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第1章 この人にうっかりときめいた自分を殴りたい 8 ペストリーと握手

「休みの日はどんなことしてたの?」

「ええと、友達と遊びに行くか、そうでなければ自宅で息抜きを。……息抜きも大事だって、教わったので」

そうね、といのりは目を細める。

「どんな息抜き?」


聞かれて千畝ははにかんだ。この話はこれまで人にしたことがない。知っているのは、家族だけだ。


「すごくちっちゃいことですよ……いのりさん絶対笑うと思うな」

「笑わない。教えて」

いのりは真顔で言ったので、千畝はそれじゃあと口をひらく。


「正確には息抜きじゃなくて祝祭って、その先生は言ってました。小さなことでも頑張った自分に必要なのは、息抜きじゃなくて祝祭だって」

「祝祭」


「うちの近所に、小さいけどおいしいパン屋があるんですよ。女の人ひとりでやってて、売り切れたらそこで終わり、みたいな店」

「うん」

「そこのデニッシュペストリーが大好きだったんです」

パン工房のどか、というのがその店の名前だった。


一週間、決めたことを無事やり終えられたら千畝はその店で季節のデニッシュペストリーをひとつ買うことに決めていた。


きらきら光るペストリーをはじめて見た時、これだ、と思った。


──小さな祝祭は大切よ、と喜多嶋先生に教わった直後のことだった。


季節の果物のジャムと、ほんのり洋酒のきいたカスタードクリームが乗ったデニッシュ。デニッシュの生地には乾燥を防ぐためはちみつが塗られて、つやつや光っている。

日々のひそかな自分だけの祝祭に、こんなにぴったりなものはないと思った。


土曜日か日曜日、午前中のうちにその店に行き、デニッシュをひとつ買って帰るのが千畝の習慣になった。


父がコーヒー好きなので、いつもちょっといい粉を置いてあるのを、一声かけてわけてもらう。


お父さーんコーヒー淹れてもいい? ん、どれ飲むんだ。このライオンの赤いやつ。それ深煎りだぞ、粉の量わかるか。わかる。


コーヒーを用意してデニッシュペストリーと並べると、それを見ただけでもう気持ちがゆるんでほっとし始める。


一週間ずっと教科書やテキストばかり並べられてきた机もその時はきれいになって、宝石みたいなパンを置かれて喜んでるみたいに見える。


ずっしりと持ち重りのするデニッシュペストリーを、千畝はそうっと指の先で持ち上げて──もうこの時点で甘酸っぱい匂いがして、口の中がきゅっとなる──ひと口かじる。

──美味しい。


毎週食べているのに、毎週同じように感動する。

デニッシュ生地も、よくある甘いだけのパサついたものではないのが嬉しかった。

噛みしめるとまず、じゅわっ、ときて、最後は、さくり、と儚い軽さで切れる。ため息をついた時に鼻に抜けるバターの香りもたまらない。

どうやらこの店では、上に乗っているジャムもカスタードクリームも自家製らしく、上に乗せるジャムの種類によって、カスタードクリームの甘さや柔らかさを微妙に変えているらしかった。

そのことに気づいた時、千畝は、元から好きだったその店をもっと好きになった。


──これからずっとここ通おう。このお店、ほんと好き。

そう思った。


(そう思ってたんだけどな……)

思いだすと、しゅんとなる。

当たり前だが、あのお店にも、もう行けない。


家族と離れたことももちろんだが、そんな小さなことがやけにくっきりときわだって思える。自分が、これまでの生活とはまるっきり切り離されてしまったんだということを思い知らされてしまう。


「ここの食事は、どう? 口に合う?」

千畝の気持ちを敏感に感じ取って、いのりが明るい口調で聞いてくる。

「もちろんです!」

湿っぽい空気を吹き飛ばすように、千畝も元気に返す。いけないいけない、いのりさんに心配させてしまうところだった。

いのりさんだって自分と同じ立場なんだ、と千畝は自分に言い聞かせる。


自分だけがつらいんじゃない。自分だけがかつて好きだったものと切り離されてるわけじゃない。

だから──めそめそしたり、落ち込んで心配をかけたりするのは、みっともないことだ。


冷静になって、やるべきことをちゃんとしよう。

そう思った。


◇◇◇


千畝が研究所に来て、七日目の午後だった。


血液検査、ワクチン投与、経過観察。あいた時間に、皮爪硬化症の基礎知識レクチャー。そしてまたワクチン投与、血液検査。

その繰り返しだった日々が終わり、千畝は正式に陽性であると知らされた。


(陽性──やっぱりね)


ショックは不思議なほど小さかった。

むしろ、そうだろうなと思っていたので、予想通りの結果が出たのがすとんと腑に落ちたというか。もしかするとこの一週間は、ひそかに本人に心の準備をさせるための期間でもあるのかもしれないな、と千畝はふと思った。


「わかりました。一週間、検査、ありがとうございました」

千畝は白衣のスタッフに深く頭を下げた。

隣には、ここしばらく外勤続きで姿を見かけなかった南雲がいる。いのりも一緒に来てくれている。


「一週間、ほんとにお疲れ様でした。千畝さん」

南雲は丁寧に言った。

「僕たちが目指すところは、皮爪硬化症の完治です。これからも、一緒に頑張りましょうね」


そう言って千畝の顔を覗き込むようにしてにっこり笑う、その端正な顔がまぶしい。外勤だったのなら少しは日に焼けたりしていてもいいはずなのに、陶器のように滑らかで色白の肌は、以前より透明感を増したように思える。

