act.15 二人の巫子
今回と次回は残酷表現が入ります。グロテスクなものではありませんが、苦手な方はお気をつけくださいませ。
「父さん!母さん!」
またこんな夢だ。ぬるま湯に浸かるような心地で思った。自分の中にいる誰かが、悲痛な叫び声を上げていた。家の中が火で囲まれていた。木造の部屋だ。濃紺の髪の男が、力強くこちらの肩をひっつかんで、剣呑な表情で言った。
――ギルビス、逃げるんだ…!リィナをつれて、早く!!
「父さん!嫌だ!ふたりも一緒に逃げるんだよ」
――ギルビス、賢い私たちの子……私たちはここで奴らを食い止めるから、あなた達はお逃げなさい…
「母さん…」
憔悴した様子で、頬をてらてらと乾いた涙で照らした女性が言った。行きたくない、行きたくない!心の奥底からそうやって叫ぶのに、目の前の大人二人は、なにも恐れることはないのだとばかりにこちらを追い立てる。腕に抱いた細っこい少女が、わんわんと泣いていた。
――さあ、分かったら行きなさい。
――ギルビス、リィナ。どうか強く生きて…
怖かった。行きたくないと叫ぶのに、とうとう二人の顔を見ていられなくなって、きびすをかえして、嫌だと泣きじゃくる少女を抱え込むようにして、火の手の上がる家から逃げ出した。
◇
――兄さん…
場面が変わった。今度は日の落ちた、薄暗い部屋だ。ゆっくりとうつむけた顔を上げると、こちらをまっすぐに見ている少女が目に入った。あの時、そう、泣きじゃくっていたあの時とは違う。彼女は自分ひとりを置いて、一足先に大人になってしまったかのよう。
――兄さん、私巫子になるよ
「……リィナ」
やめてくれ。聞きたくない。心を閉じようとするけれど、誰よりも多く聴き続けた彼女の声はすんなりとこの胸に響いてしまう。いやいやと首を振るのをなだめるように、少女は決然と言い放った。
――ねえ、兄さん。私が巫子になる。第九の巫子を、父さんと母さんを殺したあいつらを、私が倒して見せるから、だから泣かないで、兄さん…
「リィナ、いいんだ。お前がそんなことをする必要はないんだ。こうやって暮らしていこう。ラトメにも感づかれないように、生きよう。そうすれば、きっと…」
そうすればきっと、恐れることは何もない。
あいつらが来るまでは、そうして生きてこられたんだ。まっさらな少女の肩に手を置いた。あの時、父もまた、自分の肩にこうして手を置いていた。
両親のいなくなってしまった今、何よりも大事な妹。
彼女を守るためなら、彼女を危険にさらさないためなら、どんなことだってしてやるのだと、そう思った。
◆
ラファは飛び起きた。
心臓が強く脈打っていた。
今のはなんだ?
ギルビス?リィナ?巫子?
左手で胸を強く押さえて、高鳴る鼓動を鎮める。
「過去夢の君」。
ラファはチルタが自分をそう呼んだことを思い出し、ぞくりと背筋が凍った。
過去夢。
これが?
そういえば以前にも、内容はよく覚えていないが、やたらと懐かしい気持ちになる夢を見た。
まさか……あれも?
