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第五章 痕

1


夜の部屋に、スマートフォンの小さな光だけが浮かんでいた。画面の一覧に並ぶ文字の中、ひとつの名前に視線が吸い寄せられる。

──桐生優音。

 指先は、その名前の上で止まったまま動けない。タップすれば簡単に繋がる。それだけのことなのに、まるで重い扉を押し開けるような勇気が必要だった。

 美晴はスマートフォンを握りしめたまま、何度も息を吐いた。思い切って呼吸を整えようとしても、胸の奥にこびりついた不安が消えてくれない。

 数日前、紗月に会ったときの光景がよみがえる。

 母親になった彼女は、柔らかな笑みと少し疲れた瞳をしていた。「咲は大丈夫だと思うよ」と軽く言い切ったその声が、なぜか心に突き刺さった。まるで、自分だけが立ち止まり、ひとりで過去に縛られているみたいだった。

──本当に、大丈夫なの?

 その疑問を、ずっと誰かに投げかけたかった。けれど答えは得られないまま、時間だけが過ぎていく。

 優音。

 もし彼女なら、きっとはっきりと答えてくれるだろう。逃げずに、真正面から。だが同時に、彼女に会うことは、避けてきた記憶を呼び起こすことでもある。

 練習室の鏡の前で、いつも自信に満ちた声を響かせていた姿。振り付けを何度も確認しながら、「美晴、ここはもっと強く入って」と妥協なく指摘してくれた瞬間。ステージに立てば、誰よりも堂々とした笑顔で観客を魅了する姿。

 負けたくない。そう思い続けていた。

 でも、いつの間にか彼女は遠くへ行ってしまった。芸能界で名前を残し、今もなおスポットライトを浴び続ける。

 一方で、自分は──。

 スマートフォンを伏せる。指先から熱が抜けていくように、無力感が広がった。「どうせ返事なんて来ない」と囁く声が心の奥にある。無視されるかもしれない。思い出すことさえ億劫がられるかもしれない。

 けれど、それでも連絡しなければ。そうしなければ、前に進めない。咲のことも、自分自身のことも。

 机の上には、ノートが一冊広がっていた。

 咲の行方に関して思いつく断片を書き散らしたもの。ページの端には「201X年最後のライブ」「撮影現場での様子」「途中から表情が変わった」といった走り書きが残っている。だが、線は繋がらない。欠けたピースがいくつもある。

 美晴はスマートフォンを取り上げ、震える指で文字を打ち始めた。

> 「久しぶり。急にごめん。少しだけ話せないかな?」

 一度書き終えても、削除してはまた書き直す。「少しだけ」を「時間があれば」に変えたり、「久しぶり」を「元気?」に変えたり。どの言葉も不自然に思えて、送信ボタンを押すことができない。

 時間ばかりが過ぎていく。窓の外からは、夏の虫の声がかすかに聞こえていた。気づけば日付が変わり、時計の針は深夜を回っている。

「……もう、いい加減にしないと」

 小さく呟いて、美晴は目を閉じた。そして深呼吸をひとつ。最後に打った文面をもう一度見直す。不格好でもいい。今の気持ちをそのまま伝えるしかない。

 送信ボタンを押す指が震える。画面に「送信済み」と表示された瞬間、美晴は力が抜けたようにソファに倒れ込んだ。

 すぐに返事が来るわけではない。けれど、ようやく一歩を踏み出せた気がした。胸の奥にかすかな痛みと、ほんの少しの安堵が同居していた。




     2


 メッセージを送ったあと、美晴はスマートフォンを伏せたままソファに横たわっていた。眠気は訪れない。頭の奥では、送信した文字が何度も反響している。

──久しぶり。急にごめん。少しだけ話せないかな?

