第4章 どうしてこんなに嬉しいの 6 どっちも選びます
これにて完結です。とりあえず。
「お隣、いいですか」
「あー?」
けだるげな返事をして、カノは千畝を振り仰いだ。それから、まだ千畝はなにも言っていないのに、妙にまぶしそうに目を細めた。
千畝は静かに椅子をひいてカノの隣に腰掛ける。
「具合、どうですか。変異から戻る時もつらいって聞いたので……」
カノは目玉焼きと生ハムをまとめて口に入れたのを飲み込んでしまってから返事する。
「誰から聞いたの。ミシュラン?」
はい、と千畝は答えた。そっか、とカノは言った。
短い言葉ではあったが、咎める声ではなかった。
「カノ、私、いくつか決めたことがあって」
「うん」
聞いてるよ、食べながらだけど。というように、落ち着いた低い素の声で小さく相槌をうつ。
この人の、こういう時の声、ほんと好きだ、と千畝は思う。
先をせかすようなことをせず、急がせるような雰囲気も作らず、静かに千畝から言葉が出るのを待っていてくれるところが。
(もしかしたら、単に薬が抜けかけのせいで体がだるくて、黙って待つしか体力が残ってないのかもしれないけど……)
「私、あなたの後輩に……」
なりたいです。なろうと思っているんです。なってもいいですか?
なんて言おうか少しだけ迷って、結局勇気を出すことにした。
下腹に力を込めて千畝は言い切る。
「あなたの後輩になります」
かつて、お前には無理だと冷たく言ったその人は、今は穏やかに口をひらいた。その口元から覗く犬歯が、心なしか小さく見えることに千畝は気がつく。
「書類、もう出したの?」
「いえ、まだです。南雲さんがカノと一緒に出張中だったので、申請できなくて」
「ああ──そっか」
カノは手にしていたフォークをトレイの上においてから、ニッと笑った。どこか悪戯っぽい、確信犯の笑み。
「座学の授業、あいつが先生だよ。……嬉しい?」
──うっ。
ドキン、としたのを千畝は口元を引き締めて隠す。
「それは、知らなかった、です」
「あたしも教えてやれるけど、基本、ここにいる時は食ってるか寝てるかどっちかだからなあ」
「栄養取らないと、消耗しますもんね」
お? というようにカノが眉をあげる。あたしのこと、単なる大食らいだと思ってたんじゃないの? というように。
「それに、少しでも体を休ませないと、消耗したぶん回復しないじゃないですか」
「他人事みたいに」
「ですね、私カノみたいにたくさん食べられるか正直自信ないです」
「ためす?」
ミルクレープみたいに何枚もまとめて乗っている目玉焼きの一枚をフォークでさして、カノが口元まで持ってこようとする。
「いいです」
「だってほら、予行演習」
「いいですってば」
カノはなんだか楽しそうだった。
現場で見たキレのある体の動きとはまったく別物の、知らない人が見れば、どれだけだらしないんだと眉をひそめそうなほどの緩慢な動作だが、千畝にはそれがわかる。カノはなんだか嬉しそうだ。
「千畝……さん!」
その時、南雲がバタバタと廊下を走ってやってきた。
あまりにスピードを出し過ぎて、食堂の入り口を一瞬通り過ぎてしまったほどの焦りように、千畝とカノはそろってそちらを向く。
「千畝さん、これっ……これなんですか!」
手には一枚の書類を持っている。
ああそれ、と千畝はうなずいて返した。
「もしかして、ミシュランさんの助手の件ですか」
「ミシュランの助手? やるの?」
はい、と千畝はカノに笑顔を見せる。
「保護官じゃなくて」
「それもやります」
「えっ、両方」
「そうですよ。できるかどうかわかりませんけど、逆に、できないかどうかも今の時点ではわからないなって思って。ミシュランさんに相談したら、仕事量は様子を見て加減してくれるって言ってたし。……なにより、私がどちらもやりたいので。すごい、もう書類できたんだ、あの人仕事早いなあ、昨日話したばっかりなのに」
南雲はぽかんとして聞いていた。
カノも一瞬驚いた様子を見せたけれど、南雲よりは正気に戻るのが早かった。珍しく言葉が出ないでいるらしい弟を面白そうに見つめている。
それで、と千畝は南雲をじっと見上げた。
「どうして南雲さんがそれ持ってるんですか」
「朝……たまってる仕事を見に事務所に行ったら、未決箱の一番上にこれが乗ってて……」
むー、と千畝は頬をふくらませた。
「それで持ってきちゃったらずっと既決されないままじゃないですか。困りますよ」
