第9章 ーthe Heart Melts awayー
もたれた扉から背中をはなすと左から耳に心地よい女性の声が聞こえてきた
「あぁ、エルシア宰相…」
ラルクは錦糸のようなマロンペースト色の髪を月光に照らす彼女を見た
目上の者に対し敬称をつけるという事に慣れていないラルクは
思わず彼女を呼び捨てにしてしまいそうになった
「フフッ…好きに呼んで構いませんよ。ラルクはアルトを探しに行くんですか?」
エルシアは思わず触れたくなるような艶のある桃色の唇に笑みを浮かべながら
金色の瞳で心を見透かすようにラルクを見つめる
「アンタにもわかんのか…?」
「えぇ、何となくですが。彼女は顔に出やすいですからね…」
エルシアはそう言うが例えば他の誰かがアルトを見た場合
アルトは表情から感情が読みにくいと言うだろう
つまり、エルシアはラルク達と同じくらい彼女の事をよく観察出来ているという事だ
それにしてもこのエルシアという女性
一国の宰相という高い位にありながらちゃんと臣下にまで眼が行き届いているようだ
「ですが貴方がいるなら私の出る幕ではありませんね。アルトをお願いします…」
エルシアはラルクに深々と頭を下げて月光と闇の中に消えていった
ラルクもそれを見届けた後廊下をひとり靴底が床を叩く音を響かせ歩いていった
そういえばシルヴィアが前に言っていた
貴族や高官の中には部下や民に対して高慢で非人間的な扱いをする者がいると
だが、セレンやシリウス、クラウディアやエルシア達の態度を見ると
シルヴィアの言っている事は中々実感出来なかった
それからラルク達は城の中を探し回った
何せ限りなく天然の要塞に近いダンケルク城は人ひとり探すのでさえ一苦労だった
そして最後に辿り着いたのが物見の為の展望台だった
そこは地上にいるより輝く月がより近くに感じられ
白銀の光が夜の静寂の世界を照らす
「……アルト……」
彼女は天を臨む場所から眼下に広がる景色を眺めていた
「……………」
アルトはラルクがあたかもラルクがそこに存在していないかのように返事を返さない
彼女が返事を返さない理由は既にわかっていた
ラルクは静かに彼女に歩み寄りその月光に陰る寂しげな細い肩に手を置いた
「泣いてるのか……?」
彼女の白い右頬には月光に光る一筋の涙が流れていた
「………ラルク……」
アルトはようやくラルクの方にゆっくりと振り向いた
彼女の両頬は濡れていた
それは氷が溶けているようだった
ゆっくりと彼女が感情を押し殺し続ける事で凍ってしまった心が溶けるように涙が流れていく
「ごめんなさいラルク…ッ!…私……私…ッ…!」
アルトはラルクの胸に飛び込み額をラルクの胸につけ服の裾を握りしめて肩を小刻みに震わせる
「分かってる…知ってたんだろ…?……セレンの母さんの事……」
ラルクは何となく気づいていた
アルトがセレンの母、ルシア女王セリエの真実を知っていた事を
「言わなきゃいけない事は分かってた……でも…私には…ッ!!」
「セレンが悲しむ姿は見れなかったんだろ…?」
ラルクの言葉にアルトは小さく涙声で頷いた
アルトの選択は決して最善ではなかったがラルクにもその気持ちは分かった
きっと自分も彼女と同じ立場ならそうしていたに違いない
ラルク達の中で誰も天真爛漫な彼女の涙を見たくはない筈だ
「私は……数えきれない命を…ゥ…ッ…奪いながらも…ウゥ…ッ…セレン様の心すら守れなかった……!」
アルトが服を握りしめる力はより一層強くなっていく
「んな事ねぇよ……アルトはセレンも…みんなの事も、立派に守ってきたよ…」
ラルクは月明かりに照らされて鮮やかに光る紅の髪を優しく撫でた
小刻みに震えるこの細い彼女の両肩には少し重すぎる荷だったのかもしれない
「守ってなんかないよ…ッ!守ってなんか……ゥ…ッ……ウアアァァァッッ…………!!!」
アルトは何度も何度もその言葉を繰り返し凍ってしまった心をゆっくりと溶かしていった




