1話
冬とは思えない、ジリジリと太陽に焼かれる微かな肌の痛み。
かじかんでいたはずの手も忘れてしまったかのように元に戻っていた。
肌をざらりと撫でる砂の混じった風には磯の香りも混じっている……それは大字律にとって信じがたかった。
まず目に飛び込んで来たのはレンガ積みの家々、市場に海。次に……獣の被り物をした人間だ。
見なれないものばかりで理解が追いつかないでいる律はある結論に至る。
夢ではないか……だとしたら、こんなに生々しい夢は初めてだ。
今の今まで幼馴染の天城咲の部屋に居たはずだ。
こんな“どこでもドア”をくぐったようなことがあっていいのか?
当然だが律にはどこでもドアを開けた記憶などない。
「……っ!」
殴られたような頭痛と車酔いした時のような吐き気が襲う。
目が霞んで意識も朦朧としているはずが、思考は他人事みたいに止まらず働き続けている。
自分の身になにが起きたのか……理由を探していた。
なぜここの人間達はみな、獣や鳥の被り物をしているのだろう。
お祭りムードで浮かれているならまだ可愛げがあるが……おぞましくて考えるのをやめた。
そもそもここは自分のいた世界なのだろうか。
少なくとも日本ではない異国であることは分かるが情報がない時点で到底、日本に帰れると思えない。
たとえ……この海の先に日本があったとしても言語が異なれば、船を借りようにも聞くことすら出来ないまま当てもなく彷徨うことになるだろう。
途端に、冷や汗が止まらなくなった。心臓もバクバクと叫ぶ。
ほぼ自分の死が確定したんだ。
平然としていられる人間はほとんどいないだろう。
現状、なんの情報も得られないなら過去に見落としていることがあるかも知れない。
ーー思い出せ、こうなる前になにがあったのかを!
***
二月二十九日。高校生卒業まであと一日。
担任の木枝先生が出席の確認をする中、大字律は斜め前の席に視線をやった。
そこに生徒は居ない。
「ったく、元気出せや〜!」
後ろの席から律の肩を叩いてきたのは天然パーマの三田政仁だ。
政仁は律の幼馴染でテンションが高い自由奔放な男である。
ニヤリと笑ってこう言った。
「ははーん? さては嫁がいないから! あからさま過ぎじゃんよ、そんな顔すんなよなーーー!」
「あはは……違うよ、天城はお前と同じでただの幼馴染だ」
「またまた、照れちゃって〜 羨ましいぜ?」
聞く耳を持たない政仁は律の表情に変化がないにも関わらず茶化すように言う。
律は呆れて、ため息をつく代わりに深呼吸する。
心が乱れた時は深呼吸をしろと言うのが武術マニアの父の教えだからだ。
「このネタ何年擦るつもりなんだ……まぁ明日で最後か」
「チッチッチッ、そうは問屋が卸さね〜! 成人式と同窓会までは確定だが?」
「……」
律は政仁がそう来たかと感心する。
この厄介な性格はずっと変わらない。
昔から言い出すと聞かなかったり、冗談と茶化しで大半を侵食されたような男だ。
三田政仁を語る上で印象的な出来事がある。
小学五年生の頃、律は政仁になんでもできる人間だと本気で思われていた。
律は運動が少しとピアノとテストで百点を取っていただけで大したことはないと思っていたのだが、政仁にとっては違ったらしい。
政仁に『なんでもいいから、なにか一つだけでもお前に勝ちたい!』と泣いてせがまれ、律がやんわり断ろうとしたものの首を縦に振るまで続いた。
根負けして勉強をサボることになる……結果は火を見るよりも明らかだ。
律は政仁の平常運転に慣れすぎて気づかなかったが、天城はこの話にドン引きしていたから割とイカれたやつのようだ。
「静かにしろー授業を始める!!!」
いつにも増して木枝先生の力の入った声に騒がしかった教室は静まり返る。
しかし、プリントが回ってきてから再び騒がしくなった。
律は政仁にプリントを渡す。
「プップー! なんじゃこれ?」
「夢、だな」
「それにしても、でっけぇ夢!」
政仁はプリントに大きく印刷された『夢』を見て腹を抱えて笑った。
律は涙目になって笑う政仁をよそに黒板を見る。
最後の授業とあってか、気合の入った木枝先生は『夢を叶えるためには』という特別授業を始めた。
なんせ明日は卒業式だ。生徒以上に張り切っている。
しかし、真面目に耳を傾ける生徒はごく少数派のようだ。
