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第七章 選択

1


 夜のノートパソコンの画面に、薄い光がにじんでいた。検索窓には、何度も入力しては消した名前が並ぶ。

──「小早川咲」

 エンターキーを押すたびに、同じような記事やまとめが繰り返し現れる。どれも憶測ばかりで、真実には触れていない。けれど、その断片を眺めていると、胸の奥にずっと沈殿していた「失踪当時の空気」が蘇ってくる。

 「いなくなった」というより、「消えた」。そう表現した方がしっくりくる。

 楽屋に残された鞄、着替えかけの衣装、机に開いたままの歌詞カード──そのどれもが“途中のまま”で止まっていた。あの日、時間は確かに動いていたはずなのに、咲の場所だけが空洞のようにぽっかりと抜け落ちていた。

 画面の中の古びた掲示板スレッドには、当時のファンたちの書き込みが残っていた。

《最後の握手会、咲ちゃんの笑顔が固かった》

《あの時すでに何か決まってたんじゃないか》

《結局、事務所は何も説明しなかったよな》

 スクロールするほどに、当時のざわめきが蘇る。

 ファンの憶測も、残された写真も、すべてが「影の再演」だった。見えない真相のまわりを、同じ言葉と記憶が何度も繰り返す。

 膝の上で指を組みしめる。

 思い返すと、どれもが些細な出来事のように見える。

 でも、つなぎ合わせると一本の細い糸になる。その糸は、確かに咲へと伸びている気がした。

 時計の針は真夜中を過ぎていた。

 部屋の静けさの中で、パソコンのスクリーンに浮かぶ文字だけが、妙に鮮明に光っていた。その光の下で、美晴はいつのまにか小さく息を止めていた。

 画面上で同じ語が何度も反響し、耳鳴りのように頭の奥で広がる。

 そして、美晴は気づく。

 自分自身もまた、この繰り返しの輪の中に閉じ込められているのだ、と。

 進まないままの時間に、何年も取り残されていた。




     2


 送信履歴には、短いメッセージが並んでいた。

《元気ですか? 少しだけでいいから、話したい》

《もし今は無理でも、返事をくれるだけでいい》

《あの頃のことを、ちゃんと知りたい》

 送信ボタンを押すたびに、胸の奥で何かが沈んだ。

 既読はつかない。画面は静まり返ったまま。数年前と同じように、声が届かない世界に閉じ込められているような気がした。

 けれど、三度目の送信から数日後、ようやく変化があった。深夜、眠れずに開いた画面に、小さな数字の通知が光っていた。

《……ごめん。ずっと迷ってた》

 指が震え、すぐに次の文が現れる。

《話そう。私も、このままじゃいけないって思ってた》

 息が詰まる。ようやく繋がった、と思った。

 その後、しばらく画面は沈黙したままだった。

 鼓動が耳の奥で響く。次の言葉を待つ時間が、やけに長く感じられた。

 そして数分後。

《明日の夕方、川沿いの公園に来て。あのベンチ、まだ残ってると思う》

  目の奥が熱くなる。

──あのベンチ。練習帰りに二人でジュースを分け合って、制服のまま居眠りしたこともあった場所。

 舞台袖の緊張から解き放たれ、ただの少女に戻れた唯一の時間。咲がその場所を指定してきたことが、美晴には大きな意味を持つように思えた。


 翌日の夕暮れ。

 川沿いの遊歩道は、まだ冬の冷気が色濃く残っていた。土手の草は霜に濡れ、街灯がひとつずつ点きはじめている。ベンチに向かって歩く間、美晴の心臓は耳鳴りのように響いていた。

 そこに、咲がいた。

 ベンチに腰をかけ、膝の上に両手を組んで置き、遠くの川面をじっと見つめていた。

 肩までの髪をひとつに束ね、黒いコートの襟を立てている。大人びた姿なのに、光の下で覗いた横顔は、あの頃と何も変わらない輪郭をしていた。

「……咲」

 名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 瞳が合う。ほんの一瞬、何年分もの時間が縮まったように思えた。

