒落な髭を整えているのも彼である。

 ベッテが言った。

「まあ、散歩がてら自分で確かめるんだね」

「いつもと同じで不味そうだ」と、じいさん。

 じいさんが珍しくこぼした皮肉にベッテも笑いながら答えた。

「そう、いつも通り。万事異常なし。家畜の餌みたいな臭いだったよ」

 すると担架兵のベルとグルッツが豚の鳴き真似をして、おどけてみせる。

「ぶー、ぶー。おれたちゃ家畜だ。ぶー」

「おれたちゃ豚だ。引っ張る積荷はびっこにつんぼ、めくらにめっかちだ。ぶー」

 担架兵のベルとグルッツは二十歳。二人はいつも一緒に行動していた。二年前徴兵され、あと二ヶ月で兵役も終わるというときに戦争が起きたものだから、結局終戦まで務める破目になってしまった哀れな連中である。

 二人は立てかけた担架のそばで首を振った。

「最近、こいつの出番がなくってよ」

 ベルが慰めるように担架を叩いた。

「誰か弾をまともに浴びてくれねえかなあ。そうすりゃ運び甲斐があるってもんだ。ボロボロに崩れた肉が担架から落ちないように左におっとっと、右におっとっと」

 グルッツは安物の天秤のように揺れ動いて、せせら笑った。

 ベッテ伍長が渋面で言った。

「やめろよ、グルッツ。気色悪い」

 じいさんは広場を後にし、幹道に出た。弾薬を運んでいる列にホーン一等兵がいた。

 この兵隊は手先が器用な爆弾係だった。余った地雷を使って爆弾を製造するのはこの男の仕事である。ホーンが缶詰で自作する手榴弾は強力で不発もなかった。炸薬に混ぜる釘や金属片の最適量、信管の効果的な挿し方を知っていたのだ。

 ホーン一等兵は二十七歳。選択徴兵は外れたが、郷土防衛隊という民兵組織にも加入していた石炭屋だった。開戦当初の三ヶ月は民兵として働いていたが、間もなく正規兵になり、爆破工兵として活躍するようになった。

 ホーンは抜け目のない男で自分の仕事を少しでも楽にするために助手を探していた。同じく手先が器用なリプセンに目をつけて、たびたび理想的な爆弾手造り方法を教えてやっていた。

「じいさん、今度リプセンに会ったら、勲章の模造品を一通り揃えるように言ってくれ。アーヌローがおもしろいことを考えた。特別製の手榴弾だ。そいつを敵に投げてみろ。デウムバルトナ将軍が一生かかったって手に入らないフロステルの全勲章がペロニア野郎の全身にブスブスぶっ刺さるからな」

 じいさんはぐらぐらと頼りなくうなずくと調理壕に去っていった。

 ホーンは泥も凍りつく極寒の通路で薄氷を踏みつけながら、ストーブのある地下陣地に潜り込んだ。弾薬箱の蓋に釘抜きを差し込むとメリメリと板を引き剥がし、三十発入りの挿弾子を機関銃手の足元に次々と置いていく。

「よお、ホーン」

 半分泥にはまり込んだ木箱の上にコチップ軍曹が胡坐をかいていた。

「軍曹。どうです? 陣地の様子は」

「どうもこうもあるか。なんにもありゃしない」

 コチップは三十八歳。短気だが、気の良い勇敢な上官として慕われている職業軍人である。少し灰色が混じり始めた八の字髭の上に大きな鉤鼻をのせている。肩には散弾銃をかけ、左手は外套のポケットに突っ込まれていた。

「敵もずいぶん静かなもんだ。戦争する気がないなら、とっとと自分の国に帰ればいいのに」

「ほんとです、軍曹。でも、あいつら、こうして油断していると夜襲をかけてきますからね。油断ならない連中ですよ……ん?」

 ホーンが横を見ると、横穴にブルーフェイという一等兵が黙って座っていた。

「おい、ブルーフェイ。お前、そんなとこで何してんだ? こっちに来て火に当たれよ」

「話しかけるな、ホーン」コチップが制止した。「ランクガルナー分隊長が罰を食らわした。ブルーフェイはあと五時間、ああして横穴にケツを押しつけてなきゃならん」

 二人とも黙ったが、考えることは似通っていた。

 ランクガルナーの横暴ぶりに第一分隊の古参たちは頭にきていた。無意味な罰が多すぎるのだ。例えば、いまブルーフェイがさせられているのは晒し穴という罰だった。営倉の代わりにああやって横穴に入り、みなの目に晒されるのだ。

 ランクガルナー士官候補生はそうやって恥を晒させ、猛省を促すつもりだったのだが、分隊の部下たちはブルーフェイが実につまらないことで咎められたことを知っているから、ランクガルナーの馬鹿馬鹿しい厳しさにただイラつきを募らせるばかりだったのだ。

 士官候補生はつい先日二十歳になった。しかし、その厳格さはますます子供地味てきており、意味のないものばかりになってきた。

 なぜちゃんと陣地で見張りを務め、疲れた体を休めたいのに夜間教練なんて受けなきゃいかんのか?

 なぜ必要もなく、一日一回の果実酒配給を止めるのか?

 コチップはときどき部下からランクガルナーに対する不満を聞かされるが、その度に不機嫌にこう言うのだ。

「分隊長は上官だ。上官は無条件に敬え。いまの話は聞かなかったことにしてやる」

 コチップは忠実な下士官だった。分隊指揮に不慣れなランクガルナーを長年の経験に基づいて補佐し、常に上官を立てている。だが、その殊勝さはランクガルナーの神経を逆なでしていた。ランクガルナーは奇妙なほどに自尊心が過剰だったのだ。

 ホーンの任務が終り、交代の時間が来た。

 ホーンは第二分隊の知り合いに会うために分隊陣地間を結ぶ地下道を歩き、途中で第二分隊を指揮するバイネ少尉とすれ違った。

 ホーンが敬礼し、バイネ少尉も返礼する。手が降りきらないうちにバイネ少尉はいそいそと小隊指揮所に走っていった。バイネ少尉は手に小包を持っていた。

 この予備役少尉は開戦以来、第二分隊の最前線で戦っており、将校というよりは兵卒に近かった。年は三十でデウムバルトナ中尉よりも三つ年上だったが、この男の外観から年齢を推定するのは難しい。頬は子供のように薔薇色で団子鼻は少し厳しいものの尖った口は妙に子供っぽい。髭は生やしているというよりは勝手に生えているといったほうが正しく、気がつけば適当に剃る程度のものだった。いま、バイネ少尉には口髭と左の揉み上げだけが生えている。顎鬚を綺麗に落として、右の揉み上げも落とし終えたところで奇妙な小包が届いたので髭剃りを放棄し、その小包を手に取ったのだ。縦一〇センチの横二〇センチ、厚さは数センチほどの箱を赤い包装しで丁寧に包んだものだった。バイネ少尉は箱を振ってみたが、音はしない。だが、決して軽くはない。布を箱一杯に詰めたくらいの重さだ。少尉は包みを破ろうと箱を裏返した。

「おっと」

 少尉は手を止めて、届け先に苦笑いした。そこにはリスデルモ・デウムバルトナ中尉宛と書いてあった。そんなわけでバイネ少尉はデウムバルトナ中尉に小包を渡すべく、洞窟の幹道を遡って指揮所を目指しているのだ。

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