卒業した後の予定やらで浮ついた会話をしているのが聞こえてくる。
「俺は総理大臣。なっ、お前はどーよ?」
「……僕?」
「そ、夢ないん?」
律は夢を縁遠く思っていた。
今まで生きてきた中でちゃんとした夢を持ったことがないのだ。
夢はなくても憧れはある……けれど、自分がその人のようになれるとは思っていなかった。
自分に自信がない。なにもできない自分が嫌いで不安になる。
なんとなく人の力になれたら生きていていいような気がする。
漠然とした思いはあっても自分がどうなりたいか分からない。
焦りがないわけではないけれど夢は思い浮かばなかった。
「なんだろ……?」
政仁に聞かれてパッと浮かんでくるものは、親に迷惑をかけないように生きたい……だ。
それは夢でもなんでもない。
律は口ごもった。
「ハイハイ、時間切れ!」
「ふはっ……なんだそれ?」
「お前、罰ゲームな〜 今日の放課後空けとけ!」
「罰ゲームって、なにさせるつもりだよ?」
首を傾げる律に政仁は肩をすくめ、こう言った。
「俺な、きょう日直なんだわ〜てことで! お分かりかね?」
律の肩を勢いよくバシッと叩いて満足げな政仁。
より一層謎が深まった律がほんの一瞬、眉間にシワを寄せた。
「……ん? どういうことなんだ?」
「オイオイ、愛が足んねーな? お前には分かるはずさ、なんてったって赤い糸で結ばれてんだからよ?」
小指を立てて政仁が強引に肩組してきたかと思うと窓を指差す。
律はその方向を見て首を傾げた。
窓から見えた景色は雲が流れていく、決して快晴とは言えないどんよりとした空だ。
「この空になにかある? さては雪かゲリラ雷雨が来るとか?」
「……オウ……アッ、ソーナンデスヨ、キョーノテンキハ……ってちゃうやろがい! お前の小指を見ろォォ!」
「うん???」
政仁に言われた通り、小指を見る律だったが特に異常がないように見えた。
律には政仁が目を輝かせて期待する意味が分からないでいた。
「特に変わったところはないよ?」
「ん〜ん? さてはテメェ、鈍感だーな?」
「そうか?」
「もの凄くってつけたろかい! まっ、あとで意味が分かるぜ〜? 楽しみにしておけや!」
「はぁ……?」
午前の高校最後の授業が終わり。
黒板に文字を書き始め、飾りつける生徒も出てきた。
律が帰り支度を始めると木枝先生に呼び止められる。
「大字くん、少しいいかい?」
「はい?」
律は職員室に来て早々、政仁の言った意味はすぐに分かった。
「君に頼みたいことがある。これを今日来れなかった天城さんに届けて欲しい」
木枝先生がA4サイズくらいの茶封筒を律に渡した。
受け取った茶封筒は薄く、プリントが二、三枚入っているだけのようだ。
「どうして僕なんですか?」
「日直の三田くんに断られてしまってね。君も天城さんと仲良かったろう?」
「……どうですかね」
「喧嘩でもしたのかい?」
「してませんよ、ただ……」
「ただ?」
「上手くは言えませんが、距離を置かれている気がして」
律はここ数ヶ月、天城に避けられていた。
いつもの比ではないくらい素っ気ないを通り越した冷たい態度と同じクラスのはずが授業以外に姿を見ない日々が続いた。
記憶を辿っても思い当たる節などないものの、自分が原因ではないかとモヤモヤしている。
ただ、学年が上がるたびに距離が遠くなるような感覚があった。
これ以上近づかないでと言われているような……思い過ごしであってほしい。
「なるほど。君も知っての通り彼女は真面目で繊細な子だ。なにか悩み事でもあるのかも知れない。もし一人で思い悩んでいるようなら、君が友人として聞いてあげるだけで楽になることもある。それも兼ねて大字くん頼む」
「分かりました」
職員室を出ると政仁がいた。
律が声をかけるより先に政仁は珍しく表情を曇らせて『仲直りはしとけよ……』と、だけ。本当にそれだけ呟いて帰って行った。
すれ違いざまに見えた政仁はなにかを憎むような目でひどく歯に力を入れて顔が強張っていた。
律には魚の骨でも飲み込んでしまったかのような違和感が残る。
自分に向けられたような言葉にも聞こえたが、まるで政仁自身に言い聞かせるように言っていた……あの表情は一体なんだったのだろう。
律は疑問に思いながらも封筒を届けるために天城咲の家に向かった。