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1.紅い繭


 私の故郷にある山には、ヤママユガがたくさん生息している。手のひらほどもある大きな山吹色の蛾で、毒はないが目の前を通過されたりするとびっくりしてしまう。

 夏の終わり頃、この蛾の幼虫は小枝についた葉の間にその名の由来となっている繭を作るのだ。

 きれいな緑色の繭で、昔はこの繭から蚕のように糸を取ったりしていたらしい。

 そして私の故郷には奇妙な言い伝えがある。



 紅い繭を見たものは幸福になれる。けれど決して触れてはならない。



 どうして触れてはならないのか。子供の頃に訊いたことがある。

 母が言うには、ずいぶん昔だが見た人は実際に何人かいるらしい。そして触った人もいたという。

 触った人がどうなったのかは、母も詳しくは知らないらしい。

 私は気になって、事あるごとに紅い繭の事を母に尋ねた。



 その日も夏の終わりに実家を尋ねた時、母に紅い繭の話をすると、母はうんざりしたようにため息をついた。

「またその話? 紅い繭なんて突然変異でしょう。昔の人は見慣れないものがあると怖がって神様か何かのように思ってただけなのよ」

「お母さんは見たことないの?」

「ないわよ。でもそれほど珍しいものでもないみたいよ」

「え?」

「あんたがうるさいから、ちょっと調べてみたの」

 そう言って母は、最近覚えたばかりのパソコンを操作して、ネットの検索画面を表示した。

「ほら。蚕だって食べる桑の葉に含まれる成分によって繭の色が変わるんだって。ヤママユもそうなんじゃないの?」

 蚕の繭は通常白い。ところが母の指さす画面には、薄緑色や薄黄色の繭、そして薄紅色のものもあった。

 だが違う。紅い繭はこんなに淡い色ではない。まるでザクロの果肉のような、濃い紅色なのだ。

 私は密かに畳の上に投げ出された自分の鞄に目をやる。

 実はここに来る途中で、偶然紅い繭を見つけたのだ。だが、言い伝えのせいで触れるのはためらわれた。そのため枝を折ってハンカチに包み、鞄に入れてきた。

 母に見せようと思っていたが、やはりやめておこう。たぶん、誰かがいたずらで絵の具を塗ったのだとバカにされそうな気がする。

 結局私は、繭を母に見せることなく実家を後にした。




 家に帰った私はすぐに鞄から繭を取り出した。帰りの満員電車で押しつぶされたのではないかと心配になったのだ。

 幸い繭は無事だったようだ。小枝は少し折れ曲がってしまったようだが。

 折れ曲がった小枝をのばしていると、繭が枝から外れて落下した。

 私は咄嗟に手を広げてそれを受け止める。

「あ……触っちゃった……」

 あれほど気をつけていたのに、うっかり触ってしまった。

 私は呆然と手のひらの繭を見つめる。

 別に何も変化は現れない。繭にも私自身にも。

 けれど、なんだか少し怖くて、おもむろに押入の戸を開けて繭をそこに置き、ぴしゃりと戸を閉めた。




 繭を触って数日は、何か起きるのではないかとビクビクしていたが、何も起こらない。

 見たら幸福になれるという話だが、特に幸福を実感できてもいない。

 私はすっかり繭のことを忘れて二週間が過ぎた。

 社員旅行の荷物をまとめようと思い、旅行鞄を取り出すために押入の戸を開けて、私は出かかった悲鳴を必死で飲み込む。

 すっかり忘れていたあの紅い繭が、荷物を押しのけて押入いっぱいに広がっていたのだ。

 巨大化した繭の中から巨大な蛾が出てきたらどうしようと、目を凝らして覗き込んだ。

 羽化が間近なのか、薄くなった繭の中心には人のような陰が見える。

 人ではないはずだ。紅い繭は人の姿をした妖怪の繭だったのだ。

 見たら幸福になれるというのは、母の言うようにただの言い伝えだろう。だが、触れてはならないというのは、こんな事になるからだったのだ。

 繭の正体がわかったところで、こんな巨大化した後では手遅れのような気がする。

 私には妖怪を退治するすべがない。なによりこの巨大なものを、ただ捨てるだけでもどうすればいいのかわからない。

 私が途方に暮れていると、繭からピリッと裂けるような音がした。

 妖怪が出てくる!

 そう思った私は、素早く押入から離れて、部屋の隅にあった布団叩き棒と座椅子の上のクッションを手に取り武装する。

 役には立たないような気がするが、何もないより自分が安心できる。

 固唾を飲んで見つめるうちに、繭の裂け目はどんどん広がり、ぱっくりと割れた繭の中から妖怪が姿を現した。

 割れた繭を跨いで押入から出てきた妖怪の姿に、私は息を飲む。

 スラリとした長身を上品なグレーの三つ揃えスーツに包み、靴まで履いている。見た目は男性のようだ。

 あの繭のように深い紅色の髪と瞳が、彼を人ではない異形のものであると物語っていた。

 見とれるほどに整った面に柔らかな笑みを浮かべ、妖怪は胸に手を当て、恭しく頭を下げる。

「お初にお目にかかります、マイロード」

 マイロード? ご主人様? 私のこと?