ラファは枕元に置いた銀の腕時計を見た。その止まっていたはずの針は、ゆっくりと、反時計回りに、時を刻んでいた。
◆
トレイズとマユキはすでに起き出しているようだった。ラファはざっと身を整えると、機嫌の悪いまま扉を開けた。天気は雨だ。けたたましい雨音にうんざりする気分を抑えて、こめかみに手をやっていると、マユキが鬼気迫る表情で振り返った。
「あ、ラファ!」
「……なにごと?」
カウンタの前で、マユキとトレイズ、それからソラとフェイが何事か話していた。フェイはびしょ濡れで、その顔色は、寒さの所為だけではなさそうな青さだった。窓の外を見る。大粒の雨が地面に叩きつけられていた。
フェイはラファを見るなり詰め寄って、必死の形相で言った。旅装が濡れることよりも、フェイの泣きそうな顔に、身体の芯が冷えていくような心地がした。
「お願いだ!助けてくれよ!」
「な、」
「ねえフェイ、どうしたのよ!?何があったのかちゃんと説明して!」
顔をしかめて叫んだソラをゆっくりと見て、ようやくフェイは我に返ったようだった。掴んでいたラファの袖を離し、言った。台詞も身体も、ぶるぶる震わせて。
「ギ…ギルビスの家に…ギルビスの家に、巫子狩りが……」
さあ、とソラの顔から血の気が引いていった。ラファは眠気も吹っ飛ばして、トレイズとマユキを見た。
「行こう」
トレイズがひとつ頷いて言った。
「フェイとソラはここで待っててくれ」
「嫌よ!私も行くわ!」
「……お、俺も…!」
トレイズの胸倉を掴まんばかりの気迫で言い放つソラに、トレイズは眉を寄せた。
「駄目だ。村人を巻き込むわけにはいかない」
「何部外者扱いしてんのよ!私はあの子たちの友達なんだからね!」
「お、俺だって!俺だって!」
「でもなあ…」
「トレイズ、連れて行ってあげようよ」
「マユキ!」
ラファが咎めるように言うと、彼女はむっとした様子で言い返した。
「だって!……待ってるのって、不安なんだよ!?」
温和な彼女が、いつになく激しい口調だったので、ラファは思わず言葉を詰まらせた。うつむいて、自身の服の裾をつかんで、マユキは言った。
「私だって……ラファがラトメを出て行っちゃったあの時、ラファが死んじゃったらどうしようって、
すごく、すっごく不安だったんだから!見えないところで友達が危険にさらされてるなんて、しかもそれを知ってて何もできないなんて、どれだけもどかしかったか分かる!?」
「……」
ラファはトレイズを見上げた。
あの能天気なマユキが、そんなことを考えているだなんて予想だにしていなかったのだ。
彼もまたマユキの台詞に虚を突かれたように目をぱちくりして、それから罰が悪そうに頭をかいて、降参したとばかりに溜息をついた。
「悪かったよ、マユキ。…そこまで言うなら、わかった。ただしお前ら、絶対に前に出るなよ?俺が来るなって言ったら、そこで待つんだ」
なんにせよ時間がない。今ここで討論している余裕はラファたちにはなかった。トレイズがソラとフェイに念押しするように言うと、二人は勢いよく頷いた。
「ええ!」
「わかった…」
一同は表情を引き締めて、宿屋の扉を押し開けた。
◆
ラファ達がギルビスの家の近くにある、ちょっとした林の茂みに隠れて様子をうかがうと、ギルビスの家の周囲には、黒い人影が大量に立ち並んでおり、そのわずかな隙間から、ギルビスと、見覚えのある黒い服を身に纏った鳶色の髪の少年が向き合っているのが見えた。ラファはそれが誰なのかはっきりと認識するより前に、無意識にその名を口にしていた。
「チルタだ」
チルタは前と変わらぬ穏やかな口調で言った。
「ねえ、君も死にたくないならはやく"巫子"を出したほうが身のためだよ?巫子を出せば、誰も死なずに済むんだ。なに、取って食おうってわけじゃない。ちょっと僕の計画に協力してもらうだけだよ」
「世界征服の協力かい?はっ…リィナをそんなところに連れて行かせるわけにはいかないよ」
すると、チルタはくすくすと肩を揺らして笑った。彼がグローブをはめた右手を掲げると、周囲を囲んだ巫子狩りが、一斉に鉄製の筒のようなものを構えた。
ラファの隣で、トレイズが息を呑んだ。
「まずい……魔弾銃だ!」
「早死にするタイプだね、君」
チルタが先ほどとは打って変わった冷たい声で言った。叩きつける雨のように、無情な響きだった。ラファの時とは違う。あの時は、彼は常に柔らかい口調でラファに対峙していた。
「といっても、今この場で死ぬ訳だけど」
トレイズが、かがめていた身を起こしかけた。ソラとフェイが息を詰めた。
その時だった。
「やめて!」
家から一人の少女が出てきた。…リィナだ!
