第三章 背中
1
あの夜から、何日が過ぎただろう。美晴は、毎晩のようにスマホの通知音に神経を尖らせていた。彩瑛に連絡を送ってから、既読はすぐに付いた。けれど、返信はなかった。嫌われたのかもしれない。
思い出したようにふと、スマホを開いては閉じ、通知が鳴っていないか確認する。それでも何もない画面に落胆して、ため息を吐く。そんな繰り返しに疲れて、ようやく眠った朝、予期せぬ名前からの着信があった。
「……紗月?」
画面に浮かぶその文字列は、かつて毎日交わしていたものだった。親友だった。少なくとも、そう思っていた。だけど、彼女とはあれから一度も会っていない。
通話ボタンを躊躇いがちに押すと、数秒のコールのあと、懐かしい声が聞こえた。
「美晴? この前はごめん、ちょうど子どもの面倒があって。改めて話せる?」
電話の向こうから、明るく弾むような笑い声。あの頃と変わらない、けれど何かが違う。音の奥にある景色が、もう私の知っている舞台裏ではないことが、すぐにわかった。
「うん……私も、ゆっくり話したかった」
胸の奥に少し重たい空気が広がる。
一方で、紗月の声は軽やかで、まるで昨日から普通にやり取りしていたみたいに自然だった。
声の後ろで、小さな子どもの声が聞こえた。
「あの頃のこと、いまだに夢みたいに思うときあるよ。ほんと、別の世界の話みたいで」
紗月は、もう前を向いて生きているのだ、と改めて感じた。
「この間のMV、見たよ」
美晴の口から、ぽつりとその言葉がこぼれた。
「ああ……そう。私もね、偶然流れてきたの。懐かしい気持ちになったけど……やっぱり、ちょっと寂しかったかな」
「三人の映像だったから?」
「うん。まあ、あの時期にああいう形で撮影してたの、知らなかったから。でも、咲があの時、ああやって動いてたのは、少し安心もしたよ」
「安心?」
「なんて言うのかな……咲って、もともとあんまり感情を表に出すタイプじゃなかったじゃない? だけど、あの頃、少しだけ変わってきてたっていうか……最後の撮影の時、すごく一生懸命だった」
紗月の言葉が、胸に引っかかった。
「それって……解散前の、撮影?」
「うん。咲がいなくなる前。……いや、いなくなるっていう言い方は変か。あの頃は、誰もが限界だったんだよ。あなたも、優音も」
優音──あの頃、一番目立っていた存在。センターで、圧倒的な存在感を放っていた。
「……優音って、いつから離れていくって決めてたのかな」
「詳しいことは分からない。でも、なんとなく、感じてたよ。あの子、ずっと何か焦ってる感じがしてた」
言われてみれば、思い出せる。優音がレッスン中に、ふと遠くを見るような目をしていたこと。インタビューでの受け答えが、少しずつ空虚になっていったこと。
「みんなが、それぞれの道を探してたんだよね」
言葉にしたとたん、美晴の胸に、じわっと熱がこみ上げた。あの頃、取り残されていたと思っていた。でも、実は自分が立ち止まっていただけだったのかもしれない。
紗月との通話が終わっても、しばらくスマホを握りしめたまま、美晴は動けずにいた。
そして、その夜。ようやく、彩瑛からメッセージが届いた。
「元気そうでよかった。よかったら、今度会わない?」
短いけれど、確かな文字列。ずっと閉じられていた扉が、ほんの少しだけ開いたような気がした。美晴は、深く息を吸って、返信を打ち始めた。
「会いたい。たぶん、話さなきゃいけないことがあると思う」
送信ボタンを押す指先が、少しだけ震えていた。でもその震えは、怖さではなく、ほんの少しの希望と覚悟が混じったものだった。次の日曜日、ふたりは再会の約束を交わした。
2