 声も出ないほど混乱している私をニコニコと見つめながら、妖怪は察したように説明した。

「私は山に棲むあやかしです。あなたは私を眠りから覚ましてくださいました。ありがとうございます」

 やっぱり、繭に触ってしまったから寝た子を起こしてしまったらしい。

 私は手にした布団叩き棒を妖怪の胸元に突きつける。

「なんでそんな執事みたいなのよ」

 昔から山に棲んでいるなら純和風の妖怪だ。着物ではなく洋装なのは百歩譲るとして、言葉遣いや仕草まで絵に描いたように執事っぽいのはどういうわけなのよ。

 妖怪は相変わらずニコニコしながら答えた。

「私は触れたものの望む姿に変化へんげするのです」

「え……」

 確かに残業続きで毎日帰りが遅くなったり、体調を崩して寝込んだときには、かいがいしく身の回りのお世話をしてくれる執事が欲しいと思ったことは何度かある。

 ていうか、それってマンガやアニメの影響で、本当の執事じゃないし。

 そもそもこのワンルームに執事なんて、違和感が半端ない。

 顔をひきつらせる私をものともせずに、妖怪執事は再び恭しく頭を下げた。

「なんなりとご用をお申し付けください」

「……とりあえず、靴を脱いで」

 言われたとおりに靴を脱いで、玄関から戻ってきた妖怪を私はまじまじと見つめる。

 こいつの正体はわかったけど、目的はわからない。妖怪だから、どんな人知を越えた能力を持っているかもわからない。それが人にどんな害をもたらすかも。

 なんなりとご用を申しつけていいなら、とっととお山に帰ってもらおう。

「他にご用は?」

「あなたに頼みたい用事はないから、もう山に帰っていいわ」

「それはできません」

 間髪入れずに断られて、私はついつい声を荒げる。

「なんで!? なんなりとお申し付けくださいって言ったじゃない!」

「私はあなたの生気を糧に生きています。あなたから離れては生きていけません」

 あっさりと妖怪っぽい事を言われて私は頭を抱えた。

「生気って何――っ!? いつから――っ!? どうやって!?」

「生気とは生命の源になるものです。あなたが私に触れた時から、あなたと私の命はひとつに繋がりました。あなたのそばにいるだけで、私は生気を受け取ることができます」

 これって、この妖怪に取り憑かれたって事? しかも一生そばにいるって事? てことは、私は今後、会社にも行けないし、結婚もできないし、まともな社会生活が送れないって事では……。

 私が人生に絶望していると、それを察したように妖怪はにっこり笑った。

「ご心配なく。私の姿は一般の人には見えません」

「もしかして私の考えてる事がわかるの?」

「いいえ。これまでの人がそれを気にしていましたから」

 なるほど、そういう事か。そりゃあ気になるだろう。とりあえず対外的には今までと変わりないという事なのでホッとした。

 生気を勝手に奪われているという実感はないが、命が繋がっているというのがどういう状態なのかよくわからない。

「私が死んだら、あなたも死ぬの?」

「私は死にません。また眠りにつくだけです」

 ということは、こいつが死んだから私も死ぬというとばっちりはないという事らしい。

 だいたいわかったが、まだこいつの目的はわからない。私は単刀直入に尋ねた。

「どうして私に取り憑いたの?」

「あなたが私に触れたからですよ」

「そうじゃなくて、取り憑いた目的はなに?」

「あなたの生きる目的はなんですか?」

「へ?」

 逆に問い返され、私は絶句する。生きる目的って、ようするに生き甲斐? そんなもの考えたことすらなかった。

 面食らっている私に、妖怪は穏やかに微笑む。

「私も同じです。特に明確な目的があって生きているわけではありません」

 確かに私も同じだ。どうしてもやり遂げたい目標があるわけでもなく、かといって自ら死にたいと思うほどこの世を儚んでもいない。だからお腹が空いたらご飯を食べて、ご飯を食べるために働いている。そうして命を長らえさせている。

「あなたが死にたいと思っていないのなら、あなたが心安らかに健康でいられるようにご助力いたします。それが当面の目的ですね」

 私が死んだり病気になったりしたら、こいつも弱ってしまうってことだろうか。

 どうやら危害を加えるような、危ない妖怪ではないようだ。それどころか、便利な奴かも。なんでもいう事きくって言うし。

 私はようやく武装を解き、お嬢様になったつもりで妖怪執事に命令した。

「お茶をいれて」

「イエス、マイロード」

 うわぁ。一度言われてみたかった。美形執事に。

 でも、一度でいいわ。なんかムズ痒い。

「ごめん。マイロードって呼ばないで」

「ではなんとお呼びすれば?」

「頼子。私は海棠頼子かいどうよりこっていうの。あなたは?」

「私に名前はありません。ご自由にお呼びください」

「じゃあ、ザクロ」

 髪も目も繭もザクロ色だから。

「かしこまりました。ところで囲炉裏が見あたりませんが、どこで火をおこせばよいのでしょうか」

「え……。あなたいつから眠ってたの?」

 詳しく話を聞くとどうやら江戸時代から眠っていたらしい。

 姿や言葉遣いは私の願望が反映されているらしいが、それ以外は浦島太郎状態のようだ。

 誰が便利な奴だって?

 私はため息と共に、使えない妖怪執事に台所家電の使い方を説明する。

 こうして、私と妖怪執事の先が思いやられる共同生活が始まった。





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