スピンオフ-KING'S SWORD.2
鉛弾が放たれた瞬間、世界が一度だけ呼吸を止めた。火薬の残滓も、空気を割る衝撃も、全てが一拍遅れて凍りつく。その“間”に、カオルコはまばたきすらしなかった。弾丸は止まっていた。彼女の睫毛の先、瞳の奥に映る距離で回転を失い、宙で凍りつく。二本の指が、その弾を挟んでいた。まるで刃の交差だ。双剣の二枚刃が、世界そのものを切断したようだった。
「卑しき血。」
声は低く、冷たく、完璧に整っていた。怒りも熱もない。そこにあるのは“王族”という絶対の重さ。
「その穢れ、この手で浄化してあげます。」
弾丸を指先から落とす。床に当たる乾いた音が、まるで処刑台の鐘のように響く。ディアーナは呼吸を忘れていた。恐怖ではない。理解の拒絶だ。
──“人間”ではない、そう感じてしまう領域。
だがその時、別の音が空間を支配した。
“カチリ”
コウキは一歩も動かなかった。ただ、腰の大太刀の鞘が熱気でわずかに緩み、木が軋む音を立てただけだった。それなのに、空気が変わった。張り詰める、という言葉では足りない。廊下そのものが“死”という概念に置き換わったようだった。
「ジュデッカ…。」
カオルコの唇から、抑えきれない吐息が漏れた。それは恐怖ではない。理解と本能の一致だ。彼女の双剣を握る指がわずかに強張る。
「抜かれる前に…仕留めなければなりませんわね。」
静かな声。だが、その奥には確かに熱があった。目の前の男は卑しき血。だが、だからこそ“価値”がある。この一戦で証明される。自分の良血は偽物ではないと。カオルコの踵が、わずかに床を鳴らした。その瞬間、彼女はもう前にいた。速度の概念が消える。踏み込みと同時に、空気の層が裂け、双剣が閃く。音ではなく“存在”が二つの線を描いた。ディアーナの目には見えなかった。ただ一つ理解できたのは──それは人間の動きではない、ということだった。コウキは動かない。剣も抜かず、視線すら変えない。それでも届かない。
“速度”を以てしても、まだその領域にすら触れられない。
双剣の刃が、コウキの肩先で止まった。わずか一指分の距離。それ以上は進まなかった。
「どうして、動かないのです?」
カオルコの問いは、静かに震えていた。恐怖ではない。答えを知りたいという純粋な欲求だった。
「動く必要があるなら──それは俺が負けた時だ。」
コウキの声は低く、平坦だった。だが、ディアーナにはその言葉が“宣告”に聞こえた。ここは戦場ではない。処刑場だ。勝敗は既に決している。戦う前に。カオルコの双剣がわずかに揺れた。それは迷いではなかった。理解だ。
「やはり、あなたは卑しき血ではありませんわ。」
「俺は王だ。ただ、それだけだ。」
鞘が再び“カチリ”と鳴った。それだけで、双剣の速度は一歩退いた。ディアーナは思った。
──ああ、これが“王族”なんだ。
人間ではなく、存在そのものをぶつけ合う領域だ。この場に自分が立っていること自体が、間違いなのだ。カオルコは双剣を下げない。コウキは剣を抜かない。それでも、このパートの終わりには既に答えがあった。勝者は、動かなかった者だ。そして敗者は、それを理解した者だ。廊下の空気は凍りついていた。ジュデッカの名を知る者なら、まだ抜かれていないのに──ここが地獄の最下層に変わったことを悟るだろう。
双剣が壁を裂いた。火花と石片が舞い、カオルコの身体が弾かれるように軌道を変える。壁を蹴るのではない。刃そのものを“足”にして、壁を掴み、天井を踏む。次の瞬間には逆さまの姿勢から床に滑り、背面からコウキを狙っていた。
──乾いた銃声。
空気が先に鳴り、彼女が踏み込む“未来”を塞ぐ。弾丸はまだ着弾していない。だが、そこに進めば確実に刺さる軌道。カオルコは迷わず双剣を床に突き立て、反動で身体を横へ跳ね飛ばした。足場は選ばない。石も鉄も、刃を入れた瞬間に自分の領域になる。それでも銃声は追いかけてくる。正確ではない。正確以上だ。
