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第1章 この人にうっかりときめいた自分を殴りたい 4 発症

ルビの振り方がようやくわかった……。


輪王寺宮りんのうじのみやいのりと読みます。元モデルの男顔美人です。どうぞよろしく。

こそばゆい気持ちで千畝が母と軽口を叩いていると、いのりと南雲が砂糖とミルク、それに個包装のチョコレートが乗った小皿を持ってきて、それぞれのテーブルに置いた。

千畝のテーブルに来たいのりが口をひらく。


「検査を受けにいらした方が、今日は二組いるとのことなので、いろいろとお手伝いに来ました。専門職ではないのですが、私でわかることがあればなんでも聞いてください。輪王寺宮りんのうじのみやいのりと言います、よろしく」


母は少し考えてから、聞きたいことはできる時になるべく聞いておくことに決めたらしい。きびきびとした、明らかに仕事モードの口調で尋ねる。


「あなたは、南雲さんと同じようにここで働いているの?」


いいえ、といのりはためらわずに首を横に振った。


「私は十七歳の時に感染がわかり、この施設に来ました。感染者ということになりますね」

「……見た感じ、どこにも異常はなさそうに思えますけど」


母の疑問に、いのりはにっこり笑った。


「もしそう見えるなら、ワクチン投与の効果ですね。それから、早期発見できたことがなによりもよかったと思います」

「早期、発見」

「そうです」


いのりがしっかりうなずく。

浮ついていない話しぶりはモデルをしていた時となんら変わらない。


「皮爪硬化症のような新興感染症において、大切なことは四つあります。ひとつは感染予防に努めること。ふたつめは感染に早く気づくこと。みっつめは、発症予防に努めること。最後は感染拡大を防ぐことです」


指を折りながら、いのりは説明する。専門職ではないと言いつつも、そのきちんとした話し方は、知識に裏打ちされていることを想像させる。


「予防ワクチンはまだありません。そのため、現実には予防は不可能ですから、健康診断などで感染に早く気づくことがもっとも重要になります。発症を抑えるためのワクチンは既に実用段階に入っていて、このワクチンを発症前に受ければ、百パーセント発症や変異を押さえることができますから」

「変異……」


母はちらりと隣の親子を見た。なにか言いかけて、だが口を閉ざす。

かわりに別の質問に切り替えた。


「あなたも、そのワクチンを打っているの?」

「そうです」

「この施設に定期的に通って?」

「……いいえ。ここで暮らしています」

「どのくらい」

「二年になりますか」


ここで母は少し口をつぐんだ。ややしてから再び口をひらく。


「そのワクチンを打っていれば……要するに、発症とかしないで済むってことなんでしょう。だったら、それ、別にここでなくとも、大学病院で打ってもらえばいいんじゃないの」

「認可が下りれば、もちろん、そうなると思います」


今度こそ、母は沈黙した。

聞いていた千畝にも事情はわかった。

昨日、パンフレットには隅々まで目を通したから、この研究所が全国に四か所しかないことはすでに知っていた。


要するに──そのワクチンはこの研究所で独自に作っているもので、病院で調剤薬として扱うのに必要な安全性は、確認されていないということなのだ。


(えっ待って……それって、人に打っちゃっていいの……)


千畝の頭の中では、薬事法とか、新薬の治験とか、副作用とか、なけなしの医療単語がぐるぐる回っている。時折、人体実験とか、モルモットとか、物騒な単語も混じる。


だがいのりはまっすぐに背筋を伸ばしている。

そこにはうろたえる様子も、後ろめたい様子も見えない。それになにより、彼女はひどく健康そうで、それ以上に美しかった。到底、危険な人体実験を受けているようには思えないほど。


「三度目のご案内でやっといらしていただけましたね」


隣の席の会話を、聞くつもりなんてなかった。

だけど母といのりが黙りこんでしまったため、自然と聞こえてしまったのだ。南雲の声は、心地よい低さで、よく通るし。


千畝が横目で様子を伺うと、南雲はいのりと同じように隣の親子の正面に座って、フードを被ってうつむいた子供の様子をじっと見つめていた。


「息子さんはだいぶ変異が進んでらっしゃるように見えますね。なぜもっと早く、連れてこられなかったんです?」

「帰れるんですよね?」


突然、母親のほうが言った。南雲の質問には答えていない。


「と、言うと?」

「検査を受ける前提で、保護者同伴で、ここに来るだけって言われました。とにかく一度来るだけ来ないと、病院へはもう来てもらっても困るって。だから来ましたよ。だから……もういいんでしょう? もう息子を連れて帰っていいんですよね?」


