act.8 倒すべき敵
「別にって…?」
戸惑うように視線をトレイズからフェルマータに移すと、彼女はまっすぐにこちらを見て、言った。
「そのようなお顔をなされるのも、無理もない話。"赤の巫子"の役割は『異分子』の消滅。けれど『異分子』は既に亡くなっている…なら、マユキ様の仰ったとおり、印はもう役目を果たしているはずなのですから。本来ならば、赤い印が再びこの地に現れることなど、万に一つもありえなかった。
けれど、ご存知の通り、巫子は歴史の節目にたびたび現れた…つまり、役目は他にまだあるのです」
フェルマータが手招きするように手を動かすと、ラファ達の周囲を取り囲んでいた紋章のうち、ひとつが輪から飛び出して、彼女の元へと吸い寄せられていった。
フェルマータの手のひらの上で静止した紋章をラファ達に見せて、彼女は言った。
「"第九の巫子"…かつて『異分子』とミフィリ様が創りあげた"印"です。『異分子』の死後、この印はどこかへと消え去ってしまいました。人びとは、もう印は失われたのだと、そう思ってすらいた。しかし月日が流れ…"第九の巫子"が、再びこの世に現れたのです」
「異分子が生き返ったのか!?」
「いいえ。
他の九つの印が、『異分子』を倒すに相応しい者を選んだように、第九の印もまた、『異分子』の消えた後、後世でその印を宿すに相応しい者を選んでいたのです…
すなわち、力を追い求め、世界を破壊し尽くそうと企む者を」
しばらく、誰もが黙ったままだった。ラファもマユキも、その先が簡単に予測できてしまった。
猶予は費えた。ついに、フェルマータが口を開いた。
「お分かりですね?あなた方"巫子"は今、新たな"異分子"となりうる第九の巫子を滅ぼ」「やめろよ!」
耐え切れなくなって、ラファが叫んだ。
「巫子だなんて…そんなの、御伽噺だろ!?信じられるわけないじゃんか!マユキはただのレクセの学生で、人よりちょっと武術が得意で夢見がちででもただの女の子で!人なんか……殺せるわけないんじゃんか…」
か細い声で言い、うつむくラファ。マユキは絶句したまま何も言わなかった。神殿内を沈黙が包んだ。するとトレイズが追い討ちをかけるように厳しい声で言った。
「人事みたいに言うな、ラファ」
「え…?」
「お前も、その"巫子"の一人なんだよ」
ラファは目を見開いた。赤の巫子?俺が?
「まさか!だって…だってラファには"印"なんて…」
マユキがすかさず反論するが、フェルマータはそれにゆるゆると首を横に振った。
「赤い印は、目に見えるところばかりにあるとは限らないのですよ、マユキ様…」
フェルマータはまた右腕を一振りした。するとラファ達を取り囲んでいた印が流れるようにフェルマータの元へと向かい、今度は彼女を囲んで浮かび上がった。
「"眼"、"肩"、"左耳"、"髪"、"左手首"、左手"、"左足"、右手"、"左手首"、"背中"…十ある印のうち九つは、確かに目で捉えられる位置にある。ですが…"第二の巫子"の印は、"骨"。これは私、眼を印とする第一の巫子以外に、見ることはできません」
骨。ラファは自身の両手を見下ろした。
この肉と皮の奥にある、白いはずの骨組みが…マユキの髪のように血色をしているというのか?信じられるか。肉を引き裂いて見れば分かるとでも?自分は、自分たちは、この"神の子"とかいう双子神の代行者を名乗る女に、だまされているのではないか?
