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継承物語  作者: 伊阪 証
軍神の渇望

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72/74

スピンオフ-Exalt or Fall

贖罪と堕落を超え、極限の世界に挑む。

・・・そんな、死んだ王の話。


・・・世は戦国、世界を群雄割拠するは輪廻転生を乗り越え異邦異界から辿り着いた死を知る者達。彼等は王侯貴族として世界を席巻し、人々を導く。


その中で、ある皇帝が掘り出した英雄が、世界の秩序を一変させ、食物連鎖を壊す様に世界を変えた。

“ただ一人の正しさ”を信じさせた英雄。

彼の名はアルトリウス。理想と統治、犠牲と信仰を背負い、人類に秩序と未来を与えた。

だが、その理想の背後には、多くの失われた王たちがいた。


失血王、鎖誓王、狂王、苦蓄王・・・。

いずれもアルトリウスと共に生き、或いは争い、或いは信じて、そして堕ちた者たち。

理想に届かなかった彼らは“原罪”として神塔の地獄階層に封じられた。


それから幾星霜。

死者たちの魂が再び目覚め、地獄をさまようなかで、ひとりの少女――ディアーナが現れる。

〇〇でありながら麗しくみすぼらしい姿を持ち、かつての王たちの罪を「癒し、促し、導く」者。

彼女の問いかけは、地獄に静かなる火を灯す。

「あなたは、なぜ堕ちたの?」


地獄は試練。

地獄は裁き。

地獄は…継承されなかった“現在”そのものである。


王たちは己の記憶と国の滅びを辿り、地獄を一層ずつ登る。

失われた魂の王国に、“誰かが辿り着く”その日まで。


そして、かつての英雄・アルトリウスが見届けるのは、

「継がれた未来」か、「断ち切られた過去」か。

人は死んだあと、自ら塔を選ぶ。


空よりも高く、地よりも深く、神塔はただそこに在る。

天国と呼ばれる階層もあれば、地獄と呼ばれる階層もあるが、

それはあくまで俗称でしかない。

神塔とは、魂が自らに必要な過程を経るための構造にすぎない。


癒されたい者には、癒しが。

苦しみたい者には、苦しみが。

もう一度考えたい者には、対話と再現が。

忘れたい者には、静寂と破棄が。


だがそれらは、望めば誰にでも与えられるわけではない。

神塔には上限と下限がある。

魂がその身に受け止められるだけの癒し、

魂がその精神で受け入れられるだけの苦しみ――

その範囲でのみ、塔は応える。


身の丈に合わない慰めは、塔に届かない。

過剰な罰は、塔が拒絶する。


ゆえに、魂は選ぶ。

自らの状態と向き合い、相応の階層を登るか、あるいは降りる。


ここは、そうした魂たちが集まる場所。

世界を滅ぼし、あるいは国を捨て、それでもなお「次こそは」と願った者たち。

彼らは天国を望まなかった。

癒しの意味を自分で定めるために、

地獄の底を選んだ。


地獄は、今も拡張され続けている。

罪と苦しみが複雑になり、分類できぬ層が増え、

誰も知らない構造が増殖する。


その深層に、王たちはいる。


彼らは罰されたのではない。

ただ、自分自身に納得できなかっただけだ。


彼らは次こそ、自分の選択と向き合えるようにと願っている。

そして今日――

その階層に、一人の少女が降りてくる。


彼女は〇〇であることを隠し、

ただの旅人として、王たちに声をかける。


「上へ行く道を、案内してほしいんです」


その目的は、王たちを引き戻すこと。

だが、彼らの意志は変わらなかった。

そして少女は仕方なく、その背に従う。


極限の世界に挑む、意味はあるか。

或いは・・・。


誰の言葉にも、もう耳を傾けなかった。言い訳でも反論でもない。言葉の応酬そのものを、彼は試練の仕組みとして理解していた。

次の問いが来る前に、机を叩いた。紙束は舞い上がり、幻影の資料は音もなく崩れた。