待ち合わせに指定したのは、駅から少し歩いた路地裏のカフェだった。幾度となく通ったはずなのに、道の角の花壇が少し縮んで見えたり、店先に吊るされた木製の看板が色褪せていたり、時の流れを思い知らされる。扉を開けると、あの頃と変わらない焙煎の香りが鼻をかすめた。カラン、と鈴が鳴る。その音にふと顔を上げた女性と目が合う。
「……久しぶり、美晴」
先に来ていたのは、彩瑛だった。髪は肩まで伸びて、以前より少し明るく染められていた。派手ではないけれど、控えめなイヤーカフとネイルが、かつての“地味な子”という印象をゆっくりと塗り替えていく。
「彩瑛……」
名前を呼ぶだけで、胸の奥がざわついた。ぎこちない笑顔で、彼女が席を勧める。私は静かに腰を下ろし、テーブルの木目をなぞるふりをして、言葉を探した。
「……連絡くれて、ありがとう。返事、遅くなってごめん」
「ううん。連絡くれたのはそっちじゃん。私、ずっと驚いてた。美晴から来るなんて、想像もしてなかったから」
彼女はそう言って笑ったけれど、まぶたの奥には少しだけ緊張が残っていた。
「映像、見たんだ。あの……三人で踊ってるやつ」
私がそう切り出すと、彩瑛の表情がすっと曇る。
「そっか……見ちゃったんだ」
「ネットに上がってた。SNSで誰かが取り上げてたの。……あんなに、ちゃんとした映像だったんだね」
あの夜、私は偶然その動画にたどり着いた。拡散されていたのは、咲・紗月・彩瑛の三人が揃ったMVだった。ステージの光、表情、振り付け、どれもが完成度が高くて、まるで現役のアイドルグループのように見えた。けど、私と優音の姿は、そこにはなかった。
違和感を覚えてもう一つ探してみると、さらに古い別バージョンが見つかった。そこには、私と優音は最初から参加すらしていなかった。そして、ようやく見つけた三本目の映像――記憶の中の、あの撮影の空気が甦る。確かに私もいた。優音もいた。けれど、画面の中には私たちは映っていなかった。編集で、カットされていたのだ。
「言い訳になるけど、あれ、もともと全員で出る予定だったんだよ。でも……」
彩瑛が、手の中のマグカップを見つめながら言う。
「リハの時点で、優音はもう気持ちが切れてた。美晴も、来るには来てくれてたけど……正直、半分くらい心がそこになかった。咲も、たぶん、気づいてたと思う。だから、自分でやるしかないって、すごく頑張ってた」
記憶が蘇る。冷たい撮影スタジオ。リハーサル中の空気。笑わなくなった咲。優音の無表情。私は、カメラのレンズをまともに見られなかった。
「撮影のときは、一応全員いたよね。なのに、出来上がったMVには……私たち、いなかった」
「……あれね、スタッフが急遽編集を変えたの。演出の人が、“この三人でのほうが映える”って言い出して。咲がちょうど光りはじめてたし、絵的にも良かったんだと思う。でも、それが決まったとき……咲、めっちゃ泣いてた」
「……泣いてた?」
「うん。映ることになったのに、”なんで?”って言ってた。多分、違う理由で泣いてたんだと思う」
私たちはそのとき、咲の涙の理由を理解できなかった。いや、見ようとしなかった。咲だけが、ステージに残される形になったMV。私と優音は、もうすでに心がそこにはなかった。咲は、ずっと気づいてたんだ。私たちが、離れ始めてることを。
あの日々は、思い出そうとしなくても、身体のどこかに残っている。カフェの空調が効いているのに、背筋を汗が伝うような感覚がしたのは、彩瑛の言葉に背後の記憶が引き出されていくからだった。
「咲、変わってたよ。あの頃の咲は、なんていうか……」
彩瑛はスプーンでカップのフチをなぞりながら、慎重に言葉を探すように続けた。
「無理して明るくしてた。周りから見たら、むしろ“頑張ってるな”って思われてたと思う。でも私はずっと隣にいたから、わかった。あの子、どこかで焦ってた。自分だけ、何かに取り残されるって……」
