10.せがまれて
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身体中、包帯でぐるぐる巻き――まるでミイラ男だなとありきたりな発想が頭に浮かぶ。帰りの車はのんびり走らせた。べつに急ぐ必要もない。道中で降り出した雨は気がついたらやんでいた。途中でガソリンを入れた。サンドイッチを食べてコーヒーを飲んだ。喉から胃にかけて物が落ちていく感覚は著しく顕著で、だから生というものをあらためて実感するに至った。
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到着。アパートの裏手にあるスペースに車を滑り込ませた。車から降りると両手を天に突き上げ一つ伸びをする。あくびが出た。ギィとの決闘後、三日間、眠りっぱなしだったというのにまだ眠い。脳は怠惰で身体は軟弱だ。毎日、散歩くらいはしたほうがいいのかもしれない。
おんぼろの――鉄製の外階段をのぼり――。
――と、ここでいきなり閃光のような思考、はっとなった。
プシュのことを忘却の彼方にしていた。
どうして忘れていた?
以前だったら、それはもう心配していたというのに。
……ああ、それは恐らく、その理由はたぶん、「プシュはすっかり大人になった」からだ。ミゲルだったか、恋人もできたのだ。とっとと片付いてくれればいい――という言い方は少々乱暴だが、その思い自体、やはり事実だ。とはいえ、まあ黙って出て行くなんてことはしないだろう。ミゲルとやらを「紹介したい」という旨を聞いた覚えもある。「紹介したい」、か。律儀な奴だなとまた感じる。
プシュはまだ仕事中のはずだ。
ドアノブの穴に鍵を突っ込む。
鍵を捻ったところで首を傾げることになった。
施錠されていない。
部屋の中へ。
すると――。
リビングダイニングの真ん中――床に、プシュがへたり込んでいた。
両手で持ったキッチンナイフを喉元に突き刺そうとしていた。
その様子を窓から差し込む夕日がやけに美しく彩っていた。
手は震えている、歯もがちがち鳴っている。
そんなプシュが首をゆっくりと回し――目が合った。
「セスぅぅぅぅぅ……」
よく見ると、ナイフの切っ先はすでに喉を傷つけている。真白の首につぅと一筋の血液が伝っている。あまりにも危なっかしい状況なので、セスはまず「動くな」と告げた。それから素早く近づき両膝を折り、その手からゆっくりナイフを奪った。後ろにぽーんと投げ捨てると、後ろの床に突き刺さった音がした。
なぜだろう、プシュはふるふると首を振る。それからしなだれかかるようにして抱きついてきた。わーんと一つ泣いて、「セスぅ、セスぅぅぅ……」と彼の名を呼ぶ。
セスは「滅多なことをするな」と叱り、「どうしてこんな真似をしたんだ?」と訊ねた。「だって、だってぇ、セスが帰って来ないんだもん」ということらしい。意外なセリフだった。恋人がいるではないか。不安だったり寂しさを感じたりしても、男に慰めてもらったり勇気づけてもらったりすればよいではないか。実際に言葉にしてそう伝えた。
「恋人って、ひょっとして、ミゲルのこと?」
セスは「そうだ」と答えた。
「ミゲルはただの友だち。セックスなんてしてないし、キスもしてない。手をつないだことすらない」
予想外だ。
自分の観察眼や予測の精度など、たかが知れているらしいと知る。
「わたしの好きなヒトはセスだけなの……」
ふわふわした、不思議な感覚に襲われた。記憶するという行為にあまり脳を割いたことがないものだからよくわからないが、「愛」を伝えられたことは初めてであるような気がする。「愛」なんてものとは無縁だと言ってもいい。知らないままでいいとすら思っている。
なのに……。
立ち上がる、プシュと一緒に。左手で腰を抱いてやり、右手で頭を撫でてやった。この上なく美しい金色の髪に指を通す。まるで重さを感じない、稀有な柔らかさに満ちた得難い感触。いつも前を向く姿には感銘を受けることもあった。一生懸命に生きる様には胸を打たれることもあった。ヒトとして認めている。立派なニンゲンだと尊敬もしている――髪がほんとうに柔らかい。ずっと触れていたい。
「女の髪に触れていいのは、セックスの後」
それは知らなかった。
「だから抱いて。責任取って」
断る。
「じゃあ、わたしは死にます」
……。
「愛してるの、セス」
……。




