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第1章 この人にうっかりときめいた自分を殴りたい 7 理知と先生

どうして、こんなことに?


──なんて、千畝が思い悩む時間は、割となかった。

ひとりになったら、さぞかし落ち込むだろうと思っていたのに。


(だって、受験勉強もまるっきり無駄になったわけだし……)


スマホはここへ入った時に取り上げられて、というか、母親預かりという形で持ち帰られて、友達にも誰にも連絡できなかったし、首には逃亡防止用の発信機入りの首輪がつけられているし。

大体こんなことになるとわかっていたら、お気に入りの部屋着やルームシューズだって持ってきたかったわけだし、最後にもう一度、家で飼っているグレートデンを抱きしめてから来たかったし。


(考えてみたら、これってけっこうひどい状況だよね……)

千畝はお気に入りの黒檀の椅子に腰かけて、くすりと笑う。


これだけの状況だというのに笑えてしまう自分が、更におかしい。


だが次の日からは、検査また検査でとにかく忙しかったし、そのたびに検査を受ける場所も違ったので、道順を覚えるだけで千畝としては精一杯だった。それに、とるものもとりあえず集中して道を覚えていると、落ち込むとか、悲しむとか、自分をみじめに思うとか、そういう気持ちとは離れていられたのがありがたかった。

日中そうやってよく歩くせいか、夜もよく眠れたし。


研究所の清潔で明るい廊下には、ソファや肘掛け椅子が点々と置かれてあり、それらは形も風合いも、作られたであろう国籍もばらばらだった。フランス貴族の女性がドレスを着て寝そべったらさぞかし絵になるだろう猫足のカウチもあったし、深い艶のある黒檀の、彫刻も見事な中国風の椅子もあった。

そんな上等な椅子に腰かけて検査の結果を待っていると、なんとなし、背筋が伸びる思いがする。


(かわいそう……ではないよね、これは)

千畝は自分の気持ちを再確認する。


泣きわめく。引きこもる。ふてくされる。やっぱりどれも違う。


千畝はつやのある黒檀の肘掛に両手を預けて、首を上下に曲げ伸ばしした。医療施設とは思えない高い天井と、そこでゆっくりまわっているファンが見えた。


(泣いたり怒ったりするよりも……もっと理知的な人間でいたいな。──きちんと考えて、考えた通りに行動できる、みたいな)


お気に入りの椅子に腰かけると、自然とそう思えるのは不思議なことだった。これがもし、先日行った大学病院の合成皮革の椅子で、消毒薬の匂いが漂っているのだったら、こんなふうには思えなかったかもしれない。


いのりが教えてくれたところによると、このDU免疫生物学研究所はもともと、さる大金持ちの資金を使って作られたものなのだそうだ。渡り廊下がたくさんあって迷子になりそうなのは、その資金家の別荘を母体とし、その周りに研究棟を継ぎ足し継ぎ足しして作ったからだし、あちこちにある上等な椅子も、かつてその人の持ち物だったものらしい。


とはいえ、感染者を預かる施設としては当然の措置として、広く優雅な敷地内には、制服に身を包んだガードマンの姿があった。彼は腰に銃を下げており、何時間でも姿勢を崩さず立っている様子や、制服の上からでもわかる分厚い胸板から、相当鍛えられた体を持っていることがうかがえる。余計な力みのない自然な立ち姿は、己の職務を理解してまっとうしているもの特有の落ち着きに満ちていた。


(やることがわかってるって……やるべきことがあるのって、いいなあ)

千畝がそんなことを考えていると、隣でいのりが言った。


「千畝ちゃん、スマホがないと暇でしょう」

「ああ……まあ、はい」

千畝は適当に濁して答えた。


元々、千畝はスマホで時間つぶしをするタイプではなかった。

ではなにをしていたんだったか、と思いだすと、たいていの場合、勉強していたことに気づいて千畝は苦笑した。

「暇、と言えば、暇ですね」


そうだった、自分は多少忙しいくらいの方が、かえって燃えるタイプだった、と千畝は思いだす。

テクニックと集中力を駆使して、決められた時間の少し前に終わらせる。そして一日の最後に少しまとまった時間を作って、お茶を飲みながら、今日自分がやったことに思いをめぐらせ、しみじみと反芻してから眠りにつく。