美晴は口をつぐんだまま、彩瑛の横顔を見つめた。ふだんより少し前髪が伸びていて、伏し目がちになるたびに瞼が影に隠れる。その表情に、かつて控えめだった少女の面影を見た気がした。
「あのMV撮影の頃って……たしか、私と優音が休養に入って、ちょっとしてからだよね?」
「うん。正確には、二人が“活動休止”という形を取った直後だった。Luminousは三人で残ることになって、事務所としては一応続けるつもりだったけど……正直、現場は微妙だったよ」
「微妙?」
「空気が、っていうか、咲のテンションが異常だったの。むしろ無理に明るくしてたって、さっき言ったけど……今思うと、自分を騙してたのかもしれない。“まだグループは続いてる”って信じたくて、夢中でその現実を作ろうとしてた感じ」
彩瑛の目が、グラスの水滴を指で追いながら遠くを見ていた。まるで、その時のスタジオを今、目の前に再現しているかのようだった。
「最初のMVは、正直、咲が提案してきたの。“三人だけでも、今できる形でやろう”って。正直、私も迷った。でも、あの子の目を見たら断れなかった。すごい熱だったから」
「それが……ネットに残ってた映像?」
「そう。SNSで見かけたんだよね、美晴が言ってたの。あれは、たしかに公式のアカウントから投稿されたやつで、三人バージョン。しかも、ファンの編集でちょっと綺麗にされて拡散されてた。だから再生数が増えてたんだと思う」
美晴はうなずく。咲の姿を初めて見た時、あまりにも強く輝いていたから、まるでそこに嘘がないように見えた。でも、彩瑛の語る「焦り」や「空元気」の話を聞くと、裏側にある歪みにようやく視線が届く。
「そのあと、実はもう一本MVが撮られたんだ。そっちは、あなたと優音が参加してたやつ。……でも」
「……うん。カットされた」
その言葉に、どちらからともなく小さく笑ってしまった。冗談ではなく、妙に現実的で、皮肉が効いている話だったから。
「なんで……カットされたのかな」
「たぶん、会社の方針じゃない?”新生Luminous”って形を整えたかったんだと思う。あのとき、美晴たちがもう戻らないって空気が強くなってて、咲はそれでもなお、“まだ続けたい”って言ってた。だから……」
「いないものとして扱った?」
言葉にしてから、喉がひりついた。あの映像の中に、自分が存在しなかった理由。それが、過去を否定されるような感覚を呼び起こしていた。
「ねえ、彩瑛。あの時、咲って──私たちが抜けたこと、どう思ってたのかな」
「言葉にはしなかった。でも、たぶん……」
彩瑛は唇を噛んで、少し間を置いた。
「寂しがってたよ。でも、それを素直に言えない子だったから。むしろ、自分がLuminousを支えなきゃって思ってた。周りが抜けても、咲さえいれば大丈夫だって、そう思い込もうとしてたのかも」
その姿は、どこか昔の自分に似ていると思った。立ち止まることが怖くて、ずっと走り続けていた頃。周囲の期待を裏切りたくなくて、常に“前だけ見てるアイドル”を演じていた時代。
「咲は、強かった?」
「ううん、逆。……すごく、弱かったよ」
即答だった。その言葉に、美晴の中で何かが解ける音がした。咲は、最年少だった。途中加入で、必死にグループに馴染もうとしていた子。その彼女が、全員が去ったあともひとりで背負おうとしていたなんて……。
「彩瑛、あのとき、何か気づいてた? 咲の異変とか、兆しみたいなもの」
そう聞いた瞬間、彩瑛の指が止まり、軽く眉が寄った。
「……実はね、撮影の最後のあたりで、一度だけ泣いてたんだ。控え室で。誰もいないと思ってたのか、背中向けて声殺してた。私、偶然それを見ちゃって。声をかけようとしたんだけど……」
「かけられなかった?」