「お願い、やめてください!」
リィナはギルビスの前に飛び出して、彼の壁になるように両腕を大きく広げた。ノースリーブからのぞく白い肩から、血色の印が雨に濡れてきらめいていた。
チルタはしばし黙っていたが、やがて朗らかに言った。
「君が、"第三の赤の巫子"?」
「リィナ!裏口から逃げろって言っただろ!?」
「だって…だって兄さんを置いて、一人逃げるなんてできないよ!」
リィナは表情を硬くしてチルタを見た。気丈にも、ファナティライストの高等祭司を睨み上げて言う。
「あなたが、ファナティライストの高等祭司ですよね」
「いかにも」
「私が行けば、兄さんは殺されずに済むんですね?」
「リィナ、何を…!」
チルタは一瞬口をつぐんだが、すぐに柔らかく言った。
「…約束するよ」
リィナが一歩前へと踏み出した。
チルタが手を伸ばした。
リィナは、その手を……
「リィナ!行くな……行くなあああっ!!!」
手を、取った。
その時だ。ラファの頭の中で、少女の声がした。
――私が巫子になるよ
「…違う」
「ラファ?」
「違うんだ……リィナは、」
――私"が"、
「リィナは、巫子なんかじゃない!」
「……違うな」
パァン!!
ラファがそう言ったのが先か、それともチルタが呟いたのが先か。
それともその一瞬後か、乾いた音が、響いた。
リィナの身体が、わずかに浮かび上がった。
濃紺の髪が、雨景色を舞う。
肩の刻印と同じ、赤色が散る。
少女の白い体躯は、後ろで呆然と立ちすくむギルビスの元へと、還って。
その重みに耐え切れず、ギルビスは、尻餅をついた。
熱いものが、少女の腹からこぼれ溢れた。
「リィナ!!」
ギルビスの絶叫。
「にい、さ……」
「リィナ…待ってて、今僕が…!」
ギルビスは自身の左手をリィナの傷口にかざし、
右手で自身の左肩をつかんだ。
と、ギルビスの左肩が、眩く光った。
「第三の赤き刻印よ…彼の者の傷を癒したまえ!」
その台詞を聞き、チルタの口端が上がった。
「へえ、考えたね。
妹を巫子に仕立て上げて隠れてたわけか。君が魔弾銃で撃たれて、家の中はもぬけの殻。妹を追ってももうホンモノの第三の巫子はどこにもいない…なるほど、なかなかいいシナリオじゃないか。君が本物の巫子だったんだね。危ない危ない…知らずに殺しちゃうところだったよ」
「くそっ…」
ギルビスは唇を噛んだ。
ここまでか…!
