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第3章 内緒だと美女は言う 4 容体の急変

「なあに」

「くいたくない」


「うん、わかった。食べたくなったら、ね」

「くいたくない」


ヨナは繰り返した。細い声には隠しようもなく不安がにじんでいる。千畝はできるだけやさしくそっと言った。


「ん、わかったよ。今はしばらく休んでいて」

「午後……」

「午後いちのは、午前中の検査結果もらうんでしょう。それ、私が行くから。ヨナはここにいていいから」

「うん……」


それっきりヨナは話さなくなった。

声を出すのもつらいらしい。


千畝は少年にタオルケットをかけてやると、そっと部屋を出る。


(私の時は……あんなふうじゃなかった)

ヨナといる時は顔に出さないようにしていたものの、ひとりになると自然、眉間にしわが寄ってしまう。


だって、あんな、つらい検査ではなかった。

ことさら体調が悪くなったという記憶もない。


(先月のことだから覚えてる……確かに面倒だったし忙しかったけど、立てなくなるようなことは……なにも)


「ああ、それはあなたの時は簡単でしたので」

午後になり、検査室のミシュランに疑問をぶつけると、白衣姿の彼女からはそんな答えが返ってきて千畝は眉をひそめる。


「簡単……」

「そうですよ。症状としても非常に軽くて、もう教科書にのせたいほどの模範的な初期感染者でしたから」


(……今のは、なんだか)


褒められたというより、ありきたりで面白みがないと言われたような気がして、千畝はその考えを振り払う。

いやいや、そんなわけない。症状が軽いのは良いことではないか。


「はい、じゃこれ検査結果です。もし明日になっても調子が悪いようなら内線で連絡くださいと伝えて」

「わかりました。あの……」

「なに?」


「私がかつてした一週間検診と、今回ヨナが受けている検診の内容は、同じものですか?」

ここへ来る間考えて口にした質問に、ミシュランはすんなり、「そうですよ」と答える。


「使ってるワクチンとかも……一緒ですか」

「もちろん。同じものよ」


(と、いうことは……私のような初期感染だとなんでもないけれど、変異個体だとあんなに苦しむと……そういうこと? それとも今回のことはそれとはまったく別のことなの?)

黙りこんでしまった千畝に、ミシュランはうながす。


「他にも、なにか?」

「あのっ……」


千畝が言いかけた時だった。バァン、と検査室のドアが荒々しくあけられる。

「おーい」

カノが検査室のドアを蹴り開けたのだった。


「ミシュラン、手、あけろー」

「今手あいてるか、じゃないのね」

「誰がそんな悠長なこと言うか」


千畝が脇によけたすれすれのところを、カノは担架を押して入ってくる。

担架が通りすぎた瞬間、焦げ臭いような鉄の匂いが千畝の鼻をかすめた。


そこに乗っている人には毛布がかけられていて顔は見えなかったが、毛布からはみ出している手には、カノが仕事の時にしていたのと同じ、指なしのグローブがはまっている。


(この人……も……保護官、なの?)


カノはさっさとその人を担架ごとミシュランに引き渡したので、見えたのは一瞬だった。それでも、黒のグローブにも指先にも、血がこびりついて乾きかけているところを、千畝は見てしまった。


(どっちの……血……)


「んじゃ頼んだよー」

カノはミシュランにひらひらと手を振ってきびすを返すと、そこでようやく千畝がいるのに目を止めた。


「お、千畝。元気でやってるか」

「元気です。カノは……採取とかしてたのでは?」

そこまで知ってんの? というようにカノのいつもの白濁した目が見開かれる。


「南雲は採取してたよ。あたしとさっきの同僚は変異体おっかけてたけど」

話をしながら、千畝は自然、カノと並んで歩く格好になる。そうして並ぶと、カノは千畝よりも頭半分くらい背が高かった。


「カノは、けがとかないですか」

「はっはっはー」

それは返事になっていない気がしたが、千畝が見る限り、カノの体に負傷の痕はない。


「けががないなら良かったです……あの、さっきの人は、大丈夫なんですか」

「大丈夫だろ。あいつ見た目はマシュマロお化けみたいだけど腕は確かだもん」


(マシュマロお化け……)