──彼は、“一歩先”を見て撃っていた。
「邪魔をするのも、卑しき血の役目ですの?」
軽口ではなかった。息を整える余裕もなく吐かれた言葉。コウキは答えない。弾を込める音もない。足も動かない。それなのに、廊下の“道”が一つずつ消えていく。ディアーナには意味が分からない。目で追えていないのではない。世界の方が形を変えているのだ。カオルコが走るたび、通路の空気そのものが別の“檻”に変わる。コウキはただ立っているだけで、その檻の鍵を握っていた。双剣が閃く。壁に突き立て、反動で回転、次の瞬間には天井から落ちる。速度ではない。位置の制圧だ。だが、再び銃声。今度は天井と床の“間”に弾丸が走り、逃げ場を消す。カオルコの足が一瞬止まる。いや、止められたのだ。
──近付けば勝てる、ではない。
──近付いた瞬間、死ぬのだ。
それを理解しているからこそ、双剣は止まらない。壁を裂き、刃を足にし、角度を変え、接近と離脱を繰り返す。彼女の全ての動きは“届かないまま”終わる軌道を否定するためだけにある。
“カチリ”
鞘が二度目に鳴った。今度は熱ではない。冷気だった。ジュデッカの内部から漏れ出す、氷解の息。まだ抜かれていない。だが、空気が一段階落ちた。ディアーナの吐息が白く変わる。
「時間を稼がれている?」
カオルコは一瞬だけ考える。銃は牽制ではない。準備のための時間稼ぎだ。ジュデッカが抜かれる、その一線に近付けさせないためなのだ。壁を蹴り、天井に刃を刺し、身体を反転。双剣が描く軌跡はもはや斬撃ではない。「届く」という一点だけを狙った線。だが、その線は“即死圏”の外側を擦るだけ。わずかに入れば、ジュデッカの鞘が答える。コウキはまだ動かない。動く必要がないからだ。
「ほんの数歩の距離が、これほど遠いとは。」
カオルコの声に焦りはない。ただ、理解と研ぎ澄まされた実感があった。壁に突き立てた双剣を蹴り、もう一度加速する。その刹那、銃声。今度は避けなかった。弾丸が双剣の柄を掠め、火花が散る。
──回避ではなく、妨害を踏み台にした加速だ。
ディアーナは息を呑んだ。
「今の、避けてない…踏んでる…。」
カオルコは銃撃すら利用していた。それでも──届かない。ジュデッカの鞘が三度目の音を鳴らす。
“カチリ”
熱と冷気が交差し、空気が一層狭くなる。
「これ以上、離れれば突破できませんわね。」
カオルコの瞳が、冷たく光る。
「ですが、これ以上近付けば、死ぬ。」
コウキは一言も発さない。その沈黙が、答えだった。双剣が交差した。刃ではない。空気そのものが裂け、圧がぶつかり合った。一瞬で廊下が白く曇る。石畳が鳴り、冷気と熱が混じり合って世界が軋んだ。その直後、衝撃は刃ではなく──カオルコの内側に返ってきた。骸武器特有の“反動”。人の骨と肉ではなく、血脈そのものに打ち込まれる圧力。肺が縮み、心臓が跳ねる。呼吸が止まるより早く、耳鳴りが響いた。視界がわずかに揺れ、双剣の切っ先がわずかに震える。
──良血。
選ばれた証。だがそれは、同時に病弱という名の刻印でもあった。強い血ほど、崩れる。混じり気のない組織ほど、衝撃に耐えられない。この身体は、戦うために作られていない。
“正しくある”ために削られてきた。
「…っ」
声は出なかった。咳をすれば、崩れる。息を吸えば、破れる。だから、吐くことすら許されなかった。ジュデッカは抜かれなかった。それだけで、コウキの勝ちだった。彼は一歩も近付かず、ただ鞘を戻した。冷気が薄れ、霜が音もなく溶けていく。勝者は、動かなかった者だ。敗者は、存在を削られた者だ。カオルコは膝をつかなかった。それが、唯一の矜持だ。だが、ディアーナは見てしまった。彼女の唇から、わずかに零れた赤。その色だけが、この空間で唯一“人間”の証だった。ディアーナは息を呑んだ。恐怖ではなかった。王族という存在が、“選ばれた”ではなく“削られた”ものだと理解した瞬間だ。カオルコは双剣を下げない。だが、もう届かない。反動で震える指を、本人だけが抑えていた。コウキは何も言わなかった。彼の目にあったのは、勝利の色ではない。生かした、という選択の冷たさだけ。ディアーナは立ち尽くしていた。戦場ではなかった。ここは、生存競争の終端だ。敗者が“王”を続けるために、血と命を削る場所なのだ。カオルコは最後にわずかに笑った。自分に向けた笑いでも、相手への嘲りでもない。ただ、王族という存在そのものに向けた、諦めと誇りの混じった笑み。
