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第4章 どうしてこんなに嬉しいの 5 千畝の予想 

あっそういえば、この人の本名まだ知らない、と思ったが、そこを尋ねるよりも今は先に聞くべきことがあり、どうしてもそちらの方が優先だった。


だって彼女は、内線をかけても「はいミシュランです」と出るし、南雲に聞いても、「知ってますよー。知ってますけど、内緒」とか言われてしまうし。


なので千畝はやむを得ずそのまま続けることにする。


「いのりさんは、感染はしていても発症も発病も変異もしていないですよね」

「そうね」


「それは一時的なことではなく、ここでワクチンを受けている以上、この先もずっとしないままでいられるんじゃないかと私は思っているんですけど、間違ってますか」

「断定はできないけど、私も千畝ちゃんと同意見よ」


よかった、とまずはほっとする。

ここまでの予想は合っていた。だとすると。


「私もおそらくそうですよね。ここでワクチンを継続して打ってるから、きっとこの先も発症は抑えられる。だから発病もしないし、当然変異もしない」


「素晴らしい」

ミシュランは小さくうなずいて褒めた。


「パーフェクトな言葉の使い方。感染と発症と発病の違いをあなたは正確に理解している」


「でもヨナは……ヨナはあのままワクチンを受け続けていたら、死んでいたんじゃないですか」

ミシュランは微動だにしない。だがその沈黙こそが肯定をあらわしていると千畝は思った。


やはり、そうなのだ。

おそらく千畝の予想は当たっている。あのワクチンは、感染者に対しては有効だけれど、変異が始まった個体に対しては死をもたらす薬なのだ。


千畝が彼女を見つめていると、ミシュランは、どこかさみしそうな微笑を浮かべて千畝を見返していた。


千畝は続ける。

「そして、ヨナが生きていることを、どこか外部に知られると……なにか、すごく、良くないんじゃないですか」


やはり、ミシュランは答えない。

「もし私の考えが間違ってるなら言ってください」


やや時間を置いて、ゆるゆるとミシュランは首を横に振った。

「……だめ。守秘義務があるの」


(守秘義務……)


そっか、そうですよねと答えながら、千畝は頭の中で鮮やかになにかがつながったような気がした。

ここで、そういう答え方をすること自体が、むしろ答えだった。


「ごめんなさい、これ以上は、話せないの。私は否定も肯定もできない……」

「いいんです」


彼女にこれ以上言葉を飲み込ませたくなかった千畝は急いでそう言う。

彼女が後で、色とりどりのドーナツを押しこむように口に入れる場面が目に浮かんだ。あんなふうには、させたくない。自分のせいで、あんなふうには。


「もちろん当然です。医療従事者としてごく当たり前のことです。すみません、今のは、私の質問が良くなかったです」


千畝は少し考えてから違う角度で切りこんでみた。

内緒ねって言われたのにごめんなさい、といのりに心の中で謝りながら。


「ミシュランさんは、カノが相手の時は、どんなことを話したとしても、ドーナツも壁もなしでいいんですよね」


「千畝ちゃん……」

どうしてそれを、みたいな顔をされた。だが構わずに千畝は先を続ける。


「それは、カノとの間には、もう隠すべきことがなにもないからですよね。なぜってカノは保護官だから。私に対してなにも言えないのは、私が単にいち感染者だから。でももし」


私が、保護官になれば。

そう続けようとした千畝の言葉は、思いのほか素早いミシュランの言動によって阻まれた。


「だめ、千畝ちゃん」

そう言いながらミシュランは、両手を伸ばして千畝の頭を自分の胸元にかきいだいた。豊満な腕と体に包まれて、千畝はなにも言えなくなる。


「やめて、……つらいのよ、あれは」


ここにきてから……いや、感染がわかってからこっち、そんなふうに抱きしめられたことなんてなかった。


千畝はここに来る途中のJRでの母とのやりとりを思いだす。

硬いよそよそしい空気で、抱擁はおろか、あたたかい会話すらままならなかったことを。


母親ですらできなかったことを、仮にも感染者に対してそんな簡単にできるだなんて、さすがはプロフェッショナルだと、千畝は変なところで感心した。


「そんなこと言わないで。そんなこと言わせるために、ここに連れてきたんじゃないの」

「……わかってますよ」


ふわふわした体に抱きしめられているのは思いのほか気持ちよくて、千畝はそっと自分からも彼女の背中に手を回しながら口にした。


「保護官になるって、簡単なことじゃないんだろうってこともわかってます。……きっと、つらいんでしょうね」


ミシュランがこくこく頷いているのがわかる。

でも、と千畝は思った。


(でも……この、プロフェッショナルで、同時にそれと同じくらいやさしいこの人がしてくれる処置なら、つらいことでも、きっと怖くない)