だいたい、元モデルのいのりと並んで立って、見劣りしないというのがすごいことだ。


南雲の、すっきり整った貴族的な顔立ちは以前と少しも変わっていないのに、久しぶりに会うせいかなんだかくらくらした。

「──はいっ」

きれいな顔に見惚れたことを隠したくて、わざと勢いよく言ったら、隣ではいのりが南雲に眉をひそめていた。


「あんた、あざとい……」

「なんですかそれは」

「あんたのその、自分の顔を遺憾なく発揮するところよ。それほんとやめなさいよ」

「僕の顔ですか……」

つけつけといのりが言うのを、南雲はよくわからないというように、指の長い手で頬をさすった。

「女顔じゃないですか? やなんですよ……」

「嫌味?」

「まさか」


「デビュー当時からずっと男顔とか、かわいさ足りないとか言われ続けてきた私への、嫌味? それは」

「違いますって。それにあなたはかわいいじゃなくて美人のほうでしょ」

「かわいくなりたかったの!」

「ああ、確かにかわいいとはちょっと違いますよね、系統が」

「うるさい」


いのりと南雲が言い合うのを、白衣の医療スタッフはほとんど相手にもしないで検査室の奥へと引っ込んでいった。こうしたやり取りはごく日常のことらしい。


千畝の視線に気づいたいのりが、はっと口を閉ざす。

「ご、ごめんね千畝ちゃん、こんな時なのに、内輪もめしちゃって」

「もめてないですよ?」

「あんたは黙ってて」


放っておくとまたそこから舌戦が始まりそうだったが、ふと南雲は顔を斜めにして、片手でシルバーの眼鏡を外すと、両手でたたんで胸ポケットに滑りこませた。


(──うっ)

千畝の心臓がどきんと跳ねる。

(眼鏡をとったところ……はじめて見た)


でもなんで? なんで今いきなり? と思っていると、千畝の目の前にすっと片手が差し出される。


「改めて、これからも、よろしくお願いします」

「あっハイこちらこそ!」

きれいな顔とは裏腹な、指の長い大きな手は、まぎれもなく大人の男性のものだった。


これは、だめだ。時間を置いたら意識しすぎてだめだ。

そう千畝の本能が知らせて、千畝ははきはきとお返事をして握手に応えた。


南雲の手の感触は、なるべく考えないようにする。でも目の前には、惚れ惚れするほどきれいな顔がある。


(どっちにしても、逃げ場がない……)


そんな言葉が浮かんできた。ただの握手だっていうのに。


(そうただの握手。挨拶。儀礼的なやつ!)

動揺しすぎないようにと思って、千畝が懸命に自分に言い聞かせているというのに、握手の手はなかなか離れない。

あーやだこいつほんと嫌。いのりが隣でぼやいているのが聞こえる。

しっかりと大きな手の中に握りこまれた手は、千畝が力を抜いても離れてはくれなかった。


「あの、南雲さん、これ……」

千畝は困ったような情けない顔で言う。


「ん?」

だが南雲はわかっているのかいないのか、やさしい笑顔を浮かべるだけだ。

手を離してください、だと、痴漢つかまえる時みたいになっちゃうし、南雲さんはにこにこしてこちらを見ているし、えーとこういう時っていったいなんて言えば、と千畝はぐるぐる考えて、


「握手、……長くないですか」

「南雲セクハラすんなっ」

ようやく言ったのと、隣でいのりがもう我慢できないというように言ったのとが同時だった。

(セクハラ……)


「やだなあ。僕はただ、千畝さんいい子だなあ、と思って。いのりさんもそう思わないですか?」

「そんなのあんたよりよくわかってるわ」

南雲が手を離そうとしないので、いのりが千畝を後ろから羽交い絞めにして肩越しに南雲を威嚇する。ふわりと甘い香水の匂いがして、いのりの体が柔らかく密着して、千畝は余計にドキドキした。

(ああ、余計に、逃げ場がない……)


「理知的で、僕はとてもいいと思いますよ」


(あっ……)


真面目とか、真面目そうとはよく言われる。しっかりしてる、もよく言われる。だがひそかに自分でそうありたいと思っていたことを南雲に口にされて、千畝ははっとした。


「理性と、知恵か……」

「そうですよ。素敵ですよね」


千畝の胸がじわじわとあたたかくなる。

まるで、あの時みたいだった。きれいに片づけた机の上に、コーヒーとデニッシュペストリーを置いた時の、あの感じ。胸の中にあたたかいものが広がっていき、知らず知らず頬がゆるむ、あの感じだ。


「確かにそれって、ここでは一番の資質かも」

「でしょう?」

だからね、なんだかこの手を離したくなくて。だからっていつまで握ってんのよこのセクハラ野郎。南雲といのりは千畝を挟んで言い合っている。

「あの」

そんなふたりを下から見上げる格好で、千畝は声をあげた。

「はい」

「なに?」

「私……まだなにもわからないですけど……」


頑張るので。自分にできることならなんでもするので。心の中でそっと言い添えてから、二人に向かって笑みを浮かべた。


「よろしく、お願いします」


◇◇◇


これが、朝岡千畝が研究所にやってきて、ちょうど一週間後のことだった。

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