問われる前に、語った。責任を問われる前に、すべてを引き受けた。問答を遮り、過去の判断を、そのまま言葉に置き換えていった。

それは弁明ではなく、再現でもなかった。自分で作った罰に、自分で答えるだけだった。

幻影の椅子がひとつ、またひとつと崩れ落ちる。対話の場は形を保てず、言葉の壁が崩れていく。

問いはもう来なかった。残っていた幻影の一人が立ち上がり、彼の目を見て言う。

「これ以上、何を望む」

カーティスは立ち上がり、淡々と答えた。

「まだだ。私はまだ、終われない」

空間がきしみ、机が沈み、全体がひとつの構造物として崩壊していく。議場そのものが砕け、その先に階段が現れる。

誰も彼を止めなかった。止める必要がなかった。

これは裁きではない。誰の命令でもない。

彼が、自分の意思で課した罰だった。

だから、彼自身の足で登るしかない。

カーティスは、ただ静かに歩き出す。


階段は深く、何層も先にまで続いていた。前の層が言葉の試練だったなら、この層は肉体への罰だった。

地を這うような音。湿った風と共に、獣のような咆哮が響く。壁のない通路を埋めるように、膨れ上がった肉塊の魔物が這い出てくる。

カーティスは目を細め、懐から抜いた剣を構える。華奢な体格に不釣り合いな重厚な刃だった。

獣のような形をしていながら、どこか人の顔が混ざっている。怒りや嘆きや歪んだ言葉が断続的に漏れ、混濁した意味を撒き散らしていた。

それを黙って受け止め、切り捨てる。脚を払うと一瞬だけ崩れ、呻き声と共に肉塊が砕けていく。

背後から尾が襲いかかる。反応はすでに記憶に刻まれていた。回避ではなく、迎撃。真横から斬り込むように、剣を振るう。

肉と骨の中間のような音。裂けた体内から、黒い霧が吹き出した。苦悶も、咎も、言い訳もない。ただ消えるだけだった。

地面が戻る。扉が開く。先へ進める合図はそれだけだった。

歩き出した彼の前に、再び現れたのはあの会議室だった。今度は誰も座っていない。円卓の中央には、湯気の立つ茶が置かれている。

カーティスは剣を背に戻し、椅子を引いた。座るだけで、体の奥から疲労が浮かび上がってくる。

茶に口をつけ、目を閉じる。小さく息を吐いたあと、誰もいないはずの空間に言葉を落とした。

応答はない。それでも彼は、また立ち上がる。階段はすでに開いていた。


足音が止んだ。彼は剣をわずかに持ち替え、前方を見据える。床は虚空に浮かんでおり、壁も天井も存在しない。ただその先に、異形の影が立っていた。甲冑のように硬化した肉塊と、砕けた盾、ひしゃげた笛が貼り付けられたような形状だった。すべて彼が失った国の象徴だった。言葉はない。それでも、彼には分かっていた。この怪物は、対話を拒絶したまま暴力に走った“あの日の結末”そのものだ。


彼は歩いた。恐怖も迷いもなかった。自分で望んでこの層に降りてきた以上、これを斬らなければ上には戻れない。怪物が動いた。音もなく、ただ巨大な槍のような突起を突き出してくる。彼は避けない。受けて、切る。剣の重さに体が沈んだが、構えは崩れない。斬撃は深く、鈍く、確実だった。返すように突き上げられた尾が背後から襲う。反応は遅れなかった。彼は一歩横にずれ、そのまま胴体を断ち切った。


血は出ない。だが、内側から濁った音が漏れた。「許されない」その声は、自分自身のものだった。幻影の語りではない。過去の選択と、後悔と、それを認めたくない声。彼はその声を黙殺し、剣を肩に戻す。怪物は崩れた。倒れるでも消えるでもなく、剥がれるようにして砕けていく。


彼は息をつかず、階段を見た。すでに開いている。次がある。ここはもう、彼にとって罰ではなくなった。


階段が閉じてしばらくしてから、空中に漂っていた光が一ヶ所に集まり、丸く膨らんだ。光の輪郭がそのまま少女の姿に変わり、床にふわりと降り立つ。着地の衝撃はなく、靴の底に一粒の灰もついていなかった。

