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傷痕  作者: ジュン
1/1

①②

御影吉秋長編第三話『傷痕』

四〇〇字詰め原稿用紙換算枚数……291枚

御影吉秋×黒宮白陽


 昭和二十年三月十七日未明。

 東京、名古屋、大阪に続いて、空襲を受けたのが神戸だった。

来襲したB29約三百機は、無防備な地上に、二三五五トンの焼夷弾をばらまいたのである。空の悪魔の市街地絨毯爆撃は、神戸市民、約八八四一人の命を焼き尽くした。

 第二次世界大戦の終結が間もない頃、アメリカは日本に圧倒的な力の差を見せつけようと、

数々の兵器を用い、日本を降伏へと誘った。

 消えていく命。

 罪なき人々の叫び。

 戦争で、消えた非戦闘員の命の数は、約三八万人であり、罹災者の数は一五〇〇万人といわれている。空前の犠牲者を出した後に日本は敗戦の道を選んだのであった。

 家族、恋人、親族、恩師――空襲によって、断ち切られた尊い絆は、二度と蘇る事はない。


 惨劇は続く。

 燃えるような夏に、アメリカ軍はついに超えてはならぬ一線を超えたのだ。

――核兵器である。 

 アメリカ軍は広島、長崎にウラニウム爆弾と、プルトニウム爆弾という二つの新兵器――原爆を用いて、何十万人もの命を一瞬のうちに消滅させた。

 一九四五年〔昭和二十年〕八月一四日――昭和天皇は、ポツダム宣言を受諾し、翌一五日は、現在でも、終戦記念日として、追悼の意が行われている。

 人を殺し、

 文化を破壊し、

 そこに残るものは、

 果てしない悲しみだけ。


 泣き叫ぶ声が聴こえる。

 

 もう――六十年以上も昔の話だ。
























何食わぬ顔で現在を生きる若者達へ捧げる。


――明日死ぬとしたら、何をしますか?

――昨日まで元気だった人が、突然目の前で燃えたらどうしますか?

――家が消えたらどうしますか?


















序章


 戦後生まれの私は、その女の話を聞くまで、日本に原爆が落ちていようがなかろうが、戦争など、過去の事に過ぎないと、どこか他人事のような出来事に感じずにはいられなかった。

 学生時代も、第二次世界大戦については日本史の教科書で少しかじった程度で、戦時中に生存していない私が、戦争について理解しろと教師に熱弁されても、無理なものは無理なのである。

 私は、昭和生まれであり、物心ついた時には、平成の世を迎えていたのだ。

 理解できるはずもない。

 しかし、教師達は戦争について退屈そうに授業を受けている生徒達の反応など気にもせずに、修学旅行の行先を、広島に決めたのだから、呆れるばかりである。

 大人は子供の気持ちなんて全く視野に入れていないのだ。

 上辺だけで大切なことだからとか、忘れてはならないことだからとか言われても、知らないものは知らないのである。

 中学時代の事だ。修学旅行で行った、広島戦争学習は私の思惑通り退屈だった。原爆ドームや、戦争の資料館。戦時に生きた老人のくだらない話などを無理やり聴かされてどこが面白いのだろう。と、心の中で愚痴を零しながら旅行を終えたものだから、結局、中学最後の想い出など、私にとってあってもなくても、どちらでも良かった。

 全ては私にとって関係のないことだ。

 何故なら私には夢があったからだ。

 小説家という夢が。

 過去に、日本がどんなに飛散な出来事に巻き込まれようとも、世界各国で、今だに紛争が納まらなくても、私がくだらない物語を書くことに没頭できる世界であるのならば、その世界は現状のままであっても何ら問題は無かった。


 私――御影吉秋は、ホラー作家である。


 戦争など、あってもなくてもどちらでもいいと、ずっと思いこんでいた私に、その考え方の愚かさを諭してくれたのが、私が夢に悩み、もがき苦しんでいた時代に、ずっと世話になっていた一人の占い師であった。

◇◇

 兵庫県神戸市――

 駅前商店街の一角にあるビルの中に、その女の仕事部屋は存在している。――とは言っても大した部屋ではない。六畳ほどの狭い部屋にはテーブルが一つあって、傍らの本棚には難しい本がたくさん並んでいる。部屋はなんだかお香のいい匂いがして、棚には水晶やタロットやら、私の知らない名称の占術グッズが置かれていた。

 部屋の入口は、赤い垂れ幕で区切られていて、その垂れ幕の向こう側では、大勢の迷える子羊が、彼女との面会を心待ちにしているのだ。

 黒宮(くろみや)(はく)(よう)と名乗る占術師と、私の交流は、もはや五年にもなるか。

 最初は、彼女の占いなど、到底信じる気にもなれなかったのだが、親身になって悩みを聞いてくれるところや、私の夢は必ず叶うと、断言してくれるところが、どこか心地よく、私も黒宮が『貴方の夢は叶う』 と、断言してくれたからこそ、今まで夢を捨てなかったのかもしれない。

 学生時代から追い続けてきた小説家という夢を叶える為に私はあらゆる努力をしてきた。自らの時間を捧げ、アルバイトで生活費を稼ぎながら夜は執筆生活。新人賞を取る為に、私は自分の労力を惜しむことなく、パソコンの前でキーボードを叩き続けてきたのだった。

 だが、時には挫折する事だってある。

 到達点が見えないのに、続ける努力など皆無だと、悲観的になることもあった。

 そんな時。


 八方塞がりであった私は、縋る想いで黒宮白陽と知り合うことになった。


 紅い垂れ幕から出てくる、安堵したような女たちの表情。悩みを打ち明けてすっきりしたかのような形相で、帰っていく客達を見て、何だか私は不思議な想いに打ちひしがれていた。

 黒宮と初めて対面したのは、夏だった。世間ではお盆休みに突入した頃合いである。小さな個室の中で黒宮がじっと珍客をマジマジと見つめるものだから、私は思わず緊張の糸を引いた。

 珍しい客とは、私のことである。

 そもそも、占いに男性の客が訪れることは珍しいのだと黒宮は言った。


 紅い布が敷かれたテーブルには、妖艶な黒のドレスに、マントのような黒布を被った美しい女が座っている。長い黒髪に、白人の様な顔立ち。(カラー)接触(コンタクト)水晶体(レンズ)なのかどうかは知らぬが彼女の眼は蒼かった。口元に引かれた桃色の口紅(ルージュ)に、ドレスの隙間から見える放漫な胸が、なんだか、

――忌わしかった。

 私は、唾液を呑み込み、

 蛇に睨まれた蛙のように、全く動けなくなった。

 何か相談せねばならぬと、思えば思うほど、沈黙が長引いたのである。

「早く何か話さないと、時間がもったいないわよ。三〇分――三〇〇〇円だから」

 透けるような声音で、そう言われたものだから、私ははっと我に返り、声を絞り出した。

「ずっと昔から、夢を追っている。――小説家になりたいんだ。だけど、なかなか思うように事が進まなくて、それで貴女の元へ相談に来た」

「小説家? 貴方、歳はいくつ?」

「一九歳」

「若いのね。そんなに若いのに、小説家志望なんて、貴方みたいなお客さんは初めて」

 そう言って、黒宮は口元に色っぽい笑みを浮かべた。

 その笑顔が余りにも優しかったので、私はつい彼女に話を聞いてもらいたくなった。

 只管に今まで胸の内に秘めてきた鬱積した悩みを打ち明けていた。幼き頃に、経験した苦い想い出。話す事など山ほどあった。

 口下手な私は、日頃から文章ばかり書いているせいか、すっかり人との交わりを放棄してしまい、偶に人に会うと上手く話せなくなる。

 しかし、一度悩みを打ち明ければ、後は素直になりあらゆる言葉が口から勝手に飛び出していた。

「悩み多き年頃なのよね。別に小説家にならなくても、貴方ぐらいの年なら、どこででも働く事はできる。それなのに貴方が小説家にこだわり続ける理由は何?」

「文章が好きなんだ。文章は時に人間の心を救う事ができる。僕はそれを小説で表現したい」

「そうなの。素敵な夢ね」

 黒宮は、あやしげに口元に弧を描いた。

「――僕は、一体いつになれば、小説家になれるんだ?」

 無茶な問いである。だが、私は誰かに縋らなければ狂ってしまいそうなほど追い詰められていた。

「別に小説家になれなくても、幸せになれる方法はあると思うけど」

「――どういう意味だ」

「私ぐらいの歳になれば、色々と世の中について分かってくるものよ。――世の中に不幸せな人なんていないの。――この世界には多くの悩みを抱える人達がいる。だけど、それを不幸と思い込んでいるのは、その人本人だけであって、全く知らない第三者から見たら、その不幸は案外どこにでもあるような話なの。――御影吉秋くん。貴方は自分が、絶望的な状況にいると勘違いしているだけ。――例えば貴方が私の様に四〇歳を超えていて、どこの企業も雇ってくれない状況の中、小説家を目指している――という事ならば、また話は変わってくるけど、貴方はまだ十代。――私が言える事はね、これだけよ」

 黒宮は毅然とした眼付で、私にこう言ったのだ。

――辛いなら辞めればいい――と。


 私は言葉を喪失した。この苦しくて、どうしようもない状況を彼女はくだらない事だと断言したのである。

 訳が分からなくなった。違う。私は、夢を捨てるためにわざわざ、こんな怪しげな占い師に会いに来たわけではないのだ。

「――苦しいなら、辞めるか・・・・・・随分とあっさり言ってくれるな。僕がどれだけ苦しみ続けてきたか、今日、初めて会った貴女にどうして分かるんだ」

「私は、神様の声を聴く事が出来るの。人にはね、それぞれ守護霊というものがついている。その守護霊という影の存在は、その人に一番相応しい生き方に誘う役目を背負っているの。要するに貴方が今苦しいのも、全ては守護霊の導きなのよ。それを貴方は知らないだけ。貴方が苦しんでいるのは、きっと貴方が努力するような状況にする為に、守護霊が貴方に与えた試練なのよ。その試練に乗り越える事ができなければ、貴方は、貴方が今想っているような未来とは、また別の未来が守護霊によって創られるだけよ。だから――私はさっき、貴方の悩みを、たいしたことがないと言ったの」