「これが…良血の、価値。」
その声は掠れていた。吐息に混じる鉄の匂いが、良血の証明だった。
冷気はまだ廊下に残っていた。その中で、荒い呼吸音だけが混じる。カオルコの肩がわずかに上下する。双剣を握る手が痙攣し、刃が壁を叩いて鈍い音を立てた。
「…っ」
吐息が震える。骸武器の反動がまだ抜けていない。良血の身体は強く、しかし脆い。崩れない代わりに、内側から削れていく。コウキは動かない。ジュデッカの鞘は静かだが、彼の視線だけが廊下の奥を捉えていた。臭い。焦げた鉄。腐った肉。空気の層がざらつき、耳鳴りに似た音が石壁を伝う。足音ではない。音そのものが、ここへ“寄ってくる”。ディアーナは理解した。そこに来るのは人間ではない。
──災害だ。
暗がりの奥、シルエットが揺れた。肉ではなく、溶けた布と骨の束。人の形を真似ただけの、崩れた構造。口からではなく、身体の裂け目から息を吐く。その度に腐敗した熱が空気を押し、廊下を覆った。カオルコが双剣を構える。だが腕はわずかに痙攣し、重さを支えきれない。反動が血管を叩き、肺が悲鳴を上げていた。
「下がれ。」
コウキの声が、低く落ちた。だが次の瞬間、ディアーナの身体は勝手に動いていた。理由はなかった。本能だった。崩れ落ちかけたカオルコに、駆け寄る。手を伸ばした瞬間──空気が止まった。ゾンビの動きが、唐突に緩む。吐き出す腐敗熱が消え、ただ立っているだけの塊になる。冷気が柔らかく変わり、カオルコの呼吸が一度深く入った。
「なに、これ…?」
カオルコの声はかすれていた。だが次の瞬間、双剣の震えが止まる。呼吸が整い、力が戻る。良血の脆さを打ち消すように、身体が再び戦闘の構えを取った。コウキは何も言わなかった。ただ、ジュデッカの鞘が静かに鳴る。
“カチリ”
冷気が再び廊下を覆い、床に霜が走る。カオルコは双剣を交差させ、一歩踏み込んだ。コウキが半歩、逆に引いた。二人の動きが交差した瞬間、廊下全体が音を失った。双剣の斬撃と、大太刀の冷気。氷と風が重なり、ゾンビは一声も上げずに崩れた。肉ではない。骨でもない。残ったのは、白い灰と凍った空気だけだ。静寂が戻る。カオルコは壁に背を預け、双剣をゆっくり下ろした。吐息にわずかな赤が混じる。その唇を、ディアーナは見つめていた。初めて人間”の顔を見た気がした。コウキはジュデッカを完全に抜かなかった。鞘に戻す音だけが、最後の合図だった。
「ここからが本当の地獄だ。」
低い声。宣言でも予告でもない。ただ、この場所が“災害の入口”だという現実なのだ。ディアーナは自分の手がまだカオルコの腕に触れていることに気付いた。カオルコはその手を払いもせず、ただ一度だけ視線を向けた。氷のようでいて、ほんの少しだけ温度のある目だった。
廊下に残る冷気が、ようやく溶け始めていた。霜が石の継ぎ目から剥がれ、水音もなく消えていく。あの瞬間、世界を凍らせた剣も、狂いかけた身体も、全ては押し黙ったまま余韻を引きずっている。カオルコの呼吸は浅い。だが、戦闘時の崩れかけた息とは違った。整えようとしている。乱れではなく、調整の呼吸。
「今の子、何?護衛にしてはずいぶん素直ね。」
カオルコの視線は、まだディアーナから外れていない。嗜虐でも蔑視でもない、ただ選別するような、王族特有のまなざしだった。コウキは霜の消えた足元に視線を落としながら、手短に応じる。