少女はすぐに辺りを見回した。どこにも人影はない。扉はすでに消えていて、気配も感じられなかった。

「・・・やっぱり、もう行っちゃってた。」

小さくため息をつき、肩から提げた袋に目を落とす。袋の口からは白い羽根が一本だけ飛び出しており、それを指でつまんで中に押し戻した。

足元には、熱の名残が微かに残っていた。少女は膝をつき、指先でそっとなぞるように触れる。感触も温度も、もうほとんど残っていない。

「追いつけるよね・・・大丈夫、大丈夫。」

彼女は自分に言い聞かせるように呟くと、立ち上がって階段の名残を見つめた。そこにはわずかに光が残り、進む者だけに開く道を示していた。少女はうなずき、もう一度息を吸ってから、その光へと一歩を踏み出した。


降下の光が途切れると、すぐに空気が変わった。足元の感触が重く、音が吸い込まれていくようだった。ディアーナは軽く足踏みをし、辺りを見回す。

「・・・ここ、さっきより冷たいかも。」

声は吸い込まれるように消えていった。すぐに背後の空間が揺れ、何かがゆっくりと起き上がる気配がした。少女は肩の袋を握り、慎重に振り返った。

「誰かいるの・・・?」

影が伸び、床の下から這い出すようにして姿を現す。細長く歪んだ手、目も口もない顔。動きはゆっくりだが、確かな敵意だけが伝わってきた。

「ちょ、ちょっと待って・・・! わたし、何もしてないのに・・・!」

叫んでも影は止まらなかった。黒い腕が地を砕くように振り下ろされ、少女の体は大きく弾かれた。細い体が転がり、床にぶつかる音が空間に響いた。

床を転がった勢いのまま、ディアーナは手をついて跳ね起きた。スカートの裾を押さえる暇もなく、乱れた髪が視界をふさぐ。

「ま、待って、無理だからほんとに無理っ!」

逃げようとした瞬間、影の腕が真横から薙ぎ払われる。咄嗟に腰をひねり、寸前で床に伏せた。肩にかすった風圧だけで体が滑る。

「ちょっ、ずるい! それ反則!」

叫びながら、転がるように通路の奥へ駆け出す。かかとの音が甲高く響き、袋の中から羽根が何枚も舞い上がった。

影は速度を緩めず追ってくる。床を這うようにして、天井からも同じ形の腕が下りてくる。

「無理! 無理って言ってるのに、聞いてよぉ!」

声は届かない。だが少女は止まらなかった。転びそうになりながら、通路の端にある柱の影に滑り込む。

息を殺し、わずかに袋を開く。中には小さな欠片と、折れた飾りが詰まっていた。

「これで当たってくれたら奇跡・・・!」

勢いよく欠片を投げつける。白い光が閃き、影の進行が一瞬だけ止まる。その隙に彼女はまた走り出す。

「ねえ、誰かいないの!? 助けてくれてもいいんだよ!?」

何度も角を曲がった。突き当たりを蹴って反転し、暗がりへ滑り込んで、それでも影はずっと追ってきた。音を立てず、姿も見えないまま、ただ真後ろだけをなぞるように。

「なんで! どうしてそんなに、しつこいのっ!」

振り返っても何も見えないのに、気配だけは消えなかった。足がもつれ、転びそうになった瞬間、肩の袋から何かがこぼれ落ちる。

「あっ・・・。」

拾おうとしたが、時間がなかった。かかとの下から闇が伸び、床の色が歪む。靴の裏を捕まれかけたが、彼女はそれを蹴って跳ね退けた。

「ずるい・・・。そんなの、ずるいよ・・・。」

息が荒くなる。呼吸が崩れて、口の中が渇く。どこを走っているのか分からなくなってきた。構造がおかしい。建物の形が変わっていく。

「ぜったい、怒ってるよね・・・。私、何したの・・・。」

声に涙が混ざり、視界が揺れる。どこまでも逃げられない。

道が消えた。目の前にあったはずの通路が、いつの間にかなくなっていた。気づいたときには、足元が空中にあった。

「うそ・・・。ちょっと、待って・・・。」

重力も音もなく、空間が反転するように少女の体を呑み込んだ。


落下の感覚だけが続いていた。重力も時間も歪み、どこまで堕ちていくのかも分からない。視界は回転し、耳鳴りが止まらない。

「・・・助け・・・て・・・。」

