第一章 検索窓
1
その日、特にこれといった出来事があったわけじゃなかった。
定時で仕事を終えて、最寄りのスーパーが珍しく割引シールを貼る前に立ち寄ることができた。
夕飯は適当に、豆腐ときゅうりをあえた副菜と、冷凍していたご飯をチンしてレトルトカレーをかけた。
シャワーを浴びて、髪を乾かしながらスマホを触り、寝る前に少しだけ、明日の天気と電車の遅延情報をチェックして。
本当に、ただそれだけの、平凡な夜。
なのに、気がついたときには、私はスマホの検索窓に名前を打ち込んでいた。
──「Luminous 元メンバー」
──「Luminous 解散理由」
──「小早川咲」
何をするつもりだったのか、自分でもよくわからなかった。
懐かしさというほど穏やかな感情でもなく、ましてや未練とかでもない。
ただ、ふと、身体の奥から指先が勝手に動いたような。そんな感覚。
表示された検索結果の一番上には、まとめサイトのリンクが並んでいた。
「アイドルグループLuminous、今どこに?」
「元メンバーの“その後”を追ってみた」
タイトルの煽りは派手だが、内容は薄い。ほとんどが憶測と噂の寄せ集めだ。
苦笑しながら指を滑らせていくと、下のほうに見慣れないURLがあった。
「luminous-memory.luminer.jp」
個人ブログらしい。ドメイン名は、かつてのluminousファンの愛称だ。
久しぶりの語感に懐かしさを感じる。
でも、更新日を見て私は目を細めた。
三日前。
誰かが、つい最近になって、Luminousのことを思い出している。
その事実が、少しだけ、心をざわつかせた。
《“私たちのLuminous”を覚えていますか?》
ページの一番上には、そんなタイトルが掲げられていた。
背景は地味な灰色。白い文字で、無装飾の文章が淡々と並んでいる。
《もう何年も前のことですが、私はLuminousのファンでした。》
《正直、周囲にはあまり言えなかったけど、彼女たちの歌にはたくさん救われました。》
《今でも、ときどき動画サイトであのライブ映像を見返しています。》
《最近、ふと「今どうしているのかな」と思い、こうしてブログを更新しています。》
文章の一つひとつが、どこか古い手紙みたいだった。
飾らない言葉で綴られた、それでも確かに「想い」が込められているような、そんな感覚。
スクロールすると、いくつかの写真が貼られていた。
画質は荒く、恐らくスマホではない。当時のデジカメやフィーチャーフォンで撮られたものだろう。
でも、そこには確かに、私たちLuminousがいた。
私、美晴。
右奥で中腰になって笑ってるのが、紗枝。
センターで少しうつむいて笑っているのが、咲。
そして、その写真の下に、こう書かれていた。
《私にとって、Luminousは光でした。》
《彼女たちが踊るステージを、もう一度見たいとは言いません。》
《でも、できることなら、彼女たちが今もどこかで元気でいてくれたら……》
胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。
誰にも言われたことがなかった。そんなふうに、心から覚えていてくれた人がいるなんて思いもしなかった。
どこかでずっと、「忘れられていたほうが気が楽だ」と思っていたのに。
私は、スマホのスクリーンに触れたまま、しばらくその言葉を見つめていた。
あの春の日。
咲が突然いなくなった日。
楽屋に荷物だけを残し、誰にも何も言わず、消えるようにいなくなった。
その後、事務所から「活動休止」の発表があり、数ヶ月後には自然消滅のように解散が決まった。
私たちは一言も語らなかったし、誰も真相を知ることはなかった。
それが、Luminousの終わり方だった。
咲が消えた理由も、誰も知らない。
メンバーにも、スタッフにも、家族にも。
「少し疲れていた」とか「プレッシャーが強かった」とか、そんな曖昧な言葉だけが残された。
けれど、私の中にはずっと、ひとつのセリフが残っていた。
「私たちは、光になれると思う?」
咲がぽつりとそう言ったのは、最後のリハーサルの日。
レッスン終わりの楽屋で、誰もが疲れていたあのタイミング。
私は「なれるよ」と、笑って言った。
それが、慰めだったのか、自分への呪文だったのか、今となってはわからない。
ベッドの上、スマホを伏せて、天井を見つめる。
白くて無機質な天井。
そこに、あの頃の咲の顔が、ぼんやりと浮かぶ。
誰よりも真面目で、不器用で、でもステージでは誰よりも輝いていたあの子。
私は再びスマホを手に取り、検索履歴を辿った。
──「小早川咲」
検索候補には、既視感のある言葉が並ぶ。
──「小早川咲 失踪」
──「小早川咲 現在」
──「小早川咲 ファンの証言」
その中に、ひとつだけ、妙に気になる文字列があった。
《@sachiko_k_k》
プロフィール欄は空白。
投稿も一つだけ。
《光にはなれなかっただけです。》
咲?