自分の気持ちに迷いがないことを、最後にもう一度だけ確認してから、千畝は口をひらく。


「でも。つらい時もミシュランさんが一緒にいてくれるんですよね。……この間のカノにしてあげてたみたいに」


「千畝ちゃん」

ふっと抱きしめていた腕から力が抜けて、ミシュランの体が離れてゆく。


ミシュランは、表面積の割に大きなぱっちりとした目をいっそうまんまるに見開いて、千畝の顔をまじまじと見つめた。


ああやっぱりそうなんだと思いながら、千畝は自然と笑顔を浮かべていた。

この人のやさしさに、そしてカノが人知れず耐えている苦しさに、胸が熱くなる。


「あれは……カノから薬を抜いてたんですよね。私の想像ですけど、保護官になるっていうのは、健全な体になにかしらの薬を投与して、変異体と同レベルの身体能力を与えることなんじゃないですか。そして当然、そんなことを長期間にわたって続けていたら体は消耗するから、定期的に薬を抜く期間を設けなきゃいけない……カノが、いない時はずっといなくて、研究所にいる時は割とまとめてずっといるのは、そういうことなんじゃないですか。……そして多分ですけど、その薬は打つ時だけじゃなくて、抜ける時も相当苦しいんじゃないでしょうか。ヨナに聞いたんです。変異が起こる時はめちゃくちゃ痛くて苦しいって。変異が起きる時にも苦しいなら、逆の時も同じくらい苦しくてもおかしくないですよね。──そして、だからミシュランさんはこの間、薬の抜け待ちで一晩じゅう苦しむカノに、ずっとついていてあげてたんですよね」


見開かれた瞳はまばたきもしない。


息をするのも忘れたようなミシュランの手を、千畝は自分からぎゅっと握りしめた。


「ミシュランさんのつらさを共有する相手が私なんかじゃ、物足りないかもしれないですけど。……でも私、発症も変異もしないで元気ですよ。それって、ミシュランさんが打ってくれたワクチンのおかげだと思うんです」


私、頑張りますからと千畝は言った。


驚きから醒められないでいるミシュランが口を半開きにして聞いているのに、重ねてたたみかけるように。


──私、頑張りますから。


「だから、一緒に仕事をさせてください」


◇◇◇


食堂には、カノが椅子に斜めに腰かけていた。


背中ではなく肩のあたりで椅子にもたれて、テーブルの下に足を投げ出し、どう見てもお行儀の悪い格好で。


カノの前にはうずたかく食べ物が乗っている。


グリルチキンがぱっと見ただけでも三切れ、カレーライスは大盛り、さらにその上にボイルドソーセージが無造作に何本も乗っかっている。温野菜のサラダとマカロニサラダが絶妙な均衡を保ってこぼれずに同居している器の横には、ふちぎりぎりまでヨーグルトが入った器がある。出汁巻き卵と焼き鮭が積み重なっている皿もある。


トレイが一枚では足りないらしく、二枚のトレイを前にして、カノはほとんど機械的な手つきでそれらを口に運んでいる。


いつものカノの食事風景だった。


栄養とか、盛り付けとか、成人女性の適量とか、そんなことは言うだけ無駄とひと目でわかるような食事だ。


もうここに椅子持ってきたほうがいいんじゃないのかい、と食堂のおばさんに言われているのを目撃したことがある。カノは真顔で、そうかもね、と言っていた。千畝も以前一度、そんなにたくさんどこに入るんですか、と尋ねてみたことがあるが、「食わな、やっとられん」というのがその時のカノの答えだった。


誤解していた、と千畝はカノの背中にそっと近づきながら思う。


自分を罰したり、なにかの代償行為として大量に食べているわけではなくて、人為的に変異を繰り返すカノの体は、普通よりもたくさん食べなければ物理的に体力を維持できないのだ。ミシュランがドーナツをたくさん食べるのと、カノのこれとでは、そもそもの意味が違うのだ。


「カノ」


たいしておいしくもなさそうに温野菜を二つ三つまとめて口に入れるカノに、千畝は声をかける。

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