「うん。咲、すぐに笑って“コンタクト落としただけ”って言ってて」
美晴は、胸が詰まるのを感じた。咲の「笑顔」は、本当に最後まで、誰かの前でだけ貼りついていたものだったのかもしれない。
「それが、最後の現場だった」
彩瑛は言った。
「あれから、連絡が取れなくなったの。SNSも更新止まって、マネージャーも“連絡がつかない”って言ってて。そのうち、Luminous自体が自然消滅って形になって……」
失われていったグループの記憶。表舞台から静かに消えていった咲の存在。そのすべてが、MVの断片だけを残して、ネットに漂っている。
「私……」
美晴が口を開いた。
「今になって、やっと知ることばっかりだよ。あのとき、もっと見ていればよかった。ずっと、隣にいたのに」
彩瑛は、美晴の手元にあるカップをそっと指で押し寄せて、彼女を見つめた。
「でも、今からだって遅くないと思う。咲のこと、探してみようよ」
3
彩瑛と会った日から、美晴は眠りが浅くなった。あの日、二人で話した内容が頭の中で反芻されては、夜の静けさにまぎれて何度も形を変えて蘇ってくる。
「咲……どこまで、わかってたのかな」
MV撮影の終盤、彼女が見せたあの一瞬の表情。言葉にはしなかったけれど、彩瑛が語ったあの時の咲の様子は、美晴の記憶のなかで曖昧にしていた違和感と重なっていた。
MVは、解散が決まる直前の数日間で撮影された。すでに、美晴と優音は卒業を運営から告げられていた。正式な発表はまだだったけれど、MVの構成にもすでにその前提が反映されていた。咲、彩瑛、紗月の三人がメインで、他の二人はほとんど映らないように編集された、いわば「次のLuminous」を想定した布陣だった。
撮影の現場で、美晴はどこか居場所がないような気持ちになっていた。優音もまた同じだったのか、控室ではほとんど口を開かず、撮影の合間もスマートフォンを見ては無言で頷くばかりだった。
「このカット、もう少し前に出てください」
カメラマンにそう言われたとき、少しだけ前に出ようとした美晴の肩を、咲が静かに制した。
無理に、ではなく。さりげなく、でもはっきりと。そのときの咲の表情。目は笑っていたけれど、笑いすぎていた。
彩瑛もそれを見ていた。
「咲、最近ちょっと無理してるように見えるって、私、あのとき思ってた」と彩瑛は言った。
でもそれ以上は、誰にも言えなかったのだと。
今になって、美晴はわかる。咲はあのとき、なにかを感じ取っていたのだ。自分と優音が、すでに「終わり」に向かって動き出していることを。その上で、何かを必死に保とうとしていたのかもしれない。
撮影の最後のシーン、咲がセンターでひとり手を伸ばす場面があった。舞台の中央で、まぶしい照明を浴びながら、未来に向かって手を伸ばす。そんな意味を込めた演出だった。けれど、そのときの咲の目は、カメラの奥を見ていなかった。伸ばした手は、まるで、そこにいない誰かを探しているように、美晴には見えた。
翌日、美晴は思い切って、当時のMV撮影データを改めて見直してみることにした。手がかりを探したいという気持ちもあったし、自分の記憶をもう一度整理してみたかった。Luminous解散から数年が経った今も、ファンたちがアップロードした当時の映像は、ネットの片隅にひっそりと残っている。運営による削除も何度かあったが、それをすり抜けているコピーがいくつか生きていた。
一つ目に見つけた動画は、グループの終盤期に撮られたとされる非公式のMVで、美晴と優音が活動から徐々に離れ始めていた頃のものだった。映像には、咲・彩瑛・紗月の三人だけが映っていた。明らかに「次の体制」での撮影だったのだろう。画質は少し粗く、音も少し割れていたが、三人の動きは生き生きとしていて、どこか必死でもあった。咲はセンターで歌い踊っていた。その姿は完璧で、表情も明るく、カメラの向こう側を強く見据えていたように見えた。だが、ひとつひとつの動作がやや過剰で、不自然なまでに完璧さに拘っているような印象を残した。
