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第二章 一歩

 

 その動画を見たのは、なんでもない土曜の深夜だった。

 気晴らしに開いたSNSのタイムラインに、誰かがシェアしたリンクがぽつんと流れてきた。

《「Luminous」非公式アーカイブ / パフォーマンスまとめ》

 再生数:12万回。

 投稿日:1週間前。

 

「Luminous」──その名前を見ただけで、心臓が跳ねた。指先が止まる。呼吸が浅くなる。しばらく画面を見つめたまま、動けなかった。

 美晴は一人だった。部屋は暗く、キッチンの蛍光灯だけがぼんやり光っている。コップの水はぬるく、エアコンは切ったまま。どこからか聞こえてくる隣人の笑い声が、やけに耳に残る。なのに、自分の中だけ、時間が止まっていた。

「……なに、これ」

 クリックするつもりなんて、なかった。でも、指が勝手に再生ボタンに触れた。画面が切り替わり、ステージが映る。ライトの中にいた。自分たちが。あの頃の、自分たちが。いや、"三人"だけが。

──それは、解散のずっと前、咲が失踪する直前に撮影された映像だった。

 あの頃、まだ5人は揃っていたが、美晴と優音はグループの活動に距離を置き始めていた。咲の失踪がきっかけで、グループは次第に崩れていった。やがて、美晴と優音はそれぞれの道を歩むことを決め、紗月と彩瑛も離れていった。いま目の前に映る彼女たちは、あの頃の光そのものだった。そして、いまはそれぞれが別の場所で、それぞれの光を探している。

 

 動画に最初に映ったのは、咲だった。中央で堂々と歌っている。迷いのない表情で、まっすぐ前を見据えた視線。変わってない。あの頃と、なにも。続いて彩瑛。相変わらず姿勢がよくて、指先まで丁寧に動いてる。歌詞のひとつひとつに感情を込めるのが上手い。表情に温度がある。そして紗月。ほんの少しだけ笑っていた。その微笑みには、どこか距離があった。割り切っているような、過去と今とをしっかり線引きしているような顔だった。それでも、3人はステージで輝いていた。ちゃんと拍手を受けていた。歓声が飛んでいた。ペンライトの海の中、笑顔で手を振っていた。

 でも、そこに優音の姿はなかった。センターとしてグループを牽引していたはずの、あの強く眩しい存在が。いまも芸能界にいて、むしろ一番売れているはずの彼女が。そして、美晴もいなかった。画面のどこにも、二人の姿はなかった。まるで、最初から存在していなかったかのように。タグにも名前はない。紹介文にも触れられていない。コメント欄を見ても、誰も言及していない。話題にしてはいけないもののように、徹底して避けられている。わたしたちは、いなかったことにされている。

 画面の下にあるコメント欄を指でなぞる。

「咲ちゃん、変わらず可愛いね!」

「彩瑛ちゃんのダンス、神がかってる」

「紗月はやっぱりプロだわ」

 一方で、優音や美晴の名前は、どこにも見当たらなかった。ちらほらと、「優音はどうして映ってないの?」という疑問を投げかける書き込みもあったが、すぐに返信がついて消されているようだった。“権利の問題”だとか、“本人の意向”だとか、うわべだけの理由が並ぶ。けれど、それだけでは説明のつかない空気が確かにある。

 思い出す。優音は、あの頃から負けず嫌いで強気だった。自分の居場所を誰よりも欲していた。なのに今、映像から切り離されている。そして私。私もまた、あのステージから、記録から、そして記憶の中からも薄れていく存在になっている。

 心を、おおきなモヤモヤが覆いつくす。なぜ自分だけが、こんなにも居場所を奪われてしまったのだろう。誰にも聞けない。聞いたところで、答えは返ってこないだろう。けれど、確かなことがひとつだけある。私たちは、—光になれなかった—から。

「……そっか」

 ふと、言葉が漏れた。誰にも聞こえない、自分だけの独り言。どこかで予感していた。こうなるかもしれないって。彼女たちだけが残る、そんな未来が来るかもしれないって。でも、いざ目の前に突きつけられると、こんなにも心が痛むのかと思った。

