第1章 この人にうっかりときめいた自分を殴りたい 2 南雲
千畝の不安が本物なら、千畝は今日、そこへ行ったきり二度と自宅へは戻れないことになる。もちろん学校へも行けないし、予定していた大学受験だってだめになるわけだ。
千畝は指先でそっと携帯に触れる。
四月十七日、と表示された。
(あと四カ月……)
千畝の誕生日は八月だ。この病気は十八歳を過ぎると罹患しないと言われていて、実際にその年齢を過ぎると検査を受ける義務も外れる。
(あと四カ月なのに……)
そういうものでもないのだろうが、そう思わずにはいられなかった。
「千畝、次よ、おりるの」
「あ、うん」
母に促されておりた駅は、小さくはないもののやけにひと気がなく、ホームには千畝たちがいるきりだ。改札も無人で、自動改札機の機械だけが変に真新しい。改札を出ると出口は左右に分かれていて、母が手持ちのメモを見ながらきょろきょろしていると、
「朝岡さんですか」
改札横の待合スペースから声が聞こえた。
千畝がそちらに顔を向けると、細身のダークスーツに身を包んだ青年が音もなく立ちあがる。
「昨日お電話でお話しさせてもらいました」
「ああ……あなたが」
「昨日はどうも」
軽く会釈したその人は、自然と人目を集めるような整った顔立ちをしていた。
くせのない黒髪に、知的で上品な印象の銀色のメタルフレームの眼鏡。すらりと長い手足。それに、ゆっくりと千畝たちの方へ近づいてくるその身のこなしがスマートで、無駄がない。
千畝が思わず見とれていると、その青年はそれに気づいて微笑みで返してくる。
その笑顔に、千畝はほっとする。
きれいな笑顔だったせいではなく、その笑顔がとても「普通」だったからだ。
感染の疑いのある千畝に気を遣って安心させるようなものでなく、ただ単に、初対面の相手に向けるごく普通の笑顔だったからだ。それがひどく千畝をほっとさせた。
母とふたこと、みこと話してから、青年は千畝に向き直った。
「朝岡千畝さんですね」
「あっはい」
「はじめまして、僕は南雲と言います。研究所のスタッフをしています。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
あわてて千畝も頭を下げたが、母は警戒心をあらわにしたまま眉をひそめた。
「あなたが、いつもこうして迎えに来られてるんですか?」
「いえ、たまたまですよ。昨日お電話受けたのも僕でしたし。どうせなら、少しでも知った人間が来た方がいいかと思いまして」
「……事務所の方なんですか?」
「とも言えます。普段は外勤が多いですが、昨日のように事務所にいれば電話を受けたりもしますから」
母の質問に答えながら、彼はごく自然にふたりを誘導して、ロータリーにとめてあった黒い車の後部座席ドアをそっとあけてた。
背筋はきれいに伸ばしたままだ。女二人が車に乗りこんでしまうまで、微動だにしない。そんなふるまいは熟練の執事を彷彿とさせる。
父がこの青年を見たら、とても機嫌がよくなるだろうなと千畝は思った。
イギリスの大学に留学していた千畝の父は、日本の男性に女性をエスコートする習慣がないのをいつも残念がっていたから。
千畝自身、父にはよく言われた。
エスコートされる時は、女性の側も照れてはいけない、堂々と優雅に受けるべきだ、と。
なぜならそれは当たり前のマナーなのだからと。
日本から一歩も出たことがない千畝には、そのへんの感覚はよくわからないが、南雲の立ち居振る舞いが洗練されているというのはわかる。目にうるさくなく、相手を過度に緊張させないあたりが。
ほとんど音をさせずに外から南雲が車のドアを閉めると、彼は運転席に乗り込んで慣れたしぐさで車を発車させた。
「改めまして、僕は研究所の職員で、南雲と言います」
法定速度をほどよく守って運転しながら、彼は前を向いたまま言う。
「これから朝岡さんお二人には、研究所で当該感染症に対しての基本的な説明を受けていただき、そののち、おふたかたの同意を得たうえで、娘さんには検査を受けていただくわけですが──」
南雲がそう言ってくれて、千畝は少しだけ肩から力が抜けた気がした。
(よかった、同意を得たうえで、って言った……)
少なくとも、ついた瞬間強引に隔離されると言ったような、そういうことにはならなさそうだ。
(そうだよね……そりゃ、大学病院で紹介された施設だもんね……)
千畝が少なからずほっとしていると、南雲は続けた。
「そしてお二人に言っておきたいのは──ひとつには、おそらく千畝さんの検査結果は、十中八九陽性になるだろう、ということです」
(────っ)
浮き上がった気持ちを一気に突き落とされた気がして、千畝は顔をこわばらせる。
「まだお会いしたばかりでこんなことを言うのは気が引けますが……現在大学病院で使われている検査キットは、そうずさんなものではないんですよ。もちろん、正確なところを調べるための当施設での検査なわけですが」
それを踏まえて、と彼は言った。