 私には、このすっ飛んだ女の思考回路を理解することなど出来なかった。――だが何だ? この自信に満ちた蒼眼は。

 沖縄の海を彷彿とさせる、どこまでも蒼い神秘的な瞳が、私を捉えたのだ。

「――くだらないな。なら、僕がここにいる理由はもうない。僕は小説家になる手段を相談する為にここに来たんだ。貴女がそう言うなら、その守護霊の導きに従って僕は帰るとするよ」

 そう言って、眉間に皺を寄せて帰ろうとすると、彼女は追い打ちを掛けるような物言いで、こう言うのである。

「愚かな人ね」

 私は、冷たい表情の黒宮に視線を放った。

「何だと?」

「――貴方のようなエゴイストには、きっと分からないでしょうね。今日が何の日か……」

 朝から晩まで、パソコンの前でキーボードを叩いている私は、今日が何月何日かなどという事に全く興味が無かった。ただ、分かっている事は、夏という事だけだ。外に出れば季節を意識することが出来る。今日神戸に来る最中も、余りの蒸し暑さに意識が飛びそうになったほどだ。

「八月――」

 言葉を失くした。

 どこかから、蝉の鳴き声が聴こえた。

「八月十五日」 黒宮が言う。

「あっ――そうだった」

 黒宮は、聡明そうな顔付きを崩し、どこか深刻そうな表情になった。テーブルの上に乗る水晶には彼女の重い顔が映っている。

「――終戦記念日よ」

 忘れていた。

 むしろ、今日が終戦記念日であろうとなかろうと、私にとっては、大した問題はない。――自分でも厭になるほどのエゴイストである。黒宮は初対面ながらに私個人の本質を見抜いているようであった。

「それが、どうかしたのか?」

「――貴方がね、夢を追えるって事事態、幸せな事なのよ。戦後生まれの私や、貴方には分らないとは思うけど、かつての日本は、私達の想像を絶するほどの怒濤の時代だった。個人の考え方や、自由な発想、職務選択の自由を与えられたのは、無論、戦争が終わってからだったし、それまでは天皇や、幕府が時代を支配し、彼らに歯向かう人間など即刻殺されるのよ。正しく神の末裔、天孫のみが支配できる呪われた国だったの」

「悪いが、僕は勉強が苦手だ。歴史の話なら勘弁してくれ」

 黒宮は話を辞めない。

「貴方は幸せなのよ。御影吉秋くん、ところで空襲についてはご存知?」

 上品な物言いが恨めしい。私は不機嫌そうに顔を顰め、知らないと言った。彼女は遠くを見ながら、どう考えても占いと関係がない話を語り始めたのである。


 しかし、それが、大いに私に関係ある話だと知ったのは無論、後になってからなのだが。


「貴方が小説家を目指せるのも、戦争があったからなのよ。貴方が書いている小説って要するに、『偽りの記述』なのでしょう? 御影吉秋という著者が、勝手な嘘の物語を書いて、自己満足しているだけに過ぎない。――もし、その偽りの記述が、戦時中に世の中に発表されたらどうなるでしょうね。――もし貴方が日本が戦争に負けてからの物語を勝手に小説にして、私的に世間に流布させた場合、貴方はきっと国家反逆の罪に問われるわ」

「国家反逆だと?――何だ? 何を言っている? そんな嘘、誰が信じるものか」

 唾液を呑み込んだ。

 錯乱したのである。

「嘘じゃないわ。貴方は、巨大国家アメリカと懸命に闘い、大勢の犠牲者を出しながらも尚、戦を辞めない日の丸を、『敗北』 という二文字で冒涜した。その時の日本、天皇こそ神たる存在であったから、貴方は神に逆らったのよ。要するに死ぬのは当然の事でしょうね。――信じられないかもしれないけど、戦後生まれの貴方が、想像すら出来ぬ時代は確かに存在したのよ」

「――僕に、小説家になるなと言いたいのか? 貴女は……」

「そうは言っていない。話しを戻すけど、貴方が夢を追えるって事事態が、幸せだと言ったのも、その戦争がおおいに関係しているの。当時の日本男子は成人を迎えると、軍隊に強制的に入らなければならないし、もしその規則に従わなければ国家反逆の罪に問われ間違いなく殺される。例えば、貴方の元に赤紙〔軍の召集命令状〕が届くとする。けれど、貴方には夢があった。小説家よ。――そんな事を理由に招集命令を拒絶したらどうなるか――貴方に想像できる? きっとできないでしょうね」

 黒宮は、忌わしく笑った。

 私の額から、すぅっと血の気が引いた。

「なんだよ。早く言えよ」

「貴方は、二つの罪に問われることになる。――偽りの記述をした罪と、健康体であるにも関わらず招集命令を拒絶した罪。国家反逆の罪はね、当時の日本では一番大きな罪だった。よって制裁を受けるのは貴方だけで留まらないかもしれない」

「何……」

「貴方の両親、家族もきっと、首を刎ねられるでしょうね」

 絶句した。

 脳内に突如として放映された残酷な映画を掻き消した。頭を何度も横に振り、現実に返る。目の前には、蝋人形の様に整った顔の女がじっと私を睨んでいる。

「嘘だ。――そんな馬鹿な」

「嘘である筈がない。貴方、日本史の授業で習わなかったの?」

 私は追憶する。

 確かに学生の時には数々の戦争学習の授業を受けていた。だが、その時代には生まれていなかった私にとっては、どこか他人事のように思えて頭に入らなかったのだ。

「習ったさ。――けど、忘れた」

「なら思い出させてあげるわ。これも占術の一つなのよ。心理カウンセリング。貴方の目を醒まさせてあげる」

 占術師は、両手を多く広げながら言った。

 狂っていると思った。

 もう私は、彼女の話術から抜け出せないのかもしれない。


 洗脳という言葉を知っているか?

 ほら、今の私の様な心理状況にいることなのだよ。


「多くの犠牲者を出して、漸く日本軍はアメリカ軍に降伏した。そして、日の丸は、戦争を通じて、漸く気付くことが出来たのよ。国の誇りや威厳を保つために多くの罪なき国民を死なせてしまった。くだらないメンツを守る事で視野が狭くなっていたのね。――それまで、王こそが全ての実権を握っていた日本は戦争を機に生まれ変わったの。――日本国憲法の成立。全ての人間は、憲法の下に平等になった。日本国家は国民が主権を握るようになった。それまで、政治を行っていた天皇は、『象徴』 に成り変わり、直接政治に関与しなくなったの。そして、政治に関わる人間を選ぶのも、国民の義務になった。選挙よ。選挙。国民が日本を創る時代になった。個人の発想の自由はもちろん。どんな職につこうとも、どんな学校にいこうとも、どこに留学しようとも、何を目指そうとも――何でも自由なのよ」

「……自由――か」

「だから、貴方達は恵まれているというの。ううん――貴方だけでない。私も、戦後生まれだから歴史を学び語る事しかできない。さっき貴方にきつい言葉を言ってしまったけど、あれは勿論私自身にも当てはまることよ。――もし、私が何時死んでもおかしくない怒濤の時代に能天気に占い師なんてやっていたらきっと警官達に連れていかれるでしょうね。おかしな言葉で国民を惑わすなってね」

 私は――

 迷宮の中で彷徨っているようだった。

 なんという女だ。

 なんという怖ろしい女に私は出逢ってしまったのだ。

 なんだか、無知な自分が、

――惨めだった。

「それでも、僕は小説家になりたくて、どうしたら成れるか相談したくて、ここに来たんだ。その為に料金を払っているんだから、貴女は勤めを果たすべきだと思うが」

 どれほどみっともない言動を発しようとも構わなかった。黒宮のおぞましい歴史の授業が、どれほど理にかない今時の若者達を屈伏させてしまうほどのものであろうとも、私は今まで費やしてきた時間を生かす為にも夢を叶えなければならぬ、という妙な使命感が、心の芽生えていたのだ。

 しかし、黒宮は、そんな子供相手に更に提示をしてくるのである。

 私は再び私の知らない世界を旅する事になった。

 黒宮白陽の母親は神戸空襲の罹災者だったのである。時間の流れが止まった感覚に陥った。何故、彼女がさきほど、戦後生まれの身でありながら、第二次世界大戦の最中に行われた無差別爆撃についての話を知ったように語った理由がここに来て漸く理解出来たのである。

「今からもう六〇年以上も前の話よ。――当時、私の母親、頼子は二四歳だった。頼子は美しい女性だった。まだ冬の寒さが残り、肌寒ささえ残る春の日の出来事よ。こんな話、貴方の様な人にしてどうなるってものじゃないけども、貴方と私が出会ったのも何かのご縁なのかもね。この話を聞いて、貴方が夢を追う事に誇りを持って貰えれば――そう切に願う」