最後の方は声が震えて、聞いている千畝の方がつらいくらいだった。南雲は困った顔で答える。


「現段階では、もちろん、法で規制されているわけではありませんので、僕たちに強制力はありません。ただ──おそらく三年から五年のうちには、法による規制がかけられることが見込まれています。また、ワクチン投与が行われない状態では、症状の悪化は止められないことも非公式ですが認められています」

「非公式って! そんなあやふやな話を信じろっていうんですか!」

「市民のパニックを防ぐために公表されていないだけで、人喰い事例はいくつも確認されています。──遺族などには厳しく緘口令を敷き、ネット等にも間違っても流出しないように注意もしているので、一般には知られていないだけですよ」


(人喰い……)


「非公式というのは、エビデンスを持たないという意味ではないんです。政府や警察が、公開を許可していないということなんですよ」


千畝はハラハラして、隣の様子を伺っていた。

隣の母親は、泣きそうに顔をゆがめたかと思うと、手荷物を片手にすっくと立ちあがった。


「もちろん連れて帰りますよ」

「お母様」

「だってそうでしょう、こんな、わけのわからない病気のせいで、すぐには会いにも来られないようなこんな遠くに、息子を預けろって言うんですか。病気のせいで多少容貌が変わっても……息子は息子です! この子は人を傷つけたりなんかしません!」


千畝の胸がちくりと痛んだ。

こんなふうに強くはっきりと言いきってもらえるあの子は、幸せだ。行きのJRで千畝のほうを見ようともせずに相槌をうった母のことを思い出すと、そう思った。


「今はね」

南雲はむしろやさしく言った。こうした説明にも、こうした反応にも慣れているのだとわかる口調だった。

「今はまだ、傷つけてはいない。でもそれはあくまで」

「帰るわよ、行こう」


母親は南雲が言い終わるのを待たずに、息子の腕をつかんで立たせようとした。だが、息子に触れてなにやら怪訝そうな顔になる。

「──どうしたの?」


千畝のところからもはっきりと様子が見てとれた。ここへ来てから一言も話そうとしないその子の体が、まるで熱でもあるようにぶるぶると震えているのが。


更にその子の様子を見ていて、千畝は(おや?)と首をかしげた。

なんだかその子の肩のあたりに、あるはずのないものが見えた気がしたのだ。

千畝は目をきつく閉じてから改めてそれを見てみたが、見えるものは変わらなかった。

──もやもやとした群青色の影。ところどころ水色に光る部分もある。だが大部分は重たげな群青色に染まっていて、それを見ていたら、『悲しい』という言葉が千畝の脳裏に浮かんでくる。何度まばたきをしてみても同じだ。


「ねえお母さん、あそこに……なにか見えない?」

「見えるわよ……なにあの体……ばけものだわ」

「ばけものなんてそんな言い方やめて……ううん、言いたいことはそうじゃなくて」


千畝はゆらゆらと浮かんで見える色のついた影のことを言おうとしたが、母の表情は恐怖と嫌悪に塗り固められていた。


「うぅぅぅうう……」


低い地鳴りのような、古いパソコンの起動音のような、その子はそんな声を漏らしながら震えていた。

もちろん顔は見えないのだが、それでも千畝にははっきりとわかってしまった。その子が、苦しみながら自分を懸命に抑えようとしているのだということが。

そんな体になってしまった自分をなによりも悲しく思っているということが。


「どうしたの、大丈夫っ」

その子の母親が肩に手をかけて揺さぶろうとしたが、小柄に見えるその子の体はびくともしない。


「うぅぅうう、ぐっ、ぐううううッ」


そして体の震えはみるみる激しさを増し、震えというよりは痙攣に近くなってきた。

パーカーの彼は、座っているベンチの端をつかむ。

それは苦しさのあまり、とっさになにかをつかもうとした動作だった。だが、千畝と母の視線はパーカーの袖から覗いたその指先に釘付けになっていた。


──その爪先は、黒かった。


パーカーの肩が盛り上がり、直後、バシッ、と鋭い音が響く。

千畝にはなんの音かわからなかったが、正面で、いのりが小さくため息をついてつぶやくのが聞こえた。


「あーあ……だから石にしてあるのに……」

そのつぶやきに千畝はぎょっとする。

「やっぱり大理石は柔らかいからダメかな。次から花崗岩にしないと」

改めて調べました。

大理石はモース硬度3、花崗岩だとモース硬度7なんだそうです。

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