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第3章 内緒だと美女は言う 5 ヨナの見た夢

カノはわずかに沈黙した。千畝は続ける。


「私、自分が置かれている世界の真実が知りたい。だから、ものを買ってもらう代わりに、ひとつ質問してもいいですか」


カノは真顔で、「真実が知りたい、か……」とつぶやいた。

だが、さほど待たせず千畝に応じた。

「いいよ」


「さっき、けがした人が運ばれてきましたよね。……ということは、今現在関東支部で動ける保護官は、カノともうひとりだけってことになりますよね」

カノはまたちょっと目を見開いてから、ふと思い至ったように、ああ、南雲が話したのか、と言う。


「だとしたらこの先しばらくの間……カノたちにはものすごく負担がかかってしまうんじゃないんですか。いえ、負担以前に、この研究所では、どうにかして保護官の数をひとりでも増やしたい、そう思ってるんじゃないですか?」


「──それが、お前の質問?」

「はい」


「そうだよ」

あっけなく、カノは言った。


「お前の仮説は当たってる。イエスだよ」

ほっと、千畝は知らず知らずのうちに緊張していた肩から力を抜いた。


「答えてくれて、ありがとう」

そう言って千畝が話を終わりにしようとした時。


「千畝」

「はい?」

「ひとつ、言っておく。たとえ保護官の数が不足してようが、研究所からの強い要望があろうが、お前が心配することはなにもないよ」

「カノ……」


「何十体、変異個体があらわれようが知ったことか。全部まとめて片っ端から持ち帰ってやる」

その言い方は自信ありげで、堂々としていて、思わず納得してしまいそうになって千畝はくすりと笑った。


「この前みたいに?」

じたばた暴れようとする変異個体は、既に人を三人殺していた。その個体をカノは片足で押さえつけていたことを思いだす。

「そうだ」


「カノが強いことは知ってますよ。この目で実際見ましたし。でも……強いからって、誰もあなたをサポートしなくていいわけじゃないでしょう」


思ってもいなかったことを言われた、というようにカノが千畝の顔をじっと見る。

カノはずいぶん長いこと、千畝を凝視していた。

あまりにじっと見られるので、かえって千畝の方が落ち着かなくなってきた頃。


「そういえば。あたしも千畝に聞きたいことがあった」

「なんですか?」

「この前の公園で、あのチビが殺したんじゃないって、なぜわかった」

「なぜって……」


「あれから南雲に聞いたが、変異のすすんだ個体相手に、まっすぐ近づいていったそうだな」

「ごめんなさい……」

責めてんじゃねぇよ、とカノは言った。


「怖くなかったの?」

千畝は小さくうなずいた。ヨナに対して怖さはなかった。今もない。

「それは、なんで」

「えっ」

千畝は答えようとして言葉に詰まる。


だって、肩のあたりにそういう気配が見えたから。とも言えない。

自分自身ですら見間違いだったかと思っているくらいなのに、それを他人にうまく説明できる自信はなかった。


それで返事ができずにいると、カノはしばらく千畝をじっと見つめてから、

「ま、いいか」

と言った。


「なんでも言語化して明晰に語れることばかりじゃないよな。言いづらければ、いいよ、言わなくて」

やさしい声が降ってきて、千畝はカノを仰ぎ見る。


「ただ、これだけは言っておく。あの時お前がいてくれて、助かったよ」

「カノ……」

「そんじゃな」

カノはぽんとひとつ千畝の頭を軽く叩くと、立ち去っていった。


(助かった、って、言ってくれた……)

千畝はカノの後ろ姿を見送りながら、どこか熱に浮かされたような頭で考えていた。


(そうなのかな……私が、本当にカノの役に立てた……?)


どうしてこんなに嬉しいのかわからない。

だが、ひとつだけわかったことがあった。


はじめて会った日も、あの公園についていった日も、いつも、どうしてカノを見るとどきどきするのか。

それは、憧れだからだった。


こんな場所で、あんな形相で、それなのにカノは自分を哀れんでもいなければ自暴自棄にもなっていない。


そんな姿勢は今の千畝にはないもので、だがいつか、そういうふうになりたいと思っている、それを体現しているのが、カノだからなのだった。


◇◇◇


「俺、コタローって自分の名前大嫌い」

「あらどうして」


ヨナは自分が夢を見ているのだと知っていた。

だって、昔から診てもらっている内科医の小町先生の顔が、今より少し若いから。


小町先生は、ショートヘアのよく似合う化粧っ気のない顔をほころばせる。先生の笑顔がヨナは好きだった。

「かっこいい名前だと思うけど。武士みたいで」

「それが、やなのっ」

ヨナはむきになって言い返す。


大学病院時代の夢だった。

もともと体の弱かったヨナは、季節の変わり目になるとよく喘息の発作を起こす。体質改善の注射を毎月打ってもらっていても、年に何度かは大きな発作を起こして、大学病院に運ばれるのがいつものことだった。


