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第1章 この人にうっかりときめいた自分を殴りたい 5 こわい見た目のカノ

(割れた……の、もしかして?)


だが驚いている暇はなかった。


「あー僕です、ひとり、リミットが外れかけていますので、発砲許可をお願いします」


南雲が、ダークスーツの襟元を引っ張りながら言うのに、母親が目の色を変える。


「発砲!? 発砲ですって!? こんなに苦しそうなのになんてことを!」

「ですからね、治療はなるべく早いうちに受けたほうがよろしいですよ、と僕は再三申し上げてきたのですが」


南雲と母親が言いあっている横で、パーカーの彼は首を左右に振っている。バシ、ビシ、と大理石にひびが入る音が断続的に響く。

本当につらいんだ、と千畝は思った。


(高熱が出て苦しい時……無意識に、体をよじったり頭を振ったりすること、あるよね。ああいう感じなんだ……)


怖くないかと言えば間違いになるが、それよりは、『かわいそうに』という気持ちの方が強かった。

もっとも、そのことを不思議だと思ったのはもっとずっと後のことだが。


(だってあんなに苦しそうなのに……早くなんとかしてあげられないのかな……)


その時だ。


「はッ、はッ、はッ、はッ、はッ」

獣のようにあえぎながら、彼は頭を大きく上下に振り、パーカーのフードを背中に落とした。

その口元は苦しそうに半開きになり、そして、小さな顔には不釣り合いなほど長くて白い犬歯がにょきりとそこから突き出ている。


「きゃあああっ」

千畝の母親が甲高い悲鳴をあげる。


「だめお母さん!」

千畝の制止は間に合わなかった。


──今、刺激しないほうがいい。


誰から教えられたわけでもないのに、ごく自然とそう思ったのだった。だが遅かった。

パーカーの彼が緩慢な動作でこちらを向く。

その目は白く濁っていた。


かあッ、と彼は威嚇するように口をあける。そしてその場で軽く膝を曲げる。

(こっちに……来る……)

千畝の体が一気に冷たくなる。

今更のように恐怖が襲ってきて、千畝は隣で悲鳴を上げている母にしがみ──つこうとした。


「おかあさ、」

「やめてっ」


母が体をゆするようにして拒絶する。

自身の恐怖も一瞬忘れて、千畝は、えっと思った。


(やめてって、それ、どっちの)


しがみつこうとした手の形のまま、おずおずと母の顔を見ると、母は母で、どこか後ろめたいような顔をしていた。それで、千畝にも否応なしにわかってしまった。一体、誰をおそれたのか。


(私、なの……)

千畝と母との間に、気づまりな沈黙が落ちかけた時。千畝の後ろで、ハスキーな女の声がした。


「頭、下げろ」


(──えっ?)


「それか、どいてろ」


その声には、妙に人を従わせる力強さがあった。


そしてそれはいのりの声ではなかった。その証拠に、いのりはその声を聞くなりテーブルをぐるりと回って千畝たちのところへ来て、二人の肩を抱いてその場にしゃがみ込ませてくれたからだ。


今のって、誰だろう。

そう思った千畝が視線を上へ向けるのと、いのりがそっと千畝の頭を押さえて、危ないから頭上げないの。けがしちゃうよ? とたしなめるのが同時だった。


千畝はすぐに首をすくめて言う通りにしたのだが、それでも、寸前、見てしまった。

鮮やかな弧をえがいて、なにか敏捷な褐色の獣が宙を飛ぶのを。そして、脚力で跳躍して千畝たちを襲おうとしていたパーカーの彼と、空中で鈍い音を立てて激突するのを。


(なに、あれ……)


それだけではなかった。褐色の獣は、空中のわずかな滞空時間のなか、ぐぐぐ、と体に力を込めてパーカーの彼と組みあい、押しこみ、まっすぐ下へと叩き落したのだ。


「きゃあっ、きゃあっ、いやあああ!」

落下の振動でテーブルのカップとソーサーが倒れ、母がひときわ高い声で怯える。

ぎょっとするほど近くにパーカーの彼が落ちてきて、目の前には真っ黒な爪先がジタついているので無理もなかったが、それよりも、千畝は他のものに目を奪われていた。


パーカーの彼からわずかに遅れて着地した長い褐色の足。それは狙いすましたように、もがく彼の体をまたいでいた。


(きれい……)


その、野生動物みたいな引き締まった足を見て、そんなことを考えていた。


「カノっ、危ないでしょ、この乱暴者!」

いのりが千畝と母を両腕にかばいながら言う。


(カノ……って、さっき、聞いた……?)