 動画は続いていた。また別の過去のステージ映像。それは美晴も間違いなくいたはずのステージだ。衣装も、セトリも、記憶にある。でもカットされていた。最初から、"いなかったように"。編集されていた。あの頃の自分が、世界からそっと切り離されている。それは、"否定"ではなかった。もっと静かで、やさしいふりをした削除だった。




     2


 翌朝。目覚めたのは昼近くだった。スマホを見ても、通知はほとんどない。唯一、母からのLINEが一件。「お米買っておいたよ」だけ。ベッドの上で、しばらく天井を見つめていた。脳裏に焼き付いた動画の残像が、まだ消えない。目を閉じると、咲たちの姿がくっきり浮かぶ。今でも、ちゃんと覚えてる。初めて咲を見たときのこと。

 あれは、二次審査の控室だった。他の子たちが緊張で縮こまってる中、咲は一人だけリラックスしていた。まっすぐ背筋を伸ばして、スマホを触っていた。その姿だけが、やけに目に焼き付いた。声をかけたのは、自分からだった。

「……緊張しないの?」

「するよ? でも、緊張してるって顔に出すの、なんかもったいない気がしてさ」

 そう言って笑った咲は、まるで最初から主役の風格を纏っていた。自信家というのとは違う。自分の場所を最初から知っている人間だけが持つ、重さと明るさの混じったオーラ。そのとき美晴は思ったのだ。この子は、きっと光の中に行く。その隣に立てたら、どんなに眩しいだろうって。

 彩瑛とは、ダンスレッスンの初日で出会った。遅れてきたくせに、誰より先に鏡の前を陣取っていた。初対面なのに、妙に馴れ馴れしくて、いきなり「ねえねえ、昨日審査いた? なんか踊ってたよね?」なんて話しかけてきた。あっけにとられていると、「いや~、うちリズム感だけでここまで来たからさ、マジで不安なんだよね〜」と笑いながらバウンスして見せる。

「でもさ、アイドルってさ、みんなの希望でしょ?」

「だからさ、笑ってたほうがいいじゃん? うちはそれで受かったと思ってるよ〜」

 彩瑛の言葉は軽くて、でも不思議と真っ直ぐだった。その明るさに、美晴は少しだけ救われた気がした。自分には、自信なんてなかった。なにか突出してできることもなかった。でも、「この中の誰かと一緒にいたい」という気持ちだけは、誰にも負けないと信じていた。

 じゃあどうして今、自分は一人なんだろう。なんで、あの動画に映っていなかったんだろう。パジャマのまま、キッチンに立ち、水を飲む。部屋の時計がカチカチと静かに刻む音だけが、空気の中を支配していた。

「……光になれなかったんだよね、私たち」

 美晴はつぶやいた。その言葉は、どこにも届かなかった。たぶん誰も悪くなかった。そう思いたかった。でも、あの動画に映っていた咲たちの笑顔はあまりに鮮明で、その光の中に自分がいなかったことだけが、どうしようもなく事実として突き刺さってくる。彼女たちは、ちゃんと夢を叶えていた。自分だけが、あの頃を置いてきぼりにされたままのような気がした。

 

 昼過ぎ。スマホの通知音が何度も鳴った。

 眠気と虚無の中でベッドに沈んでいた美晴は、ようやく重い身体を起こしてLINEを開いた。送り主は、大学時代の友人である麻子だった。

「見た!? めっちゃバズってるじゃんあの動画」

「#Luminous復活ってタグ付いてんの、泣ける…」

 返信しようとした指が止まった。

「てか美晴出てなかったけど、関係ない人が作ったの?」

 その一文で、胸の奥が縮こまる。

「ねえ、出てないのなんで?」

「……もう連絡とってない感じ?」

──出てないのなんで?

