旅の条件について
ここ数日、部屋を出ることが出来ずにいる。目覚めるのはいつもだいたい夕方近くだ。はじめは昼頃だった。だんだんと時間がずれていって、最近では太陽を見ることさえかなわない。
なんとなく、惰性で酒をちびちびと飲み続けている。深く酩酊することはないが、思考がはっきりすることもない。ずっと霧がかかっているような感じだ。
酒が尽きると近くのスーパーに買いに行く。その店は夜の11時に閉まってしまうので、その時間を過ぎたときには酒を諦めてしまうこともある。
適当にiTunesで音楽をかけ、Twitterを見てばかりいる。常に退屈でいるのに、もう面白さなんて感じないのに、俺はずっとディスプレイに張りついている。
時間の経過する感覚が酷く曖昧だ。遅い気がするし、速い気もする。ひとは待ち望んだ時刻があれば時を遅く感ずる。しかし、なにか期限が決められたならば、その時刻に限ってはすぐさまやってくる。なぜか俺は、この期限がやってくるまでずっと不安で仕方がない。もやもやとした気分で、軽く吐き気もする。内臓のどことも知れぬ部分がとにかく重く感じられるのである。しかし、期限が俺を追い越すや否や、俺は再び安心を取り戻す。そしてまた時間を無為に過ごしはじめる。
期限とはなにか。具体的には、出願書や履歴書、レポートなどといったものの各種締め切り、店の閉まる時間、バスの出る時刻、講義のはじまる時間……などなど、人生に大きく関わることから生活のなかの些細なことまでを含む。それらすべてが俺をひどく不安な気持ちにさせる。
動かなければ、なんとかしなければと俺は思う。それでいて、目はただディスプレイの表面をなぞっているだけなのだ。ひととおり文章を読み終えたら、新しい文章が出てくるのをじっと待つ。それ出てきたら、読む。なにか気になる文言があれば検索をかけて調べる。リンクを、ウェブページを、ひたすらめくっていく。
ひたすら横滑りしていく。俺はたまらなくなって、適当にコートを羽織ると街へ飛び出した。
なんだ、外出できるじゃないか。
俺は思った。なにかのために、ではなく、ただ外出すればいいのだ。「ためにする」のではない行為、これだけを志向していけばいいのだ。もしかすると、今よりは豊かな生活が送れるかもしれない。そもそも豊かさというものがどういうものかが分かっていないことは措くとして、とにかくこの虚無感から脱する契機はここにあるのではないか。
iPhoneを見ると、まだ時刻は10時を回ったところだ。まだ近所のスーパーは開いている。俺は降り積もった雪を踏みしめながらそのスーパーへ向かった。
道中には橋がある。橋の真ん中で川を覗き込むと、水の流れは凍ることなくちょろちょろと南に続いていた。少しだけその流れを見つめてみる。これを辿れば南の湾へと出るのだろうか。海はみんな繋がっている。南の島へも、冷気は失われども、この都市の血が通うのだろうか。
安いウィスキーの小瓶を買って、俺はスーパーを出た。
どこへ行こうか。この時間にはカフェもやってないし、この近辺には飲み屋もない。かといって、外を放浪するには無理のある気温だ。これでは凍えてしまう。
ウィスキーの火を軽く喉に通しつつ、俺はふと思った。ロードムービーにしろ、少年の冒険潭にしろ、舞台になるのは決まって暖かい季節の暖かい土地だ。寒さに震えながら旅をするのは非常につらいだろうし、そんな物語は誰も読みたいとは思わない。なにより、寒さは旅に似つかわしくない。
なぜ、そのように感じるのだろうか。旅そのものに夏のイメージがあるのではないか。逆にいえば、冬のイメージが似合うのは逃避行であろう。
俺がいま、なんらかの出来事のただなかにいるのだとすれば、それは逃避の類いなのである。逃避は必然的に、何から逃げているのか、どこへ逃げるのかという項を前提する。旅にはそれがない。俺は旅に憧れている。けれど、この逃避が旅へと転化するためにはなにかを付け足すのではなくて、なにかを捨てなければならない。
俺はちゃんと分かっている。
(つづく)