 黒宮が静かに瞼を下ろす。

 何かを思い出すかのように。

「誇り……」

「昭和二十一年三月一七日――頼子は、勢いを増してきた空襲から逃れる為に、彼女の母親の実家、奈良の田舎に疎開する事になった。頼子にはね、最愛の夫がいたの。無論、凛々しくて、体格の良い男だったから、戦に狩り出されてしまったけど、そんな夫が帰る日まで、頼子は家族を守ろうと必死だった。当時の頼子には、小さな子供がいた。名前は確かアカネちゃんだったかしら。まだ日も明けきってない朝方から、頼子とアカネちゃん、そして頼子の母親の三人は、兵庫から列車を乗りついで、母親の実家に急いでいた――そんな時よ。空の悪魔が三人を襲ったのは。ううん、三人だけじゃない。疎開中の人々。鳴り響く空襲警報。警報を聴き、どよめく人々の頭上から、炎の雨が降り注いだ。あっという間に駅の周りは燃え盛る業火に包まれ、夥しい数の焼夷弾が瞬時にして町を焼き尽くした。兵庫から脱出出来ていない最中で起こった惨事で、頼子達三人は逃げ惑う事しか出来なかった。早く、空襲の被害も少ない奈良に辿りつきたい。だけど、頼子の隣にいるのは歳終えた体力のない母親。そして一歳にも満たない赤子を背中にしょっている。こんな状況で、奈良まで辿りつける筈もなかった。頼子は一時、西宮で足を止め近くの防空壕に避難することにした。街には地獄絵図が拡がっていたそうよ。道には黒こげの焼死体が散乱していて、建物は火を噴き、全身に火傷を負った人々達が幽霊のように列をなして、冷たい川の中に飛び込んでは――死んだ。怖ろしい光景だった。だけどそんな下界の人たちの事なんて知らないと言ったのようにB29は攻撃を辞めなかった。火の雨はその後も延々と降り続けて、神戸の街を、人を、動物、自然さえも焼いた。頼子は娘と母親を守ろうと懸命に逃げた。逃げた。逃げ続けた。どのくらい逃げたかも、分からない。自分がどこにいるのかさえも分からない。辺りは火の海なんだもの、目印となる建物もお店も、全て燃えてしまってるから無理もない。こんな状況、貴方は体験したことがある? ふふふ、あるわけないわよね。勿論、私だって無い。だけど、私の母親は確かに体験したの」

 私は、双眼を見開いた。

 頭蓋内に妙な違和感を覚えたのだ。確か、今目の前にいる占術師は、自分が頼子の娘だと言った。しかし、彼女の語りに登場した頼子の娘――アカネと言ったか。それが、黒宮白陽の本名なのかと彼女に問うたならば、彼女は無言で首を横に振る。

「なら、貴女は頼子さんが、戦後に身籠った子ということか」

「そう――頼子の懸命な努力は儚く散った。体力のない頼子の母親は、猛火で焼かれ、崩れ落ちた建物の瓦礫の下敷きになった。頼子は母親を助ける事が出来なかったの。なんとかして赤子だけでもと、頼子は願っていた。だけど、結局、頼子の願いは叶わなかったわ。炎に囲まれ、呼吸さえ出来ずにいた彼女は、勢い余って川に飛び込んだの。幸いな事に灼熱の空気からは逃れる事が出来た頼子だったけど、次に彼女を襲ったのは寒さだった。春を迎えていたのだけれど、夜の川の水は、恐ろしく冷たく、凍死してしまいそうなほどだった。大人ですら耐えかねないような温度だった――そんな寒さに赤子が耐えれる筈ないじゃない。アカネちゃんは、頼子の背中で静かに目を閉じたの。川で気を失った頼子が次に目を覚ます頃には、神戸空襲が治まった頃だった。彼女はその空襲で母親も娘を失って――独りになってしまったの」

「――その後、彼女はどうしたんだ?」

「頼子が失ったのはね、家族だけじゃなかったのよ。――絶望ってね、重なるものなの。川から通りすがりの人に救い上げられた頼子は川辺である異変に気付いた。何か背中に妙な痛みが走ったの。頼子はね、その時に初めて知った。自らの背中に醜い火傷の跡がある事に。冷たくなったアカネちゃんを川辺に下ろした時、彼女は二重の苦しみを、哀しみを感じたの」

「火傷……」

「とても酷い火傷だった。皮膚は焼け焦げ黒くなっていた。項から健康骨に掛けて凄まじい傷痕が残ることになるの。当時は皮膚の移植なんて医療技術なんて無かったから、頼子は生涯、その火傷を背負って生きなければならなかった。死んだ家族の為にも――そして、昭和二十一年に戦争は終わり結局、頼子の旦那も戦場で命を絶ってしまった。――母さんは全てを失ったの。家も家族も何もかも――ね」

 全身の毛穴という毛穴が全て開いた。

「貴女の母親は、絶望したのか」

「当然ね。これで平静を保っていられたなら人間じゃないわ。母さんはね、戦争が終結しても絶望の果てを彷徨う羽目になった。死んだ頼子の母親の実家に独りで帰ってきた彼女はしばらく、生気を失い、毎日、毎日、仏壇に祭られているアカネちゃんや、死んだ母親や旦那の写真を眺めていた。ふと鏡の前に立ち、自分の背中を映し出せば、それはそれは醜い火傷の跡。頼子はすっかり生きる気力を失くしてしまったの。彼女の祖母は、頼子に再婚を勧めたけれでも、彼女は自らの火傷に酷い劣情(コンプレックス)を抱いたのか、決して首を縦に振ることは無かったみたい。自分の醜い躰を見て男の人が遠のいていく――それを頼子は畏れたのよ。だから自分から男の人に近づく事は決してなかった。それでも、いつまでも家に居てもどうしようもないでしょ。ある日、頼子は祖母に引き連れられて公園を散歩していた。

 ふと見上げれば蒼い空。

 聴こえる小鳥のせせらぎ。

 公園の周りを取り囲む緑達。

 奈良は兵庫とは違って、まるで空襲など他人事と思わせるほどに自然に満ち溢れていた。

頼子達は公園のベンチに背を下ろし、弁当箱を拡げた。

 すると、彼女の周りを幾人かの子供達が取り囲んだわけ。

 みそぼらしい服装をした子供達だった――」

「子供達……」

「戦災孤児って知っているかしら?」

「――空襲で、家族を失った子供のことか?」

 黒宮白陽は、黙然と頷いた。

「その子達はね、疎開先で、両親の死を知り、帰る場所を奪われた孤児だったのよ。そういう子供達はね、養護施設に預けられて、集団生活をすることになる。絶望した頼子がその時に出会ったのがそういう憐れな子供達だったの。頼子は子供達に弁当をあげた。――おいしそうにおにぎりを口にほうばる子供たちを見て、頼子はどう思ったのかしらね。私の母さんはきっとこう思ったに違いないわ。――アカネちゃんが生きていたなら、きっとこんな風に美味しくおにぎりをほうばっていたに違いないと・・・…頼子は決心した。この子達の母親になろうと。――公園に隣接する戦災孤児達の養護施設で、頼子は働く事になった。朝から晩まで、ずっと子供達と一緒の生活が始まる事になる」

「――そこで、貴女は生まれた……しかし、貴女の母親は恋愛に臆病になっていたはずだ」

「母さんはね、その施設で、一人の男と出逢うことになるの。――その男は施設の同僚で、茂雄(しげお)という名。私の父親に当たる人だった。重雄は頼子の美しい顔に一目ぼれし恋に落ちた。猛烈なアプローチだったみたいだけれど、頼子は重雄を拒絶したの。火傷というコンプレックスのせいね。もう四十近い頼子が、結婚していないというのに、男との交際を拒んでいる――茂雄は頼子を不思議に思い、理由を訊ねると、彼女は頑なに理由を話すのを拒んだ。それでも茂雄はどうしても、頼子を諦めきれなかったそう。さぞかし彼女は迷惑だったようね――そして頼子はとある策を思いついたの。自分の醜い火傷の痕を茂雄に見せつければ、彼は自分を諦めるかもしれないと。頼子は茂雄に全てを曝け出す事にした。――だけど、結果は頼子の思っていたのと、全く逆になってしまったの。茂雄は、頼子の背中に残った大きな火傷の痕を見ても彼女が好きだった。――頼子は茂雄と恋に落ちた。戦争が終わって十六年後の話よ。頼子は四十歳という年齢で人生最後の出産を迎える事になる。頼子は嬉しくて仕方無かったでしょうね。もう二度と子を産む事など無かったと思っていたのだから。――そして、二人は、私にこんな名前を付けたの――


――黒宮未来と。


 私は喉元に溜まった唾液を呑み込んだ。

 お伽話でも聞いているような感覚である。

「それが、貴女の実名なのか……」

 占術師は、ゆっくりと顎を引いた。

「私はね、幼い頃から、ずっと頼子の母親が働く養護施設の中で育って来た。ううん――私の方が戦災孤児の人たちに面倒見てもらってたって言った方が正しいわね。皆、家族がいなくても楽しそうにやってたわ。私も彼らに混じって、毎日のように施設で遊んで、寝て、朝を迎える頃には普通の小学校に通って――とても、楽しかった。だけど、その幸せはいつまでも続かなかったの」

「――何だ?」

「黒宮頼子は、最後の最後で茂雄に裏切られたの。茂雄は、若くて綺麗な娘と不倫して、醜い傷を負った頼子を捨て、姿を晦ました……」

 もはや、頼子の心の痛みを、私には想像することも出来なかった。

「人間とは汚い生き物だな」

「茂雄の不倫は、頼子を再び絶望の果てへと突き落す事になる。心的外傷に悩み、苦しみ、女で一つで、私を育てなければという強い使命感を抱きながらも、頼子は自分の心の闇に怯えていた。この先も、ずっと終わった筈の戦争に畏れて生きていかなければならないのかと、頼子は苦しんでいたの。そして――ついに、彼女は、自分の命を絶った」


 私は、狂人の如く叫びたかった。

 いや、

 叫びたいのは私ではない。

 頼子だ。

「なんで?……」

「これ以上、生きていても苦しいだけ。母さんはきっとそう考えたのね。母さんが死んで、私は、独りぼっちになって、施設にいる人たちの同等の存在に成り変わった。母さんの同僚だった施設の保母さんから、母さんが私に残した遺書を受け取ったけど、当時の私は小学生だったから、母さんの遺書の内容を読み解く事は出来なかった。遺書が読めるようになったのは高校生の頃。そこで、私は母さんが体験した戦争の事を知ったの。何故、頼子が死ななければならなかったのか。――全てが繋がった瞬間だった。

 それまでの私はずっと寂しかったの。寂しくて寂しくて辛かった。頼子が、茂雄が、私の前から居なくなってようやく、施設にいる子供たちの気持ちが分かったような気がした。皆、毎日楽しく遊んでいるように見えるけど、心の奥底では泣いているんだって初めて気がついたの――私は彼らを救いたいと思った。戦争で家族を失った子供たちを心の底から楽しませたいって、思うようになった。――私には未来という母さんがくれた大切な名前がある。子供達に未来を見せるのが、私の役目なんだって、子供ながらに変な使命感に燃えていたわ」