 冷静に読み返すと、余計に曖昧で情けなく見えた。相手にとっては迷惑かもしれない。既読すらつかないかもしれない。最悪、無視されるだろう。

 けれど、ほんの数分後。画面が小さく震え、通知が表示された。

> 優音:「久しぶり。元気?」

 あまりに早すぎて、美晴は目を疑った。返事が来るとは思っていなかった。しかも、昔と変わらぬ調子の柔らかな一言。心臓が跳ねる。けれどすぐに、次のメッセージが続いた。

> 優音:「ちょうど今は撮影が終わったとこ。明日の夕方なら少し時間あるよ」

 視界がぼやけるほど胸が詰まった。明日。つまりもう、すぐそこに約束が迫っている。

 何を話せばいいのか、考えが追いつかない。

 咲のこと。Luminousのこと。自分がずっと抱えてきた後悔。けれど、その全部を言葉にできるだろうか。

「……会いたい」

 思わず、声に出していた。それは、咲のためでも、過去を確かめるためでもなく、自分の奥底からにじみ出た本音だった。

 返信を打つ指が震える。

> 美晴:「ありがとう。明日、お願いします」

 送信してから、ようやく大きく息を吐いた。


 翌日。朝から落ち着かず、部屋の中を何度も行き来する。鏡の前で髪を直しては、すぐに崩してしまい、服を選んでは畳み直す。その繰り返しだった。

 数年ぶりに優音に会う。それは、過去の自分との対面でもあった。

 彼女はきっと変わらずに輝いている。成功し続ける人の空気をまとい、自分とは違う世界に立っている。比べてしまえば、きっと惨めになる。けれど、逃げることはできない。

 窓の外には、雲ひとつない夏の青が広がっていた。その明るさがかえって美晴を焦らせた。まるで「今度こそ、ちゃんと向き合え」と突きつけてくるみたいで。

 優音に会えば、何かが変わるだろうか。咲の行方に近づけるだろうか。それとも、自分がまた置き去りにされるだけなのだろうか。

 そんな不安を抱えたまま、美晴は約束の時間へと向かう準備を始めた。




     3


 待ち合わせ場所は、駅前から少し離れたカフェだった。休日の午後、通りには買い物袋を提げた人や、恋人同士らしい若いカップル、子どもを連れた家族の姿が目立つ。穏やかな空気の中で、美晴だけがどこか落ち着かない足取りをしていた。

 約束の時間より二十分も早く着いてしまい、カフェの前を行ったり来たりする。スマホを取り出しては時刻を確認し、画面を眺めてはまた仕舞う。

──こんなに早く来ても仕方ないのに。

 そう思っても、どうしても足が止まらなかった。

 もし、急に「やっぱり行けなくなった」とメッセージが届いたら。もし、「やっぱり会うのはやめよう」と言われたら。そんな不安が頭をよぎるたびに、心臓が小さく跳ねた。

 けれど──。角を曲がって歩いてくる人影を見た瞬間、その思考は途切れた。すらりとした姿勢、自然に流れる黒髪。シンプルな黒のワンピースに身を包み、日常に溶け込んでいるのに、周囲の視線を奪うほどの存在感。

──優音だ。

 数年という空白が一瞬で埋まるように、記憶の中の姿と重なった。だが同時に、その姿は「過去」とは違っていた。以前よりも洗練され、言葉にできない強さをまとっている。きっと、芸能活動を続けてきた時間が、彼女をこうして形づくったのだろう。