「追い込まれてたのかな……」
呟いた声が、自室の静けさに溶けた。
次の動画をクリックする指が、ほんの少し震えていた。二本目の動画は、もっと後にアップロードされたものだった。これは当初公開されず、のちに「関係者リーク」と噂された編集前の素材だった。タイトルには「未編集ver」と記されている。咲、彩瑛、紗月の三人がメインのフォーメーション。だがその端に、一瞬だけ、美晴と優音の姿が映るカットがあった。ステージ奥の立ち位置。メインではない。カメラの焦点も合っていない。それでも、美晴はすぐにわかった。あれは、自分たちだった。かつての自分が、ほんのわずか数秒だけ映っている。それだけのことなのに、胸が締めつけられるようだった。
しかもそのとき、美晴の視線はどこか遠くを見ていた。カメラを見ていない。誰も見ていない。ただ、終わりを知っている者の目だった。
……そして、その視線の先に咲がいた。咲は、美晴のことを見ていた。はっきりと。たった一瞬、歌の合間に、視線を送っていた。その目が、すべてを語っているように感じられた。
──どうして、黙ってたの?
──どうして、何も言ってくれなかったの?
そんな声が聞こえる気がして、美晴は動画を止めた。画面が暗転し、部屋の静けさが戻ってくる。
その一瞬の目線が、咲の最後の「サイン」だったのかもしれない。映像を止めたあとも、美晴はしばらく椅子に座ったまま、動けなかった。たった一瞬の視線が、あまりにも重かった。
咲はあのとき、何を思っていたのだろう。なぜ、美晴を見ていたのか。
思い出そうとすると、映像よりももっとリアルな記憶が甦ってくる。MV撮影の合間に交わした会話、交わされなかった言葉、現場の空気。特に最後の撮影期間、グループの崩壊が加速していたあの数週間は、記憶の底に重たく沈んでいる。
***
撮影期間中、美晴は以前ほど現場にいなかった。大学のレポート、バイト、体調不良……理由はいろいろあった。だが、本当の理由は違う。すでに気持ちが、Luminousという場所から離れ始めていたのだ。
「もう、終わりが見えてる気がするんだよね……」
当時、優音がポツリと漏らした言葉が、妙に鮮明に残っている。優音もまた、ソロ活動への意欲を強めていた。そして、運営もそれを後押ししていた。ふたりの距離は徐々に広がり、グループで過ごす時間はどこか義務的になっていった。
だが、その一方で。
「じゃあ、私たちはどうすればいいの?」
咲の声を直接聞いたわけではなかった。けれど、全身でそう問いかけられているような空気が、現場にはあった。
リハーサルの最中、咲は何度もフォーメーションを確認していた。一見、熱心に見えるその姿は、実際には焦りの裏返しだった。メンバーが減った分、ダンス構成も歌割りも変更され、咲が一気にセンターに引き上げられた。
「咲、大丈夫? ちょっと休んでもいいよ」
彩瑛がそう声をかけた日もあった。そのとき、咲は珍しく言葉を返さなかった。ただ無言でうなずき、控え室へ向かった背中が、妙に小さく見えた。
──私たちが抜けて、その重さが全部咲に行ったんだ。
美晴は今になって、そのことに思い至る。自分が、優音が、少しずつ距離を置き始めたことで、咲にかかる負担は計り知れなかった。
「頑張ってるよね、咲」
「ほんと。最近、前よりずっといい顔してる気がする」
当時、ファンの間ではそういう声も出ていた。けれど、美晴の目には、咲の表情はどこか貼りつけたように見えた。「いい顔」をしていなきゃ、立っていられないだけだったのかもしれない。
