第1章 この人にうっかりときめいた自分を殴りたい 3 憧れのいのりさん
てっきり、会議室のようなところに通されるとばかり思っていたのに、案内されたのは広々とした屋外のベンチ席だった。
「今日は、朝岡さんの他にもう一組いらっしゃるので」
そこには、まるでリゾートホテルにありそうな、なだらかな曲線を描く石づくりのベンチがあって、ピーコックグリーンのクッションがいくつか散らしてあるのも研究所なんかではなくてリゾートの庭園みたいだった。
そして千畝たちからはやや距離を置いた隣のベンチに、もう一組の親子がひっそりと座っている。
「天気もいいですし、こちらでご一緒に説明させていただきますね」
天気──いいかな? と千畝は空を見上げた。
雨こそ振っていないけれど、上空では風が強いらしく、雲の流れが早い。
だが南雲はそんなことには気づかぬていで続ける。
「今、飲み物が来ますので」
千畝は先に来ていたその親子に軽く会釈し、こんにちは、と声をかけてからベンチに腰掛けたのだが、相手はうつむいたまま返事をしなかった。
あんまりじろじろ見てはいけないと思うものの、千畝はその親子から目が離せなかった。
母親と一緒にいるのは事実上十七歳以下の子供のはずだが、大きなサイズのパーカーを着て、フードで顔を隠しているため、ぱっと見には年齢もわからなかったし、男の子なのか女の子なのかもわからない。
(あの子……あれって)
その子の両手はだぶついた袖の中にすっぽり包まれている。まるで指先を隠すために、わざと大きめのサイズを選んで着ているみたいに。
千畝の脳裏に、ゆうべスマホで検索している時に見た、凶暴なイラストが浮かぶ。長い爪、ごつごつした手の甲、そして野生動物みたいな牙。
(まさかね……まさか。単純に顔を見せたくないだけだよ)
そんな想像をしている自分こそが失礼だ、と思い直して千畝は隣の親子から目をそらす。だが母は、こちらを向こうともしない隣の親子に対して露骨に眉をひそめた。
「なあに、あれ。せめて挨拶とかしないわけ」
「お母さんたら」
声が聞こえやしないかと千畝はひやひやした。
「だってそうじゃない、お互いに情報交換とか、普通するでしょ、こんな状況なんだもの──」
「お話し中でした?」
話を遮ったのは、若い女性の声だった。
細いなめらかな手が、テーブルの上にカップとソーサーを置いていく。
「コーヒーですけど、よかったら」
その人の顔には見覚えがあった。
(いのりさん……いのりさんだ……)
絶句する千畝の横で、母もまた、毒気を抜かれたように目をぱちくりさせていた。彼女は千畝の前にもコーヒーを配りながら、やさしい声で言う。
「今、お砂糖とミルク持ってくるからね」
「いえ、ブラック好きです! ……いっ、いのりさん」
私のこと知ってるの? というようにその人は眉をあげて、それから、目尻をちょっと下げて笑った。
「ありがとう」
そこにいたって、母はようやく小首をかしげて口にした。
「あなた……きれいなひとね」
「そうですか、どうも」
いのりはさらっと笑顔で返したが、千畝は心の中で、きれいなひとどころじゃないよお母さん! と大声で訂正したかった。
お母さんったら、この人、モデルのいのりさんだよ! CFもいくつもやったし、お母さんもそれ見てきれいねえって言ってたじゃない!
それだけじゃない。一時は雑誌の表紙がこの人の顔だらけだったし、映画にも出たことがある。
(ここしばらく見かけないなと思ってたけど……そうか、ここにいたのか……)
そわそわする千畝に目を止めて、その人は『気にしないで』というように笑ってくれた。
その笑顔に、胸がときめく。
千畝は思わず、携帯の入ったバッグを膝の上でぎゅっとつかんだ。
千畝の携帯の待ち受けはこの人だ。もう二、三年前からずっと変えていないのだが、なにしろこれを超えるお気に入りが出てこないから、仕方がない。いのりの新しい画像を探そうにも、ある一時期を境に、ぱったりと活動しなくなってしまったから。
(いのりさん、私……ずっとファンで……ギャラクシースマートのあの画像、ずっとずっと待ち受けにしてます……!)