その声は、自分自身にさえ届かなかった。

瞬間、すべての動きが止まった。空間が静止し、宙を漂うディアーナの体を、無数の赤い糸がやさしく受け止めた。糸は血のような光沢を帯びて揺れている。

「落ちるには、まだ早いわね。」

声は上から。視界を上げると、宙に立つ女性の姿があった。長い髪は雪のように白く、身にまとう衣は深紅。笑っているようで、どこか哀しげだった。

「あなた、誰・・・?」

「エスメラルダ。地獄に落ちた王よ。失血王って、呼ばれてたわ。」

ディアーナは、目を見開いた。

「王様なのに・・・助けてくれるの?」

「王様だからよ。ここで死なれると、私も困るの。」

言葉とともに、赤い糸が少女をそっと持ち上げ、暗闇の中へ引き寄せる。冷たい空気が、ほんの少し和らいだ。

「でも、なぜ・・・。」

「初恋、って言ったら信じる?」

その微笑みは、どこか本気で、どこか冗談だった。だが、少なくとも自虐的な嘘であった。

一体、また一体。

影の群れは迷いなく襲いかかってくるが、剣は遅れずに応じた。血を凝縮した剣がひと閃ごとに別れ、獣の喉を裂き、牙を跳ね返す。

だが、数が減るにつれて空気が変わっていった。影が学び始めた。奇襲の角度、硬い部位、動きの速度。

「・・・さすがに、鈍ってるわね。」

息を一つ整え、足元の血を呼び戻すように手を伸ばす。

「前は、これで何も守れなかった。」

影が一斉に突っ込んできた。エスメラルダは剣を抜かない。代わりに、体ごと突き出して受け止める。

衝撃で背中が地を滑る。足元の床に罅が走り、靴が裂けた。

「でも今は・・・この子だけは、絶対に通さない。」

指を鳴らす。

遅れて、空間が割れた。血ではない。光でもない。言葉にできない何かが走った。影たちが止まり、その場に沈む。まるで命を、理由ごと奪われたように。

ディアーナの耳には何も聞こえなかった。ただ、すべてが終わっていた。

「大丈夫よ。あなたには、まだ間に合う。」

静かにそう告げたエスメラルダの指先から、血が一滴だけこぼれ落ちた。

「よくも・・・血を流させてくれたわね。」

呟く声は低く、静かだった。床に落ちた血の滴が、ひとしずく、裂けた靴の隙間を染めていた。エスメラルダはそれを見つめ、表情を変えないまま、前に足を出す。

影が吠える。牙が開く。腕が振るわれる。

そのすべてが、彼女の足元で止まった。

「・・・下がってなさい。」

それはディアーナに向けられたものだったが、命令に従ったのは影のほうだった。突進してきた一体が動きを止め、そのまま首を傾げるように崩れた。

まだ剣は抜かれていない。

エスメラルダは、足元の血を指先でなぞる。それだけで血が浮き、宙に立ち上がった。まるで生きているかのように震えながら、彼女の背後で弧を描く。

「この程度で止まるなら、最初から私を襲わないことね。」

言葉と同時に、血が弾けた。赤い鞭のように伸び、次の影を空中で裂く。裂け目は焼けたように広がり、影の形ごと崩れ落ちた。

さらに三体が跳ぶ。エスメラルダは指を三本、まっすぐに突き出す。

そこから血糸が射出された。音もなく、動きもなかった。ただ、三体が空中で停止し、砕けた。

「貴方たちは、王を恐れたことがある?」

声には色がなかった。感情ではなく、理のような響きだった。

剣が現れた。宙に浮いた血が、刀身の形に沿って自らを縫い合わせていく。細い。だが、美しい。完成した瞬間、空気が変わった。

地が揺れたのは、その一太刀のあとだった。

斬撃は見えなかった。だが十体の影が、同時に崩れ落ちた。床も、壁も、空間の端も、すべて赤い線で切断されていた。

「私はここで終わるけど、貴方たちの終わりは、もっとずっと先にあるのよ。」

血が再び刀から離れ、霧のように散っていく。静寂の中で、ただその声だけが残された。

戦いの気配がすっかり消えたあと、空間には乾いた音ひとつなく、静けさだけが残っていた。ディアーナは地面に腰を下ろし、肩からかけていた袋をほどく。手際よく口を開き、小さな容器を取り出すと、エスメラルダに差し出した。