「……美晴?」

 咲の声は小さく、震えていた。驚きと警戒、そしてどこか安堵が混ざった響きだった。

 二人の間に沈黙が落ちる。川のせせらぎと、遠くを走る電車の音だけが夜気に混じっていた。

 美晴は何度も心の中で準備していた言葉をすべて飲み込み、ただ一言だけ絞り出す。

「……元気、だった?」

 咲は伏せたまま小さく笑った。

 それは懐かしい笑みのようでいて、どこか翳りをまとっていた。

「どうだろうね。……でも、生きてるよ」

 その言葉を聞いた瞬間、美晴の胸の奥に溜まっていたものが崩れ落ちていった。姿を消した彼女は、もう戻ってこないと思っていた。でも今、こうして目の前で呼吸して、声を返してくれている。

 美晴はベンチに腰を下ろした。

 二人の間に、かすかに冬の冷気が流れる。距離はわずか数十センチなのに、その空気は分厚い壁のようにも感じられた。

「来てくれると思ってなかった」

 咲が呟いた。その声は、試すようでもあり、寂しさを隠すようでもあった。

 美晴は首を振った。

「来ないわけないよ」

 言葉にした途端、涙腺の奥がじわりと熱くなった。

 この言葉をずっと言えずにいた。あの日、楽屋で咲がいなくなって以来、心のどこかで「追いかけられなかった自分」を責めていた。

 咲は小さく目を細め、視線を川面へ戻した。流れる水の音が、二人のあいだに残された年月を語っているように聞こえた。




     3


 川沿いのベンチに並んで座ると、夜の空気が指の骨のきしみまで冷やしていった。街灯の淡い輪が川面に揺れて、遠くで踏切が二度、間を空けて鳴る。

 咲は膝の上で指を重ね、細い呼吸を整えている。美晴はその横顔を斜めから見つめ、言葉の選び方を何度も内側でやり直した。

「……どうして、あの日いなくなったの?」

 ようやく口を開く。声が、自分の声じゃないみたいに硬かった。

 咲は少しだけ肩をすくめ、視線を川に落とした。

「怖かったんだよ」

 吐息にひっかかるような声だった。

「何が?」

「全部」

 咲はゆっくりと言葉を切り出す。

「ステージに立つこと、期待されること、期待に応えられない自分のこと。……それから、みんなが前に進んでいくのを見ること」

 美晴の喉が鳴る。

 咲は続ける。

「ほんとはね、最初から自信なんてなかった。途中加入だったし、年下だったし。できて当たり前、って空気の中で、毎日本物の咲のふりをしてた。笑う練習も、歌う練習も、踊る練習もしたのに、鏡の中の自分だけはずっと借り物みたいで」

 美晴の脳裏に、控室の一角で静かにストレッチを重ねていた咲の姿がよみがえる。早朝のリハに誰よりも早く来て、口ずさみながら振りを通し、誰も見ていないところで何度も繰り返していた子。

