第四章 残影
1
スマートフォンの画面に、ずっと開くのをためらっていた名前が並んでいる。
高峰紗月──。
数年前まで、ほとんど毎日のように会って、笑って、泣いて、同じ舞台に立っていた人の名前。それなのに、指先がその文字を触れるだけで、胸の奥がひりつくように痛む。
最後に直接話したのはいつだっただろう。解散が決まる直前か、それともその少し前か。記憶は曖昧で、思い出そうとすると胸の奥がざわつく。あの頃は一日一日が嵐のように過ぎて、気づけばみんなバラバラになっていた。
画面をスワイプしては閉じ、また開く。
躊躇しているうちに、日が暮れかけていた。窓の外、薄い橙色に染まった空が、街のビルの隙間から覗いている。
「……かけるだけ、かけてみよう」
口の中で小さくつぶやく。誰に聞かせるでもない、半分は自分を押し出すための言葉だった。
コール音が耳に広がる。短いようで長い、あの間。胸の奥で何かがぎゅっと締まる。
もし出なかったら、それはそれで。
そんな弱い逃げ道を、瞬時に心の中で用意していた。
「……はい、もしもし?」
耳に届いた声は、記憶より少し柔らかく、そして温かかった。
「あ、紗月……?」
呼びかけながら、自分の声がかすかに震えているのを感じる。
「美晴? 久しぶり!この前はありがとう!」
電話の向こうから、明るく弾むような笑い声。あの頃と変わらない、けれど何かが違う。音の奥にある景色が、もう私の知っている舞台裏ではないことが、すぐにわかった。
「うん……久しぶりだね」
たったそれだけで、胸の奥に少し重たい空気が広がる。
「元気だった? ていうか、どうしたの急に」
紗月の声は軽やかで、まるで昨日まで普通に連絡を取り合っていた友達みたいだ。けれど私たちは、もう何年も言葉を交わしていない。それでも、声を聞いた瞬間、心の奥で眠っていた何かがふっと目を覚ました。
「……元気、だよ。紗月は?」
「うん、元気! ていうか、今ちょっと家事の合間なんだ。子どもが昼寝してるから、声小さめだけど」
そうか──紗月はもう母親なんだ。
頭では知っていたことなのに、本人の口から聞くと現実の重みが増す。
「そっか……忙しいよね」
「うん、まあね。でも毎日バタバタしてるのも悪くないよ。あ、ねえ、美晴。今度さ、ちょっとだけでも会わない?」
胸が一瞬きゅっとなる。
「会おう」と言われることが、こんなにも嬉しくて、同時に怖いなんて思わなかった。
「……うん、会いたい」
言葉にしてみれば、案外簡単だった。
「じゃあさ、駅前のカフェとかどう? 子連れでも行きやすいとこ知ってるから」
軽やかな紗月の提案に、美晴は小さく頷いた。
電話が切れたあとも、しばらくスマホを見つめていた。
通話記録に新しく刻まれた「高峰紗月」の文字が、ほんの少しだけ心を温める。その一方で、再会の約束が、自分の中の何かを引きずり出してしまう予感もあった。
2
週末の午後、駅前の広場は人であふれていた。
待ち合わせ時間より少し早く着いた私は、ガラス張りのカフェの前に立ち、反射する自分の姿をぼんやりと見つめていた。
──何年ぶりに、あの人に会うんだろう。
手帳型のスマホケースを開き、時刻を確認する。待ち合わせまであと十分。少し息が浅くなる。
人混みの中から、紗月の姿を探そうと視線を巡らせるけれど、なぜか見つけた瞬間の自分を想像すると、胸の奥がざわついた。
ふいに、子どもの甲高い笑い声が耳に飛び込む。
反射的に振り返ると、人波の向こうに紗月がいた。
肩までの髪を後ろでまとめ、片手でベビーカーを押しながら、もう片方の手でスマホを耳に当てている。
通話を切ったあと、こちらを見つけ、ぱっと笑顔になった。
「美晴!」
手を振る仕草は昔と変わらないのに、纏う空気はまるで別の世界の人みたいだった。
「久しぶり……!」
近づいた瞬間、柔らかなシャンプーの匂いと、微かに粉ミルクの甘い香りが混ざって届く。
ベビーカーの中では、小さな手がもぞもぞと動き、くぐもった声があがった。
「この子、紗月の……?」
「そう。春生まれだから、まだ半年ちょっとかな。ほら、挨拶して」
そう言って紗月が笑いかけると、赤ちゃんは一瞬こちらを見て、またすぐ眠たそうに目を細めた。
