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第3章 内緒だと美女は言う 6 じゃ助けてやる

その次の日。ヨナの様子は、昨日見た時と同様につらそうだった。


一晩眠って楽になるどころか、少しもよくなったように見えないのってどういうこと、と千畝はヨナがベッドから懸命に起き上がろうとしているのを見て眉をひそめた。


「ヨナ、あの、今日はお休みしたら……」


調子が悪そうなら内線で連絡を、と昨日ミシュランも言っていたし、と千畝が付け加えると、ヨナは安心するどころか余計に意地になって部屋から出ようとしはじめたので、ふらつく少年の体を千畝はあわてて支えなければならなかった。


「やっぱり無理だよ、今日はお休みしよう?」

「やだ」

「やだって……」


「休んだりしたら、あのでぶに鼻で笑われる」

「そんなことしないと思うけど……」

「するの」

ヨナは頑固にゆずらなかった。


「それに……今日行かなくても、明日は行かなきゃいけないだろ。明日でなければ明後日、必ず」

「え?」


「ずっと行かない、てのは多分……だめだと思うわ」

どういうこと、と千畝は言ったが、ヨナはもう歩くことに神経を集中させていて、答えなかった。

なんとしても行くつもりらしいヨナの様子に、千畝は急いで車椅子を持ってきて、なにかといやがる少年を強引に乗せる。


壁を支えにした手がぶるぶる震えているのを見たら、そうせずにはいられなかった。


検査室では、いつもの白衣姿のミシュランが準備万端整えて待っており、彼女は車椅子のヨナを見ても顔色も変えず、なにも言わなかった。

そんなミシュランのもとに、今日のヨナを残していきたくなくて千畝は言う。


「あの、私もここにいていいですか」

「あなた、検査の日だっけ。千畝ちゃん」

「違いますけど……」


じゃあなぜ? と彼女は小首をかしげる仕草をしたが、肉の厚みのおかげで首は少ししか傾かなかった。

「付き添いというか、励ましというか……」

ふうん、とミシュランは黒ぶち眼鏡を指で押し上げた。


「励ましてなんとかなる類のものではないんですが。まあいいでしょう、規約違反ではありません」


千畝は幾分ほっとしたが、ヨナの緊張はいっこうに解ける様子がないのが、車椅子のハンドルごしに伝わってくる。

そんなヨナをちらりと見下ろして、千畝はぎくりとした。


またあの色付きのもやもやが浮かんでいた。

千畝が変異体を見る時に、しばしば見える霧のようなあれのことだ。


変異による筋肥大を起こしても、それでも小柄なヨナの肩のあたりには、うすぼんやりと漆黒の霧が浮かんでいる。

絶望を感じさせるそのどす黒い色よりも、その霧が今にも霧散しそうなくらい薄いことのほうが気にかかる。


(体力が尽きかけてるんだ……)


千畝はこっそりヨナの顔を盗み見る。少年の視線はミシュランがトレイの上に並べているアンプル剤と注射器にあてられていた。


ミシュランはトレイの上に必要なものを全部出してしまうと、黒のナースサンダルの足元をしたしたいわせてヨナの前までやってくる。


「さて、具合はどうですか」

「悪いよ」

「でしょうね」

ミシュランは手元のバインダーになにやら記入する。


「なにか言いたいこと、もしくは聞きたいことは?」

「こンの、くそでぶドS……」

「くそでぶどえす……と」

憎まれ口には顔色ひとつ変えることなく、彼女は律義に言われたことを書き写していく。


淡々としている彼女に、千畝の方が黙っていられなくて思わず言ってしまった。すみません、ヨナが口悪くて、と。すると彼女はバインダーから顔をあげて、「罵られるのには慣れているので」とだけ言った。


厚い眼鏡に純白の蛍光灯が反射して、瞳の表情は読めなかった。

とりつくしまがないように思えた。


ミシュランは意地悪はしていないし、聞かれたことにも答えているのに、なぜだろう、ひどく冷たいなにかを感じる。


どうしたらいいかわからなくて、千畝はすぐそこにあったヨナの手に自分の手を重ねた。この、やけに冷たい空気からヨナを守りたくてとっさにしたことだったのだが、ヨナはなにも言わなかった。

おや、と千畝は意外に思う。少年の性格なら、子供扱いするなとか、なんだようっとうしいなとか、言ってもおかしくない場面だったから。


ほどなく、千畝ははっと理由に思いあたる。

それは従順に受け入れてじっとしているのではなくて、余計な体力がもうないから、千畝がしたいようにさせているのかもしれないと。


(もう──本当は声を出すことすらつらいんだ。ミシュランさんにいつも通りの憎まれ口をきくのは……弱っている自分を見せたくなくて、悟られたくないから、わざとなんだ……)