「……久しぶり」

 勇気を振り絞って声をかけると、優音は少しの間を置いて、微笑んだ。その笑顔は懐かしく、安心感をもたらす。

 だが、ほんの一瞬、計算されたような整いすぎた表情がのぞいた気がした。

「ほんとに、久しぶり。元気にしてた?」

 言葉は柔らかく、昔と変わらない。けれど、美晴の胸にはどうしても、わずかな距離感が突き刺さる。

「……うん。なんとか、ね」

 二人は並んでカフェへ入った。

 店内は、木の温もりを生かした落ち着いた内装。観葉植物がテーブルの間をさりげなく区切り、休日のざわめきが柔らかく吸収されている。

 窓際の席に腰を下ろすと、ガラス越しに午後の光が差し込み、テーブルの上を明るく照らした。

「何にする?」

「アイスコーヒーで」

「じゃあ、私も」

 店員が去った後、二人の間に静けさが訪れる。懐かしさと、ぎこちなさ。互いに言葉を探しながら、どう切り出すべきか測りかねている空気。

「撮影の帰りって言ってたよね。忙しいのに、ありがとう」

「ううん。ちょうど空いてたから。それに、美晴から連絡もらえたの、ちょっと嬉しかった」

 優音はそう言って笑った。その笑みは優しい。けれど、美晴にはどこか「人前で見せるための笑顔」に思えた。

 あらゆる場で人前に立ち続けてきた彼女が身につけた、無意識の防御。

──私は、もう彼女にとって“過去”の人間なんだ。

 胸の奥で、そんな声が響く。

 アイスコーヒーが運ばれてきても、会話は上滑りするように近況報告にとどまった。仕事のこと、生活のこと。美晴は答えながら、自分の言葉が薄っぺらに響くのを感じていた。

「美晴はさ、ほんと変わらないね」

「そうかな……」

「うん。落ち着いてて、昔と同じ。なんか、安心する」

 優音の言葉はやさしい。けれど、美晴にはその「変わらない」という表現が、どこか痛みを伴った。変われなかった。進めなかった。だから今こうして、立ち止まったまま彼女に会っているのではないか。

 沈黙を破ったのは、自分の声だった。

「……優音は、変わったね」

 ぽつりとこぼれた言葉。

 優音は一瞬驚いたように目を丸くしたが、やがてふっと唇を緩めた。

「そりゃあ、ね。変わらなきゃ、やっていけなかったから」

 軽やかに聞こえる言葉。だが、その奥には強い芯が潜んでいた。努力と覚悟を積み重ねてきた人間だけが持つ、冷静な自負。

 美晴は返す言葉を失い、グラスの中の氷が溶けていく音に耳を澄ませるしかなかった。

 テーブルの上に落ちる午後の光が、二人の間にある見えない境界線を浮かび上がらせているように思えた。




     4


 カフェの窓から差し込む午後の日差しは柔らかいはずなのに、テーブル越しに座る優音の存在はどこか鋭さを帯びていた。カップの縁に口紅の跡が淡く残っているのを見て、妙に現実感があった。目の前の彼女は、スクリーンの中ではなく、今こうして自分と同じ空気を吸っている。それなのに距離はあまりにも遠かった。

「……美晴は、変わってないね」

 優音がぽつりと口にする。

 その声色には懐かしさも優しさも混じっていたが、奥底にあるものは計り知れなかった。

「そうかな」

 美晴は曖昧に返す。

 優音は少しだけ笑みを浮かべ、ストローを指で転がす。

「うん。……あの頃からずっと、自分の中で何かを抱えてるっていうか。全部を背負っちゃうところ、変わってない」

 それは誉め言葉にも聞こえたし、責められているようにも感じられた。美晴の胸の奥に、居心地の悪いざらつきが広がる。

「でもね」

 優音の声が、ふっと低くなる。

「アイドルってさ、“一歩足りない”だけで全部が変わっちゃうんだよ」

 その言葉は、刃物のように美晴の鼓膜を裂いた。言い返そうとしてもうまく言葉が出ない。

「……私が一歩進めたのは、たまたまかもしれない。でも、美晴はその一歩を踏み出せなかった。だから、センターにはなれなかった。ファンの記憶にも、強くは残らなかった」

 まっすぐ見つめる瞳に揺らぎはなく、事実を告げるような口調だった。優音のその冷徹さは、昔から変わらない。グループの中で誰よりも光を浴び、誰よりも結果を求められてきた彼女だからこその言葉だ。

 美晴は拳を膝の上で握りしめる。指先が震えているのが自分でもわかった。

「……そんなふうに、思ってたんだ」

 かろうじて絞り出した声に、優音は静かに息を吐く。

「思ってたっていうか、そうだったんだよ。結果がすべて。私たちはそういう場所にいた。だから、あの頃の私たちの中で、咲が一番揺れてたときも、きっと私は気づかないふりをしてたんだと思う」

 咲の名前が出た瞬間、美晴の胸は強く波打った。

「……咲が、揺れてた?」

 優音は視線を伏せる。

「うん。あの子は、私たちが思っていたよりずっと不安定だった。でもね、美晴。私はそのことを口に出すのが怖かったの。あの子を庇えば、自分が崩れる気がして。だから……“見なかったこと”にした」