カフェの中は午後の光がたっぷり差し込み、ガラス越しに駅前の賑わいが見える。
奥まった席に案内され、ベビーカーを横につけると、紗月は慣れた手つきで子どもの毛布を整えた。
その一連の動作を見ていると、私の知っている「紗月」と、目の前の「紗月」の間に、時間の層が何重にも積み重なっていることを思い知らされる。
「で、美晴はどうしてたの? あんまりSNSも更新してないよね」
「うん……ちょっと色々あって」
自分の言葉があまりにも抽象的で、会話がふっと途切れそうになる。けれど紗月は、詮索するような目をしなかった。
「そっか。まあ、無理しないのが一番だよ」
さらっとそう言えるのは、紗月が本当に別の生活を手に入れたからなのか、それとも昔からそういう人だったのか。
カフェラテが運ばれてきて、ふわりと温かい香りが広がる。
湯気越しに紗月の横顔を見ると、あの頃の記憶がじわじわと浮かび上がってくる。練習終わりにコンビニで買ったペットボトルのお茶を二人で分け合ったこと。リハーサル中に目が合って、同時に笑ってしまったこと。深夜、マネージャーに内緒で食べたコンビニスイーツの甘さ。
「ねえ、美晴。……あの頃のこと、今でもたまに思い出すよ」
紗月がカップを両手で包みながら、少しだけ目を伏せる。
「私も。……でも、なんか、遠い夢みたい」
そう口にすると、胸の奥が少し苦しくなった。
解散のこと、咲のこと、あの日の空気。紗月にそれをどう切り出せばいいのか、まだわからない。
「夢、かあ。でもね、私は結構いい思い出で終われたんだよ」
笑顔でそう言う紗月の声は、穏やかで、どこか達観しているように聞こえた。
私の中ではまだ終わっていない出来事が、紗月の中ではもうきちんと片付けられている。その距離が、少しだけ寂しかった。
3
咲の名前を口にするまで、少し時間がかかった。
カフェの窓際、午後の日差しがテーブルの上のマグカップを鈍く照らしている。外ではベビーカーを押す母親たちが通り過ぎ、低い笑い声がガラス越しに届く。紗月の向こう側に広がる世界は、もう完全に“あちら側”の生活の匂いがしていた。
「……咲のこと、最近、聞いたりしてる?」
自分の声が、思ったよりも低く、重く響いた。
紗月は、カフェラテの泡をスプーンでなぞっていた手を止め、顔を上げた。瞬間、少しだけ眉が動いたが、それはすぐに消える。
「咲? ああ……」
ほんの短い間を置いて、彼女は肩をすくめるように笑った。
「大丈夫だと思うよ。あの子、なんだかんだで器用だし」
大丈夫──その言葉が、とても軽く宙に浮かんで、どこにも着地しなかった。
美晴の胸の奥では、その軽さが不安を逆撫でする。咲が最後に姿を消したときの表情や、MV撮影で見せた一瞬の陰りは、まだ鮮明に焼き付いている。
「でも……連絡、取ってないんだよね?」
「うん、もう何年も」
紗月は、何でもないことのように答える。
その声に、棘も、湿り気もない。あまりにも乾いていて、美晴は少しだけ言葉を探すのをやめた。
沈黙を埋めるように、隣の席のカップがソーサーに触れる音がした。
紗月は、カップを口に運びながら言う。
「美晴は、まだ引きずってるんだね」
その笑顔は柔らかく、まるで子どもをなだめる母親のような温度を帯びていた。けれど、その奥にあるものは線引きだった。
引きずってる、という言葉が、胸の奥で鈍く響く。
違う、と言いたかった。あれは未練じゃなく、まだ終わっていないことなんだ、と。でも、美晴の喉は動かず、コーヒーの苦味だけが舌に残る。
「咲のことは、きっと咲が決めてるよ」
紗月はそう言って、テーブルの上の小さなカバンを直し始めた。もうこの話題は終わり、という仕草。
外から子どもの泣き声が聞こえた。紗月が小さく笑って、「あ、うちの子だ」と言う。その笑顔は、さっきの咲の話題とは別の色をしていた。
美晴は、窓の外を見た。何もかもが、違う時間を歩んでいる。
紗月は、スマホを取り出し画面を一瞥すると、柔らかく目元を細めた。
「保育園からだ。お迎えの時間、ちょっと早くなったみたい」
画面に表示された名前の横には、小さな子どもの写真。にこっと笑って、手にクレヨンを握りしめている。
