act.33 "神の子"とノルッセル
チルタが問うてから、マユキが言葉を発するまでに、たっぷり十秒は経っただろうか。ラファはその間、まじまじとマユキを見ていた。
小麦色の髪。
彼女の見慣れた笑顔。
そうだ、俺が二回目にフェルマータと向き合ったとき。チルタに会って、父さんと母さんの死を聞いて、ラトメに戻ってきた時。フェルマータが浮かべた笑みを、どこかで見たことがある気がしたんだ。
あれは、マユキの笑顔と、被ったんだ。
「嘘」マユキが呟いた。「まさか」
「まさかって…僕の思い違いかな?もしかして、別に両親がいた?」
それは違う。ラファは直感的にそう思った。マユキはレクセに来るまで旅暮らしだった。ユールと二人で旅をしていたと聞いた。親の話も聞いたことがない。
親がいないなんて、この世界じゃそう珍しいことでもない。大して触れることではないし、それでいいとも思っていた。そもそもルイシルヴァじゃ、人への詮索はご法度だ。
けれど。
マユキの親は、誰なんだ?
「だって…母さんは知らないけど、父さんは…私の父さんは、ラトメの指名手配犯だったもの」
声が震えていた。目尻に涙が浮いていた。
「ラトメでは有名な殺人鬼だもの!そんな、フェル様が、神の子が、私のおかあさんだなんて…!」
ありえない。消え入るようにマユキは言った。
殺人鬼の父親。本当にフェルマータが母ならば、マユキとユールは、ラトメの最高指揮者と、人殺しの子供ということになってしまう。マユキの言にも追及したいところがあるが、それでもラファは何も言えなかった。ただ絶句するだけだ。
チルタは案外真面目にマユキの言葉に耳を傾けていた。これまで現れたときには、精々ラファとトレイズのことくらいしか興味がないようだったのに、マユキのことをじっと見ているチルタはなんだかいつもの気味の悪さがなりを潜めていた。
「じゃあ、違うのかな。まあいいか。人の関係に口出ししてもしょうがないもんね。今はそんなことより」
そのわりたいした感慨も抱かずに、チルタは右の手袋に手を掛けた。白い手袋の下から、真っ赤な右手が現れる。…赤。赤い印。
「運良く紅雨もいないし、ここで敵戦力を削っておかなくちゃ。二人まとめて、」
右手を、こちらへ向けて。
「捕らえてやるよ」
重い。
ラファの背丈よりも大きな鉛のかたまりでも降ってきたかのようだった。別に天変地異が起きたわけでも、何かが現れたわけでもない。それは身体を直接締め上げる、押しつぶされそうな衝撃。そう、どこからか現れた衝撃だ。身体を圧迫してくる苦しさ、息が詰まった。身体を折った。苦しい、苦しい、苦しい…!
「苦しいかい?」
チルタが歩み寄ってきた。
「苦しいだろうね。僕の力は、何もしなくても生き物を苦しめることができるんだから」
相手に苦痛を与えることが、第九の巫子の力なのさ。そう言って、チルタは妙に歪んだ笑みを浮かべた。いつもの無邪気な笑顔じゃない。もっと…もっと、世界を悟った、悲しげな表情だった。
「お前、は…レーチスを、尊敬してるんだろ…?」
「そうだよ」
「じゃ、……お前の目的…"世界征服"ってのは、予知夢の君や…過去夢の、君をなくすこと、か?レーチスと同じで、世界で一番尊いとかいう存在をなくして、そしてお前は、自分がその座に就くんだろ?」
「……」
チルタが意外そうに目を丸くした。まさかそんなことを言われるとは、とでも言いたげな顔だった。
胸を突く圧迫感が消える。チルタは、ふと微笑んだ。
「そうだよ。過去夢の君…きみが、僕の目的。君だって、人の過去や未来が簡単に視えてしまうなんて、嫌だろう?…だから、僕は君たちを、助けてあげるよ」
ラファはまっすぐにチルタを見上げた。チルタは変わらず、こちらに向けて微笑んでいる。ラファはかみつくように言った。
「エルミリカ・ノルッセルは、お前の助けなんて望んでない!」
「!」
「ラファ…?」
「それに、俺も…お前の助けなんて、いらない!」
「……よく言ったよ」
小さな声。そして、直後、チルタからラファを守るように、両者の間に一本の矢が突き刺さった。
「!」
「誰だ!」
それは少年だった。
くすんだ茶髪。右側につくられた三つ編み。ハニーブラウンの瞳。黒の神官服。彼は…
「レフィル?」
レフィルはわずかに笑んだ。かつてルシファで会ったときのように、泣き出してしまいそうな表情で。そして、やって来たのは彼一人ではなかった。
「ラファ様の言うとおり、予知夢の君はもとより、たかだか十七歳の子供などに助けられるほど落ちぶれてはいません」
「エルミ!」
銀髪の、少女。身に纏っているのは神護隊の衣装ではなく、ラファ達と同じような旅装束だった。
「お久しぶりです、ラファ様、マユキ様。もう大丈夫ですよ」
「エルミ、どうして邪魔をする!恩を忘れたのか!?」
「恩?…ああ、盲目を治してくれたことですか?あのくらい、自分でもどうにでもなったことです」
チルタが息を詰めた。エルミの目は、ひどく冷たくて。視線をチルタに向けたまま、ラファに手を差し出す。