「王妃の器だ。投資する価値がある。」
「なるほど……金の動く女ってわけね。」
カオルコの声音に毒はない。だがその言葉は、聞き流せるものではなかった。ディアーナは一歩前に出て、すぐに言葉を返す。
「私は、誰かの代用品じゃない。血も影も借りてない。」
「それでどうするの、王になる自信でも?」
「立てと言われたら、立つわ。」
その言葉に、カオルコは一瞬だけ口元を緩めた。笑みではない。だが確かに、何かが剥がれ落ちたような、微かな変化だった。
「それ、嫌いじゃない。」
コウキはそれ以上何も言わず、ジュデッカの鞘を指先で一度叩いた。音はしない。廊下に戻った静けさの中で、ひとつだけ、記録のように言葉を置いた。
「紹介が遅れたな。名前はディアーナ。俺が──拾った。」
その一言で、再び場が動き出した。足音が戻る。意志が戻る。王たちは再び、動き始める。
冷たい空気だけが、まだ廊下に残っていた。戦闘の余韻は既に失せ、凍った床も霜を解かし始めている。だが、あまりに整った静寂だった。斬撃の痕も、血の滴も──残されていない。それどころか、初めから何もなかったかのように、この場所はあまりに清潔だった。ディアーナは一歩後ろを歩いていた。先を行くのはコウキとカオルコ。二人の間に言葉は少ない。だがその無言は、拒絶でも不仲でもなく、むしろ“共有”に近い雰囲気だった。ときおりコウキが指先を動かし、カオルコが目だけで応じる。視線と動作だけで交わされる情報が、沈黙の中に満ちていた。左手の壁には、金属配管が走っていた。塗装は剥がれ、露出した配線が覗いている。右側の扉は閉じたままで、硬質な素材が何かを遮っていた。建物は古いのに、異様に整っている。ディアーナにはそれが“王族の空間”とは思えなかった。もっと正確に言えば、軍の、それも“緊急時の退避壕”に似た違和感を覚えていた。
「この施設、軍の退避壕?」
小さく洩れた声は、誰にも返されなかった。コウキもカオルコも足を止めはしない。だが一瞬だけ、わずかに歩幅が変わった。否定ではない。肯定でもない。ただ、“触れるべきでないもの”として処理された空気がそこにあった。扉のひとつにコウキが手をかける。古びた電子錠に、指を滑らせてロックを解除する。音は鳴らず、扉が静かに開いた。空気が入れ替わり、冷たさとともに別の匂いが流れてくる。室内には散らばった書類、起動していない端末、埃のない床があり、誰かがついさっきまで使っていたような気配だけが残っていた。
「設備の基盤、死んでるな。配電盤が応急対応に切り替わってる。」
カオルコが端末をひとつ拾い上げ、動作確認もせずに机へ戻す。その視線はまるで“生体反応”でも確かめるかのように、無機物を観察していた。
「ここ、王族の使っていた研究棟ね。カンの管轄だったかしら。」
「元々はな。今はどうだか……」
コウキの言葉はわざと曖昧に置かれていた。だがその曖昧さの中には、一種の“確信”が混じっていた。ディアーナはその言葉の濁りに気付いたが、問い返すことはしなかった。カオルコは書類の隙間から一枚の地図を引き抜いた。目を走らせ、すぐにコウキへ手渡す。彼は無言でそれを広げ、壁の端に立って俯瞰した。ふたりの視線が地図の一点に同時に止まる。沈黙が落ちた。その一点には、かすれた都市名が印字されていた。今にも剥がれそうなインク。それでも、その位置──そこが“何を意味するか”を二人は確実に理解していた。コウキの肩がわずかに動き、カオルコのまなざしが深くなる。だが、言葉は交わされない。
「見に行くの?」
問いかけた瞬間、自分の声が場違いに響いた気がした。
「いや。」
コウキの返答は短く、即断だった。
「今はまだ……誰がどこに残っているかも分からない。お前が見るには早い。」
それは否定ではなかった。警告でもなかった。ただ、重すぎる現実を“今は”伏せるという判断だった。
「たとえ、あの町が崩れていたとしても、それは確定じゃない。」