「ラファ」
トレイズが、呆然と固まるラファに声をかけた。
「ラファ、決めるのはお前だ。……マユキも。いきなりラトメまで連れてこられて、"あなたが巫子です"なんて言われたって、納得できないことくらい分かってる。巫子としての役目を放棄しても仕方ないとも思う。ただ…何の力もない民衆は、巫子にすがるしかないんだ。分かってくれよ…」
トレイズは、とても情けない表情でラファ達を見ていた。彼はラファよりも背が高くて大きいのに、今はとても非力で、小さく見えた。
ラファはゆっくりと後ずさった。
「……………いや、だ…」
「ラファ、」
「嫌だ!!嫌に決まってるだろそんなこと!だって、だって世界を救うっていったって、それ、そんなの、人殺しだろ!ただの人殺しだよ!俺達に人殺しをしろだなんて、無理に決まってんだろ!?俺は絶対にレクセに帰るんだからな!!」
「ラファ!」
マユキが呼び止める声も聞かず、ラファは駆け出した。立ち尽くすトレイズを押しのけ、下へと降りるはしごを飛び降りて、目を丸くするサザメを無視して、転がるように魔方陣の上へと飛び込んで…
悲痛な声で、叫んだ。
「一階!!」
◆
「ラファ…」
取り残されたマユキはうつむいた。
ラファが、いなくなってしまった。自分はどうすればいいのだろう?
トレイズが隣で戸惑ったようにハシゴとマユキを見比べていると、フェルマータが奥で小さく溜息をついた。
「まったく…最後まで話を聞いていただきたいものです」
「え…っ?」
「話はまだ終わっていないのですよ。この物語にはたったひとつだけ、…抜け道があるのです」
「抜け道?」
「フェル様!!あれは言うべきじゃないでしょう!あれはほとんど成功することのない…!」
「トレイズ。私は、彼らならば大丈夫だと信じています」
まっすぐにトレイズを見据えたフェルマータ。彼女はそして、何が何だか分からずにただおろおろしているマユキに視線を戻して、柔らかく微笑んだ。
「お教えしましょう、第九の巫子を殺さずに済む、物語の終わらせ方を…」
◆
ラファは走っていた。
道行く人を掻き分け掻き分け、
迫り来るもの何もかもから逃げるように、
ラファは走っていた。
どうしてだ?
どうしてこんなことになった?
自分はただ、毎日を平凡に生きていただけなのに。
自分は普通に生きて、普通に死んでいくと、
ずっとずっと、そう信じていたのに。
ラファは立ち止まった。辺りに人気は無い。気づけはそこは自分の全く知らない道で。心の奥が、深い闇に飲み込まれるような不安に駆られ、ラファは情けなくもその場にうずくまった。
「畜生……」
ぽつりと呟いた台詞は、ラファの耳にだけかすかに掠めて、憎らしいほどの青空に、消えた。
「………ラファ」
かつり、と。靴の踵が鳴って。聞きなれた声がラファを呼んだ。顔を上げると、彼女は途方に暮れた表情でこちらを見下ろしていた。
「ラファ、その……あのね、」
「マユキ」
何か言おうとするマユキの台詞をさえぎって、ラファは言った。
「帰ろう、マユキ」
「え…っ?」
「帰るんだ、レクセに。こんなのもう全部嘘に決まってる。レクセディアに帰れば、きっと何もかも終わるんだ」
「ラファ…」
「だから、はやく帰ろう。帰ればまた、巫子なんて全部御伽噺に戻るんだから」
「……」
立ち上がってマユキを見るラファと、しかし彼女は目を合わせようとしなかった。その右手で、血色に染まった髪をもてあそんで、困ったように地面を見つめている。
いつもと同じ、マユキの癖。
聞きたくなかった。気づかないふりをしたかった。マユキが何をいうのか、分かってしまった。そりゃそうだ、ラファは、もう何年も彼女と一緒にいるのだから。
「……なに」
「あ、あのね、ラファ……その、私……巫子として、ここに残ろうかなって……思って…」
「……」
そして、予想していた言葉が外れることもないと知っていた。けれどそれでもショックには違いなかった。ラファもまたうつむいて、吐き捨てるように言った。
「………人殺しに、なるのかよ」
「それは、」
「もういい!」
マユキの肩が大きく跳ねた。何度も喧嘩した。相手は女の子だったから、暴力なんて振るったことはないけれど。下らない噂の真偽だとか、授業の討論とか、好物とか、そんな些細なことですぐに口論した。だけど、今は違う。そんなどうでもいい話じゃない。
ちくりと胸が痛んだものの、今更弁解する気も起きずにラファは、
「もういいよ」
マユキに背を向けて、ラファは逃げた。
「俺はレクセに帰る。ばいばい、マユキ」
本当かどうかも分からない巫子としての役目から。
そしてそれを取り巻く、すべてのものから、ラファは逃げた。