 そう。なんでなのか、自分にもよくわかっていなかった。自然消滅、という言葉でまとめられるようなことじゃない。それぞれが違う方向を向き始めていた。卒業も、解散も、活動休止の言葉もなかった。ただ、スケジュールが減って、レッスンがなくなって、連絡も途絶えた。気づいたときには、美晴の手元には何も残っていなかった。

「ねえ、久々に飲まない?」

 麻子からの誘いは、救いのように感じられた。

 その日の夜、二人は大学近くの安い居酒屋で向かい合っていた。コロナ禍が明けたあともずっと残っていた店。学生時代、何度も語り合った場所。

「マジでさ、Luminousって今なら再評価されるって思ってたよ?」

 麻子はそう言いながら、ポテトを口に放り込む。

「正直、最後の頃ってバズりとか数字ばっか気にされてたし、運営も無理に路線変えさせたりしてたじゃん。今の空気って、逆に“あの頃の空気感がいい”ってなるじゃん? 映像の質感とか、雰囲気とか、歌詞とか」

 美晴は、氷の溶けかけたグラスを見つめたまま、頷いた。

「あの動画の投稿者さ、“10代の頃に好きだったLuminous”って書いてて、それ読んだ瞬間ちょっと泣きそうになったんだよね。そういう子が、今もう大学生とか社会人なんだよ。時間の流れって残酷なくらい早いね」

 麻子の口調は軽いけれど、その言葉にはどこか切実さが滲んでいた。

「……咲たちには連絡してないの?」

「……ううん、してない」

 麻子がトイレに立ったあと、美晴はふと、スマホを開いた。Ⅹで、「#Luminous復活」を検索する。

 タイムラインは、静かな熱狂に包まれていた。

「この頃のLuminousがいちばん好きだった」

「“願いのゆくえ”のこの振付、泣ける」

「咲ちゃんの表情がもう、神がかってる」

「彩瑛の笑顔って、ほんと救われる……」

 見知らぬアカウントの熱量が、画面越しにびりびりと伝わってくる。あの頃、誰かの“推し”だった彼女たちが、こんなにも今、記憶の中で輝いている。そして、そこに自分の名前は、どこにもなかった。

「美晴ちゃん、出てなかったよね?」

「昔5人だった気がするけど……誰だっけ?」

「辞めた子、名前なんだっけ……?」

 その言葉は、ナイフのように鋭く、容赦なかった。美晴は、画面をそっと閉じた。氷の溶けたグラスを、口に運ぶ。炭酸の抜けたカクテルは、まるで時間を置いた悔しさの味がした。

 帰り道、気づけばひとりでカラオケに入っていた。終電にはまだ少し早い時間。駅前のビルの最上階、懐かしい紫色のネオンが、ぼんやりと雨ににじんでいた。

 受付で機械的に「おひとりさまですか?」と聞かれ、頷く。イヤホンも繋がず、ドリンクバーのコップも取らず、部屋に直行する。狭い防音室。壁には古びたライブポスターがいくつか貼られている。

 美晴はソファに座り、リモコンで曲名を検索した。

「──“願いのゆくえ”」

 それは、Luminousにとって最後のシングルだった。ライブでは何度も歌った。テレビでも披露したし、MVも作られた。美晴にとっても、最も思い入れのある一曲だった。

 イントロが流れる。静かなピアノの旋律。画面には、MVの映像が流れる。そこに映るのは、咲の強い眼差し。彩瑛のしなやかなダンス。そして、紗月の涙のような笑顔。

 自分は、いない。映像編集の都合?意図的なカット?それとも、最初から自分は、いなかったことにされているのか。マイクを握る手が、少しだけ震えた。

 そして歌い出す。

「……あの日の空に、置いてきたまま……」

 リモコンの音量調整を触るのも忘れて、音程も取れないまま、ただ声を出した。歌うほどに、喉の奥が詰まっていく。想いが、過去が、悔しさが、ぶわっと押し寄せる。

──“あの頃、私なにを目指していたんだっけ”。

 泣きたいわけじゃないのに、涙が出た。今さらどうにもならないことだ。わかってる。誰が悪いわけでもない。それでも、歌い終えた瞬間、ただ息が乱れて、マイクを抱きしめて、うずくまった。

 ……数年前。Luminousが結成されて間もない頃。小さなライブハウスの控室で、美晴は咲に聞かれた。

「ねえ、美晴ちゃんはなんでアイドルになったの?」

 化粧も覚えたてで、衣装も借り物ばかりだった頃だ。まだファンも少なく、舞台のライトも、手作りのように頼りなかった。

「んー……昔、すっごい好きだったグループがいてさ」

「うん」

「その子たちが歌ってるときだけは、自分の全部が肯定されてるような気がしてたの。テストの点とか、友だちとの距離感とか、親の期待とか、ぜんぶ気にせず“好き”って思えたの。それが、たぶん……はじめてだった」

