何故、苛められた側が転校しなければならなかったのか?
ここは王立貴族学園の学園長室である。
ブローム伯爵家夫人サンドラは、夫とともにこの部屋に乗り込み、学園長と向き合っていた。
学園長は面倒そうな態度を隠そうともしない。
「――ですから、先程から申し上げているように、私どもから公爵家の令嬢に指導をすることは出来ません。彼女は将来の王太子妃なのです」
「苛めを放置すると仰るんですか? うちの娘は学園に通えなくなっているのですよ?」
努めて冷静な声を出そうとするサンドラ。
「お宅のお嬢様が登校されれば良いだけでしょう?」
まるで他人事のような学園長の言葉に、日頃は温厚な夫がキレる。
「うちの娘は公爵家令嬢に苛められて、恐怖で学園に行けなくなっているんだぞ! 娘は好きで不登校になっているのではない! 原因である苛めを止めさせるのがそちらの仕事だろうが!」
「そうは仰いましても、公爵家令嬢は王太子殿下の婚約者ですから。他の生徒とは違うのです」
話にならない。
16歳の娘エレンが学園に通えなくなってから既に1週間が経っている。
エレンは2ヶ月前からクラスメイトである公爵家令嬢に苛められるようになり、ついには学園の階段で突き落とされそうになったのだと、サンドラと夫に訴えているのだ。
その後も何度も面談を申し入れ学園に足を運び、夫婦で学園長に抗議したが、一向に事態は動かない。次第に学園側は娘エレンの「不登校」こそが問題だと論点をスリ替えるようになった。その不登校の原因である苛めを止めさせるようにと、こちらは言っているのだ。にもかかわらず、王太子の婚約者である公爵家令嬢には「王太子妃になるという大事な将来があるのだから」と何の指導もしないのである。意味が分からない。
「うちの娘の将来は潰されて構わないとでも?!」
夫が声を荒げると、学園長はウンザリしたように「お嬢様の将来をお考えなら、いつまでも不貞腐れていないで登校するようお嬢様を説得されては如何です?」と言い放った。
「不貞腐れて? 娘は登校しようとするとガタガタと全身が震えてしまうのですよ? この2ヶ月公爵家の令嬢に様々な嫌がらせをされて、ついには階段から突き落とされそうになって――娘がどれほど恐ろしい目に遭ったか、今まで散々お話ししましたよね!」
サンドラは学園長を睨み付けながら、そう言い返した。本当はその禿げ上がった頭をピンヒールで踏み付けてやりたいくらいだ。
学園内で起きた苛めであるにもかかわらず、学園長は今まで一度もこちらに謝罪の言葉を述べていない。謝罪もしなければ、苛めの首謀者である公爵家令嬢に指導もしないのである。サンドラも夫も引き下がるわけにはいかない。娘エレンには何の落ち度もないのだ。そう。何の落ち度もないのである。
エレンに何かしらの非があるならまだしも、公爵家令嬢がエレンを苛めるようになった理由は、信じられない程くだらないものだった。学園で王太子が「エレン嬢って可愛いよな。守ってあげたくなるタイプだ」と言ったらしい。ただ、それだけの事が理由なのだ。
王太子も公爵家令嬢もエレンのクラスメイトだ。エレンは確かに儚げで可愛らしい容姿をしている。周囲の庇護欲をそそるタイプだ。だが、王太子は別にエレン本人を口説いた訳ではない。自分の婚約者である公爵家令嬢の前で無神経にエレンを褒めたという訳でもない。王太子の発言はクラスの男子どうしで雑談をしている中でのもので、たまたまタイミング悪く通りかかった公爵家令嬢がそれを聞いてしまっただけなのだ。もちろん王太子とエレンの間には何も無いし、公爵家令嬢とてそれは分かっているはずなのに、彼女はエレンを苛めるようになった。将来の王太子妃がする事だろうか? サンドラは許せなかった。
しかし、どれだけ面談を重ねても、ブローム伯爵夫妻と学園長との話は平行線を辿った。学園側は決して謝罪せず、公爵家令嬢に注意も指導も行わない。令嬢の親である公爵夫妻に対しても何の報告もしない。公爵夫妻は自分たちの娘が学園で苛めをしていることを知らされていないのである。
現に先日も、お茶会で出会った公爵夫人はごく普通にサンドラに声を掛けてきた。公爵夫人は至って常識的な女性だ。自分の娘がサンドラの娘を苛めていることを知っていれば、当然謝罪の言葉を口にするはずである。その公爵夫人のいつもと全く変わらぬ態度に、学園は公爵家に本当に何も伝えていないのだとサンドラは愕然とした。分かっていたことだ。だが、何も知らない様子の公爵夫人を実際に目の当たりにすると、理屈ではなく、感情が大きく掻き乱された。
伯爵夫人のサンドラが、お茶会の席で公爵夫人を糾弾することなど出来ない。しかも相手は自分の娘の所業を全く知らないのだ。だから「エレンさんはずっと学園をお休みされてるのですってね。お加減はいかが?」と心配そうにサンドラに尋ねた公爵夫人に「実は、娘は学園で酷い苛めに遭ってしまいまして……大層怖がって登校出来ないのです」と言ってやった。公爵夫人は「まぁ。苛めですって? 可哀想に」と眉を顰めて同情してくれた。今は伝わらないだろう。だが、このサンドラの台詞は遅効性の毒だ。いつか必ず公爵夫人がサンドラの真意に気付く瞬間が来る。学園のクラスメイト達は苛めの事実を知っているのだ。人の口に戸は立てられぬ。そして今は未熟な学園の生徒達も、いずれ全員大人になるのだ。
