第1章 この人にうっかりときめいた自分を殴りたい 6 カノといのり
その日の夜のことだ。
褐色の手足を惜しげもなくさらして、カノはいのりの部屋に上がりこんでいた。
「新しいの、どうよ」
カノの明るいオレンジ色の髪は、水分を含んであちこちピンピンとはねている。風呂上がりらしく、首からタオルを一枚ひっかけてカノは床のラグに胡坐をかいていた。
「夕ご飯は一緒に食べた。部屋も割り振った」
「うん。首輪は?」
「つけた」
「嫌がってた?」
ううんそれほどでも、といのりは首を横に振る。
「スマホやパソコンの個人所有は禁止なんだってことも説明した。すんなり納得してた」
「まとめると?」
「心配なくらい落ち着いてる」
「ふうん……」
カノはタオルで濡れた髪をわしわしと拭いた。水滴がそこらに飛んで、いのりが顔をしかめる。
「ちょっと、人の部屋でやめてよ、洗った直後の犬みたいに」
なんでドライヤーしてから来ないの。自然にしてたら乾くからいいじゃん。犬だってシャンプーした後ドライヤーくらいかけるわよ、この犬未満が。わふわふ。
ひとしきり、カノといのりはああだこうだと攻防を続けていたが、やがていのりはドレッサーの引き出しから大きなドライヤーを取りだすと、黙ってカノの背後に回ってスイッチを入れた。
「すごく頑張らせちゃった気がして、私、かえって悪かったかって思うの」
「そうなの?」
「だって……自分の気持ちを押し殺して、私のために笑ってくれるのよ。母親にあんな反応されて傷ついてないはずないのに」
最新式のドライヤーは風量をマックスにしてもさほどうるさくはない。カノはされるがままになりながら聞いていた。
「私のことを困らせないようにしてるのが、一緒にいるとよくわかるの。不安だろうになにも聞かないし、……多分私のファンだと思うんだけど、私のことも聞かないし」
「──ふぅん」
ほら乾いた。といのりはドライヤーのスイッチをオフにする。
ちゃんといいやつ使えばあっという間に乾くし、ただでさえあなたは髪質硬いんだから、ちゃんと乾かさないとだめよ、と、カノの髪を乾かしてやるたびいつも言う台詞を今日も言ってドライヤーをしまいながら、いのりは続ける。
「それより、そっちの新しいのはどうなの」
今日庭で暴れて、カノに即刻取り押さえられた少年は、あとで南雲に聞くとまだ十三歳だったそうだ。
若いから進行が早かったのか、実は前から兆しがあったのに親子で隠していたのか、それはわからないが、いのりが最近見た中ではずば抜けた凶暴性だったと思う。
通常、保護者にサインをしてもらって施設内で治療を受けるのだが、あの様子ではそれもどうなのか。大人しく治療をさせてくれるかどうか、昼間の様子ではそれも定かではない。
あれから姿を見なかったので聞いたのだが、カノは首を巡らせて、にー、と笑った。
「新しいのなんていた?」
はー……。といのりはため息をつく。
そういうことね、とごく一瞬苦々しい気持ちになる。
それよりさ、とカノは胡坐をかいたまま、ラグの上で体を前後に揺らした。
「お前が案内したあの子」
「千畝ちゃん」
そう、とカノはうなずく。
その瞳は白濁しているし、爪も長く伸びて黒光りしている。その切っ先は鋭いが、いのりは見慣れているので怖がりもしない。
それに、カノのこれは昼間の少年のものとは本質的に違うのだ。
「あの子、あたしの顔見ても怖がらなかったよな」
「怖がらせる気だったの」
「じゃないけど」
へへ、とカノは背中を丸めて笑った。
「怖がらないのって──いいよな」
「わけわかんないわ」
「だってそうだろう。同じ条件だったはずなのに、あの子の親は泣きそうにビビってた。娘が同じ病気に感染してるのに、娘のためを思って悲鳴を制御することもできないくらいにな。それなのに、あの子は落ち着いてた。あの子の方が精神的にタフだってことだ」
うん、とカノは実感を込めて繰り返す。
「怖がらないのって──いいよな。なにをするにしても」
「あんた、悪い顔になってるわ」
「いやあこれはさ、変異してるからそう見えるだけでさー」
「絶対に違う自信ある。腹黒いこと考えるのよしてあげてよ」
だがカノはそれには答えず言った。
「ね、正直に答えて、いのり。……あの子、役に立つと思う?」
「正直に答えていいならね」
いのりはソファに勢いよく腰を下ろすと、つんと顔を横にそむけた。
「あんたの都合なんて知ったこっちゃないわ。私が心配してるのは、千畝ちゃん、今頃泣いてるんじゃないかなってことよ」
「泣かせとけ」
「え」
「はじめはみんな泣くよ」
突き放すような口調で言われて、いのりは眉をひそめた。だがカノは淡々と続ける。
「これからどの道を選ぶにしろ、自分で決めなきゃいけないことだ。あたしやお前が手を引いて引っ張り上げたり、悲しいのを紛らせてやったり、代わりに考えてやったりすることは簡単だよ。だけど──いずれ、いなくなるだろう?」
いのりはぐっと形のよい唇を引き結んだ。
それは言い負かされて悔しがってるというよりも、もっと違うなにかだった。
「アドバイスはするさ。相談にも乗るさ。けどな、下手に手助けしちまうと、この先転んでもひとりで立てない女になる。──そういうのは、やさしいとは言わないと思うよ」
「う、ん……」
「とにかく、しばらくの間はそっとしておけ。こういう事態が起きたらさ、ひとりで静かに現実と向き合う時間ってのが必要なんだよ。そうでないと、なかなか次に進めないから」
「……獣顔の女が、意外にもまともなことを……」
それは関係なくない? とカノが犬歯をむき出しにして笑う。
「だいたいその顔と爪で一般人の前に出てくるの信じられない。ホラー映画の予告編かと思った」
「センキュウ」
「褒めてない」
「だって無線で呼ばれたもーん、変異個体いるから待機しててって」
「呼ぶ南雲がもっと信じられない。人間の神経とは思えない。普通もっと、お互いに別の場所で説明するんじゃないかしら」
「そこはあれじゃないの、やっぱ、人が足りないってゆーかー」
「それ言えばなんでも許されると思って」
いのりは少し考えてから、ベッドサイドに置いてあった香水の瓶を手にしてカノににじり寄る。
「あっやめてっ、やめてっ、今嗅覚がね、ちょっと人間離れしてて……」
「お仕置きタイム」
「なんのお仕置き、それ!」
「わからないあたりが余計に罪が深いと、個人的には思うわけよね……」
力づくで押しのけようと思ったらいくらでもそうできるのに、カノは笑って身をよじるだけだった。
その爪だって、少しでも力を込めればいのりの肌を楽に切り裂ける。それなのに、上になり下になりしてラグの上でじゃれあいながら、カノは上手に避けていのりにけがをさせないのだった。
「えい。目つぶし」
ぷしゅ、と顔めがけていのりがひと拭きすると、カノは甲高く、きゃん、と鳴いた。