 “できない”を“できる”にする回数だけは、きっと誰より多かった。

「それでも、できてないって言われるのが怖かった。ファンの声援が大きい日は、余計に怖かった。……私じゃない誰かに送られてるみたいだったから」

 美晴は、手の中で自分の指を握りしめる。

「それで、いなくなったの?」

 咲はかすかに笑う。

「いなくなれば、上手くいくって思ったの。私がいたら足を引っ張る、って。本気で信じてた。あの頃の私には、それが優しさだって思えた」

 優しさ。その言葉に、美晴の胃の奥がきゅっと縮む。

 あの最後のリハの日。咲が楽屋の隅で小さく呟いた問いが、鮮やかに蘇る。

──『私たちは、光になれると思う?』

 美晴は、笑って『なれるよ』と答えた。その言葉は嘘ではなく、祈りでもあった。だけど今、祈りは誰に届いていたのだろう、と自分に問う。

「……私、あのとき、ちゃんと気づけてたら」

 悔いが、喉の奥からこぼれる。

「練習が終わったあと、楽屋でまた明日って言ったのに。あれが最後だったのに。追いかけもしなかった。怖かったのは、たぶん私も同じだった」

 咲は顔を上げる。街灯の反射が瞳に小さな光を載せる。

「美晴のせいじゃない」

「それでも、私の一部だよ」

 言ってから、美晴は自分の掌を見た。何度もステージに立つために作った硬い皮膚。そこで終わったはずの感覚が、まだ残っている。

 ふいに、咲が別の方向へ目をやる。

「覚えてる? 三人で締めることになったMV」

 美晴は小さく頷いた。

 解散前、事務所の方針がころころ変わっていた時期。スケジュールが歪み、企画が上書きされるたびに、置いていかれる音が背中に迫った。

「最初のバージョンには私と優音も撮った。でも、あとでほとんどカットされて。出てることになっていない編集だった」

 声に苦みが混じる。

「”若さと勢いの三人で再構成“──紙の上では、きれいだった」

 咲が、微かに肩を強張らせる。

「私、あの撮影、怖かった。笑えば笑うほど、誰かの居場所を奪ってる気がした。なのに、止まらないで、って言われると頷いちゃう自分が、もっと怖かった」

 美晴は、言葉を選ぶ。

「私と優音が、先に遠ざかったから、だよね」

 咲の喉仏が一度上下する。

「……うん。二人が悪いわけじゃない。でも、置いていかれる感じはした。誰かに、じゃなくて、時間そのものに。私は、同じ速さで走れないって気づきたくなかった」

 美晴は、浅い呼吸に少しずつ空気を満たしながら、ゆっくりと言う。

「いいから、目を開けて。……私がいるうちに」

 咲はふ、と笑って横を向いた。

「強いな、そういうとこ。前から」

「違う。怖いから言ってるの。もう、黙って終わるのは嫌だから」

 しばらく、二人とも黙って川の流れを見た。

 音のない時間が、むしろ語る。水のきらめきに、あの頃の断片が重なる。

 控室のプラスチック椅子。スケジュール表の蛍光ペンの色。ペットボトルのラベルをはがして遊ぶ癖。

 咲が紙コップに描いた花。

 どれも他愛ないのに、どれも今の自分を形作っている。

「SNSで言われたことで、眠れなかった夜もあった」

 咲がぽつりと言う。

「“センター向いてない”“入るのが遅かった”“誰かの代わり”。本当のことなんてどこにもないのに、どれも少しだけ当たってる気がしてしまう。……それが嫌だった」

「言葉は、刺さるよね」

「刺さってるところを、誰にも見せられないのが、もっと嫌だった」

 美晴は視線を落とし、自分の靴先に積もった砂埃を見つめた。

「私、あの頃、息の仕方がわからなかった。仕事の後、家に帰っても、明日のリハの姿勢で背中が固まってるまま寝てた。目が覚めても疲れが抜けなくて。でも、できる顔は崩せない」

「うん」

「優音は……あの子は戦い続けた。怖さを飼いならすみたいに。私には、できなかった。だから距離を置いた。それが、誰かの何かを傷つける理由になることを、ちゃんと想像できなかった」