──あのとき、声をかけていれば。
──もう少し、ちゃんと見ていれば。
画面越しに見た一瞬の視線は、まるで過去からの問いかけだった。美晴のなかで、かつての記憶が組み替えられていく。MV撮影の終盤、全体の構成が一気に決まった。「この曲の主軸は咲でいこう」という決定は、スタッフ側から突然通達されたものだった。その場には美晴も優音もいたが、特に反論は出なかった。
「……そうだね」
そのとき美晴は、そう言ってしまった。今思えば、それは咲を守る言葉ではなく、自分を守るための逃げ言葉だった。
その頃にはすでに、美晴も優音も、グループとしての未来をどこかで諦めていた。「誰がセンターでも、もう関係ない」という無関心が、空気に混じっていた。だが、それを受け取ったのは、咲だった。それまでもずっと後列にいて、自分のパートを削られてきた咲。突然「センターだ」と告げられ、その重みをひとりで背負わされることになった。
「私、ちゃんとできてるのかな」
撮影3日目の夜、ホテルの廊下で咲がぽつりと呟いたのを覚えている。その声はあまりにも小さくて、美晴はどう返せばいいのか分からなかった。
「うん、大丈夫だよ」
とりあえずそう言って、美晴はすぐに自分の部屋に戻った。咲の不安に真正面から向き合う勇気が、もう残っていなかった。あのとき、咲の頬が少し濡れていたような気がする。だが、それさえも「きっと気のせいだ」と思い込むようにして、記憶の奥に閉じ込めていた。
撮影の最終日。朝から現場は妙に静かだった。スタッフの数は減り、演出も最低限に削られていた。
「最初に決めた構成で、OK出たから。追加のカットはナシで」
ディレクターが淡々とそう告げる。もともと予定されていたカットのいくつか—たとえば、美晴と咲のツーショットシーン—はカットされた。
「まあ、今さらね」
優音がそうぼやいたとき、美晴は無理に笑ってごまかした。
けれど咲だけは、その言葉に表情を変えなかった。まるで、何かが完全に削ぎ落とされたように。カメラの前では、咲は完璧に振る舞っていた。指先の動き、目線、リズムの取り方。すべてが計算されていた。けれど、編集されたMVの中では、咲のその完璧さが、どこか浮いていた。ひとりだけ、別の空間にいるように見えた。それは今の美晴が見返しても、明らかだった。
──あれは、私たちから遠ざかる咲の背中だったんだ。
***
MVを見返した翌日、美晴は再び彩瑛に会いに行った。駅前のカフェで少し話してから一緒に歩き、彩瑛の案内で小さなダンススタジオにたどり着いた。二階建ての古いビルの一室。外の喧騒が嘘のように、静かだった。作業机には振付用のスコアやノートPC、古びたスピーカーが積まれていた。部屋の隅には、レッスン帰りの子どもたちが履いていたらしい色とりどりのスニーカー。暮らしと仕事と過去が、まるでひとつの空間に同居しているようだった。
美晴は机の前に立ち、迷いながら口を開いた。
「……昨日、帰ってからMVを見返したの」
彩瑛は振り向かず、黙っていた。
「やっぱり、最後の咲、なんか変だったよね?」
「うん」
彼女はゆっくりと立ち上がり、机の脇に置かれたバッグからスマートフォンを取り出した。数回スワイプした後、画面を見せてくる。
「これ、撮影の最後のほうで撮った写真」
そこには、カメラの死角でふと笑った咲の横顔が映っていた。ステージ衣装のまま、ライトの届かない片隅で一人きり。笑っているのに、その目は何も映していなかった。
「なんかさ、咲って……最後の数日、ずっとこの顔してた気がする」
「笑ってるのに、ひとりなんだよね」
彩瑛はため息混じりに言った。
「前はさ、誰かが冗談言えば必ず乗ってきて、撮影の合間にも声かけてくれてたじゃん。だけど、終盤は静かだった。なんていうか、やること全部やって、あとは時間が過ぎるの待ってるみたいな」