 占術師は柔和に顔を綻ばせ、懐かしむように笑みを作った。追憶の旅は、まだ終わらないようで、彼女は滔々と話を続ける。

「――施設の図書館に、タロットカード占いの本があったの。私は呪われた様に占いにのめり込み、毎日、毎日、占いの技術を学んだ。黒宮白陽誕生の瞬間ね……私は施設の子供達を集めて、自分の会得した占いを披露したの。皆、驚いていたわ。皆、笑ってた。私はね施設の子供たちが大好きなの。親代わりであり、友人でもあり、仲間でもある彼らが好きなの。だから、彼らの心にある闇を取り払い、輝かしい未来に目を向けて欲しかった」

「――占術なら、人の心を変える事ができる……貴女はそう考えた」

「そうよ。勿論、世の中の占術師なんていくらでもいるけど、そのほとんどが偽りで、その大勢は、テレビに出演したり、本を書いたりして、商業目的の元で占いをやっている。――本物なんてほんの一握り。パーセンテージで言えば、十パーセントぐらいかしら。こういう不思議な力を会得するのは、努力だけではいけないのよ。生まれ持った才能もいるし、独学でどうこうなるものでもない」

「貴女は本物なのか?」

 黒宮白陽は、さぁ、どうかしらね――と秘めたように言った。挑発的な物言いである。

「好きだったら占い師に成れる――という考えは間違いなのか」

「そうよ。本だけの勉強で本物の占い師なんかになれるはずがないの。貴方だってそうでしょ。他人の書いた小説ばかり読んで、本当に小説家になれるなら世の中小説家だらけ。それが現実というものなの。――高校を卒業した私は本格的に修行に入る為に、施設を出て、神戸に渡った。母親の住んでいた街は、もう原型を取り戻しつつあった。焼け野原だった街は再生していたのよ。私はこの街で、色んな占い師を訪ね、そして、数少ない本物といわれている師に出会う事になる」

「――貴女は、一体何者なんだ。いきなり訪ねて来た僕にそんな話をして、――僕に一体どうしろと言うんだ?」

 私は、

 動揺していた。

「さぁね。――御影吉秋くん。貴方の心はとても小さい。きっと、過去の心的外傷が影響しているのかしら。その傷を守ろうとする余り、貴方は今まで他人との関わりを拒絶してきた。文章を書く事によって、貴方はその精神的抑圧から逃げようとした。貴方はそれを自らの夢と称し、現実から目を背けようとしている」

 ビクッとした。

 何故なら、黒宮白陽の今言った事は的中しているからだ。

 つくづく、くだらないと思った。

 黒頭巾の美女が、私を鋭い蒼眼で見据えている。


「貴方に今、必要な事は、心に大きな刺激を与えてやること。私はそう睨んで、初対面の貴方にこんな、貴方の知らない世界の話をしてあげたの。どう? こんな話を聞いているとまるで、貴方の悩みなんて、悩みのカテゴリにすら入らない程に幸せな事だと思わない?」

「――思わないさ」

 私は捻くれてみせた。本当はもう分かっている癖に、制御できない自分の心が、歪んでいるように思えて、なんだか――

 忌わしかった。

 黒宮はクスクスと笑っている。

「――でも、いつか貴方の心も変化する時が来るの」

「変化が来るか……」

「貴方にしか書けない物語。それを探すしか方法は無い。色んな人と交流し、自らの世界観を広げなさい。さすれば貴方の小説もぐんっと面白さを増すはずでしょ」

「よく分らない」

 私は苛立った様に言った。

 黒宮は振り子式の壁掛け時計に視線を投げる。

「――そろそろ時間ね」

 と言いながら。

 部屋の外から、女性客の声が聴こえる。私の次に黒宮の鑑定を受ける客だろう。

「貴女の言い方は回りくどい。馬鹿にも分かるように、単刀直入に言ってくれ」

 そして、

 神秘的(ミステリアス)な占術師は、私にこんな言葉を言ったのだ。


――何事もやってみない事には分らないと――


 油蝉が歌う季節、私達は運命的な出会いを果たした。黒宮白陽という一人の占術師は、私の魂の呪縛を、自らの体験談を語るという技で、解き放ったのだ。

 知らない世界を旅した私の価値観は、一八〇度反転し、今まで見えていなかったものが、見えるような気がした。

 夢に彷徨い、悩み、悲観する若者は、

 罹災者の母親を持つ、占術師の匠な話術をもって

 救われたのだ。

 だから、今の私がいる。

 小説家として生計を立てている御影吉秋が存在しているのだ。

 そして私は悟った。

 世の中に、不幸など存在しない。

 何が不幸かなんて、結果から見たら分からないのだ。苦労の果てに輝かしい栄光を手にすることだってある。

 戦争だってそうだ。

 罪なき人々を殺し、文化や自然さえも焼き尽くした戦争さえも、歴史の流れを変える為には必要だったかもしれない。

 だから――

 分からないのだ。

 何が正しくて、何が悪いのかなんて。


 その後の私と言えば、

 黒宮白陽という一人の占術師の力に惚れ、何か思い詰める様な出来事が重なる度に、わざわざ神戸まで足を運び、彼女の鑑定を受けている。

 男の癖に占いが好きなどと、自分でも笑えてくるが、

 黒宮白陽は、

 ――本物だ。

 少なくとも私はそう感じた。


 歴史も浅い、五年も前の話である。

 今でも私は彼女を懇意にしている。






































〔1〕十二月一日


――平成十八年。冬。

 広大なキャンパスには四角いブロックが敷き詰められていて、片隅には、名前も知らぬ草花が鬱蒼としている。三階建ての校舎は、薄い蒼色をしていた。灰色の空からは、ちらりらと埃の様な粉雪が延々と降り続けていて、肌に突き刺さるような北風が吹いているせいで、私は思わず身震いをして鼻水を啜った。

 ダウンジャケットにマフラー。分厚い手袋という身形をしていてもこれだけ寒いのだから、都会の冬が田舎に比べると暖かいというのは都市伝説だったようである。 

 大阪正院大学に通っている佐伯月乃は私の友人である。一年前、小説の取材をする為に滋賀に足を踏み入れ、そこで私と月乃は出会った。

 忌わしい想い出である。

 キャンパスの隅っこの方で、凍えている私を佐伯月乃はかれこれ一時間以上も待たせているのだから、彼女の性格が典型的なB型気質である事は言うまでもない。彼女はあの一件以来、小説家、御影吉秋の助手なのだ。――とは言っても小説家に助手が必要なのかは、私自身も曖昧だが。こんな寒空の下、彼女に呼び出された理由は、月乃と同じ女子大学に通っている福沢美奈子という学生が、佐伯月乃が属している奇怪なミステリーサークルに訪ねてきた事が始まりだった。

 福沢美奈子は、文学部の学生である。

 美奈子の深刻な相談に困り果てた月乃は渋々、私に力を貸すようにと頼んできたということだ。――よって私はこんなに寒い外で、二人が校舎から出て来るのを、ずっと待っているのである。

 腕時計の針に目をやると、午後五時を回っていた。

 遠くで声が聴こえる。

 聴き慣れた声である。

 明るく通った声音。

 校舎のほうから駆け寄ってくる二人の影。前方に視線を投げた。長い髪が北風で靡き、白い吐息を零しながら、「小説家!」 と声を放っている、その女こそ佐伯月乃である。

 彼女は、私の事を名前ではなく職業で呼ぶのである。

 よって、私と今日、初対面の筈である福沢美奈子も一瞬にして、私の職業を知るというわけである。月乃は、赤いコートに身を包み、首元には桜色のマフラーを捲いている。彼女の隣にいる福沢美奈子は、不思議そうに私を見据えていた。

 美奈子は背は低く、ふくよかな体型である。肩の上辺りで切り揃えられた髪は茶色掛かっていて、真っ赤な頬が印象的だった。奥二重に、低い鼻。ウサギの様な風貌の女である。桃色のコートに、茶色いブーツという身形であった。

 二人が到着した事に安心したのか、私は叫ぶようなくしゃみをして、再び鼻水を啜った。

「――遅いんだよ」

 私が無骨な物言いをすると佐伯月乃は、ごめん、ごめんと、申し訳なさそうに謝ってはいたのだが、顔は笑っていた。この女ほど天真爛漫という言葉が似合う人間はいないと、私は常日頃感じている。福沢美奈子も、月乃に便乗するかのように、私に頭を下げてきた。

 月乃の情報によると、大阪正院大学から、五分ほど歩いたところには彼女たちが、常連としている喫茶店があるらしく、私は月乃に引き連れられて、その喫茶店に足を運んだ。

 「喫茶ハーブ」 と洒落た看板に、ランチセットのメニューが載せられた黒板が木製扉のすぐ横にぽつりと設えられていて、私達の来店を迎えてくれた。店内に抜けると静かなクラシックピアノの有線放送が流れていて、店の名前にふさわしい様なハーブの香りが漂っていた。小さな店なので、座席はすでに馴染みの客でその大半が埋まっていた。私達三人は、店の奥のテーブルに腰を下ろし、エプロンを着た聡明そうな男性店員にホットミルクティーを注文した。

 私の目前には深刻そうな月乃が、いよいよ本題に入るかのような剣幕で、私を毅然と睨みつけてきた。

「――彼女が福沢美奈子さん。大阪正院大学一回生で文学部に所属しているわ」

 月乃がそう言うと、不安そうに美奈子が会釈をした。

「――佐伯さんから、貴方の話を聞きました。小説家をしている事も、以前、鍾乳洞で起こった事件も、貴方の推理で、解決に至った事も、全て――その話を聞いて、私は縋りたい想いで、貴方に会いに来ました」