 その告白は、美晴の心に別の刃を突き立てる。

 自分も同じだったのではないか。その思いが重くのしかかる。

 テーブルの上で揺れる影が、過去の記憶と重なって見える。

 咲の笑顔。ステージ袖で小さく震えていた手。あの時、声をかけられたはずなのに。

「……優音」

 美晴は喉の奥で名前を呼んだ。

 優音は顔を上げ、ほんの一瞬だけ迷うように視線を泳がせたあと、再び鋭い眼差しを向けてくる。

「だからね。私は今も、自分の選択が正しかったのかどうか、分からない。でも、それでも立ち止まったら、もう進めないんだよ。美晴。私たちはもう、昔には戻れない」

 その言葉に、美晴の胸の奥で小さな崩落音が響いた。

 心のどこかで期待していた「もしも」の答えが、容赦なく断ち切られる。

 窓の外では夕暮れが街を染め始めていた。その景色の中で、美晴は自分がどれほど取り残されていたのかを、痛いほど思い知らされていた。




     5


カフェを出た瞬間、冷たい空気が頬を撫でた。昼間の熱気を残した街は、夕暮れのざわめきの中に溶けていく。

 一歩足りなかった。

 優音の声が耳の奥で繰り返され、歩くたびに心臓の奥を叩いた。

 美晴は俯きながら歩いた。人の群れに混じりながらも、まるで自分だけが透明になったような心地がする。誰もこちらを見ていないのに、胸の内側だけがざわついて落ち着かない。

 信号で立ち止まったとき、ポケットの中のスマホが震えた。画面には「未読メッセージあり」の通知。送り主は紗月。

 指先が一瞬、凍りつく。

 優音と会った帰りに、紗月の名前を見るなんて。ほんの数秒のことなのに、胸の奥が大きく波立つ。画面を開くと、短いメッセージがそこにあった。

> 「久しぶり。今度、少し話せないかな?」

 それだけ。けれど、そのたった一文が、美晴には胸に深く届いた。柔らかく、静かに、けれど確かに差し伸べられた手のように。

 歩き出した人波が美晴の背中を押す。信号はすでに青に変わっていた。彼女はスマホをしまい、再び歩き出した。

 街のどこかでアコースティックギターの音が響いている。耳を澄ますと、それはかつて自分たちが歌っていた曲だった。アレンジは違う。声も違う。けれど、サビの旋律がはっきりと胸を貫く。

「……咲」

 思わず名前を呼んでいた。群衆の中で、振り向いた人はいない。だが自分だけが知っている声が、記憶の奥から蘇ってくる。

——夜の練習室で、誰よりも遅くまで歌っていた横顔。

——合宿の夜、窓辺で黙り込んでいた細い肩。

——本番直前、ステージ裏で強がりながらも震えていた手。

——「大丈夫」と言いながら揺れていた瞳。

 もし、あの時気づいていれば。

 もし、もっと手を伸ばしていれば。

 胸の奥で繰り返される問いに、答えはない。けれど優音の言葉が追い打ちをかける。

——あの子、揺れてたよ

 咲のことを思い出すたび、美晴の中で「空白」が広がっていく。穴のようにぽっかりと空いたもの。埋められない後悔。だが、その空白を埋めるきっかけは、いま手の中にあった。

 紗月からの連絡。

 母になった彼女が、なぜ今、美晴に声をかけてきたのか。

 夕暮れの街を歩きながら、美晴はふと空を仰ぐ。オレンジから群青へと移ろう空は、どこかで見たステージ照明のグラデーションを思い出させた。

 過去は戻らない。けれど、過去に置き去りにされた声は、まだ探すことができる。

 人混みのざわめきの中に、ふと誰かの笑い声が混じった。一瞬だけ、咲の声に似ている気がして、美晴は振り返る。そこにいたのは見知らぬ少女たち。それでも胸の奥の疼きは止まらず、懐かしい痛みに似たものが広がっていった。

 美晴はスマホを胸に抱くように握りしめた。

 咲の影を辿る旅は、まだ続いている。そしてその道は、次に会う紗月へと繋がっているのだと彼女は直感していた。

 

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