その後もサンドラと夫は粘り強く学園長に面談を申し入れた。だが、面談を重ねる毎に学園長の態度はより頑なになり、最近ではとにかくエレンを登校させろの一点張りである。
「問題をスリ替えるな! 私たちは娘の不登校の相談に来ているのではない! 公爵家令嬢の苛めを止めさせろと言っているんだ!」
夫の激しい口調に、顔を強張らせる学園長。だが彼は「将来の王太子妃に傷を付ける訳にはいきません」と繰り返すばかりで、一向に埒があかない。
いつまでも経っても解決の糸口さえ見出せない状況に、サンドラはいつしか焦りを覚えるようになっていた。
娘のエレンが学園に行けなくなってから半年が過ぎた。この半年の間、エレンはほぼ屋敷に閉じこもっている。
学園で仲の良かった友人たちからはエレンを案じる手紙が届いていたが、彼女たちは苛めの首謀者である公爵家令嬢に逆らえずエレンを助けられなかった事で罪悪感に苛まれているようだった。エレンの友人である彼女たちもまた苦しんでいるのだと知り、サンドラは胸が塞がる思いだった。友人たちも娘と同じ、まだ16歳なのだ。公爵家令嬢に逆らえず、何も出来なかったという彼女たちを責める気には到底なれなかった。
そんなある日。エレンが唐突に「転校したい」と言い出した。いや"唐突"と感じたのは、あくまでサンドラと夫であって、エレン自身はずっと考えていたのかも知れない。
「今までの事を全部忘れて、別の学校でやり直したいの。勉強もしたいし、お友達も作りたい。私、このまま屋敷に閉じこもったままで17歳、18歳を迎えたくないの。お父様、お母様。お願い。転校させてください」
目に涙を浮かべ、両親に頭を下げるエレン。サンドラは堪らず娘を抱き締めた。
サンドラも、もちろん夫も、娘の願いを聞き入れた。
親子ともに、王立貴族学園に見切りをつけたのである。
エレンは王立貴族女子学院に転校した。
転校当初は緊張した様子だったが、少しずつ新しい環境に慣れ、転校後1ヶ月もすると、仲の良い友人が何人も出来たようだ。久しぶりに娘の笑顔を見ることが出来たサンドラは、思わず安堵の息を吐いた。
毎日楽しそうに学院の話をするようになったエレン。
屋敷の雰囲気もガラリと変わって明るくなった。サンドラと夫だけではなく、エレンの弟も妹も、そして使用人たちも、皆エレンを心配していたのだ。
そして、転校から1年後、エレンの婚約が決まった。
貴族女子学院で親友となったアルシェ伯爵家令嬢の屋敷に何度も遊びに行くうちに、エレンは彼女の兄と恋に落ちたのだ。
貴族には珍しい自由恋愛からの婚約に、夫は少し拗ねていたが、サンドラは諸手を挙げて喜んだ。何よりも大切なのはエレンの笑顔である。エレンは親友の兄との恋愛を「真実の愛なの」と頬を染めながらサンドラに話してくれた。その幸せそうな表情にサンドラは涙が溢れそうになったが、必死に堪えて微笑んだ。夫に話すと、彼は号泣してしまったが……。
王立貴族女子学院に転校してから2年後。エレンは無事に学院を卒業した。
実は同日に王立貴族学園でも卒業式が行われたのだが、式の後の卒業パーティーで大変な事が起きたと耳にした。何と、王太子が婚約者である公爵家令嬢に婚約破棄を叩き付け、ピンク髪の男爵令嬢との婚約を発表したのだそうだ。その男爵令嬢はエレンが貴族学園を去った後に転入して来たらしく、どんな令嬢なのか、サンドラは全く知らない。話を聞いた夫は「公爵令嬢ざまぁ!」と大人気無いことを言っていた。
卒業式から半年が経ち、いよいよエレンの結婚式が間近に迫って来た。
娘の結婚準備に追われ、嬉しくも忙しい日々を送るサンドラ。エレンが貴族学園に登校できなくなり屋敷に閉じこもっていた日々を思えば感慨深いものがある。
娘エレンは辛い状況で本当によく頑張ったと思うし、仕事人間だと信じていた夫がサンドラとともに学園側と戦ってくれた事は嬉しい驚きだった。あの苦しい時期に、確かに家族の絆も夫婦の絆も深まったと感じる。
そして、親子で貴族学園に見切りをつけ、エレンが貴族女子学院に転校した結果、娘を取り巻く状況は一気に好転した。エレンは毎日楽しく学院に通い、親友にも、そして愛する男性にも出会うことが出来た。それは事実だ。サンドラも転校という選択は"正解"だったと思っている。
けれど、振り返るとどうしても苦々しい思いが込み上げてくるのだ。
【 何故、苛められた側が転校しなければならなかったのか? 】
苛めた側がのうのうと、何事も無かったかのように、今まで通りの生活を送っていたのに、だ。あまりにも理不尽ではないか。
娘エレンには何の非も無かった。にもかかわらず、苛められ追い詰められて転校をすることになった。娘は何も好き好んで転校した訳ではない。そうせざるを得なかっただけだ。転校先の学院で友人や環境に恵まれたことは幸運だったが「だから良かった」と言うのは結果論に過ぎない。
【 何故、苛められた側が転校しなければならなかったのか? 】
サンドラは、その理不尽をどうしても飲み込めず、消化できないままでいる。
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迎えた娘の結婚式当日。
サンドラが心を込めて縫い上げたドレスに身を包んだエレンは、笑顔で親の元を巣立って行った。
終わり