第1話 深い眠りの底
「はぁ…」
ため息をついている彼の名は山田次郎(55)。
もう間も無く定年退職となる平社員、言うなればただのおっさん…いや、実態はそれ以下である。
職にこそついているものの家庭を持たず…いや、持つどころか未だ親無しでは食をまともに摂れないガキと言ったところだろう。
そんな状況をやばいとすら思わずにのこのこと生きている。生活習慣が幼いのは前述した通り、精神年齢も中学生程度で止まっている始末。
しかし、そんな彼も精神を病んでしまうことは多々ある。もちろん仕事場でのこともあったり、他多数の要因はあるがとにかく彼は脳死で働いているような状態だ。
しばらく風呂にも入っておらず不潔、脂の乗った髪、体臭、フケ。ある意味潔癖症キラーである彼だが何も不潔だけで彼の不健康さを語れた物ではない。最近の彼は食欲もなく、ご飯にありつかない日も少なくない。
体型こそわがままボディを維持しているがかなりやつれていて、それでいて生気の無い目。潔癖症キラーどころの騒ぎでないことは伝わることであろう。
さて、そんな彼は今日も風呂なんか目にも入れずに布団に入る。
そしてそのまま、深い深い眠りにつくのである………
———
「……」
その眠りはとても深い、ノンレム睡眠なんか比にならないくらいの深い眠りだ。
しかし彼の脳は活発に動いている。山田次郎の脳内にはまるで彼の人生上映会の様に記憶が次々と流れてゆく。
幸せだった日々、辛かった日々、親と喧嘩した日々、失敗した日々、成功した日々、悔しくて泣いた日々…
人生上映会というよりも『走馬灯』という感覚に近い。まさに彼の死の淵、自分の人生を全て振り返っているようで歩く潔癖症キラーの彼でも流石に悪夢を連想する。
彼の人生上映会が終わると次に流れてきたのは膨大な記憶と情報の波である。
自分の記憶ではない、他の誰かの記憶だ。
彼に流れてきた記憶の持ち主の名は『ミリア・マーガレット』。
そこで彼は今までの自分とは比にならない豊かな人生…というより自分の常識が通用しない人生情報が流れてくる。
そう、言語が全くわからない。日本語でも英語でもなく、どこかの民族字体のように見える字だ。しかし、山田は情報の波に押しつぶされていくうちに順応していった。
次第にその波は次第に自分の記憶と誤認してしまうほど鮮明に脳に刻まれてゆく。波に押しつぶされて行くというより、『ミリア・マーガレット』の人生そのものが山田に流れて行く感覚に近い。
彼の脳内に流れていった記憶を時間にして表すとざっと5年。つまり、彼は5歳の幼女の人生を約5分程度で脳に刻み込んだということだ。
山田があれやこれやと自分の身に今何が起きているのかと考えて行くうちに彼の脳は考えることを拒み始める。膨大な情報を記憶していき多少なりとも消耗したのだろう、山田も『きっと夢』『真剣に考えるのもバカバカしい』と思い、流されるがまま再び脳の活動を終了させる。
———
「………!……………!」
誰かに呼ばれたような気がして、山田の脳は活動を再開させた。その脳に答えるように神経が通い、体との信号を繋げて行く。
真っ先に信号が繋がったのは皮膚だ。皮膚が自身の体に起きている情報を事細かに脳に伝える。
揺れている、というより揺さぶられている。優しく揺らされているのではなく布団から体を追い出すかの如く自身の体に力が加えられているのを感じる。
次に信号が繋がったのは鼻だ。鼻がどこかから微かに感じる匂いの情報を脳に伝える。
甘い…とても甘い匂いだ。砂糖を焦がしたカラメルの匂いをキャッチする。その匂いの中に微かな木の焼ける匂い、クリスマスを彷彿とさせる暖炉の匂いがほんの僅かに感じる。
次に信号が繋がったのは耳だ。先ほどから誰かが叫んでいるが、脳に向けて徐々に情報が流れて行く。
「繝溘Μ繧「?∬オキ縺阪↑縺輔>?」
それは明らかに日本語ではない。いや、その言語は世界中どこを探し回っても見つからないであろう言語をしている。
しかし、山田はこの言語を知っている。
先ほど流れて来た記憶の波にこの言語があった。
夢で流れた情報が夢が終わった後も脳に刻み込まれることはなかなかに珍しいことだが、今ではそのおかげで何を言っているのか理解することができた。
「ミリア!起きなさい!」
この声の正体は先ほどの記憶の波の持ち主『ミリア・マーガレット』…の母にあたる人物『ルイ・マーガレット』
そしてこの言葉を山田は自分に向けたと感じる。その瞬間山田は理解する。
…
…
…
Zzz
Zzz
…
…
…
…
…
…
…これって…異世界転生ってやつーーーー!?!?
きっとそうだ、そうに違いない!言語からして異世界感半端ないし単に海外人に輪廻転生したとかじゃないだろう。
それはともかく、さっき見た走馬灯みたいな記憶と照らし合わせてみて、俺はその流れてきた記憶の持ち主…『ミリア』って言うやつに転生したのだろう。
さっきの揺さぶられた感覚からして夢でないことは明らか、これは多分ガチっぽいぞ。
だが…まさか55歳のおっさんに異世界転生なんてボーナスが起きるとは…諦めないで働いてて良かったー!心の中だけでも命を繋いでくれていた母ちゃんにも感謝しておこう…って、転生ってことは俺死んでるってことだよなぁ…ま、結果オーライか。
うーん、転生したのだと分かったのならまずはこの『ミリア』とか言う幼女の容姿確認とでも行きたいところ…美少女になれるのは転生者の特権だからな!
前の俺はブス・デブ・チビというゴミ屑四種の神器の3つが揃っていたからな…今度の容姿ガチャは当たりを期待することにしよう。
そう言えば、異世界とは言ってもどういう系の異世界なのだろう、魔法はあるのか?やっぱり種族とか沢山あるのかな?魔物もいたりして…!
くぅ!早くこの世界が見たくてたまらない。既に触覚、嗅覚、聴覚は取り戻した…つまり最後…そう!視覚だ。
まあ、多分目を開ければすぐそこにはファンタジーワールドが広がっている事だろう…
ついに、異世界ってやつをこの目に焼き付けることとしよう…!
———そうして、山田は開眼した———