 福沢美奈子は、陰鬱な面持ちで言った。とんなお角違いな女である。恐らく月乃がそそのかしたに違いないのだが。月乃が属するミステリーサークルには、時たま、彼女の様な相談を持ち掛けてくる学生がいるらしいが、そのほとんどは月乃の適当なアドバイスによって解決され、月乃の思考回路の限界を超える、あるいは、事件性のある相談などについては、彼女も面倒になってしまうらしく、こうして学生でも刑事でもない私に仕事を押しつける始末なのだから呆れたものである。月乃は、本当に私の事を探偵とかの類だと勘違いしているらしい。

「――君も知っていると思うが、僕はただの小説家だ。刑事でも探偵でもない。仕事でミステリー小説を書くこともあるが、それはあくまでも作り話であって、僕は現実世界では、ただの人間なんだよ。もし、君の相談が、僕に手を追えないものだと判断した時、すぐにでも警察に行くことを勧める。――いいね?」

 美奈子は神妙な表情で頷く。

 彼女は何故か悔しそうに下唇を噛みしめていた。

 月乃は、哀しそうに押し黙っている美奈子を居た堪れなく思ったのか、彼女の代弁者のように語り始めたのである。

「――小説家。実はまだ事件らしい事件は起こっていないの。ううん――もしかしたら、これはどこにでもあるようなとりとめもない出来事に過ぎないのかもしれない。警察はね、事件が起こってからしか動いてくれないしね。貴方に解決してほしいのは、美奈子の父親の事なの」

「父親?」

 美奈子は、虚ろな視線を宙に漂わしていた。まるで廃人の様な仕草を見て、ただ事ではないといことは察しがつく。

 面倒に巻き込まれたとは言え、私は渋々二人の話を聞く事にした。

(じん)(ほう)(きょう)っていう新興宗教団体を知っているかしら?」

 月乃は行き成り突拍子もない事を訊いてきた。

「――人宝教? いや、聞いた事も無いが」

「全国に約三十の講堂を持つ、宗教団体――人宝教は、昭和二十五年に教祖、()(じょう)時宗(ときむね)によって起こされた。今ではその教団に属している人は三千人を超えると言われているみたい。彼らの目的は主に幸福の追求と、因縁の浄化。時宗は、世の中に起こる奇怪な殺人事件や、自然災害など悪災は、皆、過去からの悪因が重なった結果だと考えているの。人宝教は在家仏教を唱えている。要するに厳しい戒律を必要としない仏教だから個人で人宝教の宗派『法華経』を読誦して、祈りの力で、国家の悪因を鎮める事を目的としているみたい」

「経を唱えたからと言って、自然災害が収まるとは到底思えないが……」

「確かにそう。少なくても団体に所属していない私達一般人には到底理解することが出来ない世界――だけど、確かにその宗教団体は存在する。月々の莫大な会費の徴収、高価な仏具の販売。講堂での法話、先祖供養の尊さを信者に話し、彼ら自身も進んで自分たちのご先祖様を供養していけるように人宝教の幹部達が導いていく――『幸福の追求』よ。確かに表向きでは慈善団体に似ているものはあるけど、団体に属して狂ってしまう人間もいるの」

 ここで月乃が、さきほどから黙っている美奈子に視線を放った。

「――それが、私の父親なんです」

 美奈子が暗い口調で言った。

 なるほど。美奈子の父親は人宝教の信者だったのか。

「君の父親が……確かに事件性はないな。個人がどの宗教に属しようとも、それは自由だから」

「――だから余計に苦しいのです。父は兎も角、私や母親は彼の暴走に迷惑しています。――丁度、あれは、父の(ひで)()が務めていた自動車会社でリストラに遭った日でした。その日の父は家で酒を浴びる様に呑みながら、会社の愚痴を零していました。一五年も勤めていた会社をクビになった挙句にすでに父は四五歳を超えていて再就職すら難しい年齢だったから無理もありません。私達、家族も哀愁を漂わせている父親に掛ける言葉もありませんでした」

「正しく、どん底に突き落とされたというわけか……」

「――そんな時に、あの男は現れたのです。長身で肩まで髪を伸ばしたスーツの男が、福沢家の敷地を跨いだのです。彼は()(じょう)(ひかる)と名乗りました――彼こそが、人宝教教祖、時宗の孫に当たる男でした。光は突然、私達の目の前に現われて、リストラに遭った父親を匠な話術でそそのかしたのです。父親はきっと『幸福の追求』というキャッチフレーズに釣られたに違いありません。その日から父親は団体から奇妙な仏具を買い、毎日仏壇の前で人宝教と書かれた奇怪な(たすき)を付けて読経に耽る始末なのだから呆れたものです。自分がリストラに遭ったのも、過去に自分の先祖が犯した悪因が、現世において爆発し、結果として現れたんだって、その悪因を鎮める為に、御経を読むんだって、父は口癖のように呟いています。人宝教の幹部は月々の会費を徴収する為によく家に訪れます。すっかり信者に成り変わってしまった父は、団体に昔からコツコツしてきた貯金の一部を献上し、変わりに役目経巻という月に読まなければならない経のリストを受け取ってるのです。仏、ご先祖を敬い、必死に祈ればきっと自分自身は報われる。――父はそう信じているのです。――だけど、世の中、そんなに甘くない。父は迷っているんだと私は思います」

「君の母親は彼を止めないのか?」

「最初は必死になって止めていました。しかし、父の信念が強くなっていく度に、私達が彼の心に入り込む隙間はなくなってしまった。最近の父は更に狂っています。再就職の道を探さないばかりでは物足らずさらに家の財産まで売り払って、高価な仏具に手をつけ、人宝教の本部の催しにばかり顔を出して、家の事をすっかりほったらかしな始末です――母親は父親の変貌ぶりに嘆き悲しみ、先日、家を出てしまいました。京都の実家に帰ってしまったそうです。だから家には私と父の二人しかいません。――警察に、団体を告発しようかと思ったけど、特に悪い事をしている団体では無いらしく、悪いのは押し売りもしていないのに、高価な仏具を買いたがる信者の方だって、公安に属していない私ですら理解しているのですから、警察の方が取り合ってくれるとは、とても思えないんです」

「確かに――新興は個人の自由だ」

 私は黙りこんでしまった。

 美奈子の目に一筋の涙が蔦っている。彼女はその涙を私達に見られたくないのか運ばれてきたミルクティーを啜るフリをして、カップで自らの顔を覆っていた。

 胸に激しい痛みが走った。

 覚えのある痛みだった。

「小説家。貴方なら、なんとかしてくれる。――私はそう考えて美奈子を紹介したの。何か改善策は見つからない?」

 私は眉間に皺を寄せた。

 結果が真実を凌駕する事もある。

 現に人宝教は昭和二五年に発足して以来、信者に告発される事もなく、公安の摘発からも逃れる事が出来ているのだから、それ相応の存在理由が団体にはあるのだろう。一般人の私が太刀内出来る筈もないのだ。

 もし美奈子の父、秀雄を救う手段があるとすれば、それは本人の意思によって団体を抜けるしかない。が、当人の秀雄が心底、団体を信じているのだから余計に始末が悪いのである。

 信念とは、陰にも陽にも働くのだ。

 スポーツ選手が、自分の力を信じるのも信念。

 信者が教祖を信じるのも信念。

 だが後者のそれと前者のそれとでは、全くもって意味が違う。

 信念とは両刃の剣なのだ。

「歴史が深い組織ほどその結束が固く立ち入り難くなる。まずは、その団体について、詳しく知らなければ何も解決の糸口がつかめる筈もない」

「団体の事なら私がさっき説明したじゃない」

「そうじゃない。君が説明したのは、教祖や団体の活動内容だけだ。僕が知りたいのはその団体が出来た歴史的背景さ。何をきっかけにして、人宝教が発足したのか。何故、教祖保城時宗は、団体を作らねばならなかったのか。そして何故、信者達は長い歴史の中で彼らを信じ続けるのか? 知らなければならないことは山ほどある。 敵を知らなければ、勝負には勝てないってよく言うだろ――それさ」

 私は人差し指を立て、彼女らに提案してみせた。

「敵――ですか?」

 うさぎ女は、不思議そうに訊ねた。

「――だろ?」

「はい。そうですね。敵です。彼らは私の父親を洗脳し、自分達の金づるにしている。赦せない」

 美奈子は、悄然として呟いた。

「しかし、何故、君の父親がリストラに遭った事をその教祖の孫は知っていたんだ?」

 私の疑問に対して、美奈子は独自の見解を提示してみせた。

「詳しくは分かりませんが、私は父の会社が、何らかの形で神法会と繋がっていると睨んでいます。彼らが私の家に来たのは父が会社を辞めて三日後の事ですから、家族しか知らない父の解雇の事をどうして団体が知ることができるのか? 答えはたった一つです。きっと社員の誰かが、父の個人情報を団体に流用した」

「根拠はあるのか?」

「今のところはありません。だけど、それしか考えられない」

 美奈子は盲目的な考えに囚われている。彼女は悔しくて仕方がないのか顔を顰め、両手で顔を覆った。般若の様な憎悪に満ちた形相を他人に見られたくないのだろう。

「君の父親の会社が人宝教と繋がっている――確かに理に適った推理だな。リストラで不幸のどん底に突き落とした社員を、人宝教に入会させ、幸福の追求という思惑の下、莫大な金を団体につぎ込ませる。団体は会社に賄賂を渡しているのかもな」

 推測ではあったが、月乃はこの見解に憤怒したらしく、紅茶の載ったテーブルをドンッと叩き、「赦せない!」

 と、叫んだ。

 周りの客達の視線が一斉に月乃に向けられる。せっかくのクラシック音楽が台無しだ。月乃は冷たい視線に恐縮し静かになった。

「落ち着け。これはあくまでも、僕が勝手に作った筋書きに過ぎない」

「でも、理に適っているわ。会社と団体は互いに損しない仕組みになっているじゃない。きっとそうやって信者を集めて、団体は今までいやらしく生き残ってきたに違いない」

「――福沢さん。君の父親が働いていた会社はどんな会社なんだい?」

 私が訊ねると、美奈子はしばらく考え込んで、

「詳しくは知りません」

 と言った。

「名前ぐらいは分かるだろう」

「――いえ。ただ、どんな事をしている会社かは、以前父の口から聞いた事があります。――確か自動車機器の製造をしている会社だとか」

 美奈子の記憶は曖昧であった。

「そんな会社、全国にいくらでもあるな。君の父親に直接、訊くしかないか」

「それは、無理だと思います。父はクビになってから、その会社の事を思い出すのも煙たがっているから。さっきも話しましたけど今の父の精神状態はとても正常とは言えません。だから出来るだけ父の前で挑発的な発言は辞めて欲しい」