眼を閉じ、けれど肩を大切な妹に癒しをかけることだけはやめずに、ギルビスは腹をくくった。
すると、
「第七の赤き刻印よ、彼の者に血色の雨を降らせよ!」
「トレイズ!?」
自分達に降り注いでいた大粒の雨が、突然血のような赤色に染まった。次いでラファの驚く声。その声のほうへ、チルタの顔が動く。感情の読めない瞳が、トレイズをじっと移した。血色の水滴がぽつりぽつりと、彼の白い頬を濡らしていく。
「やあ、紅雨。来てたんだ」
「よく言うぜ、はじめからこっちに気付いてたくせに」
トレイズは茂みから出て、チルタに向かって歩き出し、一瞬、その姿がぶれたかと思うと、その直後、彼はリィナとギルビスを守るかのようにチルタの前に立ちはだかっていた。
その、手袋を外した左手は、血に染められたように、紅い。
「嫌な雨だ」
チルタは必死で呪文を紡ぐギルビスから気が逸れた様子で、ふいと空を見上げた。トレイズがくっと喉の奥を鳴らして笑った。
「俺だって嫌いさ。だけど、フェル様から、お前にはこれが効果的だって言われたんでな」
「ふうん」
ラファはおやと目を見開いた。チルタの表情は氷のように固まったままだったが、最初は力も入っていなかった手が、いまやギリギリと握り締められ、震えていたのだ。
「トレイズって、巫子、だったんだ」
ラファがそれを指摘する前にマユキが呟く。すると、ソラが立ち上がった。憤怒の表情だ。
叫ぶ。
「なんでよ!!」
「ソラ!馬鹿っ」
「なんでリィナを撃ったのよ!?リィナを傷付けたって、なんにもならないじゃない!!」
止めるフェイの声も聞かず、ソラは泣き叫んだ。すると、チルタはゆっくりとソラのほうを見た。ソラの肩がびくりと強張る。
「"なんで"?」
心底不思議そうな口調だった。
「なんで…って、当たり前だろう?自分の目的の邪魔をする奴は、排除しなきゃ。誰もがそうしてる。ラトメも、ファナティライストも関係なく」
チルタは笑った。人懐こい笑みで。
「なんにもならないよ。だけど僕の願いを邪魔する奴らがいるんだ。しょうがない。…君も、」
チルタの震える右手が、ゆっくりとローブの懐へと伸びていった。
「邪魔だよ」
ラファは飛び出した。とにかくソラを助けなきゃ、という気持ちだけが先走って、何をしようと考える間などなかった。
轟音と共に、チルタの魔弾銃が火を噴いた。ラファはソラを押しのけ前に出て、頭の奥の奥が命令するままに、大声を上げた。
「第二の赤き刻印よ!我らを来たる刃から守れ!」
――君の願うままに、我が巫子
赤い印を継承したときに聞いた誰かの声。その直後、身体の芯が熱くなり、ラファの眼前に透明の壁が現れた。それに弾丸は弾かれて、ひしゃげて、ラファの足元に転がった。こんな小さなものに、今リィナが苦しめられているのかと疑問に思うほど、あっけなく攻撃は防がれた。
背後でソラが腰が抜けてへたりこんだ。チルタはそんなことを意にも介さず、ラファに笑いかけた。
「やあ、ラファ君。久しぶり」
ラファは黙ったままだった。
「チルタ…!お前、なんでそんな…」
トレイズの剣の切っ先が、チルタに向いている。それをちらと見ると、チルタはにこりと笑ってみせた。
「僕を、殺すのかい?紅雨」
「お前は不老不死だろ。剣じゃ殺せない」
するとチルタは何が面白いのか、肩を震わせて笑い、トレイズから背を向けた。
「チルタ!」
「ふふ…っ、まあいいや。第三の巫子はくれてやるよ。僕の力はまだ未完成だし」
チルタは顔だけトレイズに向けた。
「知らないようだから教えてあげるよ、トレイズ。
この世界で、赤の巫子を殺せるものは存在しない。魔弾銃であっても、赤の巫子は殺せないんだ。エルミリカ・ノルッセル女史の理論は完璧だったのさ。君達は、僕を殺すまで…人殺しに堕ちるまで、不老不死の呪いからは逃げられないのさ。しかも、僕を除く巫子全員が揃わないと、僕は殺せないんだ。……僕が巫子を引き込むのが先か、君が巫子を引き込むのが先か…勝負だよ。僕は君に勝てたことは一回もないけど、今回ばかりは僕が勝たせてもらうよ」
チルタはラファを見た。ひどく優しい笑みだった。今の場にあまりにもそぐわない微笑みに、ラファの背筋がぞわりと粟立った。
「僕は死ぬわけにはいかない。どんな死に損ないになっても」
そしてチルタは巫子狩りの大群を引き連れて去っていった。トレイズは、ただ呆然と、赤色の雨の中に立ち尽くすだけだった。