その時彼女が着ていたのは、ビリジアングリーンに薄手の黒シフォンを重ねた、銀河を思わせるドレスだった。当時まだ十六歳だったけれど、大胆に肩を出したドレスを堂々とまとって、素肌の露出以上に、凛としたかっこよさが際立っていた。
十五秒ほどのコマーシャルの最後に、広告のメインである携帯機種の黒を手に持ち、隠していた口元からゆっくりと離して笑う、そこのシーンが特に好きだった。大げさでなく、訓練されて作りこまれた笑顔なんかでもなく、こわいくらい整った顔立ちで、そこだけ垂れぎみの目尻を下げてほんの少しだけ笑う。そこにある空気ごと柔らかくするみたいに。
その動画が本当に本当に好きで、何度も繰り返し見ているというのに、見るたび、今でもドキドキする。
彼女はテレビの取材なんかでも、低めの落ち着いた声でゆっくり喋るし、その話しぶりも知性を感じさせるので、本当に安心してファンでいられたし、応援していた。──そんな憧れの人に、こんなところで会えるなんて。
「南雲、まだあるんだけど」
からになったお盆を胸の前で抱くようにしていのりは短く言ったけれど、彼らの間ではそれで十分通じるらしかった。
「ああ、うん──はい」
返事というにはおかしな返事をして、南雲が彼女と一緒に建物の方へと歩いていく。
きっと、持ってくるものが他にもあるってことなんだろう。ひとりじゃ持ちきれないから手伝ってよってことなんだろうな、と千畝は少し考えて、立ちあがった。
「お母さん、ちょっとお手伝いしてくる」
「あら……そう? そうね」
きれいに整えられた芝生を踏んで、千畝は先を歩く二人を小走りで追いかける。
すらりと背の高いいのりと南雲が並んでいるところは、ひどく絵になっていた。互いに真剣な顔でなにか言いあっているのも、いい。──そう思った時。
「だいたい、なんでわざわざ庭なわけ」
いのりの声が風に乗って聞こえてきて、千畝は思わず足を止めた。
「それはまあ──状況を鑑みてあそこが一番いいかなと」
「会議室、今、大穴あいてるから?」
(お、大穴?)
思わず千畝は耳を疑い、ついでになぜか、建物のくぼみに身を隠してしまった。別に、隠れる必要なんてなかったのに。
二人は立ち止まって話しているようで、その声が反響して千畝のいるところまではっきり聞こえてくる。
「それもありますけど、もう一組の方はかなり変異が進んでいるので、あまり屋内に案内したくなくて」
「そうね、会議室の修理追いつかないものね。でもこないだ壊したのはあれ、カノよ」
「え、違いますよ。変異体が暴れて」
「またかばうし」
(変異……変異って言った……?)
千畝の心臓が、嫌な感じでドキドキしていた。
黙りこんでいた隣の親子。そこに残してきた母のことが気にかかる。
「ともかく、変異体がリミットを超えて暴れだした時に、狭い場所だと、他の人を傷つけかねないですから」
「ものすごく、お茶が出しづらいんだけど。段差あるからワゴンも使えないし、給湯室からやたら遠いし」
「それはもう……本当にすみません」
「あんた手伝いなさいよ」
「手伝うのはいいんですけど、僕が席を外すのってよくないかなあ、と」
「どうせカノを待機させてるんでしょう、南雲がいるってことはカノもいるものね」
二人はまだ話していたが、千畝は手伝いを申し出るどころではなくなって、元いた場所へ駆け戻った。
「お……お母さんっ」
「あら、なあにバタバタして。落ち着かない」
雲の切れ間から日が差し込んで、母はまぶしそうに目を細めている。どこも、なにも変わりないのを確認すると、千畝はへなへなと隣に腰を下ろした。
「手伝うんじゃないの。あの人あんたファンだった人でしょう」
「お母さん、覚えてたの」
まあね。と母はうなずいた。
「こういう時はね、知らないふりした方がいいのよ。あの人だってお母さんが街へ帰って、輪王寺宮いのりがこの施設にいるのを見た、なんて、言いふらされたくないでしょう」
(あっ……)
言われてみれば、その通りだった。また会えた嬉しさと興奮で、つい相手の名前を呼んでしまった自分がいかにも子供っぽく思える。
「お母さんてさ、たまにかっこいいよね」
「なによ、たまにって」