「そうか。なら、まずは団体と事を調べる他ないな」

「昭和二十五年と言えば、太平洋戦争が終結してまだ間もない頃よね。そんな貧困の時代に何故時宗は人宝教を作ったのかしら?」

 月乃が、紅茶を啜りながらそう言った。

「戦後――なるほど。もしかしたら時宗は戦争で何らかの被害を被ったのかもな。家族が死んだ。あるいは兵士として駆り出されたはいいが戦場で大勢の仲間を失い、友と離別した。あくまでも推測だが、時宗自身、不幸な人生を送ってきた側の人間だったのかもしれない。――それで彼は自らが教祖となり変わり、幸福の追求をしようと思いついたのかもしれない」

「確かにそう考えると合点がいくわね。空襲の被害で国全体が焼け野原。貧困の時代で食べるものすらない怒濤の時代だから、時宗が 『神』 になりたかった理由としては十分ね」

「兎に角、こうやって僕達がいくら口論をし合ったって何の意味もない事だけは分かる。福沢さんの父親が会社の裏事情を話してくれない以上、団体の内部から彼らの悪行を掴むしかない。信者から金を徴収するだけの団体なら、その証拠を掴んでを君の父親に提示すればいい。――そしたら、彼も眼が醒めるだろう。――君は別に団体の消滅が目的で、僕に相談しに来たんじゃないんだろう? 君の父が団体を抜ければそれで君の気は晴れるわけだ」

 福沢美奈子は、黙然と頷いた。

「何か考えでもあるの?」

「考えはない。だけど、答えは一つしかないだろ。今の話からするとね」

 月乃は訝しむように、

「え?」

 と、声を漏らす。

「僕自身が人宝教に入会するのさ」

 今度は美奈子が声を漏らす番であった。

「――勿論、高額な会費を徴収される前に辞めてやるけどね」

 そう言葉を付け足すと、二人は安堵したように溜息を一つ吐いた。

「行動力があるのですね……貴方は」 美奈子が未知の生き物を見るような目付で言った。

「ただの引きこもり作家だと思っていたけど、見直したわ」

 月乃は、自分の失言に気づいていないのだろうか。

 無礼な大学生である。

 私は思い出す。

 私を導いてくれた一人の女の影を。

 ふと窓の外に目をやると、夜陰の中を未だに粉雪がちらちらと降り続いていた。

「――幸福の追求なんて出来る筈がないんだ。幸せはいつだって、自分たちにすぐそばにあるのに、人はなかなか気づくことが出来ない……」

 私が徐に呟くと、二人は揃って小首を傾げるのであった。

 

 

 





















〔2〕 神の教 十二月五日


 六甲山の麓、閑静な住宅地の奥一帯は、人宝教が所有している土地らしく、本部への参拝客用の宿泊施設が何軒も見受けられた。人宝教本部は別名第一支部とも呼称され、多くの幹部達がこの巨大な施設に住みこみで生活しているらしい。巨大な講堂の周りは、黒鉄製の柵とアコーディオンシャッターで取り囲まれていてその隣には、時宗が住んでいたという邸宅があった。


 講堂は三階建てになっており一階のエントランスを抜けると長い廊下が建物の奥の経堂まで連なっていて、廊下には桧の扉が何個があった。それぞれの扉の上には、会議室、休憩室、倉庫、予備室などと記されていた。

 その中でも一際大きな部屋――八十畳の和室部屋は経堂と呼ばれていて、信者達の集会場として使われている。巨大な神棚には高価な壺に備えられた菊や百合の花。金色の線香立てに、蝋燭立。信者からの貢物と思わしき供え物――蜜柑や菓子などが山のように積まれている。神棚の上部には大きな注連縄が施されていて額縁に収まった写真が三枚ある。一枚目は教祖、保城時宗の写真。二枚目は人宝教の頂点に君臨する現教主、保城光。そして、三枚目は天皇陛下夫妻の写真である。国家繁栄を目的としている団体という肩書は強ち間違っていないようだ。

  床の間には釈迦牟(しゃかむ)尼仏(にぶつ)の金象が鎮座していた。


 私は、美奈子の父親、福沢秀雄の協力の元、人宝教に入会したのである。


 秀雄は私が、不幸のどん底にいる人間だと勘違いしていたらしく私の入会手続きを快く引き受けてくれ、初めて美奈子と接触した日からほんの一週間ほどで私は信者として、この行動に足を踏み入れる事が許されたのである。この施設の敷地を跨ぐ事は会員にしか許されない。

 そして、この日は、保城光の法話(ほうわ)〔神様や仏の話〕が聴けるということもあり、大勢の信者達で、経堂は埋め尽くされていた。(たすき)を付けた人たちの世間話で部屋は賑わっている。

「緊張しなくていいよ。すぐに君も光様の偉大さを知る事になる。あのお方の信じる道についていけば、私達は幸せになれるんだ」

 禿げあがった頭に、深く皺が入った額。垂れさがった目汁はまるで恵比寿さんを彷彿とさせた。中肉中背の男は私の隣で、数珠を携えながら経本を見開いている。

 この中年男が福沢秀雄である。

「美奈子さんから、貴方の事は聞いています。僕は神法会の話を耳にして縋る想いで、入会を決意しました」

 私は名演技を披露したつもりである。秀雄は憐れむような目付で私を見つめている。

「見てごらん。この経堂に集まった多くの人々を。世の中にはこれほど多くの人が不幸で苦しんでいるんだよ。全ては過去から現在に連なる歴史の中で起こった先祖達の犯した悪行が原因なのさ。先祖達の積んだ悪因が子孫である私達が償うのは当然の筋だろう。先祖を供養し彼らの成仏を祈り、そして因縁を浄化する。魂の解毒といってもいい。私達はきっと幸せになれるんだ」

 経堂の中を見回すと、ざっと二百人はいそうなほど人で埋まっている。

「貴方は幸せになれたのですか。美奈子さんから聞きました。――貴方の奥さんは貴方が人宝教に莫大な金を貢いでしまった為に実家に帰ってしまったそうですね。正直、貴方のその話だけが、僕の入会する意志を薄弱なものにしていました」

「――美奈子は分かっておらんのだ。母さんが逃げてしまったのもきっと神様によるお手配なのだよ。私が幸せになる為に妻が不要というならば私は潔く妻と別れるつもりだ」

「美奈子さんが、それを望んでいなくてもですか?」

「あぁ勿論さ。君も、光様の話を聞けば、すぐに考え方は変わるだろう」

 狂っている。――どいつもこいつも。

「お経を唱えて、過去の因縁を鎮めるか……不思議な世界ですね」

「私はね、十五年も勤めていた会社を突然解雇された。――あれほど懸命に働いていたというのに、あの忌まわしい人事部の男は歳終えた私の力に限界を感じたのか、私をクビにした。いくら不況な世の中といえどもあんまりな話じゃないか。――そして、私は光様と出会った。あの人は私に、普通では考えられないような世界を教えてくれた。私は過去の因縁を鎮める為にこうやって毎日、この講堂に通い、神棚の前で経を唱えるのだよ。いつか幸せになる日を夢見て」

「――そうですか」


 突然、経堂内の声音が消えた。

 後ろの襖が開く。

 漆黒のスーツを着た長身の男。肩まで伸びた髪。とても男性とは思えないほどに端麗な容姿の男が歩いてくる。透き通るような白い肌で中性的な顔立ちだった。

 保城光である。

 彼は白装束を纏った幹部を二人引き連れて、神棚の右手にある教壇に立った。教壇のマイクにそっと口を近づけ、彼は驚くほど低く透明な声で、穏やかな語りを始めたである。信者達は遠い目をしながら、光の話に耳を傾けていた。どうやら、彼は人宝教の歴史を物語っているようである。初めて講堂に訪れた私にとっては正しく好機なタイミングでの法話であった。

 滔々と語る光の白い顔は、どこか能面の様で表情が読み取れない。

 仮面のような彼の顔と対照的な穏やかな声音に、私は不気味な違和感を覚える

 なんだか、

 美しかった。

「――私の祖父、時宗は兵隊として戦争に参加していました。しかし彼は敵軍の銃撃により、右腕を喪失した為に、日本に送り返されてしまったのです。時宗はそこで驚くべき事態に遭遇するのです。時宗が愛した妻も子も歳終えた父や母も、皆、敵軍の無差別爆撃のよって死んでしまっていました。祖父はまるで地獄にいるような心境だったそうです。右腕は失ったものの、ようやく戦地から解放されたというのに日本に帰ってみれば、自分の帰りを待つ者は誰も居なかった。全てを失った祖父は焼け野原になった神戸の街を彷徨い歩き道端に転がる多くの焼死体を見て、仏の声を聴いたのです。自分と同じように地獄の中を彷徨い歩く人々を一人でも多く幸せに導くようにと――それから人宝教は始まったのです。世の中に絶望を知る人間は自分だけでいい。祖父は常日頃、私にもそうおっしゃっていました。そんな仏の様な心を持った祖父も歳には勝つ事が出来ず、死に、その後は私の父が人宝教の神となりました。――私は三代目です。皆様にどうか神仏のご加護がありますよう、御祈りします」

 光は頭を深く下げた。

 拍手が聴こえる。どこからともなく聴こえて来た小さな、小さな破裂音は、時が流れるにつれ大きくなり、やがて、盛大になった。

 光と幹部達は、そのまま神棚の前に跪き、そっと手を合わせる。幹部達の読経が始まり、信者達もその声音に合わせて回向(えこう)している。

 低く、不思議な経が空間に響いている。

――南無妙法蓮華経と。

 秀雄も瞼を閉じ、自らの幸福を追いかけるように必死になって声を絞り出していた。

 私は不思議な呪文の力にすっかり圧倒されてしまい、手元に開いた経典を黙読するのがやっとである。漢字だらけの経典が、なんだか忌わしい。

 奇怪な教団である。

 