「ラファ様、指輪を返していただけませんか?」
「…?あ、ああ…」
嵌めっぱなしの、エルミにもらった銀の指輪を返すと、彼女はそれを左手の中指にはめた。
「強すぎる魔力は、身体に負荷をかけてしまう。予知夢の君としての魔力は、十歳の子供の肉体では支えきれないほど膨大でした。それを、チルタ。あなたは私の魔力をこの指輪に封じ込めることで鎮めた…けど、今はこんな封印に頼らずとも」
エルミはそして指輪にそっと口付けた。銀の輪から光がこぼれ、あふれ、竜のように伸びて、広がった。
「自らの手で操ってご覧に入れましょう」
「やりすぎるなよ」
「ご冗談を。ノルッセル一門のためならば、手加減はしません」
レフィルの言葉に軽い口調で返して、エルミは人差し指を立て、くるりと回した。絡みつくように光が巻きつく。エルミは唱えた。聞いたことのない言葉だった。
「彼の者に久遠の眠りを」
「…!?」
「馬鹿ッ、殺すつもり!?」
レフィルが呪文に慌てて怒鳴るが、もうそのときには、エルミは手にした指輪をチルタに向けた後だった。
「万命の眠り!」
ドン!大きな音がするのが早いか、それともラファ達を砂煙が覆うのが早いか。ラファ達が恐る恐る目を開くと、しかしそこにはチルタの姿はなかった。
「逃げられましたね」
「まあ、君にあれだけ言われたら逃げたくもなるだろう…君たち、大丈夫か?」
「な…に、今の…」
マユキがショックを受けたように座り込んでいた。
「なんなの…人のこと散々引っ掻き回して、うやむやにして…!」
「マユキ…」
「せっかく…せっかくあの親から逃げられたと思ったのに…なんでこんなところで…こんな、こと…」
マユキの肩が震えていた。ラファは途方に暮れていた。こういうときなんと声をかければいいのだろうか。普段はにこにこと笑っているマユキの弱弱しい姿を前に、ラファは悩んで、悩んで…
「ほら、マユキ」
軽く両腕を広げてやる。
「思う存分俺の胸で泣けよ」
マユキの泣き声が、大きく響いた。
◆
「…で、どうしてレフィルとエルミはここに?」
「ついさっきレフィルがいきなり神護隊に来まして、"レーチスがレクセにいる!"とか叫ぶものですから付いてきたんですよ。レフィルは転移呪文が使えないから、まんまと移動手段として利用された感がありましたが」
「人聞きの悪いこと言わないでくれよ、エル。まあ、そうしたら入り口で君たちが戦ってるだろ?だから助太刀したってわけだよ」
「レーチス?」
目を真っ赤にしてマユキが首を傾げた。
「あれ…でも、レーチスさん、ファナティライストに行くって…ラファへの手紙に…」
一同がラファを見た。ラファは懐から手紙を出して、鬼気迫る表情をしているレフィルに差し出した。
手紙を読んだレフィルは激怒した。
「あの野郎…!いつもいつもいつもいつもいつもいつも!何が"よろしく"だ!それに、エルミリカに会うって…」
「どうやらすれ違ったようですね。この調子だと、今頃はファナティライスト行きの船の中ってところですか」
「今度会ったら覚えてろよレーチスの奴…!」
いきり立つレフィルを無視して、エルミはラファ達に笑いかけた。
「災難でしたね。ラトメに帰りましょうか」
「エルミ…」
すると、マユキがエルミをまじまじと見つめていた。ラファもエルミを見た。神護隊の制服でないというのは新鮮だ。厚手の濃紺のマントの下に、藁色のシャツ、下は白いロングスカートに編み上げブーツ。腰に長剣を一本吊っている。
こうして見ると、勿論「美」の文字が頭につくのは否めないが、それでもちゃんと少女に見えて…
そこまで考えて、気付いた。
「おんな…?」
マユキの声が、先ほどとは違う意味で震えていた。
「お、女…?ラトメで一番人気の美少年が、女の子…?」
「うん?」
エルミは首を傾げ、自分の旅装を見下ろして、合点がいったとばかりに頷いた。
「そういえば、マユキ様には言ってませんでしたっけ。ラファ様、教えてあげなかったんですね」
「言えるわけないだろ。ラトメにいた時は、毎日のようにエルミのこといかにも恋してますって態度で話してくるし」
「知ってたの!?ラファばっかりずるい!」
むくれるマユキ。…この分なら、もう大丈夫だろう。――少なくとも、表面上は。
「詳しい話はラトメに戻ってからにしましょう。しばらくチルタは襲ってはこないでしょうけど。知りたいこともおありでしょう?それに、レフィルのこともきちんと紹介したいですし。レフィルも、レーチスがここにいないのならご一緒してもらっても構いませんよね」
消沈したレフィルが頷くのを見て、エルミは転移の呪文を唱えはじめた。ラファは彼女の側に寄ると、エルミにしか聞こえない声で囁いた。
「エルミ…それとも、エルミリカ、かな」
エルミがこちらを向いた。その目は、決して虚ろなんかじゃなかった。
「ありがとな、ずっと側で見守っててくれたんだろ」
そう言って指輪を指したラファに、エルミリカ・ノルッセルはひどく優しく目を細めた。