千畝は記憶を手繰ったが、この非常時で動揺しているせいか、記憶がうまくつながらない。


「あたしが来ないともっと危なかっただろー」

「そういうことを言ってんじゃないっ、どうして一般人のそばで乱闘するの!」

「場所を選べるようなら誰も苦労しないよ。なー?」


最後の一言、その褐色の獣みたいな人は、ひょいと振り向いて千畝に向かって言った。

その顔には、見事な長い犬歯が伸びていた。


ヒッ、と身をこわばらせる千畝の母に手を貸して、千畝には、立てる? と目で問いかけながら、いのりは少し離れた別のベンチへと二人を連れていった。


「あの人……あの人も、牙がっ」

「お母様、ご安心を。彼女は大丈夫です。うちの──スタッフなので」

「スタッフ」

「ええ」


いのりは千畝の母を落ち着かせるように、そっと背中を撫でながら、その肩越しに千畝と目を合わせた。そして千畝に向かって、明らかに、母に対してとは別の口調で言う。


「あれは、カノと、言います」

「……カノ」

「そう。私の新しい春のワンピに絶対とれないコーヒーのシミをつけてくれたあの阿呆な生き物はカノって言います」


聞こえてるぞー、とカノが言い、聞こえるように言ってんの、といのりが返す。それから口調を少し改まったものに戻して続ける。


「怖い思いをさせてしまいましたが、いい機会なので説明を付け加えると……大学病院等で皮爪硬化症の患者を受け入れない理由は、万が一発症し、変異すると、患者は人並み外れた筋力を発揮するからです。そうなった時、通常の医師や看護師では制御できない。そうした事情もあって、現在、国内に四か所ある当施設での専門治療を強く推奨しています。──おそらく、先ほどの一幕で、ご理解いただけたとは思うのですが」


千畝の母は返事をしなかった。


「当施設には、彼女のような、保護官と呼ばれる専門のスタッフが常駐しています。保護官は変異した患者と同様、もしくはそれ以上のレベルの身体能力を持ちますので、安心です」


いのりが話している間、カノはパーカーの彼が起き上がろうとするのを片足で踏み、抵抗しようとするとさらに踏んだ。

カノが胸元からなにか出して、隣の母親に見せている。ふたこと、みこと話してから、彼女はその親子を揃って建物の中へと連れていった。鋭い呼気を漏らしながら、抵抗をやめない少年を片手で荷物みたいに引きずって。


そして、残された千畝と母の間には、不自然な沈黙が落ちている。

どちらも、相手の顔から目をそらしている。

あれだけのことがあったのに、母からの気遣う言葉はない。怖かったねと言い合うこともない。


「ご……ごめんね、お母さん」

気がついたら千畝はそう言っていた。

なぜそんな言葉が出たのか自分でもわからない。


「びっくりしちゃうよね、ほんと、突然でさ……」

もしかしたら、気づまりな沈黙にそれ以上耐えられなかっただけかもしれない。だけど、しゃべればしゃべるほど、言いたいことはこれじゃないという違和感だけがつのる。それなのに口は止まらない。


「まさか娘が感染者だなんて、思わないよね、あはっ」

笑う場面なんかじゃないと自分でも思う。


私は──お母さん、私は人を襲ったりしないよ。そうならないために今日来たんじゃなかったの。そんなふうにお母さんが怖がることはなにもないでしょ。さっきまで一緒にJR乗ってたでしょ。今朝は一緒にご飯も食べたでしょ。


「あっ、もちろん私もびっくりしたけどね。まさか私がそんなすごい病気にかかるなんてね……ショックだよね、ごめんね」

「──千畝」

かすれて消えそうな声だった。


お願い、お母さん、謝って。

ちょっとでいいんだ。さっきのこと、ごめんって言って。あんたにびくっとしちゃってごめんねって、笑いながらでもいいから。


「──千畝、」

早く言って。そしたら私も言える。そうだよお母さんひどいよって。

今なら、笑いながら言えるから。


「あ、でもまだ今の時点では、確定じゃないんだったっけ。それこそ、詳しい検査をしてみないと先のことはなんとも言えないんだよね。それで……もし万が一、陰性でしたってなったらすぐ帰っていいって南雲さん言ってたもんね」

「──そうね」


長い沈黙を溜めてから、母は言った。

「お母さんも、それが一番いいと思う」


このまま放っておいたら、この子もいずれ、あんなふうになるのね。

そのそらした視線からは、そう思っているのが伝わってきて、千畝の胸の中では、ふくらみかけていた希望が冷たくしぼんでいく。


(うん、わかってた……)

若い時から美人で有名で、今でも年の割に若々しい母。行動力があって物怖じしないたちだけれど、いざという時には必ず一番先に自分を守ろうとする母の性格はよく知っていた。


「そうだよね、私もそう思うよお母さん」

声が震えてしまわないように、できるだけ力を抜いて言ったら、ふわふわとした声になった。いかにも緊迫感のない、物事を深く考えたりしない女子高生みたいな。

「帰り気をつけて帰ってね……お父さんによろしく伝えて」


それを言ってしまうと、もう言うべきことはなくなった。

そんな千畝の前に、いのりの白い手が差し出される。


「行こっか、千畝ちゃん」

「……はい」

いのりの手はなめらかで、つなぐとひんやりしていて心地よかった。


「建物の中、案内したげるね」

「はい」


「あとのことは南雲に任せておけばいいから。各種手続きとか、保護者のサイン捺印とか、あいつがなにもかも全部やるから」

「はい」


「敷地内広いから、最初のうちは迷子になるかも。でも慣れるとダンジョン歩いてるみたいで楽しいよ。普通に歩いてるだけでも結構な運動になるから美容と健康にもいいし。あと、食事は相当美味しいから楽しみにしててね。……そうそう、足元を小川が流れてる渡り廊下があってね、夏になったらそこで花火しようと思ってたの。千畝ちゃんも一緒にしようね。……あと、可愛いお洋服も一緒に通販で買おう。今日、たいして荷物持ってきてないでしょ。買っても見せる相手もいないけど、好きなお洋服着ると、なによりも自分が気持ちいいもんね──」


千畝の手を引いて建物へ入りながら、いのりはずっと話していた。


少しでも千畝のことを和ませようとして言ってくれているのがわかり、その気持ちに答えたかったので、千畝は笑顔を作ってみせた。


「うん、全部楽しみにしてます、いのりさん」


上手に笑えていたかどうか、それはわからない。

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