 集会が終わると、私と秀雄は、施設の休憩所に向かい、そこで、茶をすることになった。さきほどまで騒々しかった信者の声音も今では嘘のように消えている。

 静かだった。

「若いのに、宗教に興味があるなんて、珍しいね」

 秀雄が煙草を吹かしながら言った。

「えぇ、まぁ」

「君ほどの年齢でも不幸を背負う事があるとは、本当に世も末だ――そういえば君は美奈子から人宝教の事を聞いたと言っていたが、君は美奈子と同じ学校に通っているのかい?」

「僕は学生ではありません。彼女とは共通の友人を通して知り合いました。その時に貴方の話を。普段は家で執筆ばかりしているもですから、こんな団体があるとは知りませんでしたよ」

「執筆? 物書きなのかい?」

 秀雄は窪んだ眼をこじ開け訊ねた。

「――ただの小説家ですよ。ホラーとか、ミステリーだとか、好きなことを好きなように書いている自由人です」

「へぇ――その歳で小説家? こりゃたまげたね。 私なんかこの歳で仕事すらしていないっていうのに」

「仕事かどうかはわかりませんが、好きなことですから」

「何、謙遜しなくていい。――しかし、なんでまた君みたいな人が人宝教に入りたがっているのか、今だに私は不思議でならないね」

 秀雄は訝しんでいるようである。禿げあがった頭部が部屋の照明で光っていた。

「物書きには、物書きなりの悩みがあります。アイディアが出てこない事も多々ありますから。苦しい時は神頼みって、よく言うでしょ。――それです」

「なるほどね」

 秀雄は黄ばんだ歯を見せた。

「――ところで、あの人、保城光と名乗っていましたけど、一体何者なんです? とてもこの大きな団体の頂点にいる歳ではないような気がしましたが」

 私が話題を切り替えると秀雄は、あぁ――と低い声を洩らした。

「ついこの間までは、あのお方の父親保城実(さね)(とも)様が団体を仕切っていたが、癌でお亡くなりになってね。――それで、まだ二〇半ばの光様が後継者になったんだ。実朝様と、奥様の雪子(せつこ)様は高齢で結婚されたから。跡継ぎはあのお方しか居なかった。一人っ子なのさ」

「二十歳半ば――まだ僕とそう歳も変わらないのに。立派ですね」

 私がそう言った後、秀雄が突然椅子から立ち上がり頭を下げる。私は不思議に思い、彼が頭を下げている先に視線を放ると、

 休憩室の襖の前に一人の女が立っていた。

 白いコートを羽織った女は翳りのある漆黒の瞳で私達を捉えていた。赤茶色の長い髪からは、柑橘系の香りがして、雪のような白く透明な肌を見て何故か、保城光の顔を思い出した。

「こんにちは。福沢さん。光様はもう帰られたのかしら?」

 秀雄は、一瞬だけ口籠ってしまっていたが、すぐに理性を取り戻したらしく、

「は、はい。さきほど階段を下っていくのをお見かけしました」

 と焦ったように言った。

「そう。せっかく迎えに来たのに残念ね。――じゃあ、私はこれで失礼します」

 清純な雰囲気の女は私達に深く頭を下げ、その場を立ち去って行った。柑橘系の香りが未だに部屋の中に漂っている。

「あの人は?」 訊ねた。

「――雪子様だ」

 秀雄は、恍惚とした瞳で言った。

「え……だって、さっきの人、どう見たって、三〇歳ぐらいに見えましたが……」

「そうさ。あぁ見えても、雪子様は、正真正銘、光様の母親だ。しかし、本当のではない。実朝様は、二回ご結婚されている。一人目の奥さま――道子様は白血病で亡くなられてね。光様は、前奥様との間に出来た子供らしい。雪子様との婚約はその後の事でね。可哀そうな女性だよ。実朝様との間に子が出来ないまま、未亡人となられてしまったのだから。まだ若いんだから、何時までも実朝様の事ばかり考えていないで再婚すればいいのに、彼女は未だに未亡人のまま。義理の母という立場だから、光様と仲良くしたいっていうのも分かるけど、さっきみたいに、光様は、雪子様がここに迎えに来たりするのを迷惑がっているみたいだが。――本当に憐れな人さ」

「歳の差はどのくらいなんですか?」

「実朝様と雪子様かい?――えぇっと、確か二五歳以上は離れていたな」

「そんなに――」

「何、惚れた惚れないのは個人の自由だろう。別になんてことはない」

 秀雄は、煙草の先端部を灰皿にこすりつけ火を消した。

 休憩所の壁かけ時計の針は、午後五時を過ぎた頃である。窓の外では北風が吹きすさび、どこからやってきたのか分からぬ落ち葉が舞っていた。

「――ところで、美奈子は君に何か言っていなかったかい?」

 秀雄は、虚ろな表情で訊ねる。

「いいえ。特には。――ただ、貴方が、早く職に就くべきだとは」

「そうかい――しかし、私はもう戻れないんだよ……」

 秀雄が意味深に呟く。

 私がその言葉の意味を問いかけることは無かった。


 義理の母を嫌煙する人宝教の長、保城光。

 病死した光の父、実朝を忘れる事が出来ず、未亡人を貫く雪子。

 私は、私如きが立ち行ってはならぬ出来事に遭遇してしまったのかもしれないと、妙な不安に苛まれた。

 

? 十二月十二日

 

 一週間が過ぎた。

 私は、再び 「喫茶ハーブ」 の中で窓際の席にぼんやりと腰かけ二人の到着を待っていた。しばらくすると、マフラー姿の二人が、寒そうに目を細めながら、店の中に入ってきた。

 人宝教の信者に成り変わった私が、二人と会うのは初めての事である。情報交換といえばいいのかは分からぬが、一応私は美奈子に依頼された身なので彼女に状況を伝えなければならないという妙な義務感を抱いていた。

 私は偉そうに咳ばらいをして、上品に紅茶を啜っている二人に話を始める。

「どこから話していいかは分からないが、とりあえず言葉はできるだけ選ぶようにするよ。まず、秀雄さんに団体を抜ける意志はないだろうね。奥さんが実家に帰ったという事実についても、もし彼女が、信者である秀雄さんをこのまま受け入れないとすれば、恐らく彼は離婚を選ぶだろう」

「離婚――」

 美奈子は絶句した。

「本当なの? 娘や妻に軽蔑されて、それで平気なの?」 月乃が訊いた。

「あぁ。彼は心も体も、すっかり人宝教一色に染まっていたよ。――いや染められてしまったのかもな。あの男――保城光に」

「やっぱりあいつが……」 美奈子は憎悪に満ちた表情を作った。

「まだ、団体に入会して一週間ぐらいしか経ってないけど、なんだか嫌な感じがしたよ」

「どういう意味よ」

「――いや、思っていたよりも怪しい宗教じゃなかったからさ。人宝教本部に集まっている信者達は、月に何度か集まって、国の発展途上、そして因縁浄化を願い、読経に耽っている。万世一系の皇族達を敬い、尊敬し、教祖を崇め、先祖に感謝している。――皆清い心を持っていたんだ」

「そんな筈ありません。父はあの男に騙されているんです。一体、どれほどの財産をあの団体に蝕まれたのか、父は、先祖代々守り続けてきた土地を売り払ってしまったんです。あの団体に金を献上する為に。そんな団体が清いだなんて……」

「――そうよ。小説家。貴方まで、狂しくなってしまってどうするの?」

「待て。まだ話の途中だ。そう急かすなよ。僕は至って正常だ。――なんというか、そう、完璧だから逆に怪しいんだよ。信者っていうのは盲目になるものさ。何も福沢さんの父親だけが特別に狂ったわけじゃない。人宝教本部にいる信者たちは皆心底、光の人柄や、カリスマ性を信じ切っている。いや、彼というよりかは、時宗の血を信じてるといった方がいいのかな。兎に角、宗教に染まった人は、どんなに絶望的な状況に自身が置かれても、神様が与えたお手配だとか、そうやって都合のいいように事実を捉えている事が多い。きっと光は、そんな人の弱い心の部分を利用しているだけだと僕は睨んでいる。――皆、夢を見たいだけなんだよ。どこにでもあるような不幸を、自分だけが味わっていると勘違いして、宗教に縋り、いつかは神様が都合よく自分だけ救ってくれると信じないと生きていけないのさ。――きっと、君の父親もその類の人間なんだ」

「団体に騙されているのは、父だけではないと?」

「そういう意味じゃない。中には宗教は宗教と割り切っている人間もいるだろう。付き合いで仕方なく入会するって事もある。訊けば、人宝教の行事には様々な祭りや伊勢神宮参拝なんていうイベントも存在した。――要するにそんな年中行事を純粋に楽しみたくて、入会している人間も少なからずいる。宗教が人を変えることは実際にあるが、それは基基、その変わってしまう人間の心が弱っているからだ。特に秀雄さんのようにリストラに遭って、不幸をしみじみと感じている人間の心の隙間ほどつけ入りやすいものはない」

「――難しい話で、よく分りません。もっとはっきりと言ってください」

 美奈子は、先生に質問を投げる生徒の様に言った。

「そうよ。貴方の話は理屈っぽくて、ちっとも意味が分からないわ」

「つまりだ。神の存在を信じるか、信じないかは本人次第という事だ。信じていなくても人宝教に入る事は出来るし、例え信じていなくても裁きを受ける事もない。正しく信仰の自由とはその事を意味する。だが、さっきも言った通り、自分を不幸と信じて疑わない人間は神様がきっと救ってくれると信じなければ生きていけないのさ。現実の社会を生き抜くには、自分で努力するしかないというのにね。――だが、盲目的な信者はそれに気付けない。保城光が語る神仏の話を心底信じ切り、御経さえ唱えていれば、いつかはどうにかなると、勝手に思い込んでいるんだ」