「じゃなくて! 僕の方の打診は……」
焦ったように言う南雲に、千畝は落ち着いて返す。
「それ、両立したいです」
完全に南雲は虚を突かれたという雰囲気で黙りこみ、カノがそれを見て小さく口笛を吹いた。
南雲が視線を泳がせているのを見ながら千畝は続ける。
「両立することを認めてくれるなら、南雲さんの打診も引き受けたいと思ってるんですが、どうですか?」
その言葉を聞いた瞬間、南雲はわずかに悔しそうな顔をした。
とはいえ、それはもちろん一瞬のことで、すぐに彼は表情を取り繕ったのだが、それでも千畝にはわかってしまったし、もちろんカノにもわかったと思う。
一瞬だけ見えたそれは、南雲の本気の顔だった。
その時千畝が思ったことは、(──嬉しい)だった。
こんなふうに思うのって変だろうかと自分でも思う。だが、取り繕っていない彼の本気の反応を、自分が出した答えで引きだしたこと、それがたまらなく嬉しかった。
「南雲さんは反対ですか?」
「いえそういうわけでは」
ないですけど……と南雲は語尾を濁す。
もう千畝にはわかっている。彼にはこの申し出を却下することもできないし、反対することもできないと。
彼はカノのために、なんとしても千畝を保護官に加えたいのだ。そのためなら大概の無理な申し出も飲むだろう。
(たとえば……私が、付き合ってくださいとか言っても)
むしろにこやかに笑顔を浮かべたまま、いいですよ、そんなふうに言ってもらえるなんてなんだか照れますね、僕でいいならじゃあ付き合いましょうか、とあっさり受け入れるに違いない。
だがそれは、そんな上辺の反応は千畝が欲しかったものではない。
(そうじゃなくて、私が欲しかったのは……)
南雲が無防備に手にしている申請用紙の表面に、ふと千畝の目がとまる。
千畝がサインしたすぐ下の、目立つ場所に達筆な筆跡で書かれていたのは、見慣れない名前だった。
<美神奈々>
(みかみなな……)
頭の中で事務スタッフの顔を思い浮かべてみるが、記憶のどこを探っても覚えがなかった。
(誰……?)
南雲さんは南雲さんでしょう、カノだって名字は南雲さんのはずだし……と考えこんだ千畝に、横からカノが口を挟む。
「それあいつだよ」
ようやく動揺が落ち着いてきたらしい南雲も言う。
「ほら、ここ最近はミシュランって呼ばれてるあの人ですよ」
えええええと、千畝は大きな声を出してしまった。
思いきり驚いてしまってから、慌てて口を閉ざす。別に、ミシュランがかわいい名前だからと言って、驚くようなことではなかった。
「南雲、その書類ちゃんと戻せよ」
「戻しますよ、やだなあ人聞き悪い」
「戻せよって言っただけじゃん」
「僕がこれ握りつぶすかもしれないみたいな言い方だったじゃないですか」
ふたりのやり取りを聞きながら、千畝は、奇妙な清々しさを感じていた。
(ひとつ自分で決めただけなのに、こんなにも変わるんだな……)
今でも覚えている。ここへ来たばかりの頃の、足元がいつまでも定まらずに、気持ち悪いほど不安だった気持ちを。
自分ではなにひとつ決めることができず、選ぶこともできず、ただ受け入れるしかない状況だった。いつ終わるかもわからず、いつか軽減されるのかもわからなくて、ただ不安だった。
それが今、まっすぐに背筋を伸ばして立っていられることがひどく嬉しい。
十分に準備して臨む試験当日の朝みたいな、それよりももっと胸を張りたいような、そんな気持ちだった。
(こんな気持ちにまたなれるなんて、思わなかった)
ひとしきりカノと軽口をたたきあったあと、南雲は小さなため息をついて、まじまじと書類を見直した。
「日付で美神さんにおくれをとるの嫌だな。千畝さん、僕も今日中に書類作って持っていくので」
「はい」
「サインお願いしますね」
はい、と答えながら千畝は笑ってしまった。
「南雲さんって、負けず嫌いですね」
「当たり前でしょ」
目の下をわずかに動かし不敵に笑って、南雲は去っていく。
だが出て行きかけて、ふと立ち止まり、くるりとUターンしてきた。
「いけない、忘れるところでした」
「なんですか?」
千畝さん宛ですよ、と手渡してくれたのは、三つ折りになったコピー用紙だった。
「待ってたでしょ、メールの返事ですよ」
そう言って今度こそ去っていく南雲に礼を言うことも忘れて、千畝はA4用紙をおそるおそるひらく。
(──喜多嶋先生!)