「こんな体弱いのに……名前だけ武士っぽいとかさ……かっこ悪いじゃん」

「体が弱いのは君の責任じゃないし、これからどんどん強くなるよ」

「うそだ……」


「嘘じゃない、私が診てるんだからね、絶対大丈夫、保証する。なにしろ前期研修生時代に産婦人科をまわった時からの付き合いだもの。君は私が取り上げた最初の赤ちゃんで、最初の患者さんで」

「もーまたその話……」


すんなり生まれてほっとしたのもつかの間、あなたはちょいちょい死にかけて、あわてて酸素ベッドに突っ込んだものの、容態の変化も著しく、目が離せなかったと小町先生は懐かしそうに笑う。おかげで次の科にまわったあともあなたのことが気がかりでならなくて、何度も様子を見に行ったものだと。


「あの頃に比べたらずいぶん体も強くなったよ?」

その話をされると、ヨナはぐうの音も出ない。


いつも気恥しくて、言うのよしてよと言いたいけれど、同時にくすぐったいような嬉しさもあるため、言えないでいる。


「生まれた時から君のことを見ている医師として言わせてもらうけど……大人になって今よりも体力がつけば、ぐっと楽になるはずだよ。もちろん、無理はこの先も厳禁だけど」

「…………うん」


「それに名前で言うなら私もおんなじだし」

「え?」

「美人じゃなくても一生小町だもん」

「せんせ……」


「はい腹式呼吸続けて。教えたでしょ。苦しいからって浅い呼吸続けてたらずっとそのままだよ。ほら、肩に力入ってる。抜いて。少しずつでいいから、ゆっくり深くまで吐いて」


発作を起こしたヨナに、もっと大きく吸って、とか、胸を張って深呼吸して、とか言う医師は多かったものだが、そんなんできたら苦労してねぇよ、とヨナは子供心に苦々しく思ったものだった。

吸いたくても吸えないから苦しんでんだよ、と言ってやりたかった。


『もう少し、深く吐いてみようか』

小町先生だけが逆のことを言った。


『ちょっと我慢して、いつもより深いところまで息を吐いてみよう。まずは吐いてからでないと酸素も入ってこないからね。……そうそう、吸う時苦しくなったら、一回だけそこであきらめないで、息を止めてこらえてみて。そして自分を落ち着かせてから、もうちょっとだけ吸おうとしてみて。──ほら、少し楽でしょ』


それからずっと、彼女が外来に出る月曜日か火曜日を狙って通院している。受付でももう心得たように、ヨナのカルテは黙っていても小町先生に割り振ってくれる。

先生はそばにいる看護師に、年取ったら小町ばーさんよ、どう思う? なんて言って笑っている。


(──先生は、美人だと思う)

って、さすがに言えなかった。


言っておいたら良かったと今は思う。


「俺なんて。中学生になっても大人になっても、どんだけ背伸びてもコタローだよ。チビって名前つけたのに、どんどんでっかくなる犬みたい……」

あんな、どうでもいいことばかりしゃべるんじゃなくて、もっと大事な、本当に言いたいことを、言える間に言っておいたらよかった。


どんなに恥ずかしくても、すぐ横に看護師がいても。


「それだけおしゃべりできるなら、酸素吸入はもういいかな、与永くん?」

「やだ……」

「今日はこのへんで終わっとく?」

「やだ、まだ……」

「あはは、だよねえ」


先生は、ヨナが嫌だと言ったことは覚えていて、次からもずっと名前ではなく名字で呼んでくれた。

そんな大人は、当時ヨナのまわりにいなかった。


だからヨナは、ずっと先生のもとへ通い続けた。彼女が独立開業して、自分の名前のクリニックを持ってからも、ずっと。


(先生、俺ね……)


夢だと自分でもわかっていた。幸せだったころのやさしい夢だ。


(先生のことすげえ好きだよ)

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