「——うん」

「だから、今度は私が、そういう存在になりたかった。いつか誰かの逃げ場所になれたらって思ってた。……ね、青臭いでしょ?」

「ううん。いいと思うよ。……ちゃんと、届いてたよ。きっと」

 咲はそう言って、ポンと美晴の肩を叩いた。それが優しさだったことを、美晴はずっとあとになってから知った。でも、届いていたのなら、どうして自分だけ、あの映像にいないのだろう。どうして、自分だけが、思い出の外側に置かれてしまったのだろう。

 カラオケの映像が終わると、モニターには「次の曲を入れてください」の文字が淡々と表示された。美晴は、何もせず、ただしばらくその画面を眺めていた。

「……ねえ、咲ちゃん」

 声に出すと、また涙が出そうになって、慌てて口を押さえた。

「なんで、私、いなかったの?」


 


     3

 

 カラオケを出ると、深夜の街はすっかり人影がまばらだった。駅へ向かう途中、ふと目に入ったのは、古びたCDショップのショーウインドウだった。そこには、Luminousのポスターや写真が貼られている。薄暗い照明の下、色あせた文字や笑顔が、ひっそりと輝いていた。

──「また会えるって、信じてるよ」

 ポスターの端に、咲の声が遠くで聞こえるような気がした。その言葉の後ろには、彩瑛と紗月の姿。けれど、やはりそこに自分はいない。

 傘を差さずに歩いた。何度も開いては閉じた連絡帳の画面。その中に、「咲」という名前はまだ残っていた。最後にやり取りしたのは、一年以上前。グループが解散してすぐ、みんなが別々の道を歩き始めた頃。連絡しても、もう意味なんてない。そう思っていた。だけど、もう一度だけ確かめたいと思った。ほんの少しの勇気を出して。スマホを手に、そっとメッセージを打つ。

「動画、見たよ。今、少しだけ話せないかな?」

 その夜、咲から返信が来たのは午前3時を過ぎた頃だった。すぐに開いたが、そこにあったのはたった一言。

「……うん。わかってたと思うけど、あれ、私たちが出たかったんじゃないの」

 それがどういう意味か、美晴は一瞬理解できなかった。

 咲の返信は続いた。

「あのMVも、あの企画も、“呼ばれた”んじゃない。“お願いして”出たの。全部、自分たちで動いたんだよ」

「あの頃、声をかけたら……来てくれた?」

 返せなかった。そのメッセージを読みながら、美晴の胸には昔のやりとりが蘇っていた。

 みんなが、解散後もSNSでファンにメッセージを送り、舞台やモデルの仕事に進み、それぞれの形で「まだ続けよう」としていた頃。一方の自分は、それを見ないふりをして、鍵アカに籠り、ただ「終わった」と心の中で閉じていた。失踪から戻った咲も、勇気を振り絞ってファンへメッセージを送っていたのに。

「どうせもう、自分は必要とされてない」と思い込もうとしていた。

 本当は怖かった。

“また一緒にやろう”と言われることも。

“いない方がよかった”と告げられることも。

 咲からの最後のメッセージには、こう書かれていた。

「あの時、本当にまたやりたいって思ってくれたなら、言ってほしかった。待ってたよ、私は」

 朝焼けが始まりかけた頃、美晴はベランダでひとり、ぼんやりと空を眺めていた。何かが劇的に変わったわけでもない。過去が美しく塗り替えられたわけでもない。それでも、どこかで何かが、音を立てて動き出した気がした。

“どうせもう、終わった”と決めつけていた自分自身。

“いないことにされた”と勝手に傷ついていた、自分の弱さ。

 そして、あの光にもう一度触れたいと願っていた、自分の奥底。スマホを開き、連絡先の画面をスクロールする。今度は咲ではなく、もうひとり——彩瑛の名前をタップした。

「彩瑛、元気? 少しだけ、話せない?」

 送信して、画面を閉じる。

 それは、決して”再びアイドル活動を始める”という意味ではなく。かつて、光になれなかった私たちが、それでも自分の歩幅で、過去と向き合い、自分自身の物語を静かに、そして自分の手で終わらせるための、最初の一歩だった。

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