それを繰り返して、はじめに決めた目標をクリアする。そういうのが好きだった。


「あのね、事務所に行けばパソコン使えるの」

「そうなんですか」

「スタッフ同席のもとであれば、ある程度は、自由に。好きな音楽落としてきたりとかもそこでできるよ」


うーん、と千畝は食事のトレイを前に考えこんだ。

悪くないとは思うものの、もっと、なにか、手応えのあるものにぶつかりたかった。


(本当に……これからどうやって時間を潰したらいいんだろう。今は検査があるからいいとして、終わったら……どうしよう)


千畝は勉強が好きだった。

嫌いにならないままここまで来た、というか、より正確に言えば、勉強を通して得られる満足感が好きだったのだ。


期末試験でもいいし、語学の検定でもいい。

こんなの期日までに終わるのかな、と思うような課題を冷静に日割りにしてスケジュールを立てる。

あまりぎちぎちと詰め込むよりは、やや余裕を持たせてはじめた方が最後までつらくならずに走り抜けるということは経験で知っていた。

余裕を持たせて作ったスケジュールを早めに終わらせて復習に時間をとるもよし、前倒しにして明日以降の予定を楽にするのでもよし。


そうやって日々を進めていって、試験の当日、緊張もせず不安にもならず、安心して試験を受けられる──あの気持ちの良さといったらない。

頑張ってきてよかった、自分がやってきたことは間違っていなかった……そういう気分になる。


(本当……これからどうしよう)


今は、足元がふわふわする。比喩表現ではなくて本当にそうだった。

いつも通り歩いているつもりでいても、どこか体の感覚が変で、しっかりと歩けていないような、変な違和感があった。なにをしていても落ち着かず、これでいいのかどうかもよくわからない。


いちいち、考えてしまうのだった。おいしいはずの食事を食べていても、こんな食事を自分が食べていていいのかなと思ってしまうし、清潔なベッドで横になっていても、こんなことをしていていいのかなと考えてしまう。そして、どうしたらその気持ち悪いほどの不安を軽減できるか自分でもわからない。

わからないから、日に日に、不安は蓄積されていく。


(だからって……そんなこといのりさんに言えやしないわけだし……)


食事の手を完全に止めて小さくため息をついた千畝を見て、いのりが再度口をひらく。

「千畝ちゃん、映画好き?」

「えっ……と、まあ嫌いではないです」

「じゃ小説は」

「あ、それは好きです」

「ゲームはあまりやらない、であってる?」

「……あってます」


なんでわかるんだろうか、と千畝は片手を頬に当てた。顔? 顔に出てる?

(真面目そうって思われるのがいやで……なるべくそう見えないように気を遣ってるつもりなんだけどな)

いのりはそんな千畝の様子に気づいて、悪い意味で言ったんじゃないのよ、というように笑顔を向けた。

「なんとなくそんな気がしただけ」


「中学の時はやってましたよ。クラスで流行ってたので、強制的に参加させられたっていうか」

当時のことを思いだしながら言うと、いのりがすかさず、「あー、そのゲームは楽しくないゲームだね」と言ってくれたので千畝はほっとした。

「そうなんですよー」


ゲームにかける時間が短いと、「え、なんで?」と言われてしまうような雰囲気が当時のクラス内にはあって、千畝はそれなりにみんなに合わせていたけれど、それでも少なからず同調圧力は息苦しかった。ゲームが嫌いなのではなくて、息抜き程度に、自分の好きな時にできていたら楽しかっただろう。

「高校は? 楽しかった?」


いのりがテーブルに頬杖をつきながら言う。お行儀悪くなりそうなそんな仕草も、彼女がすると優雅だった。

「私、高校ほとんど行かずに終わったから。他の人の学校生活聞くのって、好き」


「楽しかったですよ、穏やかで」

私立の学費は安くないが、お願いして、歴史と伝統のある進学系の女子高に入ることにしてよかったと千畝は思っている。


「どの子も大人びてて……そこそこおしゃれなんだけど、ギャルって感じではなくて。それぞれが自分に似合うものを着たり持ったりしてる、みたいな」

「千畝ちゃんみたいな感じね」

やや、それは違いますけど。と千畝は顔を赤くする。


それからいのりに促されるまま、思いついたことをぽつぽつと話した。


運動は苦手であること。新しいものを買う時は割と熟考してしまうこと。大勢でテーマパークへ行くよりは、仲のいい友達と二人で遊ぶ方が好きなこと。そして千畝の通っていた私立さくらの杜高等学校は、そういう雰囲気の生徒が多かったので、千畝は自然体でいることができてとても楽だったということ。