その笑顔は、咲がまだ十代だった頃に見せた、無邪気な笑みとほんの少し重なる。
あの頃、咲はよく控室で落書きをしていた。紙コップに顔を描いたり、スケジュール帳の隅に小さな花を並べたり。ふと、その記憶がよみがえる。けれど、その次に思い出すのは、撮影の合間に見せたあの空っぽな瞳だった。
「そういえば、あの子、どうして連絡取らなくなったんだっけ?」
問いかけると、紗月は少し考える素振りをしてから首を傾げた。
「さあ……自然に、かな。忙しかったし。解散してからは、もうお互い別の人生って感じで」
その言い方は、とても軽く簡単だった。
自然に、その言葉の軽さが、美晴には重くのしかかる。
咲は、自然に離れていったわけじゃない。少なくとも、あの失踪の前には何かがあったはずだ。
美晴はカップを持ち上げ、すっかり冷めたコーヒーを口に含む。苦味が、さっきよりもはっきりと舌を刺す。
「……私ね、最近またMVを見返したの」
声を落として告げると、紗月は「へえ」と興味なさそうに相槌を打った。
その反応が、何よりも距離を感じさせた。あの映像に残っているのは、咲の笑顔と、その裏にある何かを知っている自分たちだけの秘密。そう思っていたのは、美晴だけだったのかもしれない。
店内のスピーカーから流れるBGMが、いつの間にか軽快なジャズに変わっていた。
紗月はカップを飲み干し、「じゃ、そろそろ行こうか」と言う。会計へ向かう彼女の背中は、母親であり、妻であり、そしてもう元アイドルではない人のそれだった。
残された美晴は、しばらく席に座ったまま窓の外を見つめていた。
咲と紗月、二人とも今は遠い。その距離の質は違うけれど、どちらも手を伸ばしても届かない。
4
駅前のロータリーで紗月と別れ、歩き慣れた道をひとり帰る。冬の夕方は容赦なく日を沈め、街灯がまだ間に合わない色合いの中、足元の影が妙に濃く伸びていく。さっきまで他人の温度に触れていたせいか、空気の冷たさが余計に堪える。
紗月の最後の笑顔、「美晴はまだ引きずってるんだね」という一言が、何度も耳の奥で反響する。優しさに包まれた音色なのに、なぜか棘のような感触が残る。
部屋に戻ると、玄関のドアが軋む音さえやけに大きく響いた。暖房をつけても、空気はすぐには変わらない。コートを脱ぎかけた手を止め、壁際の棚に置きっぱなしにしていた古い手帳に目がいく。それは、解散からしばらく経っても手放せなかった小さなノートだった。黒い表紙は少し擦れていて、開くたびに紙の匂いがする。ページの隙間には、色褪せたライブのリハーサルメモや歌詞の断片が挟まっている。その奥、ふとした拍子に、薄い名刺サイズの紙がひらりと落ちた。拾い上げると、それは当時のスタッフから回ってきた連絡網のコピーだった。
見慣れた名前の中に、「桐生優音」の文字がある。
指先が一瞬止まる。
今でもテレビやネットで名前を見る。けれど、そこにある彼女は、もう“あの頃”の優音じゃない。冷静で、完璧で、隙のない笑顔を保つ人。
でも、本当の優音は、舞台裏で眉をしかめながら練習の段取りを変えるよう指示する姿や、衣装のほつれを自分で縫い直していた姿も持っていたはずだ。そんな記憶が胸の奥をつつく。
スマートフォンを手に取り、連絡先を検索する。ヒットしたのは、何年も更新されていない番号とメールアドレス。それでも、試す価値はある。
画面に表示された文字列を見つめながら、親指がためらいの空中遊泳を繰り返す。
──もし返事がなかったら。
──もし冷たくあしらわれたら。
そして、もしも……「咲」の話題を拒まれたら。
葛藤は長く尾を引き、部屋の時計の針が一つ進むたびに決心が薄れていくようだった。
だが、紗月の「大丈夫だと思う」という言葉が、逆に背中を押した。大丈夫、なんて簡単に言われてしまうのなら、自分が確かめるしかない。
胸の奥で、あの日の咲の笑顔が鮮やかに浮かぶ。まっすぐにこちらを見つめて、「大丈夫」と笑った、その奥にあった小さな影。
送信ボタンの上で親指が止まる。息を吸い、吐き、もう一度吸い。ほんのわずかの間を置いて、美晴は指を下ろした。