千畝は思った。それって、相当つらい状況なのではないか。


ふれてみた少年の手の甲がやけに冷たかったことも、千畝を不安な気持ちにさせた。

ここへ来たころに習った。変異体は体温がひどく高いのだと。カノの体だってそうだ。さわると熱があるみたいに熱い。だが今日、ヨナの手はひんやりとしている。


(──どうしよう、怖い)


なにがどう、とは言えないのだけど、この明るくて清潔な部屋が今日に限って落ち着かない。

千畝の鼓動はどんどん早くなっていく。

自分が検診を受けていた時は、そんなこと少しも感じなかったのに、同じ部屋なのに、今日はやけに、怖かった。


ミシュランは、てきぱきと注射の用意をしている。ヨナの腕を消毒する。注射器の個別包装をやぶく。薬剤を吸い上げてヨナに近づく。ヨナの体が目に見えて緊張する。肩口の漆黒のもやもやが震えるように動く。


「あの……」

我慢できずに千畝は言った。


本当はこの人の名前を呼びたかった。だけどそれらしきものはどこにも見当たらないし、最近では本人も内線をかけると「はいミシュランです」と出るし。


「あの、ミシュランさん、ちょっといいですか」

注射器の針先が間近に迫ってくるのを、千畝は自分の手を割りこませてとめた。

「なに?」


「その薬って……それって、こんなに具合が悪くてもどうしても打たなくちゃだめですか」

「だめですよ」

にべもない答えだった。


「ちょっとひにちをあけてもらうとか……その、素人がこんなこと言うのあれですけど、量を減らしてもらうとか、できないんでしょうか」

「できません」


今度の答えも素早かった。

それは考えて言っているというよりは、機械的にそう言っているように千畝には聞こえた。


(そんな……っ)


「ちょっと、待ってもらえませんか、ミシュランさん」

「ちょっとなら。あんまり時間立つと、針先に雑菌つくのでだめですけど」

「この子……私が連れてきた子なんです。だから私にはある程度この子に対して責任があるって、そう思っていて」

動揺のせいで、うまく言葉がつながらない。だが千畝は懸命に言う。


「こんなに、苦しそうなんです。その薬打つの、ちょっとやめてください」

「だめです」


「確かに私は専門的なことはわからないですけど……」

「わからないのなら、黙っているべきだと思いますよ」

「でもっ……!」

千畝が少し大きな声を出した時。


「なあに、朝から揉めてんだよお」

やけにのんびりした声がして、千畝は声のした方を振り向く。


ドアにもたれるようにして、カノが立っていた。


カノは眠そうに大あくびをする。尖った大型の牙が丸見えになるのを、隠そうともせずに。

うわまたやなやつ来た、みたいにヨナが眉間にしわを寄せた。


「あ? あたしか? なんで朝っぱらからこんなとこ来てんだってか? うちの同僚の様子見に来たんだよ、やさしいおねーさんだろ、文句あっか」


聞かれてもいないのにカノははしからはしまで自分で全部言うと、大きな歩幅で歩いてきて、片手でヨナのあごをつかんで仰向かせた。

そして、ヨナが嫌がる前にぱっとその手を離すと、今度は千畝に向かいあった。


「千畝。お前このチビを助けたいの?」


(助ける……)

その言葉が一瞬引っかかったが、今は迷っている場合ではなかった。千畝は大きくうなずいて、それでは足りないと思い直して声にも出す。


「助けたいです」

「よし。じゃ助けてやる」


カノはミシュランの方へ顔を向けた。


「そのワクチン何日目?」

「……二日目」

「じゃ、まだ戻れる」

「だめだってば」


二人は必要最低限の言葉で言い合っているので、千畝には意味がよくわからない。だがカノは、まるで人を騙し慣れた詐欺師みたいに言葉を重ねていく。


「だめじゃないよ。あたしが失敗したことあったか? ないだろ? 思いだしてみな?」

ミシュランは大きなため息をついた。

「だめよ。だって症例数はもう連絡済みなんだもの。検査内容だってチェックされてるから……途中でやめることは私にもできない」

できるさ、とカノは言った。


「早急に、あたしが変異体をもう一体見つけてきてやる。──内緒でな」

ぐっ、とミシュランが詰まる。


「今回、うちの同僚にけがを負わせた挙句、結局逃げたやつがいる。それをとっつかまえて、そこのチビの代わりにすればつじつまは合うだろう。違うか」

「あなたが、そこまでする義理は」


「ないさ?」

カノの言葉に迷いはない。


「あたしはお節介を焼いて、千畝の頼みをひとつきいただけだ。この前の現場でこいつはなかなか役に立ったからな。相応の労働に値するご褒美は必要だろ?」

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