「サンドイッチ、食べる?」

容器の中には、ふわふわのパンと甘い卵焼き。見た目だけで、作った人間の優しさが伝わるようなそれだった。

エスメラルダはちらりと視線を落とし、口元だけで笑った。

「自分で食べなさい。」

そう言って、彼女はそのまま向きを変える。だがすぐに、少しだけ肩越しに声をかけた。

「・・・まぁ、血糖値気にしてるから。」

軽く、冗談めいていた。

だがその声の奥に、わずかに別の気配が混じっていた。

一度だけ、誰かに振る舞ったことがある。まだ王であり、まだ人を信じていた頃。

だがその場で手を伸ばしてくれた者はいなかった。皿に置かれたまま、冷えていく甘いパンを、彼女は最後まで見届けた。

そのあと、誰も責めはしなかった。だが誰も、振り返りもしなかった。

「・・・人の血にはね、いろんな意味が詰まってるの。家族だったり、伝統だったり、期待だったり。」

ディアーナがうなずくと、エスメラルダは続けた。

「でも、それだけで決まると思ってたら、きっと誰も報われないわ。」

声は淡々としていたが、そこにはあたたかさがあった。彼女は血統を重んじている。だが、それを盾にも剣にも使おうとしない。

それが、失血王の現在だった。

ディアーナはそっとパンをかじった。彼女の横顔を見ながら、エスメラルダは目を細める。

「そう。ちゃんと食べなさい。それが生きてる証拠なんだから。」

エスメラルダは姿勢を崩すことなく、ディアーナの様子を観察していた。少女はすっかり緊張が緩んでいた。リュックの中から小さな水筒を取り出し、軽くすすって、またサンドイッチの切れ端を口に運ぶ。咀嚼の音は小さく、礼儀をわきまえているつもりなのだろう。けれど、あまりにも不用心だった。

この空間は、ただでさえ上の階とは異なる。魔物の密度、空気の重さ、そして理不尽なまでの空間の歪み──そこに、無垢すぎる魂が平然と座っている。それは、あまりにも場違いだった。

