第3章 内緒だと美女は言う 3 プロポーズみたいな誘惑
(そういう人?)
千畝がその言葉の意味をよく考えてみる時間はなかった。
「千畝さん」
ふいに南雲の声が変化したからだ。
これまでの、千畝の反応を試すような様子は引っ込んで、一転、声に真剣さが加わる。
「これは、あくまで内々の話ということで聞いてほしいのですが」
「は……はい」
「保護官になる気はないですか」
千畝はあまり驚かなかった。
さっきから、そう言われるような気がしていたからかもしれない。だから落ち着いて返事をすることができた。
「保護官って……要するに、カノや南雲さんみたいな仕事をする人ってことですか」
「どっちかというと、カノですね」
「なるって言ったら、なれるんですか」
「もちろん相応の訓練や講習も必要ですし、簡単な仕事だと言う気はありませんが……なれますよ」
ここまで聞いて、千畝はきゅっと口元を引き締めた。
ここは慎重に答えなくてはいけない場面だと、誰に言われなくても理解できた。
「それは……すぐにお返事できません」
「もちろん構いませんとも」
南雲はあっさりそう言った。
ここでごり押ししてこないあたりが、かえって本気で千畝を口説き落としたいのだと感じさせる。
「決めるのは完全に千畝さんの判断にお任せします。よく考えてから決めてください。……ただ、僕個人は、ぜひお受けしてほしいと思ってます」
「南雲さんがそう考えてるってことを、覚えて……おきます」
千畝はここでも慎重に答えた。
南雲はふわりと笑う。
「千畝さんのお返事、お待ちしていますね」
甘くやさしい笑顔の真ん中で、千畝を射止めるように光っている真剣なまなざし。
それは千畝がこれまで向けられたことのない種類のものだった。
それに真剣な──本気で自分が望まれているということが、はっきりわかる口調。
そこだけ切り取って考えれば、プロポーズでもされているみたいだった。
「それでは、僕はこれで」
「待って下さい」
だが千畝は冷静に、立ち去ろうとする南雲を呼び止めた。
「ひとつ聞いてもいいですか」
「どうぞ。僕でわかることなら」
「保護官は何人いますか」
曖昧な言い方をわざと避けて千畝は聞いた。
何人くらい、とは聞かなかった。多いんですか、とも。曖昧な質問をしたら、曖昧な返事が返ってくると思ったから、わざとくっきりした聞き方をした。
「ここ関東支部に限れば……五人です」
千畝の意図を南雲も察したらしく、具体的な数字を出して答えてきた。
「それって、少なくないですか」
「少ないですよ。……とても」
「間に合うんですか」
あまり間に合っていません、というのが南雲の返事だった。
「五人というのも在籍数だけの話で……実働人数はカノを入れて三人ですからねえ」
「あとの二人は?」
「けがで長期療養中です」
「けがで……」
長期療養が必要なほどのけがを想像して、千畝の背すじに震えが走る。
だが南雲は当たり前のような口調で続けた。
「保護官のけがは多いですよ。全国区で見ても、無傷なのはカノともうひとりくらいで」
「そういうのは……隠さないんですね」
「そこまでばかだとは思ってないですからね、千畝さんのことを。だってこの研究所で、カノ以外の保護官を見たことがありますか? ないでしょ?」
「確かにない、ですね」
「ね」
ね、と言って南雲は笑った。
それは初めて会った時から見せている愛想の良い笑顔ではなく、千畝にイエスと言わせるために作る計算された笑顔でもなかった。
互いに難しい事情を知っているからこそ腹を割って話せるもの同士が、心を許した時に見せる、素直な笑みだった。
(うっ……)
あんな、互いの腹を探り合ったやり取りのあとだというのに、千畝はその笑顔に息が止まりそうになる。
端正な顔立ちの人が、こんなふうに心を許した笑い方を見せてくれると、たまらなく嬉しいものだと初めて知った。
冷静さとか判断力とか、そんなものがふにゃふにゃになってしまいそうだった。
ずっとそんな顔で笑っていてほしいと思わずにはいられない。
そんな千畝の内心を知ってか知らずか、南雲はまたいつもの愛想のいい笑顔に戻ると、
「じゃ……よく考えて、僕までお返事くださいね」
軽く一礼してから、去っていった。
ヨナの具合が急に悪化したのは、千畝と南雲との間にそんなことがあった、その翌日のことだった。
◇◇◇
次の日も、千畝は検査室そばのロビーでヨナが出てくるのを待っていた。
午前中の検査を終えたヨナがやってくると、そこで合流してから食堂へ一緒に行くのが日課になっていたからだ。