カオルコの言葉に、ディアーナは再び重さを感じた。それは誰かを励ます言葉ではない。何かを“伏せた”人間の言葉だった。コウキが一度だけ彼女の方を向き、無言で視線を合わせた。カオルコもその目に応じる。そこに言葉は必要なかった。口を開かずに、同じ結論にたどり着いた者たちの沈黙だった。
「まだ、調べる場所がある。」
折りたたんだ地図が、音もなく机の上に置かれる。その手つきはやけに慎重で、封印するかのように書類の山に紛れさせられた。
「ディアーナ。」
名を呼ばれ、彼女は息を詰めた。
「次は、お前に見せておくべき部屋がある。」
「そこも、王族の……?」
「正確には、“王を作った部屋”だ。」
意味は分からない。けれど、その言葉の中に──確かに、何かがある。カオルコが振り返らずに歩き出す。コウキもそれに続く。彼らの歩幅と呼吸は奇妙に一致していた。ディアーナはそれを数歩遅れて追いながら、自分だけが“知らない領域”に踏み込み続けていることを改めて感じていた。
「今から会うのは、“狂える王”カンだ。」
そう言った瞬間、廊下の空気が変わった気がした。温度は変わっていない。壁も、床も、いつも通りの沈黙を保っている。だが、何かが揺らいでいた。空間そのものが、一瞬だけ身構えたような気配すらある。コウキの声に誇張はなかった。静かで、落ち着いた声音だった。けれど、その名前が持つ意味だけが、場の圧を濃くする。
「狂王……」
ディアーナは反射的に呟いた。重い。言葉が、重い。さっきまでのカオルコとは違う。あれは殺意だった。なら、今は何だ?理性の瓦解か、それとも別種の凶器か。
「気を抜くな。彼は、怒鳴りもしないし、威嚇もしない。だが、理屈で人を殺す。」
その表現に、ディアーナは理解が追いつかなかった。だが、コウキの口ぶりから、それが比喩ではなく、実例を前提にしていると察した。扉があった。今までの王たちの部屋と同じ──ように見える。しかし、その前に立った瞬間、はっきりと分かる。「違う」。素材も、加工も、空気も違っていた。重圧のような無音が、体の奥に沈んでくる。
「勝手に開けると、死ぬぞ。」
唐突にそう言ったのはカオルコだった。冗談ではない。少なくとも彼女の目は笑っていなかった。
「センサー式だ。防御装置も兼ねてる。生体認証がないと、室内が気化する。」
「気化……」
「全部、彼の設計。死角と正面の違いもプログラム済みだ。」
コウキが淡々と説明を補う。カオルコも、彼の言葉に異を唱えない。──つまり、本当だ。
「じゃあ、どうやって入るの……」
「許可がある。」
そう言って、コウキが左手を扉の側面へ滑らせる。指先でわずかに触れただけで、何かが反応した。扉が開く。音はない。だが、空気だけが一変する。──今度こそ、本当に。内部は暗くはない。むしろ明るい。だがその光は冷たかった。青白く、均一で、影の落ちない光。蛍光灯とは違う。生気を奪うタイプの照明。温度ではなく、記憶を侵す冷たさ。部屋の中央。座っている人間がいた。背筋を伸ばし、椅子に深く沈むことなく、机に両肘を置いている。腕を組んではいない。ただ、掌の間に、一枚の紙を挟んでいた。設計図だった。カン。それが“狂王”と呼ばれた男だった。年齢は……分からない。少年にも、青年にも、老成した成人にも見える。青白い髪が肩の途中で切り揃えられ、瞳は濁っていない。肌には傷も、汚れもない。なのに、彼の周囲だけが異様に静かだった。生きている人間が、そこに“違う密度”で存在しているようだった。彼は、顔を上げた。視線がまっすぐに、コウキを捉える。
「遅い。」
たったそれだけだった。だが、その声で“人間だ”と思えた。狂気はなかった。激情もなかった。ただ──疲れていた。異常なほどに、冷静な疲労だった。
「お前が呼び寄せたシグナルの解釈に時間がかかった。」
「そっちは……予定通り?」
「八割。残りは、思考が前提を間違えたせいでずれている。修正は進めている。」