 咲がかすかに首を振る。

「責めたいわけじゃないんだよ。ただ、私が消えたとき、みんなの足音がすごく遠くに聞こえて。置いていかれた、って思った」

 言いながら、咲は自分の言葉を吟味するように、間をあける。

「でも、本当は違ったのかも。置いていかれたんじゃなくて、私が立ち止まって、耳を塞いで、目を閉じた」

 美晴は、呼吸を整えてから、まっすぐに咲を見た。

「じゃあ、いまは。耳は開いてる?」

 咲は頷く。ほんの少しだけ。

「目は?」

 咲は、笑う。

「眩しくないくらいには開いてる」

「なら、言うよ。……私にとって、あなたは必要だった。必要“だった”じゃなくて、必要“だ”。今もね」

 言った瞬間、胸の内側で長く固まっていた何かがゆっくり割れる音がした。

 咲は視線を落とし、両手の指を絡め直す。

「ねえ、美晴」

「うん」

「私、自分がいることで、誰かの居場所が減るって思い込んでた。三人のMVの時なんて、特に。……でも、もしかしてそれ、嘘だったのかな」

「嘘だよ」

 即答した。

「居場所は、誰かが座ると消える椅子じゃない。置いておけるもの。移動できるもの。時々貸したり、時々重ねたりできるもの」

「……うん」

 咲の頬が、ほんの少しだけ緩む。

「それでも、戻るわけじゃないよ」

 咲が先に釘を刺した。

「わかってる」

 美晴はゆっくり頷く。

「私も、戻りたいわけじゃない。やり直しがしたいんじゃない。……ただ、終わり方を選びたい」

 言葉を切り、空を見上げた。

 雲は薄く、星はほとんど見えない。見えないけれど、ある。その見えなさに、少し救われる。

「あの日、言わずにいなくなった。それが、私の終わり方だった」

 咲が静かに言う。

「でも、もう一度だけ、別の終わり方を選べるなら。……言ってからいなくなる。ちゃんと言ってから終わりにする」

「いなくなるの?」

 美晴は反射的に訊いた。

 咲は、一拍おいて、小さく頷く。

「ここじゃない場所で、生き直したい。誰かの目の中にある私じゃなく、自分の目の中の私で。それって逃げかな」

「逃げだよ」

 正直に言った。咲が目を見開く。

 美晴は続ける。

「でも、悪い逃げと良い逃げがある。息を取り戻すための逃げなら、それは選択って呼ぶんだと思う」

 咲はしばらく黙って、ゆっくり笑う。

「そういう言い方、前から上手いよね」

「本当は下手だよ。ずっと言葉を飲んできたから、今、がむしゃらに出してるだけ」

「……ありがとう、出してくれて」

「うん」

 風が強くなり、ベンチの背もたれがわずかに軋んだ。

 咲のスマホが震える。短い通知音。咲は画面を見て、すぐに伏せた。

 その仕草が、あの楽屋の夜と重なる。誰にも見せず、何も言わず、静かに立ち上がりそうな気配。

 美晴は、先に口を開いた。

「待って。……もし、またいなくなるなら、せめて今ここで、私に言葉を残して」

 咲がゆっくり顔を上げる。

「同じ終わり方は、もうやめよう。私のためだけじゃなくて、あなたのために」

 長い沈黙。

 咲は、考えるときの癖で、親指の腹で人差し指の爪を軽く撫でた。

「わかった」

 短い言葉だったが、はっきりしていた。

「ありがとう」

 美晴の声も、今度は震えなかった。

「それで、ね」

 咲は言葉を継ぐ。

「私、彩瑛のところに顔出してた。でも、表には出ないって最初に決めた。振りを手伝うくらい。……誰かの中の私から離れる練習をしてたんだと思う」

「彩瑛は知ってるの?」

「ううん。たぶん、わかってて、わからないふりをしてくれてた。あの子、そういう優しさ持ってる」

 美晴は小さく笑う。

「持ってる。昔から」

 咲は、街灯の根元に落ちる自分の影を見つめた。

「優音のことも、怖かった」

「……うん」

「あの人、戦ってる。いつも。私には、同じやり方は無理だった。だから余計に、私がいると足を引っ張るって思った」

「優音も、弱さを持ってるよ」

「知ってる。でも、本人が見せないなら、ないのと同じでしょう。……当時は、そう思ってた」

「今は?」

 咲は少し考えてから、短く答えた。

「今は、他人が見せない弱さを前提に想像するのも、やさしさだって思う」

 川の流れが、ぽたぽたと時間を落とすみたいに一定に続いている。

