第十三話:忠告
「…39度3分って…グレイスさん。貴方どうしてこんなになるまで医務室にこないの?これじゃあ任務どころじゃないわ。それにひょっとしたら任務先で伝染病にかかっている可能性があるので、暫く検査室に入ってもらいます」
俺はそれを聞いて呆れた。目の前の、女医が言うとおりだ、よくここまで我慢できたな。
「ケイト、ちょうどいい。最近負荷が掛かる任務の連続だったからな。英気を養え」
子供をあやす父親のように、柔らかく微笑んだロイス隊長は、頬を高揚させて目をうるますケイトのおでこに唇を寄せた。チュ、という音と共に、分厚い手の平でケイトの頭を撫でた。その行為がやけに外国臭くて、少し──いやかなり恥ずかしくなる。
「──すいません」
申し訳なそうにケイトは呟き、真っ白な布団を頭まで被った。
「いいんだよ、そんな事より」
ケイトの丸い頭を撫でていた手は、彼女を囲うようにめぐらされたカーテンを勢いよく引いた。そしてここから先は男同士の会話だとばかりに、隊長はその細い目をさらに細めた。
「大和、ちょっといいか」
医務室から出て、あまり人気のない廊下に佇む。隊長は無機質な壁にその大柄な体をもたれかけさせ、懐から煙草を取り出した。その仕草が、やけに大人の男っぽかったものだから─思わず畏まった。
「……お前さ」
乾いた唇に煙草をはさみ、ライターで火をつける。隊長は一連の動作を終えた後、ゆっくりと煙を吐き出しながら、静かに言った。
「──AクラスのMAを倒したんだって?」
「……は?」
突然の問いに、思考が停止する。まさか、怒られると思っていたののに。どうして彼女をあんな状態にさせておいたのか、責任を取れ、と。
少しの沈黙の後、なんとか浮き出てきた単語を繋げ、紡ぐ。
「えっと……俺だけで倒したんじゃないです。ケイトと、二人で」
白い煙が立ち上り、思わずこちらがむせそうになる。ヘビースモーカーなのか、もう煙草は相当の短さだ。褒められるかと思い、上がりそうになる口角を必死で押さえる。しかし隊長は沈黙したままだった。
「……それだけ、ですか?」
おずおずと尋ねると、凛々しい横顔の隊長は目だけを動かしこちらを見た。無造作に跳ねた黒髪が、何だか無性にかっこよい。
「いいや」
銜えている煙草を、唇だけで上下させると、隊長はようやく真正面を向いて言った。
「お前さ、ケイトのこと好きだろ?」
……二度目の、思考停止。思わず耳を疑った。
ロイス隊長は唇で煙草の端を噛み、にっかりと笑った。
「分かるんだよ、お前の仕草とか表情とか。分かりやすいやつだな」
「…──!!」
柄でもないのに、顔が火照ってきた。これは断じて──否定しなければ。……否定?なら、何でこんなに体が熱くなるんだ。好きじゃなかったら、何も思わないはずだ。
それに初恋でもないのに、何度も、何度も、日本にいるときは結構荒れた時期だってあったからそれなりの経験は積んでるんだ。何を今更。
一瞬にしてさまざまなことが脳裏を駆け巡ったが、ロイス隊長は上から畳み掛けるようにしてさらに続けた。
「お前がケイトを好きなのは明らかな事実だ。認めろよ」
……プチン、と頭のどこかで何かが切れた。
「──俺はっ!」
ダンッという壁を叩く鈍い音の後に、長い廊下全体に反響するほどの声で俺は叫んだ。
「彼女のことを好きなんて思ってないです!」
……もしかしたら、ケイトに聞こえたかもしれない。だけどそれが何になる?頭の中がゴチャゴチャする。
何なんだ、違う。隊長の言ってる『好き』と、俺が抱いてる感情はまるで違う。高校生同士の好きなんかじゃない、彼女の過去や生い立ち、もちろん容姿がいいのは大分含まれているかも知れないが、俺は彼女を『好き』ではない、全然違う。
「……好きなんて思ってない、か。ならどう思ってるんだ?」
「……っ」
上から目線はやめろ、そう言いたくて仕方なかったけど。必死で言葉を飲み干した。
『貴方にはそんな風になって欲しくないの』
ふと、ケイトのセリフが頭に蘇ってきた。多少なりとも意味は違うのだろうが、16歳にもなって自分で自分の感情をコントロールできないなんて有り得ないと思う。自分に嘲笑し、そうして、はたと気がついた。俺はケイトに何かしらの親近感を抱いている。それは彼女自身の形成の元である体験が、俺自身の体験に似ているからでもある。
「答えろよ?」
野太い声は耳の奥まで届いて、苛立ちを倍増させる。今頭の中で整理している出来ごとが消えてしまう。そんな事は、許さない。ジュッという音がして、煙草の先端のカスのようなものが滑らかな床に落下した。
「少し、黙ってもらえませんか?」
俯いているから、ロイス隊長の表情は見えない。沈黙。怒らせたのだろうか、まぁいい。殴られたって、どんなに、食い殺されそうになったって、この感情は隊長には言えない。感情の正体は自分でもまだ良く分からないけど、誰にも明かすことは出来ない気がした。
「正直言って、お前の気持ちがどうなのかとかはどうでもいい」
発せられた声があまりに平坦だったので、思わず顔を上げる。隊長は無表情だった。この顔、どこかで見たことある。──そうだ、ケイトとかクリスとか、ハンターズの団員は皆時々この顔をする。全く表情がない、無関心な。
「ただ、これだけは言っておく。……ケイトには──あまり近づくな」
瞬間にして、黒い瞳に魂が宿る。抜け殻のような表情は塗りつぶされ、生気の戻った、警告を伝える顔になる。
「あいつは、いや、あいつらか。ケイトやクリス、つまりAクラスの奴らは近々──MAの増加に伴って危険な任務に着く。お前はBクラス。先日の戦いで、お前も使えることが分かったから、もしかしたら危険な任務に配置するかもしれない。しかし、だな」
一気にまくし立てて、隊長は一呼吸置いた。火傷するくらい短くなった一本目を床に落とし、靴の踵で踏み潰すと、二本目を取り出し、流暢に火をつける。濁った白い煙がもくもくと立ち上り、視界は霞んでいく。
「前に言った事があるだろう。ハンターズとは、『死に捉われた集団』だと。それはつまり、死に一番近い集団だという意味だ」
「……」
それはなんとなく分かった。身に染みて感じたからな。現に親父も、自分も、殺されそうになった。ケイトが助けてくれなければ、確実に死んでいた。
「俺の中で、こう思うんだが──人のために行動するやつほど、ハンターズでは早く逝く」
かすむ視界の先に、隊長がはっきりと俺を睨むのが分かった。白い煙を掻き分けるようにして歩み寄ると、胸倉をつかまれた。
「……俺はケイトを逝かせたくない」
黒い瞳は、よく見たら薄茶色だった。不安と、苛立ちと、悲しみの篭った瞳が直ぐ近くに見えた。
「だが、ケイトはお前と居たらお前を助けようと動く」
「──……」
「だから、お前はこれ以上ケイトに近づくな」
脅すように、胸倉が締まる。苦しくなっても、目線は外さない。そんな、そんな不純な理由で、俺とケイトは仲良くするなと、そんなことあってたまるか。
「嫌ですと、言ったら?」
睨み返して、長身に掴まれているせいで浮くつま先に力を入れて踏ん張ると、その手を払う。まるで縄張り争うをする犬みたいに、俺と隊長はけん制しあった。
薄暗い廊下に、少しずつ声が響き始める。人の姿は見えないけれども。
「──ケイトも」
唸るように、しかしやっと捻り出す様に、隊長は眉間に皺を寄せた。ピクリと指が反応する。
「あいつも、お前と仲良くしたいみたいだから、とめることは出来ないのかも知れんな」
「……え…」
意外だった。一瞬、勝ったと思うような感情が渦巻いた。しかし次の瞬間、その感情は崩れ去った。
「あいつはお前に、少なからず好意を持っている」
まるで耳のシャッターが下りたみたいに、俺は興醒めした。そんな事は、百歩譲ってもない。ケイトは他の誰かに頼ることはあっても、俺に頼ることは一切ないのだ。それはつまり、信頼されていない、いや、男としても見られていない。
「そんな事ないですよ」
半笑い気味に敬語で返したが隊長からの直線的な視線にまた目を見合わせる。隊長から出る気配に、先ほどのテリトリーを争うような牽制はもう、ない。
「……お前はまだ何も分かっちゃいない。だから分からないんだろうが、ケイトはどうでもいい男を救ったりしない」
そうなんだ、素直に感想を漏らすと、隊長は話すことは終わったとばかりにもたれていた壁から体を一歩離した。ふと気配を感じて、背後を振り返ると団員がぞろぞろとこちらに向かって歩いてきていた。
恐らく集中力が拡散した俺の注意を元に戻す為だったのだろう、少し大きめの声で隊長が言った。
「俺は別空間で起きた出来事は全て知っている。だからお前がケイトに助けられたことも、ケイトがお前に助けられたことも知っている。あのときから、あいつは、ケイトはお前のことを意識した、それだけだ。じゃあな」
そう捲くし立てるように言った後、気が済んだとばかりにニカリと笑い隊長は去っていった。ヒラヒラと振られる手を見送りながら、結局自分は何のために呼ばれたのかと首をかしげた。