「それは当たりだったねえ」

「はい、受験することに決めて良かったです」


そう考えると、中学の時のあの先生には感謝だった。

あの先生の言葉がなかったら、もしかしたら全然違った高校生活を送っていたかもしれないから。


──なにに時間を使いたいかを見極めること、ですよ。みなさん。


今でもはっきり覚えている。

初老の女性教諭で、いつもロング白衣を着て授業をしていた。


『なにに時間を使いたいかを見極めること、ですよ。みなさん。それが計画ということです』


どうしてそんな話になったのだったか、よく覚えていない。クラスでおしゃべりがやまないとか、隠れてゲームする生徒が多かったとか、確かそんなところだったと思う。

ふと授業を中断して、おもむろに話し始めたその内容に、千畝の耳が共振したのだ。


『自分というものをつくるのは、どれだけ悩んだか……ではなくて、どれだけ行動したか、なのです』


聞いている生徒はほとんどいなかった。

なにか面白い話でもしてくれるのかと思ったら、なんだ、説教か。そんな感じでまただらけた感じになったのだが、理科教師は先を続けた。


『どんな行動をどれだけ積み重ねたか。それが、未来の自分を形作るのです。あいている時間を適当に埋めたり、誰かがよしとしていることで埋めて盲目的に安心していると、いずれ、それが積み重なって、自分の頭で考えないことに慣れた自分になるんです。ですから、はじめによく考えてみることが大切なの。……いったい、自分はどんな人間になりたいのか? そして、そのために、何に時間を使えばいいのか』


面白いな。千畝は思った。

これは本当のことなんだろうな、とも。


なので少し考えてみた。

自分はこれからどうなりたいのか?


しばらく考えてみてもこれといって答えが出なかったので、後日その先生を訪ねて話してみた。


──この間の話、考えてもなにも思いつかない時は、どうしたらいいですか?

ならとりあえず勉強をしたら。無駄になるものじゃないし。そう言われるのかと思ったら、違った。その初老の女性教諭は、白髪染めしていない小さな頭を傾けて、考えたのちにこう言った。


『そういう時は、消去法というやり方も、ありですね』


──消去法?


『これが嫌だ、こうはなりたくない。こういう環境から離れたい。……それを叶えるためにはどうしたらいいか? と考えるのもひとつの手だと思いますよ』


なるほど、と思った。


そのうえで考えてみると、──今のクラスは居心地が悪い。それは、やるべきことをやっていると揶揄されるような雰囲気があるからだ。

そうじゃないクラスで、落ち着いて、やるべきことをやりたい。

そう思った時、私立の進学校を受験するという選択肢が自然と浮かんできた。


「千畝ちゃん、すごいね」

そこまで話すと、いのりは頬杖から顔をあげて、真顔でそう言った。

「しっかりしてる」


「いえ、私がすごいんじゃなくて、その先生のおかげなんですけどね」

謙遜ではなく本気で言った。


千畝は自分を頭がいいとは思っていない。

さくらの杜に入ることができたのは、あの先生──喜多嶋先生の言うとおり、『適切な行動』を『適切な分量だけ』積み重ねてきたからだ。


勉強が楽しくなってきたのは、三カ月ほどしてからだった。


結果が出始めたからだ。

点数に反映されるのはまだ先のことだったけれど、今までとは確実になにかが違う実感があった。できない問題があると悔しくなったし、できるようになるまで復習したくなった。


集中力も上がったし、なにより机に向かうことが楽しくなってきていた。

面倒な時やだらけたい気持ちになった時は、喜多嶋先生に相談すると、いつでも小さなコツのようなものを教えてくれたから続けられた。

すると半年後位に、期末試験の点数が目に見えて変わった。


そこから先は早かった。テストを受けるたびに自分が成長できているのがわかったし、なによりも、自分で決めてやったことの結果が確実に出る、その快感に千畝ははまった。


「そういう粘り強さも含めて、私は、千畝ちゃんすごいと思うけど」

いのりは感じいったように言った。

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