専門的すぎて何を話しているのか、ディアーナには分からなかった。だが、コウキとカンの会話が“会話”であることは理解できた。
──仲が良い。
気づいた瞬間、思わず首を傾げた。あれだけ仰々しい前置きを聞かされた後だ。もっと、狂気の塊のような人間が現れると思っていた。だが、現実はまるで逆だった。
「なんか普通……」
小声で呟いたつもりだったが、隣のカオルコが聞き取っていたらしい。彼女は鼻で笑ったような気配を見せたが、何も言わなかった。
「カン。紹介しよう。こっちはディアーナ。投資先だ。」
「また随分と抽象的に言ったな。」
「お前なら分かるだろ。」
カンは目をディアーナに向けた。その目は、検査機器のように正確だった。感情はないが、拒絶もない。ただ、情報を“読む”目だった。
「王族……か?」
「元は。ただし、資格と遺伝子の不一致。存在の余白を残したまま生きている。」
「なるほど。お前の趣味は相変わらずだな、コウキ。」
「偏見を言うな。数値としても生存率は高い。」
「面白い。」
カンはそれだけ言って、椅子の背にもたれた。体を倒したわけではない。ほんの数度、重心をずらしただけだった。だが、その仕草だけで、彼が“ここに長くいる”ことが分かった。部屋との一体感が違っていた。
「“狂王”って、何が理由でそう呼ばれたんですか。」
ディアーナが口を開いた。慎重に選んだ言葉だった。けれど、カンは怒りもせず、淡々と答えた。
「一度、王都の構造改革案を提出した。それを読んだ会議の参加者が“気が狂った”と叫んだのが始まりだ。」
「内容は?」
「“全王族は三年ごとに外科的機能拡張を義務づける”という提案だ。」
ディアーナは絶句した。
「な、なるほど……」
「制度としては正しい。適応も技術的に可能だった。ただ、“人間性”という軸で反発が起きた。」
「いや、でも、理解はできますよ。」
「ほう?」
「今は……そういう時代ですし。」
「共感か?」
「いえ、“狂王カン”って……もはや共感じゃんって。」
一瞬、部屋が静まった。カンはまばたきを一度だけして、目を細め──そして、ふっと、吹き出した。
「共感、ね。なるほど。お前、面白いな。」
その笑みは、皮肉ではなかった。たしかに、笑っていた。狂王と呼ばれた男が、ほんの一瞬、人間らしい笑い方をした。そしてその笑いが、ようやくこの部屋に“体温”を戻した。
「まぁ、あいつはすぐ笑うからな。定期的になんか言ってやれ。」
唐突にコウキがそんなことを言い出した。ディアーナは半ば呆れて、その横顔を見た。
「定期的にって……玩具か何か?」
「違う。だが、笑わせてるうちは、最悪の案は出てこない。」
その言い方があまりに真顔だったので、ディアーナはかえって笑ってしまいそうになった。カンは依然として机に座り、資料を一枚ずつ読み解いている。指先の動きは寸分の乱れもなく、視線も一切外さない。まるで読み書きではなく“演算”でもしているかのようだ。
「この部屋の鍵……センサーだったんですよね?」
ディアーナがふと思い出したように尋ねると、カンはわずかに顔を上げた。
「機械だ。」
「機械?」
「古代構造の名残りだ。熱と指圧と磁性を並列計算で照合する。鍵の認証に平均で約Ⅰ時間かかる。」
「一時間!?」
思わず声が大きくなった。
「生体が変動する前提の照合。俺はロマンを重視する。」
「ロマン……」
ディアーナは呟きながら、気づかれないようにコウキの隣に“しれっと”腰を下ろした。別に寄りかかるわけでも、絡みつくわけでもない。ただ、近くにいる。それだけ。しかし、それだけのことで、隣のカオルコの空気が露骨に冷えた。
「卑しい血同士とか、認めないわ……」
小さな声だった。けれど、そのトーンには棘があった。嫉妬とは違う。もっと冷たく、もっと純粋に「区別」の意識。血筋に対する絶対的な優越感。それは、彼女にとって信念でもあり、呪いでもある。ディアーナは気にした様子を見せず、肩を小さくすくめた。彼女には王族としての自覚も、誇りもなかった。ただ、コウキの言葉が不思議と気安く響いて──今、この席に座っていることが自然に思えただけだった。