本人かどうか、確証はどこにもない。
でも、その文章が、あまりにも彼女らしかった。
胸の奥が、再びぎゅっと締めつけられる。
あの言葉が、何度も何度も頭の中をよぎった。
「私たちは、光になれると思う?」
私たちは、光になれなかった。
でも、だからといって、完全に消えてしまったわけじゃない。
それでも、何者にもなれなかったという事実が、私たちを縛っている。
2
次の日。
会社ではミスが続いた。
メールを誤送信し、報告書の数値を間違え、同僚に「どうしたの?」と首をかしげられる。
理由は言えなかった。言葉にできるようなものじゃなかった。
昼休み、再びスマホで「咲」の名前を打ち込む。
今度は、試しにTwitterの検索欄で。
すると、ひとつの投稿が目に入った。
《この人、昔の咲ちゃんにちょっと似てる……気のせい?》
投稿には、後ろ姿だけの女性の写真が添えられていた。
駅のホームらしき場所。マスクと帽子で顔は見えない。
でも、その立ち姿に、私は見覚えがあった。
この投稿には、数件のリプライがついていた。
「たしかに似てるかも」
「咲ちゃんにしては老けすぎでは?」
「でもこの鞄、当時よく使ってたやつだよね?」
身体が震えた。
過去の記憶が、一気に現在へと連れ戻される。
その日の夜、私はもう一度、あのブログにアクセスした。
すると、新しい投稿が上がっていた。
《もしかしたら、また彼女たちの誰かと繋がれるかもしれません。》
《このブログは、そういう記憶の避難所になれたらと思っています。》
記憶の避難所。
その言葉が、なぜだか心に深く刺さった。
もしかしたら、私自身がそこに避難したいと思っていたのかもしれない。
深夜。
私はとうとう、手を伸ばす。
《@sachiko_k_k》に、DMを送った。
《もしかして、咲ですか?》
《もし違っていたらごめんなさい。でも、あなたの言葉が、あの頃の咲と同じに感じました。》
《……私は、美晴です。》
送信ボタンを押した瞬間、心臓の音が耳の奥に響く。
スマホを伏せて、深く息を吐いた。
返事は、すぐには来なかった。
既読もつかないまま、時間だけが過ぎていく。
ベッドの上でスマホを握ったまま、私は静かに天井を見つめていた。
何かを期待していたわけじゃない。でも、何も返ってこないことに、思っていたよりも心がざわつく。
違う人だったのかもしれない。
ようやく眠りについたのは午前二時を過ぎていた。
夢を見たような気がするけれど、目が覚めた瞬間、何も思い出せなかった。
翌朝。
会社へ向かう電車の中で、何度もDMを確認した。
通知はない。
でも、私の中に、なぜか「待ち続けなきゃ」という気持ちがあった。
待つというより、祈るに近かったかもしれない。
仕事は相変わらず手につかない。
目の前の画面と、脳の中の記憶の映像が、交互にちらついて集中できなかった。
咲の顔。レッスン後の疲れた笑顔。
撮影前にぎゅっと手を握ってきた、あの感触。
どうして、あのとき、もっとちゃんと声をかけられなかったんだろう。
後悔は、何年もかけて、身体の中にゆっくり沈殿していた。
それが今、ブログとSNSという形で掘り起こされ、むき出しになっている。
⸻ここから
その夜、帰宅してすぐスマホを開いた。
──通知が、ひとつ。
《@sachiko_k_kさんから返信が届きました。》
心臓が、跳ねた。
震える指でメッセージを開く。そこには、短い文章があった。
《……覚えていてくれてありがとう。》
《今はまだ、名乗る勇気がありません。でも、あなたの言葉は届きました。》
目の奥が、じんわりと熱くなる。
咲だと、断言はできない。
でも、この言葉遣い、間のとり方、余白のある感情表現。やっぱり、咲だと思う。
「ありがとう」じゃなくて、「覚えていてくれてありがとう」。
それはきっと、長い間、誰にも思い出されなかった人の言葉だ。
私は、もう一度だけ返信を送った。
《もし、いつか話したくなったら、また連絡してくれるとうれしいです。》
《あのブログ、私も何か書こうかなって、ちょっと思っています。》
数日後、会社帰りに小さなカフェに寄った。
コーヒーを飲みながら、スマホで「luminerブログ」のページを開く。
初めて見たときは、ただ懐かしかっただけだったその場所が、今は不思議なほど落ち着く。
誰かが書き残してくれた避難所。
私はそこに、ほんの短い文章を書いた。
《Luminousのことを、まだ覚えている人がいる。》
《あのときは、光になれなかったかもしれないけど。》
《でも、それでも、何かが残っていたんだと思います。》
投稿ボタンを押すとき、指が少しだけ震えた。
自分の中に、まだ“語りたい”気持ちが残っていたことに気づいて、戸惑っていた。
その日の夜。
「@sachiko_k_k」から、またひとつ、投稿があった。
《ひとつだけ、話してもいいですか。》
《最後の日、私はひとりで海に行きました。》
《泣くためじゃなく、ただ静かになりたくて。》
《でも、本当は誰かに止めてほしかったんです。》
《あのとき、本当は、ずっと怖かった。》
私は、息を呑んだ。
あれが、本当に「最後」だったんだ。
私たちは、誰も知らなかった。
咲が、あの日どこにいて、何を思っていたのか。
でも今、その時間が、ようやく少しずつ言葉になっている。
その投稿には、多くのコメントが寄せられていた。
「咲ちゃん……本当にあなたなの?」
「もしそうなら、ずっと応援してた。今も。」
「また歌声を聴きたいとは言いません。でも、元気でいてほしい。」
ひとつ、またひとつ。
忘れ去られたと思っていた声が、少しずつ、集まってくる。
誰かが覚えている。
誰かが、まだ手を伸ばしている。
私はそのコメント欄を読みながら、静かに泣いた。
3
深夜。
自分の部屋で、机の引き出しを開けた。
奥にしまってあった、古いノート。
レッスンの予定や、歌詞のメモ。
MCの練習で何度も書き直した台本。
その中に、咲が書いてくれたメッセージカードがあった。
「美晴へ あなたの隣にいてよかった。
私の光は、たぶん、あなただったのかもしれない。」
そんなこと、言ってたっけ。
すっかり忘れていた言葉が、今になって、胸の奥をじんわり温める。
もう、過去には戻れない。
でも、完全に忘れなくてもいいのかもしれない。
私は、スマホのメモ帳を開いた。
今の自分の言葉で、もう一度、あの頃を語ってみようと思った。
誰かに届けるためじゃなくて。
自分自身のために。