 美晴は、その音に合わせるように呼吸を整えた。

「ねえ咲。あなたが選ぶ次の場所が、どこであってもいい。ただ、私にできることがあるなら、言って」

「今、ここで?」

「今、ここで」

「……じゃあ」

 咲は一度だけ間を置いて、はっきり言った。

「見送って。ちゃんと」

 美晴は驚いて、笑った。

「得意だよ。私、見送るの得意」

「知ってる」

 二人とも、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。

 咲はベンチの背にもたれ、小さく目を閉じた。

「最後に、私からも言う。……あの時、いなくなってごめん。黙って終わらせて、ごめん」

 美晴は、頷いた。

「うん。ちゃんと受け取った」

「それから」

 咲は目を開け、美晴を見る。

「ありがとう。あの頃、横にいてくれて」

 美晴は、口を結んで頷くことしかできなかった。

 その頷きに、無数の言葉がぶら下がっているのを、咲はきっとわかっている。

 背後で風が鳴り、電車の音が遠ざかる。

 美晴は、ゆっくりと言った。

「じゃあ、これで同じ終わり方は、終わり」

「うん」

「次は、言ってから行く」

「うん」

 二人は立ち上がらなかった。

 ただ、並んで座ったまま、川の流れを見ていた。

 やがて、寒さが骨の内側に入りこんできて、会話は途切れがちになる。

 それでも、沈黙はもう刃ではなかった。ただの沈黙だった。過去に似た夜の中で、違う終わり方を選び直すための、静かな時間。

 咲のスマホがもう一度震えた。彼女は画面を見て、こちらを見た。

「そろそろ、行くね」

「うん」

 美晴は深く息を吸い、吐く。

「また、どこかで」

「うん。……いないふりは、もうしない」

「約束」

「約束」

 ベンチから立ち上がると、足元の砂利が小さく鳴った。

 咲は手を振らなかった。美晴も、振らなかった。

 ただ、それぞれが、それぞれの歩幅で歩き出した。

 川沿いの道は長く、夜は深いのに、足音は静かだった。

 その静けさが、今はちょうどよかった。

 背中に、あの日の問いがうっすら浮かぶ。

──『私たちは、光になれると思う?』

 美晴は歩きながら、その問いに答えないままでいた。

 答えようとすればするほど、言葉が薄くなるのを知っているから。代わりに、一歩踏み出した。

 その一歩が、過去のやり直しではなく、やっと自分の現在に触れている気がした。

 振り返らない。

 いなかったことにされる夜の形は、ここで終わりにする。終わり方だけは、自分で選ぶ。

 川面を渡る冷たい風が、頬の涙の跡をさらっていった。

 涙は、今夜ここでだけ落とす。そして、それで終わりにする。

 次の朝、同じ顔で鏡の前に立っても、ほんのわずかに違う目の高さで、自分を見られる気がした。

 その予感だけを、静かに抱えて帰る。

 誰にも見えない場所で、確かに形を変えはじめた夜だった。




     4


 川沿いの道を抜け、街灯の下に出たとき、足元の影がようやく戻ってきた。

 咲と別れて歩いた道のりは、ほんの数分のはずなのに、不思議と長い旅の終わりのような重さを残している。

 ベンチに残った温度も、頬にかすかに残る涙の跡も、もう誰にも見えない。けれど確かに、今夜だけは自分にしか触れられない「終わり方」を選んだのだと思えた。

 マンションの明かりが遠くに滲んで見える。誰かの笑い声が道の向こうから響き、日常がゆっくりと戻ってくる。

 美晴はポケットからスマホを取り出した。

 画面に並ぶ連絡先の文字列が、白い光の中で浮かび上がる。優音、彩瑛、紗月。みんな、それぞれの時間を歩いている。

 その姿を羨むのではなく、認めることから始めよう。

 そう思うと、ほんのわずかに胸の奥が軽くなる。

 夜空を仰ぐと、街明かりに消されそうな一粒の星が、確かにそこにあった。

──光にはなれなかった。

 でも、それで終わりじゃない。

 明日の朝、鏡の前に立ったとき、ほんの少しだけ違う目で自分を見られるだろう。その予感を胸に、美晴は静かに家路を辿った。

 

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