彩瑛は思い返すように、壁に貼られたスケジュールボードに目をやった。
「そういえば、咲が帰るの、いつも一番最後だった」
「私たちが先に帰ってたから……?」
美晴がぽつりと漏らすと、彩瑛は首を振った。
「いや、それもあるけど……最後の日ね、スタッフみんな帰ってから、私が忘れ物取りに戻ったの。そのとき、咲がひとりでリハやってた。もう撮影は終わったのに、何度も繰り返して」
「……どういうこと?」
「振付とかじゃない。ポジションも表情も完璧だった。でも、それでも何かが足りないみたいに、延々と繰り返してた。まるで、何かをやり直そうとしてるみたいに」
美晴は言葉を失った。映像の中で感じたあの違和感は、やはり気のせいではなかったのだ。
「そのとき咲、何か言ってた?」
「ううん。私が『もう終わったよ』って言ったら、『うん、知ってる』って笑って、それだけ。あのときの笑顔も、さっきの写真と同じだった」
美晴は胸の奥がざわつくのを感じていた。MVに映っていた咲は、完璧だった。だけど、その完璧さは、どこか決別のようにも見えた。まるで、自分たちから心だけを切り離して、そこに形だけを残していたような。
「ねえ、美晴」
彩瑛が小さな声で言った。
「咲が突然いなくなった理由って、きっと“事件”だけじゃないと思う」
美晴は、思わず息をのんだ。
「何か、もっと根っこの部分に、私たちとの距離があったんじゃないかって。たとえば、優音のこととか。……それに、美晴が少しずつ前に出なくなったこととか」
「……そんなつもりじゃなかった」
思わず漏れた声に、自分でも驚いた。咲と距離ができた実感はなかった。むしろ、気づいたときにはもう……。
「でも、気づかなかったんだよね。咲が、私たちの背中ばかり見ていたことに」
「見られてるって、思ってなかった」
ふたりのあいだに、短い沈黙が流れた。
「咲のこと、もう少し調べてみようと思う」
美晴の声は、ささやくように静かだった。
「失踪の理由、本当の意味でちゃんと向き合わないと、あの子、ずっとあのMVの中に閉じ込められたままな気がするから」
彩瑛は黙ってうなずいた。窓の外では、夕方の光が街を赤く染め始めていた。
その夜、美晴は一人でホテルの部屋に戻った。東京の夜景はどこか現実味がなく、窓越しの光がただ遠くで瞬いているようだった。見慣れたはずの景色なのに、今はやけに孤独に感じる。
ベッドに腰を下ろし、ふたたびスマートフォンを手に取る。咲が写っている最後の写真を思い出して、検索アプリを立ち上げる。試しにグループ名で検索してみると、案の定、いくつかのMVや切り抜き動画が出てきた。中にはファン編集のまとめ動画や、過去のライブ映像まである。
その中のひとつ、解散前最後に公開されたMVをタップする。画面の向こうで、あの頃の自分たちが踊っている。けれど、どこか違って見える。フォーメーション、表情、目線の流れ……すべてが整っているはずなのに、咲だけが“そこにいない”ように感じた。咲は踊っている。歌っている。笑っている。なのに、その笑顔のどこかが、ずっと遠い。まるで、彼女だけが違う時間軸にいるようだった。
──どうして、もっと早く気づけなかったんだろう。
喉の奥が苦しかった。咲は、あのMVの中でずっと何かを訴えていたのかもしれない。完璧に演じながら、切り離される自分を必死に繋ぎとめようとしていたのかもしれない。
ベッドサイドの小さなライトの下で、ひとつひとつの記憶が結び直されていく。たとえば、撮影中にふと見せた咲の無表情。たとえば、台本にはないはずのリテイクに、誰よりも固執していた姿。たとえば、撮影後、真っ先に楽屋を出ていく背中。思い出そうとすればするほど、見落としていた異変が、点と点で繋がっていく。