本当に、ただの少女なのだろうか。冤罪で殺された者──その可能性は捨てきれなかった。地獄は不完全だ。時に、裁ききれなかった者の魂もここに降りてくる。だが、同時に。

王を騙し、城を奪い、人々を愚弄し続けた悪女たちも、またこの地に現れる。

姿だけで判断することは、エスメラルダにはできなかった。王だったからこそ、見た目や仕草にだまされて国を失ったことがある。

──良血に裏切られたあの日。

ふと、背筋をひやりと走る感覚が戻る。それでも彼女は、静かにその場に立ち続けた。ディアーナがこちらに気づき、小さく笑いかけてくる。緊張のない笑みだった。

その表情に、判断がわずかに揺らぐ。剣を振るうほどではない。だが、血がまだ収まっていなかった。戦闘の興奮が、骨の奥で燃えている。

地獄の魔物を相手に放った力は、簡単には静まらない。呼吸を整えようとしたが、動悸のペースが戻らなかった。指先が疼く。空気が重く、焦点が合わない。

エスメラルダは血を引いた。見えない糸が、地の血を吸い上げ、形を変える。制御のきかないままに、一本の細い矢が少女の足元に向かって伸びた。

「やめ──」

その言葉が、ディアーナの口から出るより早く、鋼の音が跳ねた。

盾だった。鋭く振るわれた一撃が、血の矢を砕くと同時に、エスメラルダの肩に衝撃を叩きつけた。肋骨の裏にまで震えが突き刺さる。体が跳ね、床を転がる。

わずかに視界が赤く滲んだ。

「・・・っ、誰・・・」

声に出すよりも早く、見えたのは鋼の盾。盾の主は、すでに構えを解いていなかった。

カーティスだった。怒気はなかった。ただ、その存在だけが剣より重く、盾より堅かった。

けれど、エスメラルダの視線はその盾の向こうに吸い寄せられた。

ディアーナの肩口──戦闘の拍子に裂けた布の下から、何か白いものがのぞいていた。

それは羽根だった。

小さく、柔らかく、存在を隠すように折りたたまれていたはずのそれが、血と風にさらされて今、彼女の背から露わになっていた。

エスメラルダは言葉を失った。剣を抜くでもなく、問いただすでもなく、ただ呼吸だけが深くなった。

まさか、とも、やはり、とも言えなかった。目の前の少女が何者なのか、ようやくその一端が、形をもって明らかになった。

「・・・あ。」

ディアーナが気づいたのは、カーティスとエスメラルダの視線が自分の肩口に集まってからだった。視線の熱に気づいて、そっと首をすくめて振り返る。

肩から裂けた布地のすき間に、白いものがはみ出している。ふわっとした羽根が一枚、外気に触れてゆるやかに揺れていた。

「ち、違っ・・・いや違うっていうのも変かな、うーん・・・えっと・・・これは、その・・・飾り!」

慌てて肩を抑えるが、すでに羽根は二枚目も顔を出していた。

「ちょっと大きめの、こう・・・オシャレな・・・あの、ファッションアイテム的な? ね?」

誰も返事しない。カーティスは無言。エスメラルダも目を細めたまま動かない。

「その・・・ほら、寒いとき羽織るじゃん? ううん、羽織らないか、羽は・・・でも、だから、えーと・・・」

目が泳ぐ。手が泳ぐ。肩を押さえるほど羽根が増える。

「羽毛! そう、羽毛がちょっと暴れてて! 袋から・・・いや袋じゃないし、えーと・・・」

声がどんどん小さくなっていく。

「・・・バレちゃった・・・。」

最後のひとことだけ、はっきり聞こえた。誰も突っ込まない中、少女は顔を真っ赤にして羽根を背中に押し込もうと必死だった。

「言わないでっ!」

ディアーナが叫ぶ。背中の羽根を両腕で隠そうとするが、白く柔らかな光は揺れて止まらなかった。

「お願い、今だけ・・・今だけ見なかったことにして・・・!」

「天使様!」

カーティスが腕を広げ、胸に熱を込めて叫ぶ。

「ついに、ついにこの目で確信しました! この罪深き地に降り立った奇跡の存在を! 我らを導く方を!」

「ち、ちが・・・違う、違うからっ!」

「神の遣いがこの地獄に現れたのは、我らが今ここで悔い改め、魂を正すべきという啓示! ああ、なんと尊い導き!」

「導かないしっ、むしろ案内されてきたしっ・・・!」

「天使ちゃん。」

低く滑るような声が背後からささやく。

「なにその羽・・・すごく柔らかそう。どこで洗ってるの? それとも、血で洗ったのかしら。」

「や、やめてください! そんな目で見ないで・・・触らないでっ・・・!」

「なるほど。あなたは何も知らないふりをしていた。でもこの翼は、知ってる。ここが罪の底だってことを。」

「違う、ほんとに何も知らないってばぁ・・・!」

「天使様。我らは今ここに、真なる光の証人となりました!」

「天使ちゃん、選ばれたってことは責任があるのよ? ほら、下まで来たからには全部付き合ってもらわなきゃ。」

「わたし関係ないぃぃぃぃっ!!!」

叫ぶディアーナの耳元で、二人の演説が“交互”ではなく“同時に”降り注いでくる。

「人は正しさを見失うとき、神の影を求めるのです! それが貴女だ、天使様!!」

「ここで生き延びてることこそ、信仰じゃないかしら? 何かを守ってるか、忘れてるか。そのどちらかだけど──見逃せないわね。」

「正義を! 導きを! 赦しを我らに!」

「観察って大事よ。羽の開き方、呼吸の浅さ、視線の泳ぎ。全部、天使らしいもの。」

「わたし耳が三つあっても追いつかないんだけどぉぉぉぉっ!!」

ディアーナの両腕が引かれる。左右からカーティスとエスメラルダががっちりと握っている。

「天使様! 御心のまま、階層を進みましょう!!」

「逃げたって無駄よ。選ばれたって、そういうこと。」

「ま、待って、なんでそうなるの!? 誰か止めてええぇぇっ!!!」

叫びは階段に吸い込まれ、次の階層の暗闇へ消えていった。

耳増やしても意味ないと言うのは野暮だぜレディー。

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