act.42 紅雨のトレイズ
「ピル!!」
ピルは皆の叫びも耳に入らないようで、がちがちと歯を鳴らして座り込んだまま、来たる獣の口内を呆然と見つめていた。
その牙が今まさにピルの首の首を喰いちぎろうとした瞬間のことだ。
ピルと獣の間に、固い土の壁がぼこ、と地面から現れた。がり、獣は少女の体躯の代わりにその壁を噛み砕いた。その隙に、トレイズがピルを担いで獣から引き離す。彼はいつの間にか左の手袋を外し、真っ赤に光る左手をさらしていた。
ルナは大して動じることなくトレイズを見た。
「人質がいるのに、いい度胸ね」
「いい度胸?…くくっ」
トレイズが、笑った。いつになく冷酷な笑みだった。ラゼがぞっとした顔でトレイズを見た。彼は目を細めてルナを見ていた。…いつになく、冷酷な眼差しだった。
「お前こそ、俺が"千人殺しの紅雨のトレイズ"と知ってて喧嘩を売るとはいい度胸だな」
ざあ、と、突然空から雨が叩きつけた。血色の雨。インテレディアの時と、同じ。
「俺を怒らせるなよ、ルナ。"グランセルドを怒らせるな"って聞いたことないのか?」
「さあ?私が怒らせちゃいけないのは、チルタ様ただ一人だもの。馬鹿の一つ覚えみたいに雨を降らせて、ばっかみたい」
とん、つま先を地面に叩きつけて、トレイズは駆けた。腰の長剣を素早く抜くと、再度こちらへと向かってくる獣に、容赦なく振り下ろす。…が、それは獣の胴に触れる前に、霧となって消え去った。
「!?」
見ると、ルナが発動を止めたようだった。巫女狩りのフードを深く被り、ユールとギルビスの腕をひっつかんで、彼女はにこりと冷たく微笑みかけて言い放った。
「紅雨のトレイズ。憎きグランセルドの生き残りであるあなたを殺すのもまた一興だけど、残念ながらそれは私の役目ではないの」
「…!?どういう意味だ!」
「それに、別に私、貴方達を殺しに来たわけでもないし。でも、この子達は連れていくわね?チルタ様のお望みだから」
「ギルビス!!!ユール!!」
ラゼが一歩前に出た。ルナは、困惑と悲しみの入り混じった表情を浮かべるラゼを一瞥すると、嘲笑した。
「じゃあね、お馬鹿なラゼ。また会いましょう?」
言い残して、ルナはいずこかへと転移した。一同は呆然と血色の雨の中立ちすくむ。と、ロビが気絶したピルの目前にしゃがみこんだ。
「さて、意外なところに伏兵はいたってわけだ」
「冷静に言うんじゃねえよ!!くそっ」
トレイズは地団駄を踏んだ。彼にしては珍しい挙動にラゼが驚いて、びくりと肩を揺らした。
「くそっ!ギルビスにユールに…ラファやマユキに、フェル様になんて言えば…畜生!」
「トレイズ…」
気遣うように、トレイズの腕に手を置くラゼ。ピルを抱き上げて、ロビはトレイズを振り向く。
「とにかく落ち着きなよ、トレイズ」
「これが落ち着いていられるか!?」
「そこを落ち着けって言ってるのさ。…過ぎたことを悔やんでも始まらない。とにかく、今は状況をラトメに知らせないと。ひとまずは、レクセを出よう」
「ちょっと待って、ロビ。ピルは…?」
ラゼが控えめに問うと、ロビは腕の中のピルを見下ろした。
「悪いけど、彼女には付いてきてもらうよ。巫女狩りと通じてたってことは、何かしらファナティライスト側の情報が手に入るかもしれない」
「……行こう、トレイズ」
トレイズは、ちらとルナ達の立っていた場所を振り返り、そして足早に、立ち去った。
◆
トレイズ達は黙々とラトメへと続く道を突き進み、しかしピルはなかなか目を覚まさなかった。彼等が次に口を開いたのは、モール橋で一人のエルフと再会した時だった。
「トレイズ!やっと見つけたわ」
「サザメさん!?」
神宿塔にある、ソリティエ神殿の守衛であるサザメは、トレイズに駆け寄って花のように微笑んだ。
「探してたのよ、フェルが不吉な予感がするって言うから、私が貴方達を連れてくるように命じられたの」
「フェル様の護衛が傍を離れててもいいのか!?」
「……」
困ったようにくすりと笑んで、サザメはその話題から逃げた。ロビとラゼ、それから気を失ったままのピルを見る。
「お初にお目にかかります。私はサザメ。見ての通りのエルフですが、フェルマータ様のご厚意で、神宿塔の守番をしております」
「ちょっと、サザメさん」
一礼して、もの言いたげなトレイズに向き直る。
「大変なことになっちゃったのよ、それが。私もさっきモール橋の警備兵に聞いて初めて知ったんだけど…どうも、フェルマータ様が…ラトメディアの"神の子"が、反逆罪で捕らえられた…って」
「なんだって!?」
トレイズが身を乗り出して叫んだ。サザメは神妙にゆっくりと頷く。
「事情はよく知らないの。それが本当かどうかもね。とにかく、早くラトメに戻らなきゃと思って、急いで貴方達を探してたのよ。そっちも…見る限り平穏無事とはいかなかったようだけど…」
「それはいいけど、そうなると、ラファやマユキもまずいことになるんじゃない?二人は一応、フェルマータに保護される形になっているはずだし」
ロビが口を挟む。言われて気づいたのか、トレイズは舌打ちした。
「次から次へと…!」
「言ってもはじまらないわ。とにかく急ぎましょう。真実を確かめないと」