『朝岡千畝さん。メールをくださったこと、本当に驚いたけれど、本当に嬉しかった』
そんな書き出しで始まっていた。
『この春は、あなたにとっていろんなことがあった時期だったのですね。朝岡さんからのメールは、私にとっても考えさせられるものでした。十八歳未満の男女であれば、誰でもがかかりうる病気だというのに、私たち、子供と接する教師たちの、この、なにも知らなさ具合といったらどうなのでしょう』
あとでゆっくり、ひとりになってから、と思うのに、目がむさぼるように文字に吸い寄せられる。
『きつく反省して、今は勉強しています。勉強していてわからないことが出てきたら、朝岡さんに尋ねてもいいのかしら? それともメールで書けることにはなんらかの制限があるのかしら。そうしたことも、これから教えてください』
よかったな、と小さな声でカノが言った。
こくんと、千畝はうなずく。
その嬉しさが冷めやらぬうちに、再びカノが口をひらいた。
「頼むね」
「えっ?」
千畝が聞き返すと、カノは去っていく南雲の背中を静かに見つめていた。
「あいつは今、あたしのことしか好きじゃない。──だけどそれじゃ、走ってるネズミと一緒だろ」
「走ってる……ネズミ」
カノは指先で宙にくるくると円を描く。
「プラスチックの輪の中で、延々と走ってるネズミ」
「ええとそれは……ハムスター、ってことでしょうか」
「ネズミは一緒だろ」
相変わらず大雑把だなあと千畝は思ったが、言わずにおいた。
「どんなにそこで走り続けても、ネズミは前に進まないだろ。今のあいつも一緒だよ」
「……自覚がないところも、ってことですか」
「そうそう」
なんとなく、言いたいことはわかる気がした。
甘いハッピーエンドはやって来ない。満足感も達成感もない。報われる日も来ない。そんな終わりかたが見えていることのために懸命に走り続けるのは無駄だとカノは言いたいのだった。
「だから、あいつのこと、頼むね」
「えっ……ええと、それ私に頼むんですか……」
「千畝は知らないだろうから、知ってるあたしが教えてやる。あいつはここに来てから、美神にも、いのりにも、他の誰にも、本音で接したことなんてない。あいつが心をひらいてないのもあるが、あいつが閉ざした扉を強引に開く奴がいなかったのも確かだ。……お前くらいだよ、あいつにあんな顔させたり、書類わしづかみにしたまま廊下を全力疾走させたりしたのなんて」
「……っ」
これに、千畝は顔を赤らめてうつむくしかなかった。
こんな時、なんて返すのが正解なのかわからない。嬉しいような、気恥しいような気持ちで千畝が言葉を選びかねていると、カノはぐいと千畝の腕をつかんで、自分の方へ引き寄せた。千畝の肩とカノの肩が軽くぶつかる。
抵抗できないくらい強い力だったのに、少しも痛くはなかったし、長い彼女の爪は微塵も千畝を傷つけなかった。
カノはそうして千畝を自分へ近づけておいてから、千畝の耳元に口を寄せると、小さな低い声で付け加えた。
──手ごわいくらいの女の方が、あいつ好きだよ。
「カノっ!」
今度こそ千畝は真っ赤になった。
千畝が後じさると、カノは笑いながら立ち上がった。
だってほんとうだもーん、と言いながら去っていく。
その口元からは白くて尖った犬歯が覗いているけれど、さっき耳元でささやかれた時にもその犬歯がかすかに当たる感触があったけれど、少しも怖いと思わなかった。むしろ、くすぐったいような、照れくさいような、それでいてどこか誇らしいような、憧れと眩しさといとしさが複雑に混ざりあった気持ちだった。
ささやかれた耳を手で押さえながら、千畝は、どうしようもなく赤くなっていく顔をどうにもできないでいた。
(まったくもう……この姉弟は)
不覚にもカノに対してドキッとしてしまったのは、もう、一生内緒にしておこうと思った。
千畝はこれから保護官になるための訓練と教育を受けていきます。
自分が先に進めば、できることも多くなる代わり、課題も大きくなっていきます。
でも、その大きくなった課題をクリアできる自分になること。それが成長することの一番のご褒美だったりするのかなと個人的には思います。
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