私たちが、咲をひとりにしたのかもしれない。それは決して、誰かが悪かったという話ではなかった。解散が決まり、優音は新しい事務所へと進み、美晴自身も表舞台から距離を置こうとしていた。咲がそれをどう受け止めていたのか、誰も真正面から聞こうとしなかった。
「ちゃんとやってるように見えたから」
「本人は、何も言わなかったから」
けれど、その沈黙こそが、咲のサインだったのではないか。
スマートフォンを置いて、美晴は立ち上がった。部屋の中を何度も往復する。何かしなければ、という焦燥が胸をせり上がってくる。けれど、焦っても答えは出ない。時間だけが過ぎていく。
ふと、ベッドの脇に置いたノートに目をやった。昨日、彩瑛と別れたあと、咲に関する記憶や気づいたことを思いつくままに書き留めていたメモ帳だ。中途半端な走り書きの中に、ある名前があった。
──高峰紗月。
咲と、最後に個人的に連絡を取っていたかもしれない相手。誰よりも自然に咲と接していた、あの頃の親友。何か、まだ自分が知らないことがある気がした。咲のことを理解するには、あの時代の空白を埋めるしかない。
美晴は携帯を取り、通話アプリを開いた。履歴の一番上にある名前を、指先で軽くタップする。コール音が数回鳴ったあと。
「……もしもし?」
受話器の向こうから聞こえたのは、少し眠たげな、それでいて懐かしい声だった。
「紗月……久しぶり」
声をかけた瞬間、胸の奥にしまいこんでいた記憶の扉が、静かに開いた気がした。
4
窓の外で風が吹いていた。夏が過ぎたばかりのはずなのに、どこか肌寒く感じる。美晴はソファにもたれながら、タブレットを胸に抱いたまま天井を見上げていた。
──やっぱり、私だけいなかった。
MVを繰り返し見返して、はっきりとわかった。あの動画に映っていたのは、咲、彩瑛、そして優音だった。たしかに自分もその場にはいた。撮影にも参加した。けれど、編集された映像の中では、自分の存在だけが、どこかあいまいに処理されていた。顔が映らないカット、遠景、あるいは完全に不在のシーン。
最初は偶然かと思った。けれど、二本目の動画も同じだった。カットされたのは、美晴と優音。
「……なんで、あんなことになったんだろうね」
つぶやいても、部屋は黙っていた。けど、映像のなかの咲は、ずっと笑っていた。あの日の撮影で、最後まで一人で笑って踊っていた咲の姿が、やけにリアルによみがえる。私たちは、咲を支えきれなかった。いや、それ以前に、咲の異変に誰も気づけなかったんだ。
彩瑛が見せてくれたスマホの中の写真、あれが決定的だった。咲が、MVの撮影期間中に、密かに書いていたノート。映っていたページには「これが終わったら、全部やめる」と手書きで記されていた。そのノートの写真を、美晴は今もスクリーンショットで保存している。見返すたび、喉が苦しくなる。
──咲は、気づいてほしかったのかな。
あんな風に、完璧な振りで笑っていた咲。けれど、その裏で、何かが静かに崩れていた。
「咲は、私たちの何を見てたんだろう」
誰に聞くでもなく、またつぶやく。
気づけば、あれから何年も経っていた。咲がいなくなって、優音が売れ始めて、自分が芸能から距離を取って。それでも、まだ終わってない。まだ、何かが残っている。そんな気がしていた。
美晴はバッグからスマホを取り出した。指が、ある名前の連絡先へ向かいかけて止まる。
──優音。
連絡先は、まだ消していなかった。最後に通話したのは、たぶん二年以上前。画面を見つめる美晴の目が、一瞬だけ揺れた。そのとき、不意にメッセージアプリの通知が画面に浮かぶ。
「元気にしてる? 久しぶりに声が聞きたくなって」
送信者は、高峰紗月。かつて、唯一自然に話せたあのメンバーだった。