「僕がもっとも強調したいことは、これは誰でもなりうる病気だということです。後程施設で詳しくお話しますが、これまでになにをしたから駄目だったとか、なにをしなかったから駄目だったというものでは、一切ありません」
ショックを受けていた千畝はすぐには気がつかなかった。隣に座っている母が、沈黙を貫いていることに。
いつもの母の性格ならば、もっとつけつけ相手に疑問を投げかけてもおかしくないはずなのだ。──昨日、大学病院で看護師にそうしたように。
「もちろんそれはご家族の方も同じです。公表はされていませんが、遺伝的原因は確認されていません」
「……そうなの」
小さな、ひどく小さな声で母が答える。
「はい。私事ですが、家族が感染して施設で治療を受けている僕個人が経験をもって言えることです。家族だからといって感染するわけでもないですし、感染者と一緒に生活しても、人から人への感染は認められません」
「ご家族が……そう」
「千畝さんは、十七歳だと伺ってます。誕生日は何月です?」
急に話をふられて千畝が目をあげると、バックミラーの中で涼しげな瞳が千畝を見つめていた。
「八月、です」
「そうですか……」
彼は、それ以上なにも慰めらしいことは言わなかったけれど、千畝の立場に立って残念がってくれている気配がその沈黙から伝わってきた。
車は、国道とは名ばかりの、すれ違う車もめったにないような道をまっすぐに進む。やがて、DU免疫生物学研究所、と記された施設の門が見え、車はいったんそこで止まった。
車の中から門のロックを解除しながら、南雲は再び口をひらいた。
「千畝さん」
「……はい」
「これはいまだに感染源が特定できていないほど新しい病気であり、当施設では現在も研究を進めています。ですが、この施設で行われている研究は、皮爪硬化症の最先端で、他のどこよりも進んだ治療を受けられることをお約束します」
「……」
ありがとうございますと言った方がいいのかな? と千畝は思った。
きっと、言った方がいいんだろう。だけど口が動かない。
口をひらいたら、まったく逆のことを言ってしまいそうだった。
母のことを責めたかった。まったく関係のない南雲のことも責めてしまいそうだった。
結局そういうことなんじゃないですか、本当のことを言ったら誰もが来たがらないから、検査という名目で連れてくるんじゃないですか。車まで出して、途中で逃げられないようにして。
お母さんもなに、ひどいよ、昨日の電話で色々詳しいこと聞いてたのに、話してくれなかったんだね、それは……それは、話したら私が逃げるとでも思ったからなの?
バカにしてる。
そう思った。
真実を告げたら、私が怖がって、泣いて暴れて、手が付けられなくなるとでも思うんだろうか。
(子供じゃあるまいし……)
確かにショックには違いないが、それとこれとは別の話だ。検査が必要だというなら大人しく受けるし、隔離が必要だというなら、それはもう、仕方がないではないか。
(インフルエンザの時だって……出歩かないように言われるわけだし)
そんなこともわからないと、分別がないと思われているのかと、情けないやら腹が立つやらで、千畝はじっと口をつぐんでいた。
今口をひらいたら、誰が相手でも思いきり罵倒してしまいそうだ。その時。
「千畝さん」
前の座席から、落ち着いた、やさしい声がした。
千畝が顔を上げずにいると、声は続けた。
「──言いたいことがあるのなら、言ってくれてもいいんですよ」
「言わないです」
「おや」
「あなたに言っても仕方のないことだと思うし……言ったからといって、多分、なにが変わるわけでもないんでしょう?」
「そうですね」
声の中にふと、迷うような響きが混じる。先程までの、丁寧だけれど事務的な口調とはほんの少し、違う感じが。
千畝が目を上げると、バックミラー越しに南雲と目があった。
細い銀色のフレームの向こうで、形のよい瞳が千畝のことを見つめている。
さっき、紳士的な人だとか、均整の取れた体つきが優雅だとか思ったことが悔しくて、悔しい気持ちには反発も幾分混じっていて、だから今は目をそらしたくなくて、千畝は南雲の目をじっと見返した。
彼の方もじっと千畝を見つめていたが、やがてふっとその目がやさしくなる。
「ですよね、今日初めて会ったどこの誰とも知れない男に、本音でなんか話せませんよね」
「そういうことじゃ、ないですけど」
「なら僕は、千畝さんに少しでも信用してもらえるように、つらい時はつらいと言ってもらえるように、頑張りますよ」
「いえ、だからそういうんじゃないです」
「そして」
千畝の台詞にかぶせぎみに、南雲は続ける。
「今はもちろんそんなふうに思えないことは知ってます。でも、今後研究が進んだ時、早いうちに発見できて、あの時治療を受けはじめることができてよかった……そう思ってもらえるように、僕も頑張ります」
どうしよう、と千畝は思った。
(そんな言い方……ずるい)
絶対に絶対に泣かないでおこうと思ったのに、鼻の奥がじんと熱い。
固く凍り付いていた気持ちが溶けていくのがわかり、千畝は自然と口にしていた。
「ありがとう……ございます」