だが、今日に限ってヨナはいつまで待っても出てこない。
千畝はふと時計を見上げた。十二時半。
どうしたのだろう? と千畝は思った。
(先に行った……わけはないよね)
自室へ戻るにしろ、食堂へ行くにしろ、このロビーを通らないといけないはずだった。
もちろん千畝が知らない道がある可能性もあるが、千畝ですら知らない道を、ここに来て間もないヨナが知っているとも思われない。
にわかに心配になってきた千畝はロビーを出て、検査室の前に向かう。
「担架、乗せようか」
部屋の中からミシュランの声が聞こえてきて、千畝は思わず足を止めて耳を済ませた。
「……らねえよ」
ヨナの声も聞こえる。
「じゃ、車椅子」
「らねえってば」
会話の内容がなにやら穏当ではない。
「いいからひとりで帰れるから」
「そうですか。でも帰れてませんよね」
「ひと休みくらいさせろよ」
「何十分ひと休みしたらいい? 私ももう昼休みだし、ここ出る時は鍵かけないといけない決まりだから、困るんですけど」
「うるせえ……」
掠れぎみの、悔しそうなヨナの声が漏れ聞こえる。千畝は黙っていられなくなって、検査室のドアをノックした。
「はあい。どうぞ」
ミシュランがいつもと変わらぬ声で返事をしてくれて、千畝が入っていくと、そこには壁にもたれたまま懸命に立ち上がろうとしているヨナがいた。もう一見しただけで顔色が悪い。白濁した瞳には力がなく、顔色は血の気が引いて真っ白で、目の下は黒ずんでいる。
朝はこんなふうではなかった、と思わずその場に立ちすくむ千畝を、ヨナはじろりとにらむ。
「……なにしにきたのぶす」
今にも消え入りそうな震える声で憎まれ口をきかれて、千畝は怒るより先に不安になった。
(こんな……つらそうな……)
朝から今までのわずか数時間の間に、なにがあったのか。見つめる千畝からぷいと顔をそらせるヨナの肩のあたりには、ここにいたくないという気持ちがありありと浮かんで見えた。
「めしくらいひとりでいけばいいよ……いちいちむかえにくるとか……ないで」
キレの悪い悪態は、虚勢を張っているのが丸わかりで、思わず千畝はミシュランを振り返ってしまった。
この子がこんなになるような、どんなことをしたんですか。いったいなにがあったんですか。そう彼女を問い詰めたかった。
だがミシュランは、しごくあっさり口にする。
「あ、迎えが来たのね、よかったわ。連れて行ってくれる?」
「……っ」
ミシュランに言いたいことはいくつもあったが、今はそれよりもヨナのことだ、と千畝は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「ヨナ……立てる」
そっとたずねてみるが、返事はない。
「ヨナ、おんぶ……」
する? と聞くより早く打ち返すような返事が帰ってきた。
「ぜってえやだ」
打ち返す、と表現するにしてはへろへろな勢いだったけれど。
「うん、そうだよね。じゃあ……一緒に歩いて帰ろうか。ゆっくり」
深く考えてしたことではなかったが、こんなに弱っているヨナをこれ以上ミシュランの視線に晒しておきたくなくて、千畝はヨナのすぐ後ろに立つ。
ミシュランとの間に千畝が割って入る格好になったことで、さっきからヨナの肩のあたりに浮かんでいた緊張感がやわらぐのがわかって、千畝はできるだけやさしい声で言った。
「お部屋に帰ろう」
「……うん」
小さく答えて、ヨナはじりじりと壁づたいに動き始めた。
廊下へ出た二人の後ろで、検査室の鍵がしまる音がする。
ヨナは途中、渡り廊下で膝をついてあえいだり、苦しいからえずきをしたりしていたが、いつもの何倍もの時間をかけて、それでもなんとか自分の足で部屋までたどり着いた。
「……あ、んがと」
かろうじてそれだけ言うと、そのままぐったりと動かなくなった。
ベッドとほとんど同化したようになっている、平たい、肉のあまりついていない背中が痛々しい。千畝は急いで食堂まで行って冷たい水とオレンジジュースを取ってくると、ヨナのベッドサイドに置いてやった。
「これ、お水とジュースここに置いておくから……」
ヨナは眠ったのか、ぴくりとも動かない。
千畝は少し考えて、小声で付け足した。
「もし起きて、なにか食べたくなったら呼んで。……私の部屋に、果物とかパンとか持ってきておくから……内線電話のかけ方、わかるよね?」
一応ここに内線番号も置いておくからね、と千畝がメモをグラスの横に置いた時。
「千畝……」
突っ伏した格好のままでヨナが言った。