とある有名な幽霊退治映画の主題歌が千畝の頭に浮かんで消えた。


「最近はなあ、抵抗の激しい個体が増えててなあ」

カノは両手を上に伸ばして、大きく伸びをしながら言った。

「あっちでもこっちでも保護官の負傷が相次いで、大変だよ」


千畝は先日の四ツ岩公園で見た、ヨナでない方の変異体のことを思いだしていた。カノに押さえ込まれても、しつこく牙をむいて、隙あらば反撃しようと油断なくうごめいていた。


そういえば、と千畝は今更ながらに思いあたる。

あの、もう一体の変異体の気持ちは千畝にはまるで読めなかった。怖い、としか思えなかった。ヨナの気持ちはあれほどはっきりわかったのに、不思議なことだった。

だが今はカノに別のことが聞きたかったので、千畝は心に浮かんだ疑問を脇へ押しのける。


「だから……カノはあの時、私たちを置いてワゴン車に乗ったんですか。少しでも早くあの個体を隔離したかったから? そして私やヨナのことは、ゆっくりでも支障ないと思ったから?」


「そうだよ」

静かな声でカノは答えた。

「よくわかったな」


変異した、普通に考えたらおそろしげな顔が千畝を見つめている。

なのに、慈しまれていると感じるのってなぜだろう、と千畝は思った。


やさしく自分を見つめるカノのことこそを、思いきりぎゅっと抱きしめたい。私がじゃない、気遣われるべきなのはあなた。それをきつく抱いた腕の力でこの人に思い知らせたい、という気持ちが体の奥底からむくむく込み上げてきて、千畝は急いで話をもとへ戻した。


「増えてるってことは、今まではそうじゃなかったってことですよね」

「んん?」


「これまでは、たとえ変異したとしても、攻撃性はそう高くなかったのかなって思って……」

「その通りだ」


今、攻撃性の高い個体を見つけても、保護官がどんなに負傷しても、簡単に発砲が許可されないのはその辺が理由だとカノは言った。

数年前までは、まだ話をしてわかってくれる個体が多かったのだと。人としての意識が強く、そんな体になってどこにも出られず、誰とも顔を合わせられない自分を悲しく思い、自分でもどうしたらいいかわからないでいる個体が。そうした彼らは、保護官が暴力に頼らなくても、大人しく研究所のワゴンに乗ってくれたのだと。

だが今は違うとカノは言う。


「だから個人レベルでの発砲判断許可を国に要請してはいるが……まあこれが通らないのなんの!」

「それは、人道的見地から……?」


「それもある。だが国は、攻撃性の高い個体が増えてることを基本的に認めたがらないからだ。なんとかして、その事実を隠したいんだよ。国中がパニックになるからな」

同じことを南雲も言っていた、と千畝はうなずく。


「だから、この話は内緒だぞ」

「大丈夫です。……聞いたのは私だし……それに私は通信機器を持てない決まりだし、メールの内容も事務所で検閲されるので」


「そうだな、じゃあ大丈夫ついでにもうちょっと教えてやる」

「なんですか?」

「変異体を捕えてくるとな、保護官には、一体につきいくらで報奨金が出る」

「お金……ですか」


そう、お金。とカノは言った。

半分は研究所の財源にされるが、半分は個人のものになるのだと。

なんと返したらいいかわからないでいる千畝に、カノは続ける。


「これが結構な金額になる。ということで千畝、こないだの公園ではお手柄だっただろう。欲しいものがあったら言えよ、買ってやるから」

「欲しいものなんて……」

ないです、と言いかけて千畝は思いとどまる。


そうだ、欲しいものは、あった。


「カノ」

「なに、靴? コスメ? 期間限定のお菓子?」


背の高い相手の顔をまっすぐ見上げて、千畝は首を横に振った。


「私、ものはいらないです。でも欲しいものがある」

「言ってみなよ」

「情報が、欲しいです」

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