act.45 チルタと過去
声変わりしていない高い少年の声で目が覚めた。おぼろげな視界。空はもう薄ぼけた太陽が昇っていた。
「おにいちゃん、だいじょうぶ?」
まんまるの目をぱっと見開いて少年が首をかしげた。鳶色の髪。人懐こい笑顔。
どこか見覚えのある顔立ちだ。否、見覚えがあるなんてものじゃない。何故だか、ラファの知るものよりもっとずっと幼いけれど、この顔をラファが見間違えるわけがなかった。
(チルタ…!?)
幼少時代のチルタは、何も知らぬ表情できょとんとしていた。
◆
そこが過去の世界だと知るのに、さして時間は必要なかった。目覚めたそこは少し大きめの屋敷。ちょっとした富豪らしいチルタの父親は、気前のよさそうな明るい笑顔でラファに言った。
「ほう、君はラファ君というのか。さてね。このチルタが庭に倒れているのを見つけてね。見たところスラムの人間とも思えんし、休ませてやるくらいはいいだろうとここへ運んだのさ」
「チルタって」
「ああ、うちの息子だ。今年で八歳になる」
父親の影に隠れたチルタは、気恥ずかしそうににこりと笑んだ。八歳。ということは、ここは過去のチルタの家なのか。
ふとベッド脇の窓から見える庭を見下ろす。青々と茂る緑。ぐるりと屋敷を囲んでいるらしいセピア系の色で統一された、レンガ造りの塀はどこかで見たことがある。
(シェイルディアだ)
どうやら自分は過去のシェイルにやって来たらしい。ラファは、その事実以前に、まず自分がこの明らかな「非現実」に、さして衝撃を受けていないことに驚いた。
「さて、それで君はどうしてあんな所に…?」
「え、あの、えっと、その」
しばし迷ってから、
「お、俺、レクセの学生なんです。いろいろな街の特色について研究してて、課外研究として半分旅みたいな形で各地を回ってるんですけど、ラトメからここまで、転移呪文を使おうとして、失敗して、気づいたら…」
「ほう、その歳で転移呪文を使えるのかい?それはそれは…驚いたな」
至極優しい口調でチルタの父は言ったが、ラファは見逃さなかった。一瞬、ほんの一瞬だったけれど、彼の目がちろりとラファの瑠璃色を射止めたのを。…ということは、彼は知っているのだ。"ノルッセル"を。
相手はなんといっても「あの」チルタの父親である。警戒するに値する人物ではなかろうか。ラファが身構えると、チルタの父は快活に笑った。
「ははは!そんなに構えることはないだろう。そうか、じゃあシェイルには来たばかりというわけだ。いいだろう、よし、よし。部屋はこの通りここが空いてるし、よかったら研究が終わるまでここに泊まっていったらどうだね?ん?」
「……」
心底優しげな笑みを貼り付けた男の腹は見えない。ラファが黙り込んでいると、駄目押しだとばかりにチルタの父は続けた。
「お金は必要ないよ。シェイルを出るまで、ここを君の家だと思えばいい。うーん、だが、チルタの面倒を見てくれると有難いがね」
チルタは汚れなど知らぬ瞳でラファを見上げた。エルミリカが、彼女が何を思って、自分をここに寄越したのかは分からない。けれどあの賢人は言っていた。「この世界を生かすも殺すもラファ次第」だと。とすると、そのように「この世界を殺す」可能性があるということ。…世界を殺すのは、第九の巫子の目的だ。
つまりエルミリカは、自分と過去のチルタが接触すると踏んだのだ。ならば、ラファはそれを上手く利用せねばならない。
考えて、ラファはチルタの父に向けて深々と礼をした。
「…お世話になります」
◆
チルタの父親が出て行って、部屋には自分とチルタの二人きり。どうしたものかと戸惑っていると、チルタが興味津々にラファのベッドに身を乗り出してきた。いつも憂えるような深い微笑みを浮かべていたチルタのあどけない表情に、ラファはもぞもぞと落ち着かない気分で彼を見下ろした。