「──……で?」
机の向こうから声がした。カンだった。
「俺、蚊帳の外じゃないか?」
見れば、カンは頬杖をついてこちらを見ていた。さっきまでの機械的な目線ではない。完全に“空気を読んだ顔”だった。
「なんか、俺、居場所ないな?」
「自業自得だ。」
コウキが冷たく言うと、カンは小さく鼻で笑った。
「ディアーナ。」
名前を呼ばれて、彼女はわずかに背を伸ばす。
「次は、お前の“感想”が必要だ。俺の研究の正しさは、他者の反応で確認することにしている。」
「プレッシャーでしかないですね……」
「そのプレッシャーを“共感”に変換したのは君だろ。」
カンの言葉に、ディアーナはふっと笑った。今度は、自然に。空気が、また少しだけ柔らかくなった。
静かだった。どこか、異様なほどに。王族の居住棟、その一角にある静謐な廊下。気圧が変わったような空間が広がっている。カンの部屋を出てから、三人──コウキ、ディアーナ、カオルコは言葉を交わさなかった。いや、コウキだけが話さなかった。思考の渦の中にいて、周囲の空気すら読んでいなかった。彼は今、次の一手に全てを乗せるための時間を使っていた。
「コウキ?」
ディアーナが声をかけた。コウキは、ゆっくりと立ち止まる。
「次に会うのは、アベル。“帝王”アベルだ。」
その名が口にされた途端、カオルコの表情がほんのわずかに変わった。尊敬か、恐れか、あるいは過去に刻まれた記憶の疼きか──だが、彼女は何も言わない。
「この短期間で、よくそこまで辿り着いたな。」
カンが背後から声をかける。彼は既に、再び研究の空間へ戻ろうとしていた。
「最初から、アベルに見せるためにディアーナを使う気だったんでしょ?」
ディアーナの問いに、コウキは肯定も否定もしなかった。ただ、廊下の先──一枚の黒い扉を見据えた。
「アベルは……まともじゃない。だが、話は通じる。」
「人間不信じゃなかったの?」
「そうだ。過去、あまりに多くの裏切りと搾取の中で生き残った王だ。血も、忠誠も、信仰も、全てを裏切られた。」
静かに、そして正確に語られた。コウキは続ける。
「だがな、アベルは、“結果”には耳を傾ける。信用じゃない。信頼でもない。ただ、結果。実力だけが、彼を納得させる唯一の言語なんだ。」
彼の語りには、感情がほとんどなかった。だがその冷静さは、戦場の兵が身につける沈黙に似ていた。
「だからこそ、俺はディアーナを見せる。“戦える”ではなく、“導ける”存在として見せる。それができなきゃ、こいつに王妃の器はない。」
ディアーナが言葉を失った。その“王妃”という言葉が、どれほどの意味を持つのか──それを彼女は、まだ測りかねていた。
「私が何をすればいいの?」
その問いは、彼女にしては珍しく素直だった。コウキはゆっくりと振り向いた。
「立ってろ。それだけだ。」
その瞬間、カオルコが小さく鼻を鳴らす。
「“血の薄い王妃”とか、前代未聞ね。」
だが、その言葉に対してコウキは初めて──笑った。
「血なんざ、流せば赤い。俺に必要なのは、価値のある人間だ。」
「価値……」
「金の動く人間。それがこの時代の王妃だ。民がついてくる王など、とうに滅んだ。だが、民を“動かす”王妃なら……まだ間に合う。」
ディアーナはその言葉を、深く刻むように聞いていた。この男の言葉は、嘘に聞こえるほど現実だった。そして、彼女は歩き出した。扉の前へ。その先にあるのが“帝王”アベル──王たちを沈黙させた最後の“壁”。コウキがその後ろ姿を見つめたまま、言った。
「ここから先は、お前の“本質”を問われる。」
「私は──」
「答えるな。見せろ。」
そう言って、扉を押し開けた。帝王の間。冷たい空気が、その奥で待っていた。