「では、私の父はどうすれば、団体を抜ける決心をするのですか」

「まだ分からない。――でも、出来るだけ急がないと、君の父親は――」

 私は一瞬口ごもった。

「――私の父が、何です?」

 私は深刻な顔を作った。

「もし、君の父親が、財産を全て団体に貢いでしまい、彼らへの支払いが出来なくなったら、どんな行動に走るか分からないんだよ」

 刹那、美奈子の目が大きく開いた。華奢な掌で、口元を覆っている友人の顔を見て、月乃が不思議そうな形相になる。

「まさか――」

「――美奈子?」

「そのまさかさ。――秀雄さんは、心底、団体を信じ切っている。要するに彼にとって団体こそ神なのさ。神に金を支払えなくなった彼は、再び絶望の果てへと突き落される。彼の心には憎悪が渦巻くだろう。その憎しみの矛先は、秀雄さん自身に向けられることは決してない。なら、その憎しみの矛は、どこに向かうのか……君なら、分かるだろう?」

「父をリストラした会社――」

 月乃は、ここにきて漸く意味を理解したようである。

 最悪のシナリオだ。

「美奈子のお父さんが、会社の人を殺すとでも言うの?」

 月乃が驚愕しながら、訊ねた。

「――可能性はゼロじゃないだろう。盲目的な信者がどんな奇怪な行動に走るかは、君達だって知ってる筈さ。オウム真理教の信者が起こした地下鉄サリン事件だってそうだ。絶対的な神の存在を信じている人間は時として狂気に支配される。秀雄さんだって例外じゃない。仮に光が、彼に誰かを殺せと命じたとすれば――彼は間違いなく、誰かを殺す術を考える心理状況にいる」

「――そんなのウソよ。父は迷っているだけです」

「――そうだといいんだが。もしそんな状況に至れば、君の父親はただの犯罪者だ。さっきも言ったけど信仰は個人の自由。秀雄さんの犯罪と、光は何の関係もない。――僕はね、この負の連鎖こそ人宝教が、歴史を渦に消えなかった理由だと考えている」

「どういう意味よ」

「――信者が、不幸のきっかけを作った人間を殺害したとしても、団体には何の責任も無いということだよ。金を団体に貢げなくなって、強盗に走る信者がいたとする。無論、警察に捕まり、獄中に監禁。――動機を白状させられるだろうね。だけど、団体は信者にとって絶対的な神だから、神を裏切るような発言は、信者にとってのタブーなのさ。よって、囚われた信者は、団体の事を一切話さず、個人的な理由で犯罪に走ったと供述する。団体の悪事は闇に呑まれる。――これこそが、新興宗教の心理トリックなのさ。実に恐ろしい。誰も悪くない犯罪ほど恐ろしいものはない」

 二人は黙りこんでしまった。

 沈黙が続く。

 瞳が氷結し、顔面蒼白としている美奈子。

 月乃は居た堪れなくなったのだろうか。何か、ぼそぼそと小さい声を漏らしている。よく聞き取れないが、「そんなの駄目」 を何度も呟いているようである。

「――駄目。そんなの駄目よ……美奈子のお父さんが、人を殺すなんて……そんなの絶対に駄目。そんな事したら、美奈子は、犯罪者の娘になっちゃう……」

「佐伯さん……」

 二人の虚ろなやり取りが、

 私の心を抉った。

「――お願い。助けてあげて。美奈子を助けてあげて」

 月乃がらしくもないか細い声で懇願している。

 最悪の結末を想像しているのだろう。

「落ち着け。これは、あくまでも僕の推測にすぎない。小説家ってのは、こうやって筋書きを作るものさ。悪い癖でね。だけど、秀雄さんをこのままにしておくのは危険だと言う事は理解して貰えたか?」

 二人は揃って頷いた。

「人宝教が、本当に悪の存在なのかは、正直僕にも分らない。だけど、団体が存在しているせいで、少なからずとも被害を蒙っている人間はいるんだ。無論、その被害者は自分を被害者とも思わずに、神の言葉に洗脳され狂ってしまっている。現に教祖、時宗は、人宝教の設立で、少しでも戦争の罹災者を幸せに導きたかったらしいしね」

「何が正義で何が悪だなんて、いくら討論を重ねも、意味がないわ」

「そうだな。兎に角、秀雄さんの自我を取り戻す事が先決だ。団体が悪かどうかなんて、今はどうでもいい。――だろ?」

 美奈子は、瞳を赤くしている。

「はい――父を、どうか父を、救ってやってください」

 美奈子は深く頭を下げた。

 

?


 「喫茶ハーブ」を出た私達は店前で福沢美奈子と別れた。影のある美奈子の背中を見送った私と月乃は、駅まで続く細い街路を歩いていた。イルミネーションが巻き付けられた街路樹はキラキラと明滅し、白と青が交互に光を放っている。琥珀色の外灯の灯りがそれに入り混じり、夜だというのに道は明るい。

「どうするつもりなの」

「――まだ具体的な事は考えていないが、少し気掛かりな事があってね。それは一見、福沢さんの件となんら関わっていないような気もするが、どこかで繋がって無いとも言いきれない」

「気がかりなこと? 何?」

「保城光には義理の母親がいた。雪子さんと言ってね。とても清純な女性だったよ。彼女は先代の教主、実朝と結婚していたが、彼が病死した後は、未亡人のままだ。しかし、そこにも裏があってね。光は、実朝の前の妻、道子との間に生まれた子だ。道子は、光が高校生の時に死没している――実朝と雪子の間に子供はいない。ここが気がかりでね。実朝と雪子は、二五歳離れた歳の差婚なんだよ。しかも、あんなに綺麗な人が夫を失ってから未亡人を貫くなんて。まだ三十そこいらだというのに」

「よほど、過去の夫を忘れる事ができない。あるいは――何か企んでいる。そう考えるのが普通ね」

 私は、神妙に頷いた。

「ここは、君の方が鋭いだろ。女心というものは僕には分らないからね。――もし、君が雪子の立場に立たされたら何を考える? 何を想う? そして何を手に入れようとする?」

 私は質問攻めをした。

 月乃はしばらく考え込む。

「――女ってね。以外に強い生き物なの。夫が死んだからと言って、二人の間に愛が芽生えていなければ、別にどうってこともない出来事に過ぎない。私が雪子さんなら、――そうね、きっと、失った立場を取り返そうとするわ」

「失われた立場をか。――実は僕もそう考えていた。彼女は実朝の妻だ。よって実朝が死んだ時点で、莫大な権力は息子である正義に引き継がれた。雪子は、人宝教の中で唯一純血ではない存在という事にはなる。無論、実朝との間に子供がいたなら別の話になるが。光はね、どこか雪子さんの存在を忌わしく思っているみたいだった。最初、雪子は義理の母親という立場から彼と親しくなりたいと思って行動しているのかとも思ったが、こう考えれば筋が通るんだよ」

「どんな筋よ」

「――最初から雪子は、若き長、光を利用する為に前夫、実朝と結婚したんじゃないかってね。だけど、それに光は気づいている。――だから、雪子の存在が邪魔なんだ。いくら義理の母といえども、彼にとっての実の母親は道子だけだからね」

「確かに筋はあるはね。たった一週間でそれだけ掴めるなんて、貴方本当に探偵にでもなればいいんじゃない?」

 月乃はからかうように言った。

「まさか――僕は、ただの小説家さ」 

 ここで、月乃は口元に笑みを作った。

「――雪子さんは、光を利用して何をしようとしていたのかしら」

「――分からない。ここも感情移入の問題だと思うが。二人は義理の母と息子。――歳の差もほとんどない。――これはあくまでも僕の妄想の類だと思ってもらって構わないが、もしかしたら彼女は光と繋がるつもりなのかもしれない」

 月乃の双眼が大きく開いた。

「子を作る……まさか雪子さんは――」

「そうだ。光を利用して、自らの血が通った子を産み、その子を新しい人宝教の長につけようとしている。――いわゆる影の支配者という地位を彼女は確立しようとしているんだ」

「――でも証拠は無いんでしょ」

「そう。だから、推理しているのさ」

「美奈子のお父さんを救うのが先ね。別に人宝教の内部いざこざなんて、どうでもいいわ――時間、無いんでしょ?」

「確かに時間はない――僕の力で秀雄さんを救えるかどうか」

「珍しく弱気ね」

 私は険しく表情筋を動かした。

私は、

 瞼を閉じる。


 いつも、そうだった。

 追い詰められると、あの人の影が頭に浮かんで、

 絶望に満ちた過去の自分が、泣いている。

 未来すら見えなかった私に、一筋の光明を齎した

 あの人が、

 脳内で、

 妖しく

 微笑んでいた。


――何事もやってみない事には分らないわ。


 瞼を開ける。季節はいつのまにか移り変わっていて冬を迎えている、凍えるような風が私の肌を刺し、月乃は微かに躰を震えさせていた。

 目の前に駅が見える。歩道橋の上では名もない歌手たちが熱唱していて、その周りを通りすがりの人々が鑑賞している。仕事帰りの会社員達が虚ろな顔を作り、何もない地面を見据えながら、通り過ぎていく。気がつくと私は街路の真ん中で立ち止まっていた。

「どうしたの? 急に?」

 私は、はっとした。

 どうして気付かなかったのだ。

 私には心強い師がいるではないか。

 戦争の罹災者である母を持つ女。

 心理術を駆使したカウンセリング女。

 絶望している人を救うことを天職としている女。


 私は笑った。

 夜の街中で、笑ったのだ。

 灯台下暗しというのはこのことだ。

 私はあの変わり者の存在を忘れていた。

 街中で不思議そうな視線が一斉に私の元に集まる。

「ねぇ。どうしたのよ。恥ずかしいから辞めてよ!」

 月乃が羞恥に満ち、顔を赤くしている。

「――なんとかなるさ。きっとね」

 私は、夜空を見上げながら呟いた。




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