「ねえ、お兄ちゃんの目、きれいだねえ」
覗き込んでくるチルタの茶色の瞳。
「パパが言ってたよ。"るりいろのひとみ"はノルッセルの"あかし"なんでしょ?『かみさまに好きになってもらったしょうこ』なんだって、パパが言ってたよ」
「…!」
「かみさまに好きになってもらうのって、どんなかんじなの?ねえ?」
神様に好かれる?馬鹿馬鹿しい。ラファは嘲笑したい気分を寸でのところでこらえた。自分が…ノルッセルが神に愛されるというのなら、何故ラファは赤の巫子になったのか。エルミリカは殺されたのか。レーチスは黒い本を見つけてしまったのか。
ラファは、無性に「ノルッセル」というものが醜く思えてきた。それら全てが神の愛だというのなら、それはもうすでに「呪い」でしかない。
チルタはそれを知らないのだ。今も、これからも。でなければ、レーチスの意志など継げるはずもない。
ラファがどう返したものかと口を曖昧に開いたとき、盛大に部屋の扉が開け放たれた。見ると、あどけない顔をした黒い短髪の女の子が、男物の貴族服に身を包んでチルタを睨んでいた。
「チルタ!」
「る、ルナ」
ルナ?ラファは首をかしげた。どこかで聞いた名前だと記憶を掘り出すと、すぐに分かった。トレイズ達が話していた、ファナティライストの、巫子狩りのなまえだ。
トレイズ達の話だと、彼女は黒髪の美少女で、チルタに恋をしているらしいとのことだが、見るからに男勝りな女の子は、まっすぐにチルタに向かっていき、身を縮こまらせる彼の胸倉を引っつかんで揺さぶった。どう考えても未来にこの少年に恋をするとは到底思えない挙動だ。
「またお前は約束を破って!今日は私達の家に来るっていうから待ってたのに!!」
「ご、ご、ごごごめんルナ…!」
「おい、放してやれよ…」
見かねたラファが思わず口を挟むと、ルナはぎろりとラファに視線を向けてきた。年下だと分かっていても、殺気立った視線が恐ろしいことに変わりはなかった。ラファはたじろいだ。
「何者?おまえ」
「…ら、ラファ」
「ぼくの家に泊めることになったんだよ、ルナ」
取り繕うようにチルタが付け足す。胡散臭そうにルナはラファを一瞥すると、再びチルタに鋭い眼光を向けた。
「で?お前はこいつの世話してる所為で今日私達の家に来れなかったってこと?」
「ご、ごめん」
するとルナは怒りの矛先をラファに向けたらしい。じっとりとこちらを睨めつける彼女に、ラファは僅か、たじろいだ。
「いきなり出てきやがって…お前、この家の親戚ってかんじでもないな」
「あ、はは」
警戒心むき出しのルナにどう返したものか。黒曜の瞳でまっすぐにこちらの瑠璃を見据えてくる彼女は、自分より随分と年下なのに、妙に威厳があった。
「えーと、その、俺は、」
「ラファおにいちゃんは、ぼくの"ともだち"だよ!」
声を、張り上げて。言い放ったチルタに、ラファとルナは目を瞬いた。
「友達ぃ?」
「そうだよ、ね、おにいちゃん!」
「え?あ…ああ、そうだよ。俺はチルタの友達だ」
この場はチルタに合わせたほうがよさそうだ。ラファも頷いて見せると、ルナは若干不満そうに口を尖らせたものの渋々納得したようだった。
「チルタに友達ができたん、ならしょうがない、けど」
「うん!今から君達の家に行くから。ほら、行こうルナ!」
ぐいぐいとルナの背を押して、チルタは慌しく部屋を出て行った。途中、こちらを振り向いて、任せろとばかりにひとつウインクしてみせた。…情けなくも、失敗してもう片方の目も半開きになっていたけれど。
閉じられた扉の向こうに思いを馳せて、ラファは呆然と呟いた。まるで人生の前提が覆されたかのようだった。
「なんだ」
いい奴じゃないか、チルタ。ラファは偏